第2話第2章「第7遊撃部隊【セブンス】へようこそ」
「ここが…外の世界…なんか、想像してたのと違う…」
箱庭を脱出し小高い丘の上で一休み中の彼女たち、カルラは視界に広がる世界に目を見開いた。
「これが…本当の世界…」
そこにあったのは一面の荒野だけ、というのはカルラの想像であり現実はそんなものではなかった。確かに荒野が半分を占めるが森もあるし市街地のようなものもある。崩れた過去の遺物なんかもなかなかにアクセントが効いて芸術物にすら劣らない風貌をカルラの瞳に見せつける。世界はこんなにも広々としていてなんとも言い難い色をしているのだろう、箱庭の狭い世界で育ったカルラはそのあまりの大きさに子供のように目をキラキラと輝かせるしかできなかった。気がつけばカルラの瞳に映っていた灰色は消え去り七色の絵の具が視界にちりばめられていた。
「カルラ君、あれが箱庭の本当の姿よ…目に焼き付けておきなさい」
「あれが、箱庭…」
スイが指をさしたそれは巨大なドームだった。球状の透明なガラスが張られたそれは象徴であるタワーを覗かせており確かに箱庭ということが分かる。空が落ちてきた、とカルラがおもっていたものは実はドームの天井部分が割れて落ちてきただけだったのだ。現にその証拠としてだんだんと夕がさしたこの世界の空には穴なんて開いておらず箱庭の天井部分にだけぽっかりと穴が開いていた。
ちなみにこれはカルラがのちに知ることになったのだが、彼が今見上げている空と内側の空は全くの別ものであった。内側の空はあのドーム状のガラスに映し出されたヴィジョンであり気温も何もかもコンピュータによって制御されていたのだ。
「どう?こうして遠くから箱庭を見た感想は?」
「筆舌に尽くしがたい」
「何よそれ…」
実際感想と言われてもどう言葉にしていいかわからずにカルラはただ黙って箱庭を睨みつけるしかなかった。
「こんなのが日本だけでも何百とあるのか…」
「え?何言ってるの?箱庭は全国で7つしかないよ?」
カルラが知っている事実と違うことをスイが口に出した。
「あれが全国に何百もあったら外の人間がいくら頑張っても賄えないよ…箱庭は日本全国に7つ、それぞれ大戦前の主要だった都市に置かれてる。東京、大阪、名古屋、福岡、札幌、後は京都に岐阜ね。ちなみにキミが過ごしてたのが大阪エリアで通称第3セクション」
「俺が住んでたのは7つのうちの3つ目だったってことか…」
「まずキミは箱庭のことをどれだけ知ってるの?きっと内側で聞いたことはほとんど嘘だと思うんだけど…」
カルラは自分の知っている情報をスイに話したが、彼女はそれを怪訝な顔で聞き最後にはきっぱりと全部が嘘と断言してしまった。
「何よそれ!?内側の人間はそんなことを教えられてたの!?そんなのプロパガンダよ!外側の人間に対しても失礼だし!」
「じゃあ、事実はどうなんだ?」
「箱庭はね、選り優れた人類が生き残るためのシェルターなんだよ。大戦でボロボロに崩れ去った世界が優秀な人物だけを後世に残すために作った選ばれた強者のみの楽園。私たちみたいにその選出から落とされた人間は食料提供やらなんやらで内側に選ばれた人間のために奉仕するしかなかったの。平等主義も平和主義も全部嘘。あいつらは私たち劣等種を死ぬまでこき使う気だったのよ」
「そんな…」
驚くべき事実にカルラは言葉を失う。やはりどう反応していいのかわからずにただただ驚きの色を浮かべるだけだった。
「そういうわけでキミは未来に残すべき優良な親から生まれてきた選ばれた子供なんだよ、おめでとう」
この状況でおめでとうと言われても皮肉にしか聞こえない。それを承知の上で彼女はあえていやらしい笑みをたたえて彼にそう言ったのだ。
「でもそれじゃあ反乱がおこったんじゃないか?この数十年の間に今日みたいなことが幾度とあってもおかしくないはずだ」
「お、さすが着眼点が鋭いね。やっぱり選ばれた子供は優秀だ」
カルラはその言い方が気に入らずにややイラついた声でやめろと言うと彼女もそのいらだちをわかったのか肩をすくめてごめんといった。
