第3話第3章「いざ、初陣」
ようやくこの日がやってきた。カルラにとって運命を決める一日だ、この日の立ち回りによって彼はこの後のノートにきちんと記述を残せるかが決まってくる。そんな大一番の日の朝、彼と最初にコミュニケーションをとったのはスイだった。彼女のための戦いの日にその彼女と初めに出会うというのはなかなかに縁起がいいんじゃないか、なんて意味の分からないことをカルラの寝起きの頭は思った。ちなみに同室のノブナガは昨日からオペレータールームにこもり作戦の事前シミュレーションを兼ねた最終確認をしているのでいない。
「おはよう、カルラ君。昨日はよく眠れたかな…って聞くのは野暮かな?緊張してあんまり眠れなかったでしょ?」
「いや、自分が思ってる割にはなかなかに眠れたぞ。昨日の教官の指導がきつかったからな、疲れが襲ってきたんだと思う」
カルラは力なく笑い昨日の身震いするほどの厳しい訓練を思い出す。昨日一日ですべてをみっちりと仕込まれたカルラは実力的に言えば一人前の兵士とほとんど変わらないだろう、それは教官のお墨付きでもある。だがその実力を本番で発揮できるかはカルラ次第、培った技術を生かすも殺すも彼の行動一つで変わってくる。
「カルラ君、さっそくで悪いんだけど準備してもらえるかな?もう出発までは1時間もないから。朝ご飯は車の中で食べて」
「え?もうそんな時間なの?」
「驚く前に目覚ましをあわすなりの努力をしなかった自分を悔やみなさい…あ、それとキミに渡したいものがあるの」
そういってスイはポケットに手を突っ込み小さななにかをカルラへ手渡した。それはワッペンであり蛇が塔に絡みついているイラストが描かれていた。ただそれは少し汚れていた、渡したいものというから新品のものかと思っていたカルラは困惑を浮かべた。
「これは…?」
「これはね、私たちのマーク、部隊章って言ったらいいかな。カルラ君はアダムとイブの話を知ってるかな?そこに出てくる二人をそそのかして知恵の身を食べさせた蛇、それがそのマークのモチーフになってるの。で、この塔は箱庭のタワーを意味してる。私たちは蛇となって箱庭という楽園から人々を失楽園させる…」
楽園から追放しようと画策していた蛇がこの世界の楽園の象徴であるタワーに巻き付き壊そうとしている、それがこのマークのイラストの意味だった。
「少し汚れてるのは、どうしてだ…?」
「それは、クロムが付けてたものだから…ううん、クロムだけじゃない、この部隊に所属してた人みんながこのワッペンをつけて戦った…このワッペンはね、みんなの意思が受け継がれて今ここにあるの…」
戦死者の意思が引き継がれたワッペン、この小さなものにカルラが抱えきれないほどの大きな思いが死者の数つまっているのだ。自分にはそれをつける資格があるのか、悩んでいたカルラの手からスイはワッペンを取り彼の胸元につけた。
「大丈夫…カルラ君は誰が何と言おうともう私たちの仲間だよ…この中に詰まったみんなの思いも、カルラ君になら任せられるって思った…だから、渡したんだよ」
「そうか…ありがとな、スイ…」
「でも、一つお願いがあるの…」
スイが一瞬俯いて何か考えるそぶりを見せたが、意を決したように顔をあげた。鋭く力強い澄んだ瞳がカルラのことを真正面にとらえる。
「このワッペンを、もう誰にも引き継がせないで…」
「それって…死ぬな、ってこと…?」
その問いにスイはこたえない。けれどこの無言の間が肯定を意味していることはカルラにはわかっていた。だからカルラは言った、彼女の力強い瞳を見つめて。
「大丈夫…俺は、死なない…お前にもらった命なんだ、簡単には捨てられないさ」
「ふふ、嬉しいこと言ってくれるじゃん…けど、ちょっとキザすぎるかな。カルラ君には似合ってない言葉かも」
「な、なんだよそれ…」
スイの顔にいつもの笑顔が戻った。やはり彼女の笑顔はいいもので、見ていたカルラもつられて笑みをこぼした。この太陽のような笑顔がカルラを支えている、彼女の優しくて温かい笑みがカルラの心を強くしている。そしてこの笑顔が、カルラを惑わせる。スイの笑顔を見るたびにカルラの鼓動は大きく跳ね上がりどくどくと脈拍が上がるのだ、それに伴って自然と顔が熱くなり頭の中はスイのことでいっぱいになり他のことが考えられなくなる。それはこの一週間でもうどうしようもないくらいに膨れ上がっていたが、やはりカルラはその気持ちに気付いていない。いや、気付いていたがこの気持ちを表す言葉が見つからなかったのだ。言葉があてはめられないその感情はスイのことでいっぱいになる脳内にはまだ置き場はなかった。
「さて、カルラ君、作戦の最終確認、しておこっか」
日は昇り朝のすがすがしい心地が残る午前10時、小高い丘から目下の目標をスコープで覗くスイがそう言った。指令書を空でいえるまで読み込んだカルラは目を閉じてすらすらと作戦を読み上げる。
「ヒトマルサンマル、トージとミコトが爆発を起こし囮部隊として敵の目を引く、その間に俺とスイが基地に侵入、メインサーバーを見つけ出してスイが持ってきたコンピュータに接続してノブナガちゃんのハッキングが終わるのを待つ。あとは撤退してセリに連れて帰ってもらえば作戦終了だ」
「おっけい、わかってるじゃん」
カルラは目下の目標に目を向ける。敷地面積でいえば空港くらい、そこに様々な棟が建っているがカルラたちが向かうのはメインとなる中央棟、そのどこかに潜むメインサーバーへハッキングをかければ作戦終了だ。文面だけでいえば楽なのだが下の施設を見るとそう簡単に行くとも思えない、なにせ基地には戦車が数台配備されている、あれが出てくれば生身での作戦成功率は限りなく低くなるはずだ。
「カルラ君、落ち着いて…緊張するのはわかるけど普段どおりが一番だから」
「俺、緊張してるように見えるか?」
努めて平静に見せていたカルラだがスイに言われて首をかしげる。
「カルラ君気付いてないの?さっきから足が震えてるよ?」
「こういうの武者震いっていうんだぜ?」
「大体みんなそういうものよ。ま、そういうことにしておいてあげる」
体が無意識に震えるカルラと違いスイはこの状態でも笑顔を浮かべている。数多の作戦を繰り返してきた余裕か、それとも彼女なりの緊張の緩和方法なのかわからないが、その彼女の笑顔に少しだけカルラは震えが収まるのを感じていた。
「こちらノブナガ、スイさん、カルラさん、聞こえますか?」
「こちらスイ、大丈夫、聞こえるよ」
「こちらカルラ、同じく」
「もうトージさんたちは作戦開始位置に到着したです。スイさんたちもポジションについてくださいです」
「了解」
インカムから聞こえるノブナガの声に彼らはこたえる。丘から滑り降りるように移動して所定の作戦ポイントまでついた。突き出た大きな岩の背後に隠れて作戦開始の瞬間を待つ。
「まずはあの見張り兵二人ね…誘導に引っかかって動いてくれればいいんだけど…」
スイはガチャリ、と肩から提げていたライフル銃のセーフティを外す。カルラもそれに倣って腰のホルスターからハンドガンを取り出してセーフティを外した。本物のハンドガンのずっしりとした重さがカルラの手に広がる。これが命の重さ、それにしてはあまりにも軽すぎる。命を直接奪う鉛弾に換算すればもっと軽いはずだ。こんな軽さのものが、人間の計り知れない重さの命をやすやすと破壊する。この黒い凶器を放つ銃口が、相手の人生を壊すのだ。そう考えるとカルラの手は無意識に震えた。相手を殺す覚悟はしてきたはずだが、いざ目の前にそれを控えるとなるとやはり倫理観がそれを邪魔する。
「カルラ君、無理はしないでいいからね。もしダメだったら相手の腕とか足を狙って。殺さなくても無力化してくれるだけでいいから」
励ますようにそう言ってくるスイにカルラは尋ねた。
「なぁ、スイはさ…怖くないのか?人を、殺すのが…」
「私?そう、ね…怖くないって言ったら、やっぱり嘘になるのかも…でも、殺さなくちゃいけない時だってあるの…殺さなくちゃ、私が殺されちゃう…それだけじゃない、仲間も殺される…だから私は、みんなを守るために殺すのよ…」
「みんなのために、殺す、か…ありがと、スイ…」
「私何か感謝されること言った?ただの自分勝手な理論だよ?そう考えたらちょっとは心が楽になるってだけで…」
「でもそれでも、やっぱり少し楽になった気がする…」
