第3話 食料危機

 その後の旅も順調だった。

 とはオーギュスタスにとっての感想であり、ウォレスのほうはと言えば、明らかに疲労の空気をにじませていた。

 荷馬車というのは存外体力を消耗するものだが、ウォレスとて旅慣れた行商人である。決して御者に疲れたというわけではない。

 精神的な疲労による困憊だった。


 事件は旅の初日。

 夕暮れが近くなり、「今日はここで夜を明かす」とウォレスが大樹の傍に荷馬車を停めて、馬に水を飲ませるためにその場を離れたことに端を発する。

 当然、「逃げるなよ」の常套句は忘れない。

 別段これを言ったから奴隷が逃げないわけでもない。ないのだが、一応作法的なものだ。


 そう、常套句を言い残し、ウォレスは所用を済ませるべく、馬を連れて森へと足を踏み入れた。

 ところがである。

 ウォレスが小川の水を馬に飲ませ、革製の水筒に水を汲み、ついでに薪も拾って、さあ森から出るぞという時、がしゃん、がしゃんと金属のぶつかり合う音が響き渡ったのである。


「すわ、逃亡か!?」とウォレスが慌てて薪を放り投げ、荷馬車に戻ると、何ともまあ呆れたことに、オーギュスタスは狭い荷台に上手に収まって、その場で上体を起こしたり寝転んだりを繰り返していた。


「何をしている!」

 ウォレスが声をあらげて尋ねるとオーギュスタスはキョトンとして一言。

「腹筋?」

 とのたまった。


「腹筋とは?」

「お腹を鍛える鍛錬ですが」

「……いいか、俺が戻ってくるまでそれは禁止だ」

 ウォレスは平然としている彼の言葉に嘘はないと判断し、安堵の息を吐きながら、少々頭痛のする頭に手を当てて、置いてきた馬と薪を取ってくるため森へと戻ったのである。


 しかし――再び、またがしゃん、がしゃんと音が始まる。

 おい、今度は一体何事だと、ウォレスは右手で馬を引き、左手に薪を抱えつつ、早足で荷馬車に戻った。


 するとオーギュスタスは、これまた絶妙な具合に荷台へ収まって、うつ伏せ姿勢で腕を曲げたり伸ばしたりしていた。

「今度は何だ」

 さしものウォレスも言葉に怒気を孕ませながら問い正すと、オーギュスタスは真顔でこう言った。


「え? 腹筋がダメだから腕立てを」

「それも禁止だ」

「あ、はい」

 結局荷台が傷むということと精神衛生上大変宜しくないという理由で、ウォレスは鍛錬を全面的に禁止した。「はあ、筋トレは一日サボると取り戻すの大変なんだけどなあ」との文句は当然、封殺である。




 二つ目の事案はその直後だった。

 無事薪も集まったので火を起こし、ウォレスが簡単な夕餉の支度を始めた。

 しかし、そこでウォレスは自らの失態を自覚した。


 オーギュスタスとの交渉にせいもあって、必要な食料を買いそびれたのだ。本来ならあの村で追加の食料を工面するつもりだった。食糧難とはいえ、相場以上の金を払えば、向こうとしては逆に助かるため、売ってもらうのは難しくない。帝国全土に広がる大飢饉ならいざ知らず、この州だけの問題なら余分な資金を得るほうを大抵は選ぶ。


 それがオーギュスタスとの交渉に手間取られ、また予想外の出来事が頻発し、村を出るまで完全に食料のことを失念していたのである。しかし引き返すわけにもいかなかった。

 そこまでの猶予がなかったのだ。


 ギュスターブ商会の隊商との合流地点及び合流時刻は厳格に決まっている。遅刻すれば置いて行かれる。

 このあたりは帝国のお膝元とあって今は比較的治安はいいものの、野盗や野良オークが出没しないとも限らない。できるだけ隊商と行動すること、これは行商人の基本中の基本だ。隊商の進みは遅いとはいえ、できるだけ適所で合流するのが望ましい。

 その結果、荷馬車に積まれた食料は、合流予定の明日の正午までウォレスともう一人が最低限食べ繋げるだけしか残ってはいなかった。


 もっとも逆を言えば、キチンと最低限の食料は確保していたのだから、本来なら何ら問題のない行動のはずだった。加えて行商人の心得として隠し備蓄は残してある。

 遭難したり、小競り合いが起きて街道が封鎖され迂回路を余儀なくされたり、天候が崩れて予定より大幅に時間が掛かったり、馬が使い物にならなくなったりという不慮は、行商の常だ。だが、だからこそ隠し備蓄は安易に食べるべきではない。