「まぁ確かに反乱は起こそうとしたさ、何度もね。けど箱庭に総攻撃をかけるにはやっぱり武力が足りなかった。だから私たちは時間をかけて武器を集めて情報を得てから箱庭に乗り込むことを決めたんだ。今日の準備が整うまでは箱庭の犬どもとドンパチやりあってたかな」
「箱庭の犬?」
「あぁ、箱庭の人間を守る優秀な軍隊様のことだよ。と言っても構成されているメンバーは全員外側の人間だ。箱庭がギリギリの選定でふるい落とした人間だけがそこに所属することを許され、豪遊も許されている。外側の人間を強制労働させ自分たちはうまい飯を食っている最悪な連中とだけ覚えておいてくれればいいよ」
「あぁ、ほんと最悪だな」
「キミが言える立場かな?…と、ごめん。これは撤回させて。さすがに意地悪がすぎたね」
「いや、気にしないでくれ…なんせ俺はそう言われてもおかしくない生き方をしてきたんだしさ…」
カルラの心に今までの自分の像が映る。箱庭を嫌いながらもその恩恵を受けてここまでのうのうと生きてきたどうしようもなくずるい自分が、心の奥で鑑映しとなって蔑む視線を送っていた。
「ま、圧政のほとんどを占める箱庭の軍をぶちのめしながら私たちは武器と人員を集めて今日この日を迎えたってわけだけど…どうにもまだ戦力が万全じゃなかったみたいだ。だけど私たちは次は勝つよ…私たちが箱庭を壊して全国の仲間たちの希望にならなくちゃ…」
「全国の仲間たち?するとやっぱり解放軍は他の箱庭も壊そうとしている?」
「うん。全国支部で私たちは展開してるけど…でもほかのところはあんまりうまくいってないみたいで、だから私たちが一番初めに手本を見せるの。みんなもできるってことをね」
なんて話しているうちにセリがそろそろ出発すると声をかけてきたので一度この話は中断された。この話によってカルラの心の奥に意思が芽生えた、箱庭を崩すという確固たる意志が。嘘偽りで固めた内側への憤怒の感情とともに。
「さて、到着だ。ここが私たちのアジトだよ」
スイの合図で車から降りたカルラだが首をかしげるだけだった。スイはアジト、と言っていたがどうにも雰囲気が出ていない。なにせ市街地のど真ん中にあるファミレスを指差していたのだから。市街地、といってもカルラが過ごしていた箱庭のように家々が立ち並ぶわけでもなかったが、それでも活気はそこそこにあり周りには箱庭よりも明らかに活力に満ちた人間が楽しそうに話しながら歩いていた。いろいろなお店も並びそこで人々はショッピングを楽しんでいる。カルラにとっては新鮮な平凡のど真ん中にあるファミレスがアジトだなんて、信じられるはずもなかった。
「まぁついてきてよ。百聞は一見に如かずっていうしさ。ほらほら」
「お、おう…」
スイに背中を押されてカルラはファミレスの中に入る。中もどう見ても普通のファミレスで、数人の客がおいしそうに色とりどりの食事を楽しんでいた。
「マスター、この子新入りだから下のみんなにもそう言っておいてあげて。間違えてケンカでも起こったら大変だしね」
「わかりましたお嬢様」
マスターと呼ばれた初老の燕尾服の男性はぺこりとお辞儀をして店内に備え付けてあった電話でどこかへ連絡しているようだ。彼女はその横を通り過ぎて厨房を通り、さらに奥へ。そして彼女は倉庫の中へと消えて行ってしまった。カルラは慌ててそのあとを追い、驚いた。倉庫の中は、エレベーターとなっていたのだ。銀色のボックスの中に入ると扉は勝手にしまりぐぉん、と体に衝撃が走り降下しているのが分かった。その感覚は20秒ほど続いたのちに開放され、扉も開いた。
「ようこそ、私たち解放軍第3戦線のアジトへ」
カルラの目の前に展開された光景、それは初めて外の世界を見た衝撃よりも少なかったが、けれども確かに彼を驚かせるには十分なものだった。エレベーターを降りた先に続く長い廊下、廊下には扉がありそれぞれの部屋のプレートが張られている。その廊下を何人もの男女が武器を持ち歩いていて、誰もが、自由なのだ。自由に思考し、自由に話し、時間からも解き放たれているように閉塞された世界で過ごした彼は感じられた。