それはほとんど口当たりのいい優しい言葉、殺しを正当化する理由にはならない。けれどカルラの重く沈んだ心は少しだけ軽くなった気がした。自分が相手を倒さなければ、スイが危険に陥ってしまう、この一週間の間で大切な人となったスイを危険な目に合わせるのは、ましてや殺させてしまうのは、カルラにとっては自身の死よりも怖いこととなっていたのだ。
「あ、今ので私を守ろうって思ったでしょ?カルラ君なら絶対そう思うはずだよ、違う?」
「い、いや…そんな、ことは…」
心を見透かされてドキリとしてしどろもどろになってしまうカルラ、そのせいで完全に心がスイにダダ漏れになってしまった。ポーカーフェイスを貫くにはまだまだ彼のコミュニケーションレベルは低すぎる。
「ふふ、恥ずかしがらなくてもいいよ。私、うれしいから。カルラ君が守りたいって思ってくれて、なんだかお姫様になった気分。ま、カルラ君はどうせ本番になったら私に守られるんだろうけどさ」
さぞおかしそうにきゃははと笑うスイだが、その頬には赤がさしていた。けれど見透かされたことを恥ずかしく思ったカルラにはその赤に気付くことができなかった。
「アハハ、まぁ、なんだ、その…期待してるよ、ナイトさま」
スイの言葉が終わった瞬間、遠くで爆発が起こった。しかも二カ所同時だ。東棟と西棟、戦力を左右に分断するための陽動爆発だ。そしてその爆発が意味するのは、作戦開始の合図だった。
「カルラ君!」
「あぁ、作戦開始だな…」
スイは岩から顔を少しだけ出して敵の様子を探る。第一関門の見張り兵二人はうまい具合に陽動に引っかかり左右二手に分かれて様子を見に行った。これなら楽に通れる、カルラが一歩踏み出そうとしたがスイは彼の方を向いて立ち止まったままだった。どうしたのかと尋ねると彼女は少しだけ顔を苦悩の色に染めていった。
「カルラ君、この先きっとひどい現実が待ってると思うの…箱庭の犬どもの住処なんだから絶対にひどいことがされてるはずなの…キミには今からそんなひどいことをちゃんと見てほしい…この世界がどんなにひどいのかっていうのを、見てほしいの…もしちゃんと直視できる自信がなかったら残念だけどここで武器を捨ててどこかに行って。私はどっちを取っても別にキミになにをするわけでもない…」
この先に待ち受ける現実、スイの言葉にカルラはごくりと息を呑んだ。彼女の辛そうな顔を見ているとその現実がどれだけひどいのか伝わってくるようだった。カルラは一瞬迷うが、もう逃げないと心の中で決めたのだ。過去で一度逃げて後悔した経験のあるカルラの足は、現実へ向けて一歩を踏み出していた。
「大丈夫だ。俺は何があっても、眼をそむけない…約束する…」
「よし!じゃあ突撃するよ!」
基地の中は無機質な廊下が続いており解放軍のアジトのような雰囲気も与えた。ここは研究をメインにしていることもあってか科学者は爆発のおかげで皆避難してもぬけの殻だ。片っ端から扉を開けていきメインコンピュータを探すカルラたちだが、まだアタリには出会っていなかった。ハズレの扉の先は大体が武器庫やら研究者たちの寝室だったがその中にも本当のハズレの扉は存在していた。
「な、なんだよ…これ…」
ある部屋で見たものは培養液が満たされたカプセルの中にぷかぷかと母親の羊水の中に浮いているような人間だった。人間入りカプセルが無数に立ち並ぶそこは研究室でありスイ曰くクローン人間ということだ。
「クローン人間、なのか…」
「そう、人間の細胞の一部から作られた人間もどき…ここでクローンを量産して畑を耕したり工場での重労働をさせたりしていたんでしょうね…この人たちは、何のために生まれてきたんだろうね…幸せになることもできず、人並みの自由を手にすることも許されない…身勝手に作られた人間のような何か…」
スイは寂しそうにそうつぶやくと、カプセル一つ一つに銃弾を撃ち込んでいった。カプセルにひびが入りそこから培養液がこぼれて地面を水浸しにした。命を繋いでいた液がカルラの靴に染みこみ足を濡らす。液体から解放された人間もどきはすぐに息を引き取った。見た目的にはぷかぷかと気持ちよさそうに泳いでいた時と何ら変わりないがそれが纏う雰囲気がどこか違っていた。どこが違うかカルラには説明ができなかったが、その説明できない何かこそ生者と死者を分かつ決定的な何かなのだ。
「この人たちは、きっと死ぬまで苦しむはずよ…まるで機械みたいに扱われてどこか壊れると廃棄処分…そんな辛い未来を背負うなら、今ここで死んだほうが楽よ…自分が生きていると知らないこの時にね…ごめんなさい…」
スイは悲しそうにつぶやくとその部屋を後にした。去りゆくスイの悲しそうな背中に、カルラは言葉をかけることができなかった。
そしてハズレの扉はもう一つ、カルラに衝撃を与えた。その扉の先は、数多の死体が転がっていた。すでに腐敗して鼻が曲がりそうなすごいにおいを放っている。
「彼らはね、こき使われて死んでいった人間…箱庭の指示でひたすら働き続けて命の火が消えた人間たち…彼らの死体は実験体にされるの、さっきのクローンの生成だったり、人間の蘇生薬なんてバカな薬の製造のためのね…」
「なんだよ、それ…」
「死者でさえここでは箱庭のものなのよ…そして死者であっても、彼らに安らぎは与えられないの…死んでもなお彼らの身体はズタボロに切り裂かれる…」
今ここにある腐敗したなにかは箱庭の人間が手を付けた前なのか後なのかカルラにはわからない。ただわかるのは死者を、いや、人を冒涜しているということだけ。平等やら平和をうたっている箱庭の奴らだが、裏では人をモノとしか扱っていない連中だったということを知り怒りを通り越して悲しさが湧き上がってきた。箱庭の連中だってここに横たわる死者たちと同様に人間なのだ、なのに彼らは自分たちが神様だとでもいうように人間をおもちゃとしか見ていない。それは外側も内側も同じだ。内側の人間も奴らの実験動物だったのだ。思考を扇動され健康を管理され、行動を抑制される。自分はそんな実験動物のような生活に甘えて生きてきたのかと思うと吐き気以上の何かが込み上げてきた。
「カルラ君…彼らを、もう開放してあげて…」
「あぁ…」
カルラはその吐き気をプラスティック爆弾にのせてそこに手向けた。彼ができるのはこれ以上冒涜されることがないように彼らをバラバラにすることだけだった。タイマーのセット時間は3時間後、彼らは3時間ののちに完全なる死の安らぎへと落ちていった。
「敵がいないな…こんなにやすやすと潜入できるってのはやっぱりトージたちのおかげなのかな?それとも敵さんがサボってるのか?」
「さぁ?まぁどっちにしろ私たちに有利な状況に事が運んでるってことでさ、喜んでもいいとは思うよ」
片っ端から扉をあけながらもまだ敵と衝突していないカルラたちにはもう突入時に感じていた緊張も見えなかった。ずっと緊張を張っていても疲れるだけ、敵も来ないのだし少しくらい気を抜かねばやっていけないのだ。敵を探る緊張感、それは初陣のカルラには相当のストレスになっていた、ハゲるんじゃないかというくらいのストレスをスイとの会話で発散する。
「これでもし敵と体当たりしないで目的を達成したらトージはどういうんだろうな?文句言ってくると思うか?」
「う~ん…あの子、根はいい子だから多分ちゃんと約束は守ってくれるはずだよ。まぁ文句を言う言わないは別にしてね」
「根はいい子?うっそだぁ」
「いや、ほんとだって。ただトージは短気でがさつでプライドが高くて自分の思い通りに事が進まないのが気に入らない奴だけど、でも根っこの部分は本当にいい奴なんだよ?だからあれもカルラを戦いに巻き込まないための気遣いだったり…」
「いや、ないな」
「ごめん、私も言ってる途中に気付いた。それはない、絶対にない…トージには悪いけど絶対にない…むしろそう思ってると気持ち悪い」
自分がいない間にぼろっくそに言われるとは、哀れトージ。きっとトージはそんなことを言われているとも知らずに今頃囮に精を出しているのだろう。固まっていたカルラの表情にだんだんと笑みがさしてくる。敵地だというのに彼はスイと楽しく会話を繰り返していた。いや、彼は敵地だということを忘れていたのだ、スイと過ごす楽しい時間と、この恐ろしいくらいの静寂の廊下にあてられて油断しきっていたのだ。そして油断は時として命取りとなる。その命取りは何の前触れもなくカルラに訪れた。
カルラたちが角を曲がった瞬間に、それはいた。肩から量産型のAKを携えたそれが、カルラたちと目が合った。一瞬の硬直、カルラもそれも互いの存在を硬直の間に疑った。
(こんなところに…どうして女の子が…?)