 最後の最後まで残すべき代物だとウォレスは考えていた。


 なれど――しかし、しかしである。

 ウォレスはチラリと、珍妙な鼻歌を歌いながら焚き火に小枝を投じるオーギュスタスの姿を見つめ、頭を抱える。これは一体どれだけ食べるのか。


 何せこの図体である。この胸板である。重量も相当だろう。

 今まで商ったことのある女子供の奴隷とは訳が違う。行商人として小食でも我慢できるよう訓練しているウォレスとも事情は異なる。

 少なくとも二人前、へたをすれば四人前や五人前食べてもおかしくない体躯だ。


 この残った食料で満足するのか。否、断じて無理だ。

 巨大な胃袋の片隅を、遠慮がちに埋める程度の足しにしかなるまい。一人前程度ではむしろ食欲が増進され、空腹感が募る可能性だってある。

 そして恐ろしいことに空腹は人を苛立たせるのだ。


 奴隷になったという精神的負荷もある。

 何より、こう見えても彼はまだ若い。神の国の記憶があったとしても、自らをどの程度御せるのか。仮に御せなかったとしたら――。

 最悪である。


「あのー、ウォレスさん」

「あ、ああ、何だ?」

「顔色悪いですけど、大丈夫ですか」

「いや、ああ、大丈夫だ。問題ない」

 問題は山積していた。


「あの、いい加減具材入れないと、お湯蒸発してしまいますよ?」

「大丈夫だ、問題ない」

 鍋の中では白湯がぐらぐらと煮立っていた。


 いっそお湯をがぶ飲みさせれば、とウォレスは思案する。

 しかしそれで夜間急な空腹に襲われでもしたらどうなる。あんな鎖、何の役にも立ちはしない。空腹の猛獣と添い寝するようなものだ。


「あー、蒸発だと理解されにくいのかな。あのー、お湯煮上がってますよ。お湯逃げますよ!」

 逃げる。そう逃げられるのも困る。


 何せ、大枚を叩いて買った奴隷だ。

 逃げられたらその大金がすべて無に還る。

 確かにオーギュスタスは奴隷だ、売買契約は結ばれている。ただし現状それは家長の署名と口約束でしかない。

 オーギュスタス自身を奴隷だと証明するものはその身体に刻まれていない。奴隷の刻印は刻まれていない。仮に森へと逃亡され、しれっとした顔で他の街に逃げ込まれたら、幾ら奴隷として買ったと叫こうが相手にはされない。