「さて、連れて来てそうそうで悪いんだけど私はこれから大事な用がある。だからキミは今から先生の所へ行っておいで」
「先生?」
「うん。この部隊の軍医を務めてる人でみんなから先生って呼ばれてる。あの人にまずはメディカルチェックを受けてもらって。カルラ君気付いてないと思うけど身体結構ボロボロだよ?」
スイに指摘されてはじめて彼は気づいた。彼の体には切り傷やかすり傷がたくさんついていた。そして意識したからかその傷がいまさらにずきずきと痛み始める。
「医務室までは連れて行ってあげるから。検査が終わったら待っててくれるかな?私が迎えに行くからさ」
そういうわけでカルラはスイの背についていき医務室へと向かった。
「キミがカルラ君だね。話は聞いてるよ。私は…ま、名乗る必要もない、か。みんなは先生って呼んでるからキミも気軽に先生と呼んで、それでかまわないから」
スイが医務室へカルラを放り込んでどこかへ去ってしまったためいま彼は先生と二人きり。カルラはこの数瞬前までは先生のことを軍医という情報からてっきり男かな、と想像していたのだけれど目の前にいたのはナイスバディをした大人のお姉さんだった。思春期真っ盛りのカルラにとってそれは肉食獣と同じ檻に入れられるよりもドキドキと心臓が高ぶる(まぁ違う意味でだが)シチュエーションだ。
「まぁそこに座ってよ。おや…ここ、ケガをしているな。消毒するから、ちょっと染みるよ…痛くないかな?うん…これで大丈夫。ガマンできて偉いね」
なにせ彼女が一つ行動をするごとに柔らかそうなお胸が、プリッと瑞々しい白衣越しのお尻が、どうしようもなくカルラを誘惑しているようにしか見えないのだ。少しアンニュイな表情がデフォルトなのかずっとそんな顔を携えながら彼女の女性としては少し低めで気だるげな声がカルラの耳にぞわりぞわりと侵入する。消毒液が傷口に染みる痛さも先生の女性的魅力にあてられたカルラにとっては感じる暇もなかった。
彼女に見惚れていたカルラがハッと意識を取り戻すころにはもう傷口の治療は終わっており身体のところどころに包帯やバンドエイドが貼られていた。身体に彼女の女性的ないい匂いが残っていると感じるのはきっと気のせいではないだろう、なんてまだ先生にあてられているとしか言いようがない彼はそれを吹き飛ばすためぶんぶんと頭を振った。そんなカルラの思春期的苦悩など知るはずもない先生は自らのペースで話し始める。
「さて、キミを迎えにスイが来るまで話をしようと思うが…まずはクイズをしよう。なぜ私が先生と呼ばれているか、わかるかい?想像でもいい、適当でもいいから何か答えてくれたまえよ。なぁに、間違ったって取って食ったりはしないさ」
そういって先生はスイの快活そうな笑いとは対照的なふふふと陰湿な笑みを浮かべた。カルラはその質問を第一印象で答えることに。
「医者、だから?」
「まぁ誰もがそう思うだろうな。一応は正解だが、完全な意味で正解ではない」
「なんですかそれ、哲学的ですか…?」
「おや、失礼。少し難しい言い回しをしてしまったようだ…なに、答えは簡単さ。私が皆を教える立場、教師でもあるからなんだよ」
「教師…?」
カルラのその疑問はなぜ教師をやっているのか、ではなく教師とはいったいどういうものなのか、という疑問だった。その疑問の意味をカルラの表情から察したのか先生は絶句の表情を浮かべた。医者にはあるまじきクマのついた瞳が驚きで大きく見開かれる。
「キミ、もしかして教師を知らないのかい?学校の先生、と言えばわかるだろうか?」
「学校?なんだ、それ?」
「驚いた…まさか箱庭には学校が無いとは…そういえば政府の放送に数学教室やら歴史学というのがあったが…まさか教育をテレビで行っていたのか?」
「もしかして教育番組のことを言っているんですか?」
「その話をぜひ詳しく」