彼は目を疑った、目の前の少女の姿を。少女は見た目から判断するしかないが10~12歳くらいの幼子で、その小さな体に大きなAKライフルというアンバランスな姿にカルラは驚いた。そして彼が驚いたのはそれだけではなかった。少女は、一糸も纏っていなかったのだ。生まれたままの姿に銃を携えた場違いな少女の存在を彼は頭で疑った。そして少女も疑う、目の前の存在が自身の敵か味方かを。小さな顔につけられた大きな二つの瞳が彼らを見定める。そして彼女は疑うのをやめた、カルラよりも早く。
「カルラ君、危ない!」
少女の疑いの目が確信に変わる、その前に少女はAKを構え引き金を握っていた。その速度はまるで人間の反射行動そのものだった。熱いと感じれば手を放す、脳が直接神経の末端まで送る高速の指令、少女の身体には敵を見るとAKをぶっ放せとインストールされているように、迷いもなく銃弾の雨を彼らに振りまいた。
だがこちら側の少女の速度はそれよりも早かった。スイはすかさず曲がり角に身を隠しカルラの首根っこを引っ張って身を隠させた。あまりにも怪力なスイの引っ張りに思わずカルラは尻餅をつく。ドスン!とお尻に言い表すのが難しい痛みが走る、スイに文句を言ってやろうと思ったカルラだが自身の立っていた場所に銃弾の雨が降り注いだのを見てやめた。鉛弾に体を貫かれる痛みよりも100倍以上ましだと思ったからだ。
「おい、スイ!あ、あれって何なんだよ!?敵、なのか!?」
「えぇ、そうよ…あれも、敵…」
カルラは敵といえば軍人だと考えていた。軍服に身を包み胸に人を殺した功績をたたえる小さなバッチを喜んでつけるバカな大人どもや平気な顔で人間の尊厳を踏みにじる科学者だけが敵だと彼は思っていた。けれど目の前の少女も、明らかに殺意をもってこちらを睨んでいた。角に引きずり込まれる前に一瞬見えたあの明確な殺意を秘めた暴力的な冷たい瞳がカルラの脳内に貼りついて離れない。はじめて彼に向けられた明確な暴力、今まで知ることがなかった他人からの敵視、アンドロイドに向けられた銃口も、ミコトの刃も目にならないほどの恐怖が彼の体を支配した。けれどそれもどうしてあんな小さな女の子が、という驚きと疑問が上塗りする。
「カルラ君…あれが、世界の真実よ…」
「世界の、真実…」
「そう…目を背けちゃダメよ、カルラ君…この残酷な現実を、直視して…」
現実なら十分に直視している、あの殺意がカルラのことをむりやり現実に引き留めている。カルラは震える声で尋ねる、世界の真実を。
「なぁ…あの子はなんなんだ…?敵って、どういうことなんだよ…」
「あの子はね、子供兵、ううん、そんな綺麗な言葉で飾っちゃだめだね…あの子は、奴隷なの…箱庭の、軍の、大人の、そして、世界の奴隷…」
「奴隷…?それに子供兵って何なんだよ…!?」
「あの子は親に売られたか、それとも親が殺されて孤児になったか、はたまた脱走したか、理由はどうあれ一人だったあの子はこの軍の所有物にされてしまった…軍に飼いならされて兵士どもの慰み者にされ、弾除けにされる…それがあの子が背負った運命」
「抽象的過ぎてわかんねぇよ…」
「簡単に言えばあの子は使い捨ての兵士よ。死んでも代えがきく量産型の兵士、それがあの子たち子供兵。軍は各地から子供を買い従順な子供たちだけの兵士団を作った。子供たちは純粋でまだまだ善悪の区別がつかない、だから扱いも簡単。力も弱いから痛みによって屈服させる場合もあるわ。そして戦場に出た彼らは人として大事な心もまだ完全に成長しきってないから人を殺すのもまるでゲーム感覚でためらいなく行う」
子供兵、それは大戦以前の世界から問題視されていた存在だ。軽量で殺傷力の高いAKを基本装備として優秀な軍人様の代わりに戦場で命を落とす、それが彼らの運命だ。彼らの命一つの価値は道端の石ころよりも小さいのだ。それにまだ幼い彼らは扱いも簡単だ、悪いことを良いこととして教えればいいのだから。ミコトが人を傷つけようとして教官に怒られたのと逆のことをすればいい、人を殺してほめるのだ、そして、見返りを与える。
「でも、暴力の支配じゃ反乱がおきるんじゃないか?」
カルラの問いかけにスイは問いかけで返した。
「カルラ君、あの子の腕を見た?」
「腕…?」
カルラは必死で思い出す、向こう側で銃弾をまるでおもちゃの様にばらまく少女の腕を。
「そうだ…ミカの腕だ。あの子の腕は、ミカの腕みたいに注射の痕がたくさんあった」
「そう、あの子たちはね、見返りとして薬をもらっているのよ。だから大人に逆らうことができない、いや、逆らうことをしないのよ」
「薬?あの子たちは病気なのか?それともミカみたいに身体をいじられて薬なしじゃ生きていけなくなったのか?」
カルラの答えにスイは小さく、弱々しく笑った。その疲れ切った笑顔にカルラは何も言うことができない。
「カルラ君はまだまだ無垢だね。違うよ…あれはね、気持ちよくなる薬を打たれた痕なの…大戦前はドラッグとか覚せい剤とか言われてた禁忌の遺物よ。あれを一発打たれたらもう誰も逆らえなくなるの、天国にいるみたいな心地になってね、とっても気持ちよくなってこの世の悪いこと全部から解放されたみたいになる、らしいの…でもね、あの薬の怖いところはそれだけじゃない…中毒性が非常に高いのよ…一度体に入れるともうその薬なしじゃ生きていけないくらいに、それがほしくてほしくてたまらなくなる…」
大戦前はそういう違法性の高い薬品はしっかりと管理され取り締まりもしていた。けれど世界が変わり外側が無法地帯になった今、その薬は賢い人間の商売道具となっていた。大戦前よりもはるかに世に出回る薬の量は増え、依存症の人間も増えた。人間の尊厳を踏みにじるそんな禁忌の薬物が今、まだ10歳前後の幼い体の中で渦巻いているのだ。
「そうか…薬を一度打ち中毒症状にして、従う人間にだけ定期的に薬を与える…そうすると逆らえなくなるわけか…」
カルラは忌々しくその考えをつぶやいた。カルラのその考えはまったく嬉しくない花丸百点満点でスイの頷きによって返却された。
「でも、なんで裸なんだ…?」
「言ったでしょ…慰み者にされるって…たぶんさっきまで軍の欲求不満な男に抱かれてたんだと思う…あんなに小さな体で、自分が女の子だからってだけで、男どもの欲望を受け止めなくちゃいけないのよ…もちろんあの子は嫌がったはずよ…でも、薬の魅力には勝てなかった…あいつらは人間の尊厳だけでなく、女の子としてのプライドもゴミクズ以下の存在としか見ていないのよ…」
「なんだよ、それ…こんなのが、世界の真実っていうのかよ…!」
「そう、そしてその世界の真実は、さらに残酷よ…あの子を倒さない限り、先には進めない…迂回路はないよ…そしてチャンスは、一度だけ…」
