第57話 交わらないことを

 昼休み、携帯に知らない相手から連絡が来た。緑の通知が暗い画面に灯る。そこにメッセージの冒頭と相手のアカウント名が記されていた。

 知らない相手というと語弊があった。あくまでアプリが知らない相手と認識していただけの話で、その名前には十分見覚えがあった。

 ――日野秋穂。

 日野のお姉さん、手薬煉の家庭教師からである。

『知らないユーザーからです』

 トーク画面の上端の機械的な警告を無視して友達追加ボタンを押した。


 日野さんはつらつらと連絡先を妹から聞いたこと、それに対するちょっとしたお詫びをこちらに伝えてくる。そしてそこに一言添えられていた。

『学校終わったら、少し時間ある?』

 デートのお誘いか。

 これは是非とも行かねばなるまい。

 いやいや、決して浮気じゃないぞ。

 そもそもそんな気はこれっぽっちもない。向こうもおそらくないだろう。




 ◇


 そ駅前のアーケード商店街は人で賑わう活気がある方だと思う。自転車と人が平日の昼間からばらばらと通り抜けていく。時折、アーケードの切れ目の道を車が横断していく。

 待ち合わせは有名なファーストフードのチェーン店の前。値段設定的にも高校生の俺に最大限の配慮がされていて非常にありがたい。ついでに言えば、人の目や耳が通常の会話程度の声なら気にならないのも大きい。

 時間差はほぼなく、日野さんと二人店内へと入った。


 シェイクとハンバーガー、フライドポテトを頼む。

 日野さんはアップルパイとコーヒーだ。

 如実に差が出て、違いが浮き彫りになる。


「わざわざ呼び出してごめんね?」

「いえいえ。楽しみでしたよ?」


 本当にな。

 手薬煉にはいくら話を聞いていても、彼女のことをまるで知らなかった。

 だから手薬煉の希望ばかり聞いていたし、彼女がどう思っているかを思考から意図的になるべく抜いてきた。

 彼女は俺を興味深げにジロジロと見る。

 以前は人間関係的に薬煉を挟んでいたから、あまりきちんと観察できていなかったのだろうか。それとも俺という人間は観察して楽しいものなのか。いや、観察する必要があるのだろう。


「いつもはブラック派、なんだけどね」


 少し恥ずかしそうにシロップとフレッシュをコーヒーに溶かして混ぜる。


「僕もどっちでも好きですかね」


 甘さが邪魔な時もある。

 無性に甘さを求める時もある。

 どちらも好みで気分だ。

 求めるのは舌か、身体か。

 ――それとも、心か。


「男の子だとカッコつけて『ブラックが一番ですよ』なんていうものかと」

「経験ありそうな口調ですね」

「まあね。手薬煉くんの前は中学生の男の子の家庭教師してて、その子が、ね」

「手薬煉に教えるようになったのはいつからでしたっけ?」


 わざと「でしたっけ?」と過去形で語る。

 まるであたかも知っていたことを忘れたかのように。

 すると答える側も追及されてるよりも確認されてると感じて答えやすくなる。相手が既に知っていることなら答えても問題がなさそうだから。

 知っていようがいまいが、聞き出したいことはこう聞く方がいい。


「去年の、二学期……だったかな?」

「そう、ですか」


 甘いシェイクを頼んで、やはりカフェインもあればよかったか、などと小さく後悔する。カフェインというよりは、苦味か。目がさめるような苦味が欲しかった。いつもの癖と空腹度だけで頼んだのが間違いだった。