カルラは話し始めた。必要な知恵はすべて政府公認のテレビ放送によって教えられること、その内容をきちんと覚えているかのテストが月に1度行われること、その他箱庭の教育方針を先生にすべて包み隠さず教えた。先生はその一つ一つにおぉ、やら、へぇ、と言ったりアクションをいちいちこぼすので話し手であるカルラは乗せられてついつい過ぎたおしゃべりをしてしまった。
「なるほど…テレビで一度に教育を、しかも年代を問わずに行うとは…さらに場所を選ばずに教えることができる…そりゃ立派なプロパガンダも出来上がると言うわけか。なるほどなるほど…いやぁ、キミの話はずいぶん参考になったよ。まさか先生の立場である私が教えられるとはね」
先生は生まれつきのアンニュイな表情は変わらずに瞳だけはキラキラと輝き興奮を示していた。だが彼の瞳の中に自分の浮かれた姿を確認するやいなやコホンと一つ咳ばらいをし興奮した己を封印してしまう。
「さて、では次は私が教える番だ。そうだな、キミはどこまでスイに教えてもらったかい?同じことを二回聞くのは面倒だろう?私は面倒なこととリスクは極力回避する質でね」
カルラはスイの話をまとめて彼女に話した。先生はふむふむとそれを聞いてまた口を開いた。
「そうだな…それじゃあ、私たち解放軍第3戦線のことについて教えてあげよう」
「あ、それスイが言ってて気になった奴…その第3戦線ってのは、この部隊の名前なんですか?」
「あぁ、そうだよ。第3セクションを壊すための解放軍、だから第3戦線、もっとかっこいい名前とかにしてほしかったんだけど今更文句を垂れても時すでに遅しだ。実際私たちが所属する解放軍のおおもとができたのは10年ほど前だ。2025年、日本が戦いに参加して2年経過したころだね、合衆国と連邦は自滅覚悟の最終戦争を仕掛けようとしていたその直前、人類管理機構の連中が現れ永遠の平和を条件とした停戦を下した。そこから5年の歳月が流れ2030年、始めての箱庭が東京に作られた。東京はこの3次大戦の原点だからね、そこに箱庭を置くことに彼らは重要な意味を見出したんじゃないかと思ってる。で、そこから計算して2045年くらいに解放軍のおおもとができた」
「その空白の15年は、どうしていたんですか?」
よくぞ聞いてくれましたと言わんばかりに先生は威勢よく語り始める。
「箱庭に不満を持つ人々が各個人単位で統率を取ることなく、ただ自殺覚悟で箱庭の軍隊へと突撃していた。その現状をよく思っていなかったボス、あぁ、この解放軍の設立者ね、は各地の人間にアプローチをかけ統率を取り軍事力を集めた結果が今に至るわけだ」
「なるほど。それじゃあこの部隊はいろんな人を集めてできた結果だ、と」
けれど考えてみれば15年の歳月をかけて集めた大きな部隊でも10年の潜伏期間を経ても箱庭を攻略することは不可能だった。改めてカルラは箱庭の恐ろしさを思い知る。
「平和な世界を作るといった箱庭だけどそれは内側の人間だけという事実に不満を抱いていた奴らが多かったんだ。まぁ当然だがね」
「なぁ…教えてくれ…世界の外側って、どうなってるんだ?」
「あぁ、それはな…」
先生が話したことはカルラにとっては絶望に打ちひしがれるには十分すぎる事実であり、眼を覆いたくなるものだった。けれどどうしようもない絶望を孕んだその事実の上でカルラという存在は生かされていたのだ。いまさら目を覆えるはずもない。
「ほとんどの人間が箱庭の奴隷にされたんだ。私たちのちょうど真上にいる人間たちは本当に例外中の例外だ。私たちが軍と戦って奪った領地にこうして街を作り、私たちが警備して疑似的な平和を作っているだけだ。ここもいつかは潰されるだろうけどそれでも人は集まってくる。ほんの束の間でもいい、外での過酷な労働も軍の圧迫も何もなく自由に過ごせるということでね。外の世界は本当に凄惨さ。内側の人間のために食料を作らされ続けている、というのはスイの話から聞いていたね。詳しく言えば一日のうち半分以上は労働というハードスケジュールさ。軍の監視付きだから途中で逃げだすこともできなければ過労で倒れることも許されない。もし使い物にならないと判断されればその場で銃殺だからね」
「銃殺…そんな、ひどすぎる…」