スイがいったチャンスは彼女の言葉が終わるとすぐに訪れた。銃弾の嵐が、とまったのだ。鉛弾を永遠に吐き出し続ける銃などこの世には存在しない、いつか弾切れが訪れリロードが必要となる。けれど行為の最中に突撃させられた真っ裸の少女には替えの弾丸など持ち合わせていなかったのだ。それに、少女の隙はそれだけではなかった。薬にどっぷりと浸かった蕩けた頭では正常な物事が分からなくなる。急に弾丸を放たなくなった銃をヒステリック気味に彼女は振り回していた。
「カルラ君、今があの子を倒すチャンスだよ…キミが手に持ってるのは、飾りじゃないよね…」
囁くようにカルラの耳元でそう言ったスイ。スイの言葉が頭でぐるぐると回る。けれどカルラにはあの罪のない少女を殺すなんて蛮行できるはずがなかった。彼女は被害者であり救われる側の人間なのだ。
「ごめん、スイ…俺には、できない…」
「どうして?」
「あの子を撃ったら、俺もあちら側の人間と同じになる気がするんだ…世界を残酷にする人間に、なってしまう気がするんだよ…だからごめん…俺にはやっぱり、無理だ…」
たとえ任務であろうとカルラにはあちら側の、残酷を作る側の人間に落ちるのだけは死んでもごめんだった。これは勝手なわがままだということも彼自身自覚している。自らのエゴを振り回して聖者を装っているのだというのもわかっている。けれどどうしても、彼には手の平にある凶器を世界の被害者に向けることはできなかった。
そんな答えに呆れられるかと思っていたカルラだが、スイの反応は違った。また彼女は心底楽しそうに、笑ったのだ。
「ふふ、やっぱりカルラ君は私の思い通りのことを言ってくれた。カルラ君優しいもんね、あんな子を見たら絶対に撃てないのわかってたもん。だけどどうしても撃たないといけない時もあるんだよ…こんな風にね」
スイは自らのポケットからハンドガンを取り出して、ためらいもなくまだ混乱している少女にぶち込んだ。パン!と乾いた音が響き少女は地へ伏した。
「お前…何して…」
カルラの驚きと蔑みを込めた視線がスイを襲う。けれどスイはそんなの気にしていないという風にあっけらかんとしていた。とても無抵抗の少女を殺したとは思えないほどに、少女は笑顔だった。
「大丈夫。殺してないよ」
「嘘だ!お前、さっきあの子を撃ったじゃないか!それでどうして殺してないって言えるんだよ!」
「カルラ君、落ち着いて。まずゆっくり深呼吸して…それで、あの女の子を見て…どう?死んでないでしょ?」
むりやり落ち着けた心で彼は少女の方を見た。ピクリ、とも指先を動かさない少女だが、胸は呼吸に合わせて上下に動いていた。女の子は、生きていたのだ。
「え?でもどうして…」
「答え合わせね。これは麻酔銃。鉛弾の代わりに眠くなるお薬を仕込んであるんだよ。さすがに私もためらいなく無防備な女の子を殺すようなクズじゃないよ。それにさ、解放軍のみんなも絶対にこの子を殺すような人はいない。それは私が保証するよ、命をかけてもいい」
自身の命を懸けてまでそう断言したのだからそれは本当のことだろう。
「もしキミがあの場で殺すって答えてたら…私がキミのことを殺しちゃうところだったよ」
こともなげにハハハ、と笑って物騒なことを言うスイに自然と彼は頬が引きつるのを感じた。どうやら選択は間違っていなかったと胸をなでおろす。けれどほっとしたのも束の間、彼女の表情がまた凍り付いた。
「けどね、この子にとっては、今ここで死んでた方がよかったって、思われるかもしれない…」
「え…?」
「この子を助けたと思ってるのは私たち傍観者側の人間だけ。被害者のこの子はね、きっとどうして助けたのって言うはずよ…なにせこの子に待っているのは地獄しかないんだから…だって考えても見て。あんなに腕にあざが残るまで薬を打ち続けられてたのよ?並大抵の努力で薬の欲求に抗うなんて無理。きっと死ぬよりつらい抗薬物治療が始まると思うわ。それに彼女の傷つけられた女の子としてのプライドはもう二度と治らない…彼女は一生自分が穢されたことを、薬なんかで簡単に体を差し出したことを悔いると思うわ…これはこの世のどんな薬でも、どんなに高性能なメディケアでも治すことは不可能…」
彼女はつらつらとそう述べる。まるで自分のことのように話すな、とカルラはその時一瞬だけ頭によぎった。
「だからこの子を助けるのは私たちのエゴ…それでももしこの子が一度でも生きててよかったって思ってくれるのなら…私は何が何でもこの子を助けるわ」
力強いスイの言葉、それは明らかに重い意思がこもった言葉。彼女の笑顔の裏に隠された本心が、見えた気がした。
スイはひょい、とまだまだ重さを伴わない女の子の体を抱きかかえる。
「とりあえずこの子はいったんどこかの部屋に隠してこなくちゃね。それにこんなところで寝てたら風邪ひいちゃうしね」
どういう心配してるんだよ、なんて野暮なツッコミを彼の心の中にしまった。女の子の安らかな寝顔を見てふふ、とまるで母親のような優しい笑みを見せるスイにカルラは見惚れてしまっていた。そのせいか、彼は近づく殺意に気が付くことはできなかった。もちろんスイも先ほどの緊張が消え安心してしまったのだろう、まったく殺意に気がつかなかった。
カルラがふと視線を通路の先に向けるとそこには二人の兵士がいた。少女の銃声を聞きつけやってきたのだろう。彼らは武装して銃口をカルラたちに向けていた。それは先ほどの少女のものより強烈な殺意、彼らと50メートルくらい離れているにもかかわらず肌がピリピリと痛んだ。少女が向けていたそれが柔らかく思えるほどの尋常ではないほどの鋭い殺意、例えるなら研ぎ澄まされた刃のようなスパッと切れてしまいそうな殺意が、こちらを向いていた。カルラはそれに身震いする。蛇に睨まれた蛙というのはこういう気分なのだろうか、なんてどうでもいいことが頭に浮かんだがそれも一瞬だ、次の瞬間にはやばいと思考がスローモーションに告げていた。
「くそ…!」
カルラは瞬時に銃口を相手に向ける。敵の数は2、視界はスローモーションで標的を捉える。まるで自分の身体が加速したかのようにスローの世界で腕だけが動く。無意識に体が銃を持ち上げて、ためらいもなく引き金を引いていた。
―パン!
乾いた銃声が、射撃後の反動が、びりびりとした刺激となって彼の体に襲い掛かる。その刺激に怯みそうになる彼だがどうにか身体をこわばらせて耐える。放たれた凶器は風を裂くようにまっすぐに突き進みカルラの無意識の目標へと吸い込まれる。敵の眉間にそれは吸い込まれた。あの日の先客をフラッシュバックさせるような死にざまが今目の前で展開されている。けれど必死な彼の心にはその光景は届かない。
(殺される…殺される…殺される…!)