 だがそれでも塩と油とデンプンは美味しい。だって空腹だから。空腹ならなんでも美味しいし、それがフライドポテトならなおさらだった。

 日野さんが家庭教師を手薬煉にしたのは単なる学期による契約期間終了が原因だろうか。


「正直ね、また繰り返しちゃうのかなって怖かった、かも」

「何がですか?」

「ちょっとね、前の中学生の子の時に私が失敗した感じでなんというか……」


 あまり詳しくは言えないし、言いたくはないだろう。彼女にとってそれを失敗だと感じているなら尚更。

 その彼の個人情報だということもある。むしろ、向こうの中学生とやらにとってこそ、本当に痛いエピソードだろうから。


「何か聞きたいことでもあったんですか?」


 ない、とは思えない。

 紙ごしにハンバーガーの温度を感じながらかぶりつく。

 向こうもまた、アップルパイにかぶりついた。

 すると当然二人の目線が下に逸れる。


「もちろん」


 アップルパイを飲み込んで答えた。


「手薬煉くん、私のこと何か言ってた?」

「いいえ、特には。いい先生だということぐらいしか」


 珍しく明らかな嘘をついた。

 でも仕方ない。はっきりと本当のことを言うわけにはいかない。それが手薬煉との約束だし、人が信頼して打ち明けてくれた生々しい感情を本人に向かって流出させることはできない。

 ――俺はうまく笑えているだろうか。

 嘘が「悪口を言っていた」と勘違いされてはいないだろうか。

 本当の感情に気づかれてはいないだろうか。


「……そっか。手薬煉くんは、違うのか」

「どういうことですか?」


 意味深な発言に予定調和な返事。


「えっと……君くらいの年齢の子ってさ、なんていうか……」


 急に言い淀む日野さん。その視線は外れて宙を彷徨う。もじもじと飲み物のカップの上で指先が遊んでいた。


「歳上の女性に憧れやすい、ですか?」

「そ、そんな感じ……かな?」

「憧れを恋と認識しやすい、もですか?」

「あっはははは……」


 苦笑いして恥ずかしそうに肯定する。

 前の子は、おそらく日野さんに惚れたのだろう。美人で、優しくて、家庭教師。惚れない、とは言い切れない。何でもかんでも惚れるとは乱暴な仮定になるが。

 それをよく知らない俺の口からはなんとも言えない。

 もしかしたら錯覚だったかもしれないし。

 もしかしたら本気だったのかもしれない。


「どこかそれがトラウマになってた、ですかね?」

「まあ、わかるからいいんだけど」


 日野さんが言うことには。

 下心になればそれは察知できるし、そうでないなら適度に好かれた方が家庭教師をしやすい、と。

 で、きっちり教えられているときほど、その感情は大きくなるのだ、とか。

 その部分をうまく処理した手薬煉は、日野さんにとって難しい相手だったということか。

 恋心も下心も見えず、だが態度は好意的である。

 ――もしかして、うまく家庭教師できていないのか? 演技ではないか?

 そんな疑いがどこかにあったという。


「お見舞いでも本心バラさないし、でも人から聞くのもズルいしなぁ……と思ってた……けど」


 言えない。口から零れ落ちそうな言葉をぐっと飲み込んだ。

 すれ違っているようで、方向の違った二人にどうか幸あれと。

 その幸は二人で幸せになることではないとわかっていてもなお、まだ手薬煉を通して彼女を見ていた。


「手薬煉が貴女に抱く感情を理解したとして、どうするつもりなんですか?」

「多分、何もしない」

「それは――」

「――ズルいよね。告白されても断るのに、好かれないことを寂しく思うなんて」


 ズルいのだろうか。好かれたいと思うことと、その好意に応えられるかが別だということは。


「どうせ応えないんだから。辛いだけよ」


 ――大丈夫ですよ、日野さん。手薬煉はきちんと貴女のことが好きで、そして幸せです。

 それだけでも言いたかった。そうすればきっと楽になれるのに。

 それは誰が楽になるのだろう。

 手薬煉か? 目の前の家庭教師か?

 ……それとも、俺だけか?