働いて殺された彼らの命の上に立っているカルラはそんなことを言える立場ではないことが自身ではわかっていた。けれどもあまりの残酷さに言葉をこぼさずにはいられなかった。
「労働が終わっても落ち着いて眠れる場所もない。私たちが作った街も全国にあるとは限らないからね。外の世界のほとんどは何もない更地か森くらいだ。軍の人間が開拓の暇を与えてくれなかったせいでね。そういうわけで労働者は土の上で眠るんだ、まるで蒸されているかのような暑さの夏も、雪が降り凍える冬も、彼らはずっと土の上さ」
ずっとベッドの上でしか眠ってこなかったカルラには土の上で眠るという辛さが漠然としか伝わらずにただぽかんとするだけだった。先生もそんなカルラの事情を知っているからその態度にも怒らずに話を淡々と続ける。
「食事も軍にほとんどが押収されてろくなものを食べることができない。彼らは八方ふさがりだったのさ。逃げれば死ぬ、働いても死ぬ、私はさ、そんな人間たちを見ていられなかったんだ。だから自分から解放軍に志願して必死に勉強して、今ここにいる、先生としてね。前線に立つには私はひ弱すぎるから頭で勝負しようと思ったわけさ」
「その…一つ、聞いてもいいですか?」
「なんだい?」
「箱庭の内側の人間を…恨んでいますか?俺みたいな、何も知らずにただのうのうと生きた人間を、恨んでいますか?」
カルラは尋ねる。どうしてそんなことを尋ねようと思ったのかわからない。もしこれで恨んでいないと言われたら自身の心が少しは軽くなると思ったのか、それとも思いっきり恨んで恨んで恨み倒してくれた方が楽だと感じたのか、とにかくこの質問の真意は彼にすらもよくわかっていないことだった。
「う~ん、そうだね…少なくとも私は、恨んではいないかな…どうして、という顔をしてるから答えてあげるけどね、キミたちもしょせんは被害者さ。箱庭のプロパガンダを受け何も考えずに日々をただ死んだように過ごす、たぶん大半の人間はそれを悪だというけれど、それでも私はどうしても強くそう言えない。仕方ない、とか悪い、とかで片づけるのは楽だけど私にはどうしてもそれができないのさ…恨むべきは戦争を起こしたくだらない世界だよ。自国の利権やらメンツを保とうとした人間たちを生んだこの世界を、私は恨んでいるんだよ」
「世界を、ですか…」
あまりにも壮大な答えに質問したカルラが驚いてしまう。スイに引き続きこの人も独特でつかみどころが難しいな、なんて彼はふと思った。
「ま、これはあくまでも私の持論さ。ここにいる連中はたいていが内側の人間を憎んでいると思う。だからむやみに内側から来たとは言わないことだな、面倒ごとに巻き込まれたくなかったらね」
「ありがとうございます」
カルラは素直にお礼を言うと先生はやりにくそうに顔を歪めた。今の言葉に少し皮肉的な色合いが含まれていたのにカルラは気づけなかったのだ。
「カルラ君、お待たせ」
「おやおや、お姫様のお誘いが来たようだ。行っておいで。あぁ、何か聞きたいことがあれば私のところに来るといいさ。多分私はずっとここにいると思うからね、なにせ私の仕事はセリが持って帰ってきた私より働き者のお医者さんが奪ってしまうだろうからね」
ハハハ、と相変わらずのアンニュイな表情で笑う先生を背にカルラは部屋を出た。スイについていく途中先ほどはどこに行っていたのかを尋ねたが彼女はちょっとね、というだけで何も答えてはくれなかった。
スイが今までどこに行っていたのか、それは別に特別隠さなくてはいけないことではないので今ここに記しておく。彼女はカルラを置いて自身がこのアジトの中で一番行きたくない場所に足を進めた。まったく乗り気ではなく足取りは重くなる、けれど彼女には行かねばならない義務があった。
「ふぅ…」
その部屋の前まで来て彼女は一人ため息をついた。そして意識を引き締めるように頬を叩くと彼女は冷たい印象を与えるその扉を開いた。
