第4話第3.5章「太陽の裏側」

 トージとの仲直りも一段落、夜も遅くなり彼は部屋へ引き返したのだがスイはいまだに病室に部屋にいた。

「スイ?お前は帰らないのか?」

「う~ん…カルラ君が寝るまで待ってる。カルラ君がさっきみたいに怖くならないように私がついててあげる」

「アハハ、もう大丈夫だって。十分十分」

「そう?でもケガしちゃったのはもとはといえば私の責任だしさ…カルラ君に何かあったら大変だからやっぱり私ここにいる」

「そう、か…」

 会話が途切れやはり沈黙が訪れる。カルラはどうにかして眠ろうとするが先ほどまで意識を失っていたせいで眠気が一向に襲ってこずにじれったさに身悶えした。必死に眠ろうとするカルラのことをスイがにこやかな笑みで覗いている。まるでお日様のもとにいるかのようにホカホカと心地よいその笑みに彼はふと胸中を吐露した。

「俺、スイのことが好きだ…」

「へぇ…カルラ君は私のことが好きなんだぁ…え!?す、好き!?」

 いつもの様子とは想像もできない驚きようだ、なんて告白した当の本人は至って冷静に彼女のことを観察する。彼に緊張が全くないのか、そう問われればないとは言い切れない。だが彼には緊張を感じるよりも思うところがあった。それは、この気持ちを伝えられなくなること。あの時死にかけた、といってもカルラ曰くなのだが、その時彼はスイへの好きという気持ちを理解した、そして理解して、悲しくなった、伝えられないことに。もしあの時本当に死んでいたらこの気持ちはスイには届けられずに自分は物言わぬ肉塊になっていたと思うと恐怖と焦りが同時に心に湧き上がってきたのだ。それゆえカルラは緊張よりもいつ死ぬかわからない自分の命の叫びを彼女にぶつけたのだ。

「あぁ、好きだ。スイのことが、大好きだ」

「す、好き…あ、そ、それってほら、あれでしょ?私のことがカレーと同じくらい好き、とかマンガと同じくらい好き、とかそういうのでしょ?」

 スイが目をぐるぐると回しわけのわからないことをのたまう。彼はただ静かに首を振ってもう一度好きだと彼女の心にぶつけた。

「えっと…ライクじゃなくて、ラブの方の好き、ね…うん…カルラ君は私のことが好き…」

「あぁ、そうだ…俺はスイのことが…」

「あぁわかったわかった!恥ずかしいからもう言わないで!」

 口に出すたびにスイへの好きという気持ちがあふれて止まらないカルラは調子に乗って好きだと言いたくなったが、それは彼女の精神がもたないということで止められた。スイは戸惑っていた、自分が初めて好きと言われたことに。初めてはスイだけではなくカルラもだが、けれど言うのと言われるのとでは天と地があるのではないか、カルラの不動の態度に彼女の心は勘違いする。

「えっと…具体的には、どこが好き?ただ漠然と好きって言われても、私どうしたらいいか…」

 スイとしてはカルラのあいまいな答えを切り捨てようと考えていたのだが、彼の答えは彼女の予想を上回るほどまっすぐで力強かった。

「はじめはさ、俺を外に連れ出してくれたところを好きになった。俺に世界の外に引っ張ってくれたスイの行動力が好きになった。けどだんだんとスイの笑顔が好きになった。いや、笑顔は初めから好きだったのかも。なにせ始めてスイの笑顔を見た時俺の心はバクバクって言ってたからな。で、優しいスイも愁いを帯びたスイも、世界を憎むスイも、全部全部好きになった…気づいたらスイのこと全部好きになってた…」