油断すれば殺される、それが世界の常識だと思い出した彼はただひたすらに心を焦らす。照準をもう一人の方に合わせようと動いた。けれど相手の動きはカルラより早かった。隣で仲間が撃ち抜かれたにもかかわらず微動だにしない敵兵は素早い動きでアサルトライフルを構え、照準を定めた。目標は、無防備なスイ。敵としては簡単に殺せるほうをさっさと始末して一人でも邪魔者の数を減らそうと考えたのだろう、自らの命を張ってまで。
スイもその殺意に気付いて担いでいた少女を下ろして武器を構える。だが明らかに遅い。彼女が肩から提げたライフルを構えた瞬間にはもう敵は引き金を引いていた。完全に油断した、カルラに偉そうに言っていた自分が死ぬ、ごめんね、カルラ、彼女の終わりかけの頭はそんなことを考えていた。ごめんね、カルラへのそれだけが頭の中をぐるぐると渦巻いていた。
「おりゃああぁぁぁぁぁぁ!まにあえぇぇぇぇぇぇ!」
ズガガガガ!ライフル特有の耳を壊すほどの乱射音が響く。けどその中に一発だけ、パン!という乾いた音が混じった。その音がスイの耳元に届いたときには、彼女を貫かんとしていた冷たい鉛弾の音は鳴りやんでいた。
「へへ…よかった…まに…あっ…た…がはっ!」
びちゃり、スイの顔に生暖かい何かが降り注いだ。彼女はあきらめかけた意識を現世に引きずり戻し周りを見る。自身の身体は無傷、奥で倒れている二人の兵士、そして、自分をかばうようにして立っていた血まみれの彼の姿。
「カルラ君!」
彼はスイへ降り注ぐ弾丸を身を挺して防いだのだ。距離がそこそこ離れての乱射だ、それに相手の銃の腕がからっきしだと言うこともあいまって何とかカルラの一発は敵の眉間へぶち込まれたのだが、それでも彼の体には何発かの銃弾が撃ち込まれ筋組織をえぐった。敵のノックアウトを確認して安心したようにスイの方を向いた彼だが、体に浮かんだ傷から血が漏れ出してスイの顔を汚した。彼はただ安堵の表情を浮かべたまま、体から力が抜けていく。
「よか…た…スイを…まも…れ…て…」
彼の意識がぼやける。不思議と痛みは苦に感じなかった。きっと神経がおかしくなったんだろう、なんて彼は考えて目を閉じる。目を閉じてしまうともう二度と目を開けられないんじゃないかという恐怖がわいてきたが、スイを助けられたという安堵がそれをかき消した。大事な彼女を守ることができて本望だ、彼は思う。そして彼は気づく、散り際になって彼の心に巣食っていた謎の感情の正体に。
(スイを助けられて、よかった…けど、もうスイに会えないのは、悲しい…スイともっと一緒にいたい…スイの笑顔を、もっと見たい…スイと、幸せになりたい…あぁ、そうか…これが、好きって気持ちなのか…俺ももう、立派な人間だ…これも全部、スイのおかげ、か…)
「カルラ君!ダメ!目を開けて!死んじゃダメ!カルラ君!カルラ君!」
必死なスイの声は彼の耳にはもう遠くのものとしか聞こえない。カルラは最後に血に染まる口を動かしたがそれはスイにも、彼自身にも何と言おうとしていたのかわからなかった。
目を覚ますとそこは暗闇だった。いや、目を覚ますという表現は彼にとってはあいまいなのかもしれない。何しろ彼は目を覚ましたというのにどこか幻の中にいるように感じられたからだ。体は気持ちのいい浮遊感に包まれ気持ちもどこかふわふわとしていた。
「あぁ…そうか…俺、死んだのか…」
光の一切ない暗闇の中、彼はそう呟いた。彼の呟いた声は謎の暗黒空間に反響してぼんやりと彼の耳に帰ってくる。脳裏に思い出されるのはスイを助けたという満足感だけ。満たされた充足感に溺れながら彼の意識は闇に浮遊する。
「ここが死後の世界なら…あいつとは会えるのかな…?」
カルラはふと過去の幼馴染のことを思い出した。自身の罪であり原初の存在の彼をカルラは想像する。カルラに箱庭の異常性を説いた彼、カルラに箱庭からの脱出を促した彼、カルラが裏切ってしまった彼。
「ノエル…俺はお前に、謝りたいんだ…それで、外の話もいっぱいしたい…お前が行きたがっていた箱庭の外の話を、ちょっとだけどしたいんだ…」
カルラは願う、ここが自分の都合のよい死後の世界なら彼はきっと現れる、そう信じていたから。けれど現れたのは幼いころの冷たい彼の思い出ではなく、太陽のような暖かくて眩しい今だった。
「カルラ君」
スイが、暗闇の中、いつもと同じ眩いばかりの笑顔でそこにいた。彼が恋をしてしまった少女が、今目の前にいたのだ。少女はただカルラのことを呼ぶとにこにことした顔でどこかへ行ってしまう。けれど一定の距離を進むと歩を止めカルラの方を振り返った。相変わらずの笑顔が彼のことをじっと見据える。
「ついて来いってことか?」
カルラが歩を進めると彼女は満足そうにうなずきまた先へ先へと進んでいってしまう。カルラは闇の中、ただ光に向かって進む。彼女の笑顔を道しるべとし、途方もない暗闇をただただ進んでいく、どこにたどり着くかも知らずに、ただずっと。けれど不思議と不安はない、彼女についていけば彼は安心できた。彼女の太陽の笑みにさらされて彼の心はまるで天日干しした布団のようにぽかぽかだ。
どれくらい進んだかこの暗闇ではカルラには判断できなかった。ただスイについていくだけ。彼女はふと立ち止まり彼の方を振り返った。彼もつられて立ち止まる。
「どうした、スイ?」
彼の問いかけには答えずに彼女はゆっくりとカルラの方へ歩み寄ってくる。死後の世界だというのに彼の心臓はとてつもなくバクバクとしている、近寄ってくる彼女にどぎまぎしているのだ。彼女との距離が一歩、また一歩と近づく。ゆっくりと光が、彼の体を包み込んだ。
「いつまで寝てるのよ、カルラ君!」
普段通りの笑みを浮かべていた彼女の鋭い声が脳内に響いた。その瞬間だった、光が彼の頬を思いっきりぶった。ニコニコ笑顔のままの彼女のまるで頬の肉がえぐれてしまうんじゃないかと心配になるほどに強烈なビンタを受け、彼の意識は瞬時に現実に引き戻された。
「いってぇぇぇぇぇぇぇ!」
彼は思わず叫んでいた。ジンジンする頬をさすりながら彼はがばりと起き上がった。彼には見えていないが頬には立派なモミジが貼りついていた。
「あぁ痛い!痛すぎて死ぬ!死ぬ!」
あまりにも痛む頬のせいで気づくのが遅れたが、今彼は暗闇にはいなかった。柔らかな光が真っ白な部屋に反射して彼を照らす。鼻につく薬品の匂いが彼の意識をだんだんと現実に引き戻す。
「あ、あれ…?これ、現実?俺、死んでない?生きてる?これは夢?現実?あれれ…?」
頭がごちゃごちゃしている彼には頭にクエスチョンマークを浮かべるしかなかった。あの暗闇が死後だとすればこの真っ白な部屋、病室は現世だろう。けれどさっきまで揺蕩っていた思考はそれをしっかりと現実とは認識できずまだ夢見心地のまどろみを彼に与えていた。
「カルラ君、いつまで寝ぼけてるつもり?これはもう一発必要かな?一発といわず二発三発必要かも…」
耳に心地よく響くその声に、カルラはこれが現実だと確証を得た。優しい声音だがどこか意地悪っぽい響きを孕むその声は明らかに現実の彼女のものであり、その声はカルラの全てを活性化させる麻薬的な声だった。
「す、スイ!」
「ちょ、ちょっとカルラ君!?急に抱き着かないでくれるかな!?そんなに急に動いたら…」
「っ…!いてて…」
カルラの体にびりびりとした痛みが走る。痛みに顔をしかめた彼の体を優しく抱えたスイはまた彼をベッドへと押し込めた。
「一応カルラ君はケガ人なんだから、ちゃんと寝てなくちゃダメ!」
「あ、あぁ…てか俺、ほんとに生きてるのか?あの時俺、銃で撃たれて…」
「カルラ君…一つ残念なお知らせがあるの…心して聞いてくれる?」
カルラの問いかけにスイは意味深な含みのある顔を浮かべる。そのよくわからない不思議な顔に彼は次の言葉を固唾をのんで見守る。
「あのね、カルラ君…確かにキミは銃で撃たれた。けどそのほとんどがかすり傷程度なの。一発だけお腹にヒットしてたけど、それもちょっと体にめり込んだってだけで大した傷じゃないの…はっきり言うと普通あんなケガで死にそうになることもないし、気絶するってことも普通じゃありえない…」
「え?それじゃあ…」
「うん…カルラ君はね、あんなしょっぼいケガで死にかけみたいな態度を取って挙句の果てに気絶しちゃったのよ!アハハ!」
スイのお馴染みの笑い声が覚醒し始めた脳内に心地よく響いた。
「いやぁ…キミってばあんなケガで気絶しちゃうなんて脆すぎ!もっと体鍛えなくちゃ!まぁ確かに、初めて銃弾に当たって痛かったとは思うけど…うぷぷ…それでも、ねぇ…?」
「えぇ~…」
もっと心配するなりなんなりしてくれてもいいんじゃないか、カルラのそんな思いもスイの笑いに一蹴される。
「勝手に気絶してさ、私のこと心配させて、挙句の果てには心配して様子を見に来た私の気持なんか無視してさぞ気持ちよさそうな寝顔さらして…むかついたから思わずビンタしちゃった、テヘ♪」
「なんでも可愛くすれば許されるってわけじゃないぞ?」
「別にいいじゃん。あのビンタでカルラ君はちゃんと目を覚ましたんだしさ」
「痛みでむりやり起こされた人間の気持ちにもなってみろよ…」
カルラははぁ、とため息を吐く、やっぱりどうにも彼女といれば調子が狂うな、なんてことを思いながら。けれど彼女には感謝をしなければ、とも思った。あの暗闇で自分を救い出してくれたのは彼女の笑顔なのだから。気絶ならたぶん放っておいても目を覚ましたんだとは思うけど、という至極もっともな考えは頭のゴミ箱へポイした。
「そ、そうだ!作戦はどうなったんだ!?」
「ん?そりゃもちろん成功したよ。私一人が頑張ったからね!」
(一人のところを強調しないでくれよ…心に刺さる…)
「そうか、まぁそれなら、よかったよ…お疲れさま、っていうのはちょっと違うか…う~ん、なんていえばいいか…」
「寝ている間に見事に任務を達成してくれてありがとうございますスイ様、でいいんじゃない?」
「寝ている間に見事に任務を達成してくれてありがとうございますスイ様」
「うわ…何その棒読み…そんなに感情のこもってない言葉聞くのってたぶん人生初めてかも」
なんてバカみたいなやり取りをしていた彼らだが、ふと会話が止まった。それは別にどうということはない、ただの話のタネが切れただけだ。お互いがお互いの話し合いたいことをなくし手持ち無沙汰になっている最中のこの沈黙。ただこの沈黙の間に彼は思い出してしまった、あの時の暴力的な殺意を。太陽が一瞬見えなくなった瞬間に、闇が彼を支配したのだ。
あの時は必死であったし脳内でアドレナリンがドバドバと放出されていたおかげかそれを感じる暇さえ与えてくれなかった。けれど今この静寂の間に過ぎ去ったそれは彼の脳内を、心を、ひどく刺激した。冷酷な殺意が彼の油断した心を時間差のナイフでめった刺しにした。
「うわぁぁぁぁぁぁ!」
彼は叫ぶ。自分の心に突き刺さったナイフの痛みに顔をしかめて、絶叫をあげる。
(怖い…怖い…怖い…!)