室内は扉の印象と同じでとても冷たく感じられた。それもそのはず、そこは全くの無音であり、まったくの無人、彼女以外生きているものがいないのだ。ひっそりとしたその場は冷たさを与えるには十分すぎる雰囲気だ。けれどここには、彼らの魂がある。彼らの生きた証が、ここにはある。彼女が訪れたのは礼拝堂であり、死者を祭る場所でもあった。礼拝堂のど真ん中には真っ白な棺桶が置いてありそれを優しく見下ろすように聖母像が祭壇辺りに置かれている。彼女は真っ白な棺桶の方へと足を進めた。それは通常の棺桶より大きい、といっても大人の男が3人寝転がれる程度だが。その大きな棺桶の中には大量のブレスレットが入れてあった。
この棺は死者の遺品であるブレスレットを収めるものであり、設立時からの死者がこの一つの棺の中にぎっしりと収められていた。その中にはカルラが言う先客の物ももちろん入ってあった。誰かがスイの前にここに訪れ彼の魂を置いていったのだ。
彼女は棺桶の前までくると膝をつき手を握った。神に祈りをささげるポーズだ。けれどいま祈りをささげているのは神ではなく死んでいった仲間たち、この棺桶におさめられている今までの生きた証たちへ彼女は祈りをささげる、これから入る仲間もよろしくやってくれと心の中で祈りながら。
「バイバイ、クロム…」
スイはそうつぶやくとポケットに入れてあったブレスレットをその中に落とした。他のブレスレットと当たり、かちゃん、と金属の音がやけに広い礼拝堂へと緩やかに反響して彼女の耳に届いた。その無機的だが安らかな音に彼女は耳を傾ける。
クロムの死の日付が刻まれたブレスレットが他のものと混ざり判別がつかなくなる。これが、彼の命の証との最後のお別れとなった。
彼女はただ祈りをささげながら思う、未来を破り捨てられた仲間たちのことを。彼らにも全うすべき天命はあり沢山の他者との思い出を人生のノートに描くはずだった。けれどそのノートは冷たい鉛弾で、燃え盛る爆炎で、禍々しい殺意を孕むナイフで、様々な凶器によって白紙のページを残したまま強制的に終わりまでを破り捨てられてしまったのだ。きっと生きていれば色鮮やかなノートが完成するというのにそれも血で汚れるだけ、彼らはそれを承知でこの部隊に入ってきた、それは彼女自身同じだからよくわかっている。けれどそれでも、この理不尽な終わらせかたには憤りを感じずにはいられなかった。それと同時に彼女は怯える、自分自身のノートも、白紙のページを強制的に破り捨てられてしまうことに。彼女はどうしようもないくらいの数の死を乗り越えると同時に、どうしようもない死の恐怖に取りつかれてしまったのだ。彼女の目の前で死んだ人間の数はもう思い出せない、10に届くことすらなく彼女の心はそのカウンターを止めた、心が壊れてしまわないように。けれどどれだけセーフティをかけようとも恐怖は彼女を飲み込まんと訪れる。彼女のオリジナルノートを手放すことを怖がっているのも関係なしに。
けれどどれだけ死の恐怖にかられようとも彼女は止まることはなかった。何度も何度も止まりたいと思った、逃げたいと思った、死にたくない、とあの時のカルラみたいに無様に叫んだこともあった。けれども彼女はここにいる。それは、背負ってしまったから。この大量のブレスレット一つ一つの所持者が描くはずだった未来の白紙のページを背負ってしまったから。死に行く魂たちの幸福を、可能性を、意思を、すべて彼女は背負い込んでしまったから。彼女は死した魂たちと生きている、それは死に憑りつかれているといっても過言ではないほどに。
そしてまた彼女は白紙の未来を背負う。神様によっていたずらに残りのページをだんだんと削られていた彼の、ほんの少しで、大量の残りの命のページを、彼女は心の中の引き出しにしまい込む。
「クロム…私、頑張るからね…あなたの意思を、無駄にはしないよ…」
彼女のノートにまた死の記憶が染みこんだ。その大きな染みは彼女の足元にも温かな染みを作っていた。
「さて、到着!ここが私たち第7遊撃部隊、通称セブンスの部屋ね。今日からキミは私の部隊に所属してもらうから」
「え?そういうのって手続きとか大丈夫なのか?」