 カルラの心臓がバクバクと破裂しそうなほど高ぶっている。恥ずかしさで顔が燃えてしまいそうになり言葉も途中でやめたくなるが、彼は何とか自分の本心だけを頼りに告げた。

「カルラ君…そんなの言われたら私も、好きっていうしかないじゃん…」

「え…?」

「私だって、カルラ君のこと、好きだったんだよ?」

 彼女はカルラへの思いを暴露した。彼女は彼と同じくカルラのことを思い心臓が高鳴っていたのだ。カルラと同じでスイも顔を真っ赤にして彼への思いを吐露していく。

「カルラ君と違って私は初めて会った時はどうともなかったんだけど…カルラ君をからかってると楽しいしそれに困ったような顔がかわいくてドキドキしたし、そんな可愛い表情を見たいから私いっぱい意地悪なこと言った…でもね、それだけじゃないの…私、カルラ君の中身が好き…全部背負い込んじゃう優しいところとか自分は気づいてないけどとっても頑張り屋さんな所も…好き…それであの時カルラ君が死にかけた時気付いた、本当にカルラ君のことが好きって…だから私たち、同じだね…それにさ、好きじゃない子におっぱい揉ませるわけないじゃん…普通に考えたらわかるだろ、バカ…」

 カルラは顔が真っ赤になり布団にこもりたくなった。自分もこんなに恥ずかしいことを言っていたのかと思うと死にたくなり、少し誇らしくもなった。小さな病室に二人のいやに速い心臓の音が響く。赤く染まっていた二人の顔だが、ふと片方が曇った。スイの顔が、カルラが好きになった笑顔が、また曇った。

「けどね、カルラ君…私はさ、キミと付き合う資格がないんだよ…」

「え…?」

「だから、私は君と付き合う資格がないって言ってるの…キミと付き合うには、私は穢れ過ぎているから…」

「穢れている?どういうことだ…?」

「カルラ君、私ね、処女じゃないんだよ―」

 含みを帯びた寂し気な笑みが、彼女から零れた。いくら箱庭で何も知らずに過ごしたカルラでも彼女の言っていることはわかる、彼女は以前誰かほかの男に抱かれたのだ。けれどそんなことカルラには関係なかった。多分世の大半の男性はあまりにも潔癖でない限り気にしないはずだ。

「別に俺はそんなこと気にしないぞ?たとえ…その…処女じゃなくても、さ…」

「ううん…私が気にする…カルラ君には、こんな穢れきった体、愛してほしくない…」

 カルラの弁解もことごとくスイの耳は、心はシャットアウトした。彼の言葉は固く閉ざされた殻にはびくともしない。

「なぁ…せめて、教えてくれよ…どうしてお前が頑なに拒むのか…」

「そうだね…私のこと、好きになってくれたカルラ君には知っておいてほしいかな…それに私もそろそろ過去のことをちゃんと話せるようにならないと…話す前に一つお願い、私が今からする話を聞いて、本当の私を知って、それで嫌いになって…気持ち悪いって一言で切り捨ててほしいの…」

「そんなの保証できない」

「やっぱりカルラ君は優しいや…ますます好きになっちゃいそう…ねぇ、カルラ君はさ、私の裸、覚えてるよね?そう、傷だらけのあの身体…」

 カルラは思い出す、彼女の歪に傷がついた身体を。綺麗な肌に浮かび上がった、残酷な傷跡を。

「今からするのはその傷の話…今からちょうど7年前、10歳の女の子が体験するには残酷すぎる、もう一つの世界の真実の話―」


 私は10歳の誕生日両親に売られた。人身売買など外側の世界では日常茶飯事で行われており、私たちのような生産性のない女の子の子供は売られる確率が高い。貧乏だった両親は私を1週間の食事代に満たないぐらいの値段で売り払った、両親はそんなしょぼい額でも嬉しそうだった、なにせ将来の重荷が減るのだから。私はそんな両親を恨んだ、仕方ないとはいえまだ10歳の私を売り払ったのだ、それは人として、親としての価値を疑うものだ。だから私は名字を捨てた、あのクズみたいな両親の血が流れているのを否定するために。

 私はこのままどこかの少女愛好家に引き取られろくな食事にありつけないまま女性としての尊厳を傷つけられて死んでいくのだろう、そう思っていたが現実はそうではなかった。箱庭の軍隊が、私のことを買ったのだ。その時の私は思った、軍に助けられたのだと。まだ世界が優しく回っていると勘違いしていた私の甘さが生んだその考えはすぐに凌辱されることとなった。