怖いという感情があふれて止まらない。人から与えられるこの暴力的な感情が、これほどまでに恐ろしいということを彼は知らずに生きてきた。彼は良くも悪くも純粋すぎたのだ。いや、幼かったというべきか。その心はあまりにも綺麗で、あまりにも成長していなくて、あまりにも壊れやすい。彼の裸同然の心はナイフでズタボロに切り裂かれて奥底まで殺意という液体を傷口から浸透させていった。
「あぁぁぁぁ!怖い…殺される…死にたくない…死にたくない…!」
そしてそれは彼自身の明確な殺意までよみがえらせる。彼が向けた殺意、あの時は仕方なかったとはいえ人に向けた暴力的衝動。自身の指の動きだけで弾けとんだ命。それが善か悪かを判断する前に頭はただ引き金を引くことを命令し、自身の従順な体はそれに従った。あれこそが命のやり取り、動物の生まれながらにして持つ獣的な感情。生きるか死ぬかの瀬戸際の心の慟哭、けれど初めてのそれにはやはり彼は戸惑い怯え、壊れるほどに恐怖が襲い掛かってきた。簡単に命が吹き飛んでしまうこの世界の真実に、彼はどうしようもなく怯えた。
「あぁぁぁぁ!俺が…殺した…人を、殺した…この手で…死にたくなかった…仕方なかったんだ…だから、殺した…俺は…俺は…!」
どす黒い何かが心の奥底から放出され血液に乗り全身に染み渡っていく。彼の身体はガクガクと震え焦点の合わない瞳が右へ左へ虚ろにさまよった。ガチガチと歯が鳴り顔が思いっきり引きつっている。あまりにも醜く、あまりにも脆い彼のその様子に、少女は耐えきれなくなっていた。
「カルラ君!」
少女は彼の弱りきった体を力強く抱きしめた。彼の冷え切った心が、少女の熱でじんわりと溶けていく。少女のふんわりと甘いにおいが彼の鼻孔をくすぐりアロマ的な効果を成し彼を現実へとだんだんと引き上げる。
「カルラ君…落ち着いて…」
少女はゆっくりと彼を諭すように背を撫でる。彼はまるで母親の腕の中に抱かれた子供の様に少しずつだが穏やかな表情を浮かべていった。
「カルラ君…大丈夫…怖くないよ…なにも、怖くないから…キミを傷つけるものはもうここにいないよ…だから、落ち着いて…」
「あぁぁ…」
彼の慟哭は収まったがまだ落ち着いていないのか口から小さな言葉にならない何かが漏れる。
「ごめんね、カルラ君…キミは、無理をしていたんだね…」
「スイ…」
「いいよ、もう…カルラ君には、つらいことだったよね…もう戦わなくていいよ…私が上にかけあってどうにかここに置いてもらえるようにはしてあげるから…」
自分がここに連れてきたのにあまりにも身勝手だ、スイはそう自覚していたが言葉をかけずにはいられなかった。自身のせいでカルラがこんなにも苦しんでいるのだ、彼を苦しめた責任は取らねばならない、彼女はそう思っていたが予想もしない彼の言葉にその考えはすぐに頭から吹き飛んだ。
「いや…俺は、戦わなくちゃいけない…それが、外に出た俺のやるべきことだから…」
「でも…!」
先ほどまで恐怖で絶叫していた人間と同じだとは思えないほど力強い口調で彼は続けた。自分を戒める言葉のように、彼は口を開いた。
「俺は…外に出たかったアイツのために、戦うんだ…あの日逃げた俺がどうしようもなく許せない…だから俺は、あいつの代わりに戦う。あいつがしようとしていたことを、俺が引き継ぐんだ…じゃないとアイツは、俺を許してくれないだろう…」
「それって…カルラ君の初めての友達のこと?」
スイは前々から引っかかっていたカルラの初めての友達のことを尋ねた。あの時のカルラの落ち込み様と来たら他にはない。彼女の問いかけにカルラはゆっくりと口を開いた。
「あぁ…ノエルっていう幼馴染がいたんだよ…あいつはさ、賢くて行動的で、俺のあこがれの人だったんだよ。俺はあいつにずっとついていっていろいろ教えてもらった…箱庭の理不尽もアイツから教えてもらったんだ…」
カルラはぽつりぽつり、過去を詳しく語っていく。自身を作り上げた過去の幼馴染のことを、自身の過去の過ちを贖罪するように語った。
時は5年前に遡る、俺が12歳の時だ。それは俺がまだ箱庭の従属的な奴隷だったころの話だ。
俺は今日も箱庭の奴隷らしく何の疑問も抱かずに与えられた空っぽのスケジュールをこなしていた。決められた時間に目覚め、朝ご飯を食べ、歯を磨き、テレビを見る。昨日までもそうしてきたし、今日も、それに明日も、明後日も、1年後、10年後もきっとその生活は変わらないのだろう、なんて俺は疑いもしなかった。だけどそんなクソみたいな奴隷生活は今日その日をもって終了した。俺の目の前に、突然あいつが、榛名ノエルが現れたのだ。いや、突然、なんていうと何の前触れもなく感じられるな、俺は彼のあるものを見つけて、それを取り返すべく彼はやってきたというべきだろう。ではそのあるものとはなんだ?それは、本だ。
「この本、キミのものなの?」
その日散歩しているときに公園のベンチの上でふと見つけたもの。本、といっても子供が読む絵本だ。5分もかからずに読めるそれは、箱庭の検印漏れという珍しい物だった。箱庭では本も管理されている、もちろんそれは箱庭のプロパガンダの邪魔になるためだ。本によってもしも世界に仇なす思考が生まれてしまったら、箱庭はそのことを懸念して本を管理して自分たちに都合のいいものだけを世に回した、必読図書として。本という表現の自由の象徴を規制して何が平等な世界だ、笑わせる。まぁ当時の俺はそんな裏の理由を知るわけもなく、ただ興味本位でその本を読んだ。
とある島国で生まれた男、彼は島で幸せに過ごしていたがふと海の向こう側に行ってみたくなった、彼は島民の反対を押し切り世界へと旅立った。そして彼は訪れた国々で人々の温かさを知り自分がいかに小さな世界で暮らしていたのかを知る、なんていう子供には少々題材が理解しにくい冒険の話だった。
その本を読み終わった俺のもとに現れたのが、ノエルだ。俺は青色の綺麗な目をした彼にこの本はキミのものか、と改めて尋ねた。けれど彼はこたえる代わりに俺に質問をした。
「なぁ…海の外に、行ってみたくないか?」
俺はその質問に、こくりとうなずいた。それは本の中の色とりどりの外の世界を見たせいか、それとも本能的にうなずいたのかわからない。なにせ彼は細かい理由なんて必要としていなかったから。彼はその質問に、首を縦に振る同志を欲していたから。
「よし!じゃあ俺と一緒に外の世界に行こう!」
それが、世界の外側を夢見る少年と俺との初めての出会いだった。
ノエルは俺と同じ年齢のくせに大人びた顔をしていた。どこか物事を斜に構えるクセが顔にも出てしまっていたのだろう、だがその顔が綺麗だな、なんて俺は思った。一応言っておくが別に同性愛的な感情が生まれたわけじゃない。彼の顔は箱庭で過ごした俺が今まで見た何者よりも綺麗で、色づいて見えたんだ、それは成長した今でも変わらない。いつも彼の青い澄んだ瞳に俺の間抜けで小さな姿が映っていた。
「カルラ、この世界はすべてが偽物なんだ。この平和も、健康も何もかもが偽物だ」
彼の言葉はすべてが新鮮で、俺の幼い心をくすぐった。幼心が簡単に子供兵を作るように、立派な箱庭への反抗者もここに一人、簡単に出来上がった。ノエルは俺の教祖様だった、いや、そんな陳腐なものではない。彼は俺にとってはキリストであり、ブッダであり、釈迦であった。彼の言葉はすべてが俺の心に染み渡り、すべてが俺の概念を覆した。俺はまるで神様と会話しているみたいに彼と話し、届かない場所にいる生者の彼にひたすら憧れた。
俺はカルラと出会い公共の敵としての刃をひたすら研ぎ澄ませていった。箱庭の管理をぎりぎりのラインで欺き間食を主とし無駄なカロリーがあふれるコンビニを根城にした。周りと同じ人間になるのが嫌でノエルの勧めでメガネをかけた。今現在は視力矯正のためにも欠かせない品だが当時はまだ伊達だった。俺の公共の敵としての成長の一部であるメガネは今も欠かせない。
