第58話 手薬煉足法のエピローグ
人生に失敗はつきものだ。
それを知るに至ってなお、その原因とやらに辿り着くことはなかった。
そしてその原因を自分なりに考えた結果が現在の自分を形成するに至った。
――欲しいものを買うために店をうろつくのが億劫に、そして不安になったのはいつからだろうか?
その問いに答えようとすれば、僕が幼い時に経験した出来事にまで遡る。
あれは、小学校低学年の頃だったか。
始まりは飼育小屋のウサギを触りたくて追いかけたことだった。
あの頃は多分、自分以外の全ては動かないかのように見えていた。触りたいなら追いかけねばならないと無邪気に信じていた。だからこそ、ウサギは逃げた。怯えて、こちらに歩み寄ることはなかった。
その一方で、可愛いーと微笑んでいただけの女子にウサギは擦り寄った。柔らかな毛並みをショートパンツの下に伸びた足へと押し付けた。当時僕がほのかな好意を向けていた女の子だった。
もう一度チャンスを、と近寄る僕にその子はかすかに頬を膨らませて不満げに。
「てぐすねくん、やめなよー。ウサギさんがこわがってるよー」
それが幼い頃の僕にとってやたら突き刺さった。
――動いたから、失敗したのだ。
そんな風に、刷り込まれた。
ようするに、軽いトラウマだ。
これは何も動物にだけ言えることではなかった。
それからも、その刷り込みを否定したくて何度か自分から動いた。物理的な意味に限らず、積極的な行動と共に。
そして僕は、動かずに待つことを覚えた。
僕が欲しいものは、手に入らないものなのだ、と。
逆に、手に入らない間はそれを価値あるものだと見ていられた。本当に欲しいものなのだ、僕にとって素敵な何かなのだ、と。だから手に入らないものに対して、積極的に動くことなく、幾つかの消極的な手を打って待ち構えた。
いつか手に入ればいい。むしろ手に入らなくていい。それもまた、幸せの形なのだ、と。ただ眺めて、その幸せを、成就を願えることも。
そんな風に悟ったようなつもりになって何年か経過した。僕は僕のスタンスみたいなものについてこんなものだと気楽に構えるようになった。
その頃には既に将棋を楽しんでいた。
本当に欲しいのが王だとしたら、僕が待つほどに王以外の駒が飛び込んでくる。それを待って絡め取る。そうするうちに相手の指せる手は削られていく。気がつけば相手の詰みだ。
珍しく、僕がわかりやすい勝利と成功を得られて自分の生き方が僅かでも認められるような舞台だった。
中学校で先生という職業の大人たちは積極的なことをもてはやした。消極的なことそのものが「やる気のなさ」「不真面目さ」につながるかのような論理を展開していた。
それについていくのが面倒で、それなら大人しくて特徴のない、優等生にすらなれない生徒でいいと思っていた。
だから将棋の「最終的に王を取ればいい」というシンプルさとそれにまとわりつく読み切れない複雑さが新鮮に映ったのかもしれない。
高校で僕は西下に出会った。
最初は西下を同類かと思った。
高校デビュー。その初日とくれば多くの生徒が積極的に周りの生徒に話しかけて、その交友の輪を広げようとしていた。
その中で一人、まるで観察するかのような目で冷ややかに周りを眺めて机に肘をついてぼんやりしていた。
彼にとって本気でそうした不特定多数との交友に価値がなかったのだと知るのはかなり後のことになる。
当時は、仲良くなりたいから、何か手を打ってあとはのんびり待つのだと、そう考えていた。僕のそれに当てはめて、考えてしまっていた。
もしも同類ならば、僕が動いても失わないのではないか。
何か予感めいたものをもって西下に近づいた。
その西下が、二年の春から動き出した。
僕なら考えられないほどに積極的に、あれやこれやと人に話しかけ、動き回っていた。
そこで薄々気がついていた「西下は待っていたわけではない」という僕自身の見誤りをつきつけられた。
西下は人が嫌いじゃない。人が嫌いだからクラスと距離を置いたわけじゃなかった。嫌いな奴がいたからでもなかった。
動くことが嫌なわけでもない。何をするにも別にサボろうという方向に意欲を向けたところを見たことがない。
本当に、必要がなかったのだ。
その話を、その時の感情を知りたくて西下にカマをかけた。
だけど、追及しきれなかった。だってそれは僕の好奇心、単なる興味本位でしかなかったから。僕は西下のそれを手伝おうとか、助けてやろうなんてまるで思いもしなかった。だって、僕が手伝うことでむしろ手に入らなくなる可能性だってあったのだから。
西下は誤魔化したような、はぐらかしたような。
でも……僕に対して嘘はつかなかった。
西下の想いは僕にはわからなかった。
僕は知れないこと――手に入らないことを喜んだ。
そして、逆に僕のことがバレた。
家庭教師の日野さんと一緒にいるところを見られたらしい。
冷やかされると思っていた。だけど西下は誰にもそれを言わなかったらしい。
真剣に、僕に聞きに来た。だから僕自身、誤魔化すことが躊躇われた。でも前に西下だって誤魔化したんだから、別にいいじゃないかと自分に言い聞かせようとした。