 私のほかにも4人、軍に買われた女の子がいた。私より1つ年下の女の子マナ、2つ年上のリリ、そのさらに1つ年上のミカ、そして同い年の、ミコト。そう、私たちの仲間のミコトとはここで出会った。ちなみに言うとミカはあのミカとは同一人物ではないので注意してほしい。私たち5人は軍に買い取られた。そこでは両親のもとにいた時とは比べ物にならない豪華な食事に暖かな寝床が用意されていた。その5人の少女はこの幸せを与えてくれた神様に、軍の連中に感謝をした。そう、その時の私たちはただ目先の幸福だけで喜んでいたのだ。

 けれどその幸せは3日で終焉を迎えた。思えばあの時の幸福は私たちを飼いならすためのエサだったのかもしれない。その日私は、すべてを知った。人間の醜い部分も、世界が優しさで回っていないことも。

「将校がお呼びだ、出ろ」

 私たち5人が収容されていた部屋に軍人が一人やってきた。私たちは何事かと思いながらも疑うことも不安もなくその軍人の後ろへついていった。その先に地獄が待っているとも知らずに。

「ここで待っていろ。名前を呼ばれたら奥の部屋へ入れ」

「ここで待ってればいいんだね、わかった」

「なんだろうね?」

 冷たい無機質な部屋に収容された私たち5人、ふとマナの名前が呼ばれ彼女は部屋の奥へと消えていった。彼女が消えてからしばらくしてミカ、ミコト、リリの順で呼ばれて最後に私が呼ばれた。私は呼ばれたみんながこちらへ帰ってこないことを不審に思うことなくその部屋へと入った。

「何…ここ…」

 そこに入った私はまず匂いに顔をしかめた。むせかえるような血の匂いがその部屋に充満していたのだ。そしてその奥からは何か甘い匂いと生臭い何かが混ざった匂いが漂い鼻孔を刺激する。この世の何物にも形容できないその匂いに私はむっとする。その匂いに耐えながら私は部屋の中を見渡して言葉を失った。部屋が、真っ赤だったのだ。それはたんに赤い装飾が施されているから、というわけではない。この部屋は、赤く染め上げられていたのだ、人間の血によって。壁も、床も、そこに置いてある何もかもが血で赤く染まっている。部屋に入った瞬間感じた血の匂いはこのせいか、と頭では納得するがまだ納得しえない部分がある。この血が、まるで先ほど付着したかのように湿り気があり部屋を照らす小さな電灯の光でてらてらと輝いていたのだ。

「やぁ、ようこそ。キミがスイ、だね。ここのベッドに寝ころんでくれたまえ」

 私にそう言ったのは丸々と肥え太った将校だった。軍服の胸には人を殺した栄誉が山ほどつけられてそれが血に濡れていた。ちなみに言えば彼の軍服も真っ赤に濡れていた。将校の優しさを偽った瞳が私のことを捉える。その瞬間背筋におぞましい寒気が走った。逃げなくちゃ、あいつの言う通りにしてはいけない、そう思ったのに足が動かない。にったりとした歪んだ笑みを浮かべた将校が動かない私のことを心配してか体に触れた。

「いやぁ!触らないで!」

 私はとっさのことにその手をはじいた。けれどそのことがのちの惨劇の引き金になるとはこの時は思いもしなかった。自身の手を弾かれた、そう理解した将校は目の色を変えた。偽りの優しさも、ねっとりとした笑みも、もうそこにはなかった。彼は、化けの皮をはがし獣の本性を私に向けたのだ。明らかな殺意を持った瞳が私を襲う。やばい、そう思った時にはすべてが遅かった。

「ガキが!なに逆らってんだよ!あぁ?死にてぇかおい!」

 将校の重たい拳が、私の体を襲った。何度も何度も、私の体を将校は殴る。顔も、腹も、腕も、足も、弱々しくて華奢な体を何度も力任せに殴った。

「痛い!痛いよ…!やめて!キャッ!だ、誰か助けて…!」

「わんわん喚くんじゃねぇぞガキが!」

 痛みの声をあげた私の顔に将校の拳がめり込んだ。意識がどこかに飛んで行ってしまいそうな痛みが私を襲う。思えばこの時意識を失っていればどんなに楽だったことか。その後のことは、詳しくは言いたくない。ただ簡単に言うならば、私は裸にひんむかれて女としての純潔を汚され、さらに道具を使って身体を暴力的に痛めつけられたと言えばいいだろう。