「うん、全然大丈夫。上には私から直に報告しておいたから。それにキミもさ、慣れない場所であんまり知らない人たちと一緒にいるのは嫌だよね?私だったら絶対嫌だなって思うし」
「まぁ確かに…見知った顔がいた方がいいかもな…といってもお前と会ったのは今日が初めてだしそこまで親しい仲とは言えないんだけどな」
ここぞとばかりに仕返しであるいたずらの笑みを浮かべるカルラだがスイには全く効いていないようだった。嫌がる素振りかなにかを見せてくれるのかと思っていたが彼女が次にこぼしたのは笑顔だった。
「ふふ、別にいいよ、キミがそんなこと言うんだったら。そうだよね、キミと私はまだで会ったばかりの仲だもんね。いいよ、別の部隊に行っても。あ、そうだ。キミにお勧めの部隊があるからそこを紹介してあげるよ。通称男色家の集まり、なんて呼ばれてるいい男ぞろいの部隊を、ね♪」
カルラ以上にいやらしい笑みを浮かべてスイはうふふと含みを込めて笑った。
「すいませんでした…俺が悪かった…俺とお前は仲良し、うん、超仲良し!まるで前世からの付き合いがあるみたいに仲良し!だから同じ部隊にしてください!」
「うん、よろしい、許可する」
スイに勝つことはできないな、なんてカルラは内心で苦笑する。それと同時にこれからもっと仲良くなれるんじゃないかと希望を見出した。彼の2番目の親友の座はたった数時間ほどしか付き合いがない彼女が奪い去ってしまうことだろう。
「ま、正直言うと欠けた枠の穴埋めって事もあるけどさ…でもそれは2番目の理由。ほんとはキミのことが心配だから。私が見ておいてあげないとキミはすぐに死んじゃいそうだから…」
「それって…俺が弱いってことか?」
「はっきり言ってね。もしかしてキミは自分が強いなんて思ってたのかな?銃を持ったときあんなにへっぴり腰だったのに?」
「うるせぇ…あの時は必死だったんだよ…まぁ、俺も自分が強いなんて全然思ってない…」
事実だとしてもやはりはっきり言われると辛いもので、カルラは少しうなだれてしまった。けれど彼の中で一種のすがすがしさも生まれた。包み隠さず、お世辞もないほど正直に自分のことを評価してくれたのが嬉しかったのだ。
「私がキミのことを拾ったんだしさ。キミがちゃんと一人前になるまで面倒を見るのが飼い主の筋ってもんじゃない?」
「飼い主って…」
「キミの今のポジションだと飼い主がいいかなって思ってさ。今のキミは私のペット、ただの遊び相手。これからどんどん評価を伸ばして私のことをぎゃふんといわせてみせるように頑張りなさい。まずはお手とお座りの練習からにする?ほら、お手」
右手を出してくるスイ、完全にペットのような扱いにカルラは困惑を通り越して呆れの表情をする。付き合ってられないというように彼は肩をすくめた。
「もう!お手してよ!ほら、お手!」
「俺はその手を噛み千切ればいいのか?できの悪いペットを持った飼い主の辛さを一度知った方がいいぞ」
「生意気言うようになったね」
お前ほどじゃねぇよ、と声に出さずに心の中でツッコミを入れるカルラ。相変わらずスイはにこにこ顔だ。彼もそれにつられてふっと笑みを漏らした。
「うん、その顔、いい顔だね。これならみんなにもいい印象を持たれるよ」
スイにまるで親戚のおじさんがそうするようにバンバンと背中を叩かれるカルラだが不思議と嫌な気はしなかった。彼は口の中で小さくありがとう、とつぶやいた。スイはその言葉が聞こえたのかどうかわからないがまたカラカラと笑みをこぼした。
「みんな集まってる?うん、大丈夫そうだね。今日からみんなの新しい仲間になる人を紹介するからちゃんと自己紹介するように!いいね?」
部屋に入って早々スイはまるで教師が転校生を紹介するような口ぶりで部屋にいたメンツに話しかける。談話室であるそこで本を読んでいたりテレビを見ていたり、思い思いのことをしていたメンツが一斉にスイの方を向いた。次に彼らが視線を向けたのはカルラでありスイの2つを除くと8つの目玉が彼のことを見定めるようにとらえる。
「ほら、まずはキミから自己紹介。ちゃんとできるよね?」