 事態は想像を超えて深刻だった。


「ぐらぐらですよー、ぐらぐら」

 まさしく脳みそがぐらぐらだった。煮え上がりそうだ。

 手元の、わずかに残った干し肉を掴み、ナイフで削ぎながら湯に落とす。


「手元、手元。こぼれちゃいますよ」

 口から悲鳴がこぼれそうだ。あっという間に干し肉も全て削ぎ終わる。

 あとは大麦が二人前と、干し人参と玉葱が少々。それから――


「もしかして食材少ないんですか?」

 ふいに恐ろしい言葉を聞いた。

 見透かされているようで、ウォレスはぶるっと身震いをした。


「そ、そんなことはない。ありえない」

「いえ。でも食材ほぼないですよね。あの、食材少ないなら、俺取ってきましょうか?」

「取ってくる、だと?」

 その言葉で、今まで上の空だったウォレスの目に光が戻る。


「はい、あの森なら食材になるもの、かなりあるでしょうし。大丈夫です、ウォレスさん用のはまともなのしかとってこないんで」

 任せてくださいと胸を張るオーギュスタス。


 自分用のはまともではないものも取ってくるのか、という疑問はこの際脇に寄せ、ウォレスはオーギュスタスの言葉を精査する。


 今手元にある食料は作りかけの大麦粥と、細切りの干し肉が数本。

 合流予定は明日の昼過ぎ。

 朝餉は抜く必要があるものの、丸一日食べられないわけではない。

 普通なら問題のない量だ。隊商と合流すれば贅沢なものだって食べられるのだから、普通は我慢できる範疇だ。

 しかし、オーギュスタスが相手となると不安が残る。


 では提案を受け入れるべきかと問われれば、それは否だ。

 自ら買った奴隷を売りもせず、鎖を解き放つ商人がどこにいる。口約束など当てにはならない。けれどそもそもその鎖が意味をなしていないのなら――


「今年の夏は雨が多かったですからね。既にキノコや野草は豊作ですよ。あ、毒キノコとか怪しいのはむろん避けますよ。これでも食材となる森の恵みには詳しいんで」

「キノコ……か」

 オーギュスタスは、さあどんとこいと言いたげな顔で返事を待っていた。

 伸るか反るか、ウォレスは長い逡巡をし、重々しく口を開いた。

「……わかった。頼む」

「はい、喜んで!」


 どうせ殆どないも当然の鎖である。

 ならば、逃げられたらその時は準備を怠った己の無能さの戒めだと諦めることに決め、ウォレスはこの塊ほどではない純真を売りと自称する奴隷を信じることにした。


 足錠を外すと、オーギュスタスは、んーと伸びをし、よっこらせと妙なかけ声と共に立ち上がって荷馬車から降りる。それから森のほうを見て、のそのそと歩き出した。

 まるで冬眠明けの熊の様相である。


 それを見て、ウォレスの心に不安が再燃する。

 冬眠明けの熊を野放しにするとは、西北領では自ら災いを招き入れることの比喩に使われる言い回しなのだ。

 とはいえ、賽は投げられた。

 ウォレスにできることはなにもない。


 精々天運を祈り、商売の神の加護を信じる程度だった。


「彼は逃げないと言った」

 そう呟きながらウォレスが終始そわそわと落ち着かない様子で焚き火の維持をし、鍋をぐるぐるかき回し続けながら待った。

 落ち着かない気持ちを表すように、絶え間なく粥を入れた鍋をかき混ぜて、ウォレスは待ち続けた。


 やがて――大麦粥が完全に煮込まれて、やたらドロドロになった頃、

「見てください、大量ですよ!」

 声がした。


 天、そしてオーギュスタスは、ウォレスを見捨てなかったのである。

 歓喜とともに、森から両手いっぱいに食材を抱えて現れたのは満面の笑顔のオーギュスタスだった。数々のキノコ。菜っ葉が数種、木の芽も数種。それから苔桃の一種であるベリーが小皿一杯ほど、それから小ぶりだが野鳥が一匹。


 驚くべきことにこれをたった一人で、それもわずか半刻で採ってきたのだ。

 呆れた話である。熟練の猟師だってこの成果は難しいに違いない。

 村人も手放したくないわけだと、ウォレスは唸った。


「全部食えるのか」

「もちろん、全部食えますよ」


 だが残念ながらこのオーギュスタスという人物、やはり真っ当ではなかった。

 一番の大物である野鳥を地面においたオーギュスタスが最後に麻布から取り出したるは無数の昆虫だった。紛れもなく虫だった。

 それを手際よく小枝に突き刺して、いそいそと火で炙り始めたのだ。


 ウォレスは引きつった笑みで、恐る恐る尋ねた。

「……それも食べるのか?」

「はい、貴重なタンパク源です」

 即答し、オーギュスタスはニコニコしながら、「タンパク質は重要ですから」と付け加えた。


「確かに直轄地ではセミやイナゴを食べると聞いた覚えはあるが」

 虫を食べるという行為は、過酷な旅をする行商人とはいえ、北西の属州を母体に持つギュスターブ商会では考えられない代物だ。確かに話に聞いたことはある。

 それでも実際食べる人間を見たのは初めてだった。


「一般的なのか?」

「はい?」

「いや、そういうのを食べるのはお前さんの村では一般的なのかと思ったんだ」

「あー、そうですね。昆虫食は……ウチでもゲテモノです」

「だよな」


 流石に、食べるために命があると言い張ることも珍しくない純ロンバルド人たちでも、昆虫食はゲテモノ食の域を出ないことを確認し、ウォレスは安堵を浮かべた。


「でも一部には愛好家もいるようですよ。まあ何より簡単に捕まえられて、味もそこそこで栄養価が高いですからね。重宝します」

「両親も一緒に食べてたのか?」

「やー、両親にも評判は悪くてですね。夜中どーしても空腹のときに、こっそり捕まえて焼いて食べるのが基本でしたね」

「それはそれで狂気だ、な」


 真夜中にである。この巨体が、地面を這い回って虫を探し、捕まえたソレを焼いて、ムシャムシャと食らう。その光景を想像し、ウォレスは怖気を覚えた。

 それは恐怖劇より恐ろしい光景だった。想像するに寒気がする。


 そんなウォレスの様子を意にも介さず、オーギュスタスはムシャムシャと虫の串焼きを食べながら、スッと一本を差し出した。

「どーです? おひとつ」

「断固遠慮する」


 ともあれ。

 釈然としないながらも結果としてその日の夕餉は、非常に豪華な代物となった。

 ちなみにオーギュスタスは食後の運動と称して再び鍛錬を始めようとしたので、ウォレスがそれは禁止といったはずだと注意すると、

「あれは筋トレで、これは食後の腹ごなし」と弁明を始めた。


 しかしその違いをウォレスには理解できず、呆れ顔で、

「さっさと寝ろ」と叱って、足錠をつけ直すのだった。

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