 将校の服にも、この部屋にもついていた血は私たちの血だった。この将校が私たちに振るった暴力の証、身体に突き立てられた刃の、ハンマーの、その他名前もわからない暴力的器具の証、私たちの流した涙の証。そしてこの日から私たちの地獄は始まった。


 将校は世が世ならドン引きされるほどの少女性愛者であり、マルキ・ド・サドもびっくりなサディストだった。彼はその日から毎晩一人を標的と定めあの暴力がひしめき合った部屋、私たちはお仕置き部屋と呼んだ、に連れていき一晩中少女の体を貪った。殴り、蹴り、犯し、傷つけ、少女を人ではなくおもちゃのように彼は扱った。日を追うごとに私たちの体に増えるのは青アザと傷跡と、歪に膨れ上がった患部だけだった。けれど私たちは幸運だった。その将校は私たちを痛めつけるだけだったから。弾除けで死ねとも言わなかったしちゃんと食事も与えてくれた、さらに言えば薬を使わなかった。あの悪魔の薬を使われなかったことこそ私たちの最大の幸福といえるだろう。なら彼はどうやって私たちの反乱を防いだか、それは簡単だ、反乱者は皆彼によって芋虫に調理されてしまうからだ。

 軍にとらわれて1年ほどたったある日私はその将校のナンセンスな芋虫コレクションを見せられた。お仕置き部屋のその向こうにある隠し部屋、そこが将校のコレクションルームであり、眼をそむけたくなるようなショッキングな光景がそこに広がっていた。そこにいたのは無数の芋虫、人間という卵から孵化した少女の芋虫だった。彼女たちは皆一様にベッドに横たわっていた。口は利けるようで将校の姿を見るなり口々に思い思いのことを言ったが衝撃を受けた私の脳はその音を言葉として理解することはできなかった。

「キミもこうなりたくなかったら私の言うことはちゃんと聞くんだぞ?」

 将校はねっとりと私にそう言って手足の引きちぎられた一匹の少女芋虫を持ち上げた。

「キミには特別にサナギになるところも見てもらわなくちゃね」

「ひっ!嫌…!嫌よ…!私、まだ…!助けて!そこの女の子!見てないで私のこと助けてよ!嫌だ!私死にたくない!まだ、死にたくないのぉ!」

 少女芋虫の必死の叫び声に、私の心は冷たく返した。

(私だって、死にたくない…痛いのも嫌なの…)

 将校は私を建物の外に出して見張りをつけてそこにいろと言った。見張り、といってもなよっとしていかにも弱そうな兵士だ。隙だらけで倒そうと思えば私でもできたはずだが、どうしてか私の心はそうしなかった。もはや抵抗の気力すらなかったのだろう。将校は建物の屋上から愉快そうにこちらに手を振っている。そのあとすぐに、彼は何かを突き落とした。

 それはロープに繋がれた、肉塊だった。ロープが肉にかかる重力に従って落下する。けれどそれは完全に下に落ちずにバンジージャンプのように宙ぶらりんとなった。プランプランと空中で肉塊が躍る、踊る。それは生命が最後に魅せるダンスだった。肉塊は見えない手足をばたばたとはばたかせて迫真の命の舞を踊りきり、そしてブラン、と完全に垂れ下がった。私はそれを見て、サナギというよりミノムシだ、なんてこと冷たい視線のまま思った。

 あんな様を見せられれば元から無かった反抗心がどうしようもなくえぐり取られる。私はあんな風に見せしめのように殺されたりしない、無様に空中でもがきたくない、私は、人間として死にたい、すでに私の精神は衰弱しきっていた。


 私たちが捕らえられ2年と半年が経過した。私たちは完全にこの生活に慣れきってしまっていた。朝起きておいしいご飯を食べ、昼まで本を読むなりして時間を潰し、またおいしいご飯を食べて、お昼寝をして時間を潰して、またおいしいご飯、そして深夜に一日の食事を痛みとともに吐き出す生活を続けていた私たち。体についたアザも傷も二度と消えない、心の傷もだ。私たちは体と心に刻み付けられた傷跡だけを繋がりとして生きていた。