そもそも、恋をしたとして、失恋することがわかっているのに相談してどうするというんだ。
西下の踏み込み方は、かなり変わった。
もしかしたら変わったというよりは距離が近くなって、見える面が増えただけなのかもしれない。西下はいつだって嘘はついてなんかいない。
これで僕と同類? 笑える。
何をどう勘違いしていたんだろうね、僕は。
こんなに積極的で、攻撃的なコミュニケーションは初めてだ。
僕が待ち構えるその暇さえ与えず、弱さを見抜いて、僕にそれを見抜かれることさえわかったまま好意をもって踏み込んで。
そしてそれが酷く心地よいことに気がついて。
気がつけば、ぽろぽろと本音が口から零れていく。それを拾い集めてみるとなるほど、嫌になる。なんて面倒な男なんだろう。零れ落ちた本音に思うのは自虐的なことばかり。
西下の用意してくれた言い訳を盾に、仕方のないことだと胸の中でだけ繰り返す。弱っているのだと。案外それは、肉体的なものより精神的なものだったのかもしれない。
西下は黙って僕の意思だけを尊重した。
まるで、世間の正しさも一般の成功も無視して僕が口で伝えた望みだけを優先させた。僕を正そうとか、本音はこうだろうとか一切言わなかった。ただ、聞いてきた。ひたすら尋ねて、確かめてきた。本当に? 口だけじゃないか? と。
そしてそれでも言い切った僕に後輩からの心配を添えて帰った。
――火矢は僕には勿体無い後輩だ。
その言葉は本音だった。
確かに将棋だけなら、僕は火矢よりも強いだろう。
だけど僕には火矢ほどの熱がない。勝利を欲していたわけでもない。王を取るという目的のために好きなことをして認められようとしていただけだ。
だから今だけだ。いつか抜かされる。
ましてや先輩としてはもっと杜撰だ。
将棋の相手だけをしていた。目に見える人間関係を心配こそすれ、積極的な手を打たなかった。いつまでたっても日和見の、対症療法でしかなかった。
だけど何故か、懐かれた。
将棋で超えようっていうんだろう。
頑張って欲しい。
火矢ほどの後輩なら、僕が何かをするまでもなく将棋をして会話してるだけで勝手に僕の持ってる何かの表層なんて盗んでいくだろう。そうしたら僕はもう用済みだ。
そんな自棄めいた脆い鏡を見ていた。
その火矢が、珍しく部室に行くその前に僕を迎えにきて言った。
「今日からまた部活きてもらえますか?」
「うん、行くよ。風邪っぽいのも治ったし」
「良かったです」
「そんな。別に僕がいなくても」
やたらとまっすぐに言われて思わず、謙遜と自虐の中間ぐらいの返し方をしてしまう。
安堵から一転、急激に空気が冷たくなる。
「何言ってるんですか?」
冷えた空気とは裏腹に、その問いかけには熱い怒気が込められている。
「何の謙遜かわかりませんが、もう少し手薬煉先輩はご自身の立ち位置を自覚してください」
「ああ、悪かったって。僕ももう先輩だしね」
「そうじゃなくって……」
語調が弱まることなく、僕を糾弾するように言い募る。
思わず気圧されて、何もわからずに頷きそうになる。
「先輩が歳上だからとか、将棋が強いとか、そんなんじゃなくって……」
そこで詰まって僕を再び睨んだ。
「もう、将棋部の中で過ごしてきたのにそういう軽率なこと言わないでください。手薬煉先輩も今の将棋部の一部なんですよ。あと一年以上、最後の大会まで辞めるようなことを言って……」
先輩なんて目の上のたんこぶとか、超える壁程度にさえ思っているのかとばかり。
もちろんその複雑な感情の中に敬意の欠片もあるだろうが、いなくなるとなれば惜しむは技術だと思っていた。
でもお世辞や励ましでこんなことを言う奴じゃない。怒りや、憤り。
「だいたい、責任感とかないんですか? 僕達を入学してまだ半年も経たないうちに放り出すつもりですか?」
「うん……ごめん」
「隠しごとを言ってもらえないのは付き合いの長さや立場もあるし諦めますけど。それで将棋部にまで影響を出すのは――」
「ありがとう」
「何、お礼を言ってるんですか、怒ってるんですよ?」
「うん、ありがとう」
言いにくいことを、言ってくれて。
ひたすらにありがたかった。
火矢のこの想いは、僕が欲しくて待っていたものではなかった。かといって遠ざけようとしたつもりも、手に入れようと動いたものでもない。
僕が、僕のまま自然体でいた結果だ。
それを丸ごと受け入れた上で、僕を認めて、尊敬を向けて、こうして正面から向き合ってくれる。
この後輩に思うのは何だろう。届かないし、手にも入らない。でも確かにここにあるのだ。
これを「手に入ったからいらないものだ」なんて切り捨てられるはずがない。価値がないなんて言えるわけがない。これは、僕が欲しくて、ずっと手に入らなかったものだ。当たり前だ。手に入れるものではないのだから。
泣くのをこらえていたら「何変顔してるんですか?」とか言われた。
――将棋でボコボコにしよう。
物騒なんだか八つ当たりなんだかよくわからない決意をして「うるさい」と珍しく乱暴な言葉を使った。
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