「わかってる。西下くんが、手薬煉くんの言いにくいこと言えるわけないよね」

「わかってませんよ」

「わかってないのかな?」

「日野さんにだけはきっと分からないですよ」


 そしてわからなくていい。

 その顔が僅かに曇る。わかってないのか、と口の中で繰り返す。


「あまり気にしなくていいかと。これまで通り、いつも通り接してやればいいと思いますよ」

「そう?」

「そうです」


 好意というものは疑わなくていい。

 人をよく見ていれば、それでいい。

 それだけでもっと楽しく生きていける。

 好意があることと、言いなりになることは違う。

 ままならないものだ。

 恋じゃない。愛でもない。

 もどかしくて、面倒くさい。

 でも、ある意味お似合いの二人だ。

 結ばれることのない、相思相愛に近い。


「これぐらいにしておきましょうか」

「そうね」


 二人で立ち上がる。


「わけわかんない話してごめんね」

「あぁ……いえ、別に迷惑じゃなかったですよ」


 これは本心だ。

 ただ、と付け加える。


「聞けば、お相手の方がいるとか。そちらに悪いので年下と言えどあまり二人きりになるのは……少し、ね。遠慮がちにはなります」

「えっ? ちょっと待って。誰から聞いたの?」

「妹さんから。お姉ちゃんにはカズくんがいるとか」

「……えっと、別に付き合っては、ないの」

「それは早とちりをして申し訳ないです」

「えっとね、従兄、なんだ」


 なるほど。

 カズくん、とやらは果報者だ。こんな従妹が二人いるなんて。


「ま、初恋相手みたいなもんだし、あながち間違いじゃないかもね。小さい頃にそれこそ年上に憧れたってだけかもしれないけど」


 そう言って微笑んだ顔は妹とよく似ていて可愛らしくて、でもそれよりもずっと大人びていた。実に魅力的な表情だった。

 こんな顔を向けられて、従兄とやらは何も気がつかないのだろうか。もったいないやつだ。それとも、この人が眼中にないほどもっと強く想う相手が近くにいるのか。


 しかしそれを見て同時になるほど、という納得もあった。

 俺が日野に、そして龍田に抱くものと同じだ。

 いい女性である。けれどまるでどうこうしたいと思わない。いい人どまりというとあれだが。仲良くしていくのに不満はないけど最上や東雲や、諫早に思う何かを気にして動こうという気にはなれない。せいぜい祈るぐらいのもんだ。

 理由はわからない。わからなくていい。




 ◇


 手薬煉が学校に来て、部活に行くまでを眺めていた。

 そうすると、活動場所へと行く前の手薬煉のもとへと火矢が現れた。

 火矢と手薬煉は言葉を交わしていて、その内容はうまく聞き取れなかった。

 でも火矢は何かを熱く訴えていて、それにゆっくり手薬煉が押されていた。

 俺はそれを教室の窓から遠巻きに眺めていた。

 ふ、と隣を見ると隣の教室からも身を乗り出して眺めている女子がいた。


「あっ」


 ばっちり目があった。

 確か、最上とたまにいる……伏籠ふしこだったか。ぼんやりと見ていて見覚えがあると思ったら、俺と火矢が喋っているときに見てきた女子に似ている。同一人物か。


「西下くん、あの手薬煉くんの前にいる子知ってる?」

「火矢っていう後輩だそうだ。やたら手薬煉を敬愛してて、執着してる。見ての通りな」

「ありがとう。……ごちそうさまです」


 最後の「ごちそうさまです」は手で口元を押さえてやや聞こえないように声量を小さくしていた。

 ……嫌な予感しかしないんだけど。


「あ、西下くんも手薬煉くんと仲良いよね」

「なんか認めるの怖いんだけど」

「怖くないって。普通に、普通の意味だから」


 いや。怖いよ。

 なんで普通を強調するんだよ。

 伏籠をスルーして再び手薬煉に視線を落とす。

 力が抜けたように座って、火矢から背けたその顔は俺が今まで見たことがないような複雑な表情だった。

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