 そんな隷属的な私たちだが人並みの感情も普通に抱く。その証拠に、ミカが恋をした。

「私ね、先生のことが好き…優しくてカッコよくて、たまらなく好きなの…」

 ミカが言う先生というのは私たちが捕らわれた軍に所属しているメガネの奥の優しい瞳がトレードマークの軍医であり名前を鈴原翔(かける)と言った、年齢は25歳。まだ若い鈴原先生は私たちのことにひどく心を痛めていた、将校の痛めつけが終わるとすぐに彼はやってきて私たちを治療してくれた。それだけではなく治療が終わったらほんの少しだがお菓子をくれた。

「ごめんね…ボクには銃を扱うこともできないからあいつを殺すこともできない…ボクにはただ、こんなことしかできない…本当に、ごめん…」

チョコレートだったりクッキーだったり、それが彼の心配であり優しさであり、何もできない自分への懺悔だったのだろう。痛みに泣く身体がお菓子の甘さで溶けていく、それは今思えばとても幼稚だったと思う。けれどそれでも、私たちはそのお菓子のために痛みを耐えていた節もある。私たちはみんな鈴原先生のことが大好きだった、もちろん優しい大人としての好きだ、けれどミカだけは本気だった。ミカだけは本気で鈴原先生のことを愛していた。私たちは牢獄のような冷たい世界に芽吹いた愛を実らすために動いた。時々遊びに来る先生をミカと引っ付くようにしたり、まぁ子供なりの考えで先生とミカをどうにかくっつけようとした。そしてそれは実を結んだ。

「あのね…私、赤ちゃんできちゃった…先生との、赤ちゃん…」

「え!?ほ、ほんと!?」

 ミカと先生との間にできた赤ちゃんの報告に、私たちはまるで自分たちのように喜んだ。けれどその喜びも瞬時に陰った。なにせ私たちは今までずっとあの将校の汚らしい欲望を抵抗もなく受け入れていたのだから。それが先生との愛で生まれた命なんて保証はない。

「ううん…この子は絶対に先生の子…あのね、これは秘密にしておいてほしいって先生に言われてたんだけど…実はね、私たちが食べてた料理にピル、避妊薬を混ぜてくれてたの…私たちが望まない形で妊娠しないようにっていう先生なりの気遣い…ただそのせいであの子たちを不妊症にしてしまう可能性があるって悲しんでた…」

「ううん…私たちは悲しんだりしないよ…先生の優しさだもん。もし先生がそうしてくれなかったら私たちきっとあいつの…」

 私はそこで言葉を切った。そんなこと微塵も想像したくもなかったから。今はただおめでたな彼女のことを祝おうと思った。

 妊娠が発覚したミカのことを先生は保護してくれた。感染症の疑いがあるとかなんとか適当なことを言ってミカを自分の部屋へと連れていき将校の魔の手から逃がしたのだ。一人欠けたことで私たちに降り注ぐ暴力はさらに増えたけどミカのためを思えば全然痛くなかった。彼女の幸せのためならこんな冷たい痛みなんともなかった。


 そしてさらに半年が過ぎて私たちが捕らわれて3年になった。私たちの心は憔悴しきっていたがミカが立派な赤ちゃんを産んで帰ってくることを思うと何とか心をつなぎとめることができた。まだ温かな希望があると信じていたから。けれどそれも、やっぱり世界は踏みにじった。ことごとく、冷たく汚らしい足で、踏みにじったのだ。

 その日、私たちの部屋に先生がやってきた。いや、収容されたと言えばいいか。彼は全身を血で真っ赤に染めて泣きながら私たちの目の前で謝った。

「ごめん…!ボクは、守れなかった…!ミカを…守れなかったんだ…!」

「せ、先生?どうしたの?何があったの?」

 私がそう尋ねても先生はただ泣きじゃくるだけで何も言わなかった。けれどどうにか落ち着いたのか彼は口を開いた。

「ボクが…ミカを殺してしまったんだ…!」

「え…?」

 先生のその告白とともに、私たちの部屋に将校によって何かが放り込まれた。それは赤黒い肉の塊、冷たく醜く、それが人だったなんて想像もできないほどに傷つけられた少女の脱け殻。私はその肉塊の正体を知っていた、認めたくなくても本能がそれを彼女と理解した。それは、ミカだった。腕も足もない、体には切り開かれた痕がありそこからグロテスクな赤色の塊が漏れ落ちている。私以外の子は皆それを見て嘔吐した。その死の醜さに、心が耐えられなかったのだ。嘔吐しなかった私はきっと、心が壊れてしまっていたのだろう。