両親は隠れてこそこそと刃を研いでいる俺のことを心配した。ノエルと会ってはいけない、そう言われたがその言葉の奥底には両親の意思はなかった。彼らはただ公共の存在として俺のことを注意していた。俺が公共の輪を乱すと両親にもいわれのない社会の悪としての目が届く、彼らは自己の保身のためだけに俺の行動をまともなものにしようとした。だがそんなこともすでに自身の顔が映るほど鋭く刃を研いだ俺には無意味な言葉だった。両親の顔に貼りついた心配を浮かべる公共的な表情に俺は目もくれずただ舌打ちで返した。
俺にはノエルといるだけでよかった。彼の見せる表情こそが人間としての本来の表情であり俺を導く指針でもあった。彼が笑えば俺も笑う、彼が苦しいと言えば俺も苦しいと言う。本当に感覚を共有していたのかといえば不安になるが、それでも彼の心の一部は理解しているつもりだった。
彼との出会いから季節を二つまたぎ冬となった。空には冬だというのにぎらぎらと太陽が浮かんでいた。そんな空の下、彼が運命を分ける一言をこぼした。
「俺、明日外に出てみようと思う」
「え?外に?」
「そう、外の世界だ…箱庭の外側、そこになにがあるか俺は見てみたい…自由な世界があってもなくてもいい…俺は、この箱庭の中でずっとくすぶっていたくないんだ…」
思えば彼は初めて出会った時から外に出たがっていたように思う。ふと箱庭の壁を見つめてぼけぇっと何か考えるようにしていたり、箱庭の話をしている時もどこか外側から見ているような感じで話していた。彼はもう自覚していたのだ、ここには自身の居場所はない、と。けれど俺はまだ子供だった。俺はまだまだ、彼の信者として祀りあげる存在が必要だった。
「なぁ…カルラも一緒にこないか?俺と一緒に、外の世界にさ…」
「で、でも…箱庭の外に出ようとしたら殺されちゃうんだよ?」
「あぁ、でも俺はいい方法を思いついたんだ。壁の手前の森にさ、ひときわ高い木を見つけたんだ。あれのてっぺんまで登ってロープかなにかを壁にひっかければ…」
「ほ、ほら!お父さんもお母さんも心配するし!」
「は?なんで俺があんな奴らの心配を考えなくちゃいけないんだ?カルラもわかってるだろ、あいつらこそが俺たちが嫌う箱庭の奴隷だって」
「で、でもでも…!」
俺は何とか理由を見つけ出して彼を止めようとする。俺はきっと彼がいなくなってしまうのが怖かったのだ。自分と同じ箱庭にとらわれた同等な彼が、もしも外側に行ってしまえば自分と決定的に違う存在になってしまうと思ったから。彼は俺のことを外に連れ出そうとしてくれたが、それは俺の意思じゃない。自分の意思で箱庭の外に出ることを決めたその時が、彼と対等となれる時なのだ。だけど俺はまだまだ弱かった。刃を研ぎ終わっていなかったから。かざしただけで銃弾が切れてしまうほどの鋭利な反抗心を、俺は持ち合わせてはいなかった。だから俺は彼をどうにかして引き留めたかった。まだ自分にはカリスマ的存在の彼が必要だったから。けれど彼から返ってきた言葉は、俺の心をずたずたに切り裂いた。
「お前は、そういうやつだったんだな…親友といったのも全部嘘。お前なら一緒に来てくれるって、箱庭に一撃を加えてくれるって思ってたのに、お前は俺と一緒だって思っていたのに…!ただの、臆病者だったんだな」
蔑むように彼はそう言い捨ててすたすたと俺の前から姿を消した。
「裏切り者―」
ぽつり、彼はそうつぶやいて二度と俺の目の前に姿を現すことはなかった。
絶対的カリスマを失う、俺は怯えた。彼がいなくなってしまう、彼が死んでしまう、俺はただそのことに怯えた。
「ノエルが、いなくなる…俺の初めての友達が…いなくなってしまう…」
俺が怯えたのはカリスマでも教祖でも神様でもない、ノエルという一人の親友がいなくなってしまうこと。彼とはもっと遊びたかった。彼と一緒に生きて、大人になりたかった。大人になって幼い日の背伸びした俺たちの姿をあざ笑ってやりたかった。
だから俺は、本当に彼を裏切った。
俺はその日、両親に告げ口をした。ノエルが、箱庭の外へ逃げ出そうとしていると。箱庭の従属な奴隷の両親は慌てた表情のお面を顔に貼り付けて優秀な犬としての働きをはたした。その数十分後には、彼の家の周りはアンドロイドの群れでいっぱいになった。俺はただその光景を、周りの野次馬に交じってただ傍観することしかできなかった。彼は家からアンドロイドにむりやり引きずられて出てき、車に乗せられてどこかへと運ばれた。
その後俺は、彼の姿を見なかった。彼は帰ってこなかったのだ。それどころか、彼が生きた証は何一つと消え去っていた。俺の両親も、ノエルの両親も、街の人々も、ノエルという箱庭に逆らったバカな人間のことなどまるでいなかったかのような態度を取った。彼のお気に入りだったあの絵本も、もうどこにも存在しない。
「ごめん…ノエル…俺が、バカだった…俺のせい、だ…俺が全部悪かったんだ…ノエル…ノエル…」
いくら泣いてもいくら彼の名を呼んでも、ノエルは帰ってこない。ノエルのいない世界は何もかもがモノクロだった。唯一見えていた青色の瞳はもう俺のことを導いてくれない。俺は泣いて、後悔して、そして決めた。
「俺がノエルの意思を継ぐ…俺がノエルの代わりに外に出る…今度は俺が誰かを導くんだ…この何があるかわからない外の世界に…」
そう決めたのに、俺は行動に移すのを怖がっていた。何かきっかけがないかと日々探し、一日の終わりに今日も無為に過ごしてしまったとため息をつき、まだ時が来なくてよかったと安堵の息を漏らす。俺は気がつけば心地よい立ち位置に座ってしまっていた。すべてを箱庭のせいにしてそれを忌み嫌う反逆者を装うも、箱庭の恩恵はしっかりと受け取る奴隷として。
「これが俺の話さ、俺が背負った罪…どうだ、面白かったか、裏切り者の滑稽な話は」
「まぁネタ話としては満点ね。ただキミは自分を悲観しすぎ、その点はあまり面白いと言えないかな。それにキミは今は違う、行動して一歩踏み出した人間、今も自分は進みだせないって言ってる風な所も気に入らない。話の書き換えを要求します」
「はは…なんだよ、それ…」
スイの言葉にカルラは小さく笑った。まさか励ましてくれてるのか、なんて思ったが都合がよすぎだと頭を振ってその考えを吹き飛ばす。けれどスイは吹き飛ばしたはずのその考えを空中で捕まえて彼の方へと返した。彼女の抱擁によって。
「大丈夫…今のキミは裏切り者でも行動できなかった過去の自分でもない…今のキミは、一歩ちゃんと踏み出したキミ…そのノエルって子と同じ、ちゃんと自分で考えて支配からの抵抗をはたした、すごい人…だからそう悲観しないで…キミは胸を張っていいの…過去のことを水に流せとは言わない…けど、越えていくことはできるはずよ。キミは無意識に、過去を乗り越えてたのよ」
彼女の優しい声が彼の耳を、脳を、冷えた心を溶かす。彼の溶け始めた心が叫んだ、彼女の言う通り自分は過去を乗り越えた、と。彼女に言われてカルラは初めて気が付いたのだ、自分は無意識に一歩踏み出していたんだと。あの時のノエルみたいに、踏み出す勇気があったのだと。完全にそれを過去として置いていくなんてことはカルラにはできない、それでも踏み出したことを過去の自分に誇ってもいいはずだ。彼は温かな彼女の腕の中で気づいて、涙した。スイはただよしよしとカルラの頭を撫でるだけだった。
「…スイ」
「ん?どうしたの、カルラ君?」
「おっぱい、当たってる…」
「ムフフ…カルラ君のえっちぃ♪」
スイの腕の中、気恥ずかしさを感じた彼はどうにかそれをはぐらかそうと自身の背に押し付けられたお餅のように柔らかいそれについて言及したのだが、どうやら逆効果だった。彼女はさらにギュっとカルラに抱き着きその胸を背に押し当てる。カルラは先ほど感じた恥ずかしさとは別の恥ずかしさに頬を染めた。
「あの…スイさん…だから、おっぱいが…」
「あれ?カルラ君、気付いてない?私が意図的に押し当ててるんだよ?」
(な、なんですと!?)