子供じゃないから大丈夫だ、目線だけで心配そうにこちらを覗いていたスイに返事を送る。彼はコホン、と一つ咳払いをして自身のことを簡素だが話し始めた。
「えっと…黒崎カルラと言います。年齢は17です。その…みなさんと仲良くできれば幸いです…まだまだ未熟ですが、これからよろしくお願いします…」
「硬い!硬すぎる!あんたのその自己紹介せんべいより硬いで!」
精一杯の自己紹介をしたつもりのカルラだったが豪快な声にそれは否定された。カルラがその声の主に目を向けるとそれは彼の見たことのある人物だった。
「セリ!?」
「うちもこのセブンスのひとりっちゅーことで、よろしゅう頼んますわ」
カルラの方にウインクを飛ばしたのは脱出の際に車を運転していたセリだった。もう一人の見知った女の子が同じ部隊ということでカルラはほっと息をこぼした。
「うちの担当は運転や。車でもバイクでも戦車でも戦闘機でも任しとき!夢はロケットの運転をすることや!そうやなぁ…あとはこの部隊の会計も任されとるんや」
「セリはメカニックもやっててね、箱庭に侵入するときに使ったあのジェットもこの子の設計がおおもとになってるんだよ」
自慢するように胸を逸らすセリ、彼女の案外大きかった女性的な部分がぽよんと揺れてカルラは頬を染めた。先生の時もそうだがカルラは女性のそういうものにはめっぽう抵抗がなく思春期の男子特有の過剰と言っていいほどの恥ずかしさが襲い掛かってくるのである。どれもこれも箱庭がそういう性的な物を排除してまわり健全な国を作ったせいでもあるが、彼は自分の弱い心のせいだと思い込み必死で無心を貫くように努力していた。
「なんや、顔がタコみたいに赤なってるで?」
「だ、大丈夫だ、問題ない…」
彼は心の中で素数を唱えることでどうにか平静を取り戻した。気を取り直して次の人物の方へ彼は目を向けた。
「えっと…ボクはこの部隊で作戦指揮とオペレーターを務めてる…その…恥ずかしいんですけど…織田ノブナガっていうんです…」
「ノブナガ、ちゃん?」
次に声をあげたのは人形のように愛らしい顔立ちにふわふわの茶髪を携えた小さな女の子だった。見た目だと12歳のように見えるが実は15歳である。織田信長、と言えばカルラもよく知っている歴史上の人物で戦国時代に名をはせ天下統一目前で殺された凄腕の武将であり超有名人である。そんな彼と同じ名前だというノブナガだがこのちんちくりんでひ弱そうな見た目からはどうしても名前負けしているなと、ノブナガ自身そう感じコンプレックスを抱いていた。
「ノブナガちゃんは、やめてほしいです…」
「いいじゃん、かわいいし。私もノブナガちゃんって呼ぼうかな」
「スイさん、冗談はやめてくださいです…ちゃん付けは、やっぱり恥ずかしいです…」
どうにも強く言い出せないのかノブナガの語気は弱々しい。
「ごめんね、ノブナガ。でもね、これだけは知っておいてほしいの。カルラ君は決して悪気があってちゃん付けをしたんじゃないんだよ?カルラ君はね、それはそれは驚くくらいに人との交流を絶ってきてね、人とのちょうどいい距離感が分からないかわいそうなぼっち君なんだよ…」
「カルラさん、ぼっちなんですか…かわいそうです…」
カルラは歴史上の人物と区別するためにノブナガちゃん、と呼んだのだがどうにも勘違いされたそうで憐れんだ瞳を二人から向けられた。
「だから、そんなかわいそうなぼっちのカルラ君の乏しいコミュニケーション能力を許してあげて…」
「はいです…カルラさん、いいですよ。ボクのこと、ノブナガちゃんって言って…ボクでよければカルラさんのぼっちを治すお手伝い、いっぱいするですから…」
「あの…なんで俺がぼっちっていう設定が勝手に付け加えられてるんですかね?言われもない事実で俺の心はズタボロだよ?泣いちゃうよ?」
「いいじゃん。勝手に泣きなよ、ぼっちのカルラ君。その性格じゃ友達なんてあそこじゃできたことないんでしょ?」
ねっとりとそう言ったスイだがその言葉はカルラの胸に引っかかり彼の気分を落としてしまう。彼は小さく、友達、とつぶやいて俯いてしまった。