「ボクが全部悪いんだ…ボクがしくじったから…!」

 先生は話し始めた、自らの罪を、少女を愛した罪を。昨日先生の部屋にやってきた将校がミカと鉢合わせしてしまった。将校はミカの大きくなったお腹を見るなり嬉しそうに目を細めて、言ったのだ。

「今すぐその子供を外に出せ。例の実験材料にしてやる」

 先生は抵抗したがそれも虚しく彼はメスを握ることになった。先生は愛するミカの腹を、麻酔もなく切り開いた。絶叫に喚くミカ、体はバタバタと跳ねまわり腕が、足が、痛みを逃そうとバタついた。将校は手術に邪魔だろうと腕も足も跳ね飛ばした、もちろん麻酔も無しにだ。彼女はいつ死んだかわからない、気がつけば彼女は物言わぬ体となり先生のことを愛おしそうに見つめていたという。最後まで彼女は、先生のことを愛して死んだのだ。先生が取り上げた子供は将校によってどこかに連れ去られたという。

「ごめん…みんな…ボクのせいだ…ボクが、悪いんだ…」

 けれど皆は何も言わない。彼を糾弾する人間はここにはいない、いや、彼を糾弾する気力が残っていなかったのだ。唯一の希望も将校によって取り上げられた。その瞬間、私たちの心は全滅した。

 次の日、先生は物言わぬ何かと成り果てていた。部屋でどうにかして首を吊ったのだ。けれど私たちの心は動かない。あぁ、臭いな、私はそう感じただけだった。

 そしてその2日後、解放軍の人間がやってきて軍は全滅、もちろん悪逆非道の将校も死んだ、私たちは助けられた。どうせならもっと早く来てくれればミカは死ななかったのに、そんな考えは湧き起らなかった。私たちも軍の人間と同じように頭をぶち抜いて殺してくれ、私が思ったのはそんなことだった。


 助けられた後、私は何とか人の心を取り戻した。周りの人間の努力と奥底に眠っていた反抗心が目を覚ましたおかげだろう。私は復讐のために、もう私たちのような悲劇を生まないように、箱庭と戦うことを決めた。けれど他の皆はそうではなかった。

 マナは自殺した、最後まで自分は穢れた汚い人間だから生きてる価値なんてない、と言っていた。将校から受けた心の傷が癒えなかったのだ。リリも死んだ、彼女は性病にかかったのだ。彼女はあの痛みと凌辱溢れる日々から逃れられず、安全な解放軍の病室では生きる意味を見いだせなかったのだろう、気付けば彼女は逃げ出していた。そして彼女はさまざまな軍を渡り歩き自らの体を売り、行為の最中に殺した。そんなことを繰り返していたからかいつか彼女はどうしようもない病にかかり世を恨みながら死んだ。

 唯一生き残ったミコトも言葉を話せなくなった。将校はミコトの声がお気に入りだったらしく彼女の命の叫び声を聞くためならなんだってした。けれど彼女はそれに抵抗した、黙ることでどうにか拒絶の意思を示したが、それも逆効果でありもっとひどい仕打ちをされたという。彼女の心は今も抵抗している、声を出すことの屈辱から。唯一の友達である私にもその声はほとんど聞かせてくれないほどに。

 ミカの子供は無事に救出された。培養液に浸されていたところを解放軍の連中が助け出してくれたのだ。どうしようもなく成長していたその子供だが私にとっては嬉しかった、暖かな涙が出るほどに。私はその子にミカと先生の名を借りて、鈴原ミカと名付けた。