「男の子はおっぱいで元気になるんでしょ?ほらほら、もっと私のおっぱい楽しんでいいんだよ?カルラ君が元気になってくれるなら私のおっぱいいくらでもカルラ君の好きにしていいんだよ」
スイは抱き着いていた腕を放し、ベッドに横たわっていた彼の体にのしかかった。ちょうどカルラと向かい合う体勢だ。
「あ、あの…スイ…」
「ほ~らカルラく~ん…だ~い好きなおっぱいですよ~」
スイはカルラの手を持つと自身のふくらみへと誘導した。無抵抗なカルラ、いや、無抵抗を装ったカルラは流されるように彼女の胸へと手を持って行った。彼女のふにふにで暖かくてもちもちで、この世のどこにも同じ手触りのものがないと思えるほどのそれが今、カルラの手の中に納まっている。それはまさに至福の時であり、生きていると強く実感でき、そして永遠にも似た時間が流れてくれと、己の中に強く願った。
「はぁ…嫌だなぁ…」
ため息交じりに嫌だと呟くのはトージだ。彼の盛大な溜息は無機質な廊下にやけに大きく反響して彼の耳へと帰ってき、さらに気分を憂鬱なものにさせた。それもこれもあの新入りのせいだ、なんてことを思いながら彼はその諸悪の根源の元へ歩く。
彼はあの時新入りに挑戦を申し込んでしまった、あの時はついカッとなって挑発的な態度を取ってしまいカルラを怖がらせてしまったかも、と後になって彼は深く反省していた。もともとトージはスイが言っていた通り根はいい子なのだ。ただ欠点の短気が前面に出て良い部分が見えなくなっているだけであり、本当はとても仲間思いで情に熱い人間なのだ。なので彼はこうして律義にもお見舞い用の花とお菓子をもって彼の病室へと訪れていたのだ。
「あいつがケガしたのも、もとはといえば俺のせいなんだよなぁ…」
優しい彼はこう思っていた、あの時自分が挑発的なことを言わなければ、彼はスイをかばってまで自分のことを認めさせようとしなかっただろう、と。ただその場合スイが傷ついてしまい彼はまた心を痛めることになっただろうが。ちなみに心の奥で敵対しているスイであろうとやはり彼にとってはかけがえのない仲間であり傷ついてざまぁみろという心の狭い人間ではないというのは覚えておいてほしい。
「どうやって謝ろうか…?ごめんなさい、っていうのも普通だし…土下座、はプライドが許さないが強要されればするしかないか…昔鍛えたスライディング土下座の使い道がやっと訪れたか?」
なんて馬鹿なことをぶつぶつとつぶやきながら重い足はようやく彼の病室へとたどり着いた。彼はコホン、と一つ咳払いして扉に手をかける。こういう時迷いなく行動できる彼はノックも何もせずにそこに侵入した、がどうやらまた彼の性格が最悪の引き金を引いてしまった。
「ほ~らカルラく~ん…だ~い好きなおっぱいですよ~」
「な、なんだこれ!?手に吸い付いてくる!このもちもちの感触!すげぇ!これが女の子の…おっぱい…!」
「やんっ!カルラ君ってば手つきえっちなんだぁ…」
「スイが触っていいって言ったんだろ?だから俺は普通に触ってるだけ」
「もう…そんなこと言ってぇ…うふふ…必死にもみもみってして…カルラ君は赤ちゃんなんでちゅか~」
「お、お前ら…なに、やってんだよ…」
トージはその光景に絶句した。ケガしてベッドに寝ころんでいたカルラの上にスイが馬乗りのようにのしかかって、対面の彼はスイの胸を思いっきり堪能していた。もにゅりもにゅりと彼の手の動きに合わせてその柔らかな胸が形を変えスイの口から冗談めかした喘ぎ声が響いた。見ようによっては男女の交わりの前戯にも見えなくない、いや、それにしか見えない。
せっかくトージが謝る決意をしてお見舞いのお菓子までも用意したというのに、こいつらは嬉しそうに乳繰り合っていたのだ。トージは怒りを爆発させる。
「お、お前ら!ふざけてるんじゃねぇぞ!俺がせっかく見舞いに来てやったってのに!何二人で楽しそう…ゲフンゲフン…けしからんことしてんだよ!くそ!お前新入りのくせに生意気なんだよ!やっぱりお前は気に食わねぇ!俺だってまだ女の子のおっぱい触ったことないのによぉ!」
「え!?怒るとこそこ!?」
激昂するトージに間の抜けた声を漏らすカルラ、ただその手はまだスイの胸を揉んでいた。
「あ、トージどうしたの?あ、それケーキじゃん!私ちょうど甘いもの食べたいなぁって思ってたんだよねぇ。はい、カルラ君、これで終わりね…って捨てられた子犬みたいな寂しそうな顔しないでよ…何?まだ元気でないの?しょうがないなぁ…ケーキ食べ終わった後にたっぷりしていいからね」
「おいスイ!お前そんな奴に揉ませるなら俺にも揉ませろよバカ!」
「うわ…トージってばさいってい…私の胸ずっと揉みたいって思ってたんだ…キモ…ひくわぁ…」
「そいつと態度が違う!何だよもう!」
騒がしすぎる二人に顔をしかめるカルラだが、この騒がしさも別に悪くないな、なんて思う自分がいることに驚いた。こんなに温かな空間に自分がいることが、とても心地よい。それはあの平穏な箱庭で与えられた何かを便利なものとして受け取りぬくぬくと過ごしていたのとは全く違う心地よさで、人間味のある心地よさだ、なんて達観したことを彼は思った。
(ノエル…外の世界は、こんなにもあったかいんだぜ…もしお前にもう一回会えるとしたら、この暖かさを分けてあげたいよ…)
「あ、そうだトージ!あんたカルラ君のことを認めたら謝るって言ったよね?お見舞いに来たってことは、もちろん認めたってことだよね?」
「そ、そうだよ…あぁ、そうさ!俺はこいつのことを認めたよ!自分の身を張ってまでスイを助けたんだ、それは称賛に値するよ。その…あの時は変な態度とって悪かった…改めてよろしくな、カルラ」
「あぁ、よろしくな、トージ」
「…なぁ、カルラ…お前、後でおっぱいがどんな感触だったか教えろよ…」
こそこそと耳元にささやいたトージ、まるで思春期真っ盛りの男子高校生のようだ。そういうカルラも思春期真っ盛りでありエッチな話もしたい年ごろで、こくりとうなずいた。
「ほら、トージ。私には謝らないの?あの言葉、撤回するんでしょ?」
「そうだったな…ごめん、スイ…あの時は俺も気が立っててさ、つい言い過ぎたんだ…ほんと、ごめん…」
「あれれ?トージ、そんな態度でいいの?私の心が負った傷はそんな言葉だけじゃ治らないよ?ちゃんと態度でも示してくれなきゃ…そうだなぁ…トージが語尾にウサギの鳴き真似をつけて謝ったら許してあげる。ウサミミ装備もオプションにしなかったことを光栄に思いなさい」
(何と鬼畜な…哀れトージ…)
「ごめんなさい…ぴょん…俺が、悪かったです…ぴょん…あの時はつい言い過ぎたけど反省してるぴょん…だから、許してくださいぴょん…」
「トージ…ウサギはぴょんなんて鳴かないよ?トージの中のウサギってどういう生き物なのよ…変なマンガの読み過ぎじゃないの?ウサギは鼻を鳴らす感じにぷぅぷぅ、とか威嚇するみたいにキーって鳴くんだよ?ほら、やり直し!」
「ひぃぃ!鬼畜女!鬼!」
彼女の女王様的笑顔がはじける。この空間が心地よい、なんて思っていたカルラだがそれはどうやら気のせいだったようだ。スイに逆らえばどうなるか、彼女の絶対女王政に彼は身震い一つ、二度と逆らうような真似はしないでおこう、と胸の中で誓った。
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