「どう、カルラ君?私のこと、嫌いになったでしょ?こんなに汚れた私を、どうしようもなく心が冷たくなった私を…」

 カルラはそれになにも言葉を返すことができなかった。あまりにも現実離れしている世界の真実に理解が追い付かない。それに彼女の笑顔の裏に潜んだ言葉にできない何かを見てしまったから。彼女の笑顔に潜んだ想像するのもおこがましいほどの苦しみを。けれどただ一つ、彼は言っておきたいことがあった。

「俺はそれでも、お前のことが好きだ…」

「どうしてよ!?聞いたでしょ?私の身体はあの男の欲望で汚れきっちゃってるの!もうどうしたって拭えない!私の腕も!脚も!身体も!子宮も!全部全部あの男によって汚されたの!」

「だからさ、さっきも言っただろ?俺は別にそんなのは気にしないって…それにさ、俺が好きになったのはお前の中身、今のお前の心なんだ。もしスイが身体が汚れてるから付き合えないって言うんだったら、俺は体の関係を抜きにした付き合いをする。俺はあの将校とは違う、体じゃなくて心を欲してるんだ…あんな悲惨な、で済ませるのもためらわれるけどさ、それでも立ち上がったお前の心が、好きなんだ…」

「うぅ…カルラ君…」

 スイの瞳からは、涙がこぼれた。

「なぁスイ…お前は俺に言ったよな、過去は乗り越えられるって…だから、一緒に乗り越えよう…ちょっとでもいい…自分は恋をしてもいいんだ、って思えるようにさ…」

「うん…うん…ありがと…カルラ君…やっぱりカルラ君は優しくて、好き…」

 夜に響くのは少女の泣き声。むせび泣くその声は満天の星空に吸い込まれて消えた。空にキラリ、一筋の流星が走る。それはまるで、世界の涙のようだった。世界に嫌われた二人の男女の愛を、涙ながらに世界は見守っていた。


「すごい…全部セリさんの予想通りです…これなら、内側に大打撃を与えることが可能です…」

「やろ?うちの理論はやっぱ間違ってなかったんや!ま、うちは天才やから間違うなんて前提すらないけどな」

 奪取してきた情報を大画面で見ながらセリは微笑んだ。ノブナガもつられて笑顔になる。カルラが命を張りスイを守った結果奪うことができたこの情報は、箱庭を破壊するには十分すぎた。今まで机上の空論だった論が完全にはまった、この瞬間にセリもノブナガも笑うしかなかった。

「あとはこれを作るだけです…セリさん、できますです?」

「何言うとんねん、もち、できるに決まってるやろ!」

「そうですね、聞く必要なかったです」

 ノブナガはまた小さく笑って画面に顔を戻した。そこに映っている情報は箱庭で管理されているアンドロイドの基本構造だった。アンドロイドの細かなパーツから組み立て方までほとんどの種類が記録されていたが、ノブナガが目を付けたのはそんな情報ではなかった。

「まさか、ほんとにあったです…セーフティ機能…」

 そう、ノブナガが目を付けたのはアンドロイドのセーフティ機能、緊急停止信号だった。

「ま、そりゃない方がおかしいやろ。こんなんがエラーおこして街中にあふれたら収拾つかへんようになるからな。何かしらの処置は施されてるはずやろ」

 アンドロイドは優秀であり量産もできる、今内側には人間の数と同じくらいのアンドロイドが渦巻いているはずだ。けれどそのアンドロイドに致命的なエラーが発生すればどうなるだろうか?アンドロイドを一台ずつ回収して修理する、というのは効率が悪すぎるし非現実的だ。だから彼らはセーフティ機能を施したのだ、ある特定の電波を与えれば停止するように。

「電波の作成はボクに任せるです。セリさんはどうにか電波を広範囲に照射できる装置を作ってほしいです」

「言われなくても!せやな…一週間もあれば出来上がってるはずや。これが完成したらリベンジマッチや!今度は負けへんで!必ず内側に痛い目みしたんねん!」

 カルラとスイが裏で告白しあってるのも知らずに世界は回る。彼らはリベンジマッチに向けてさっそく秘密アイテムの作成に向かう、これが世界を変える一撃だと信じて。世界はそんなことすら許容して、今日も回り続ける、刻一刻と終わりに向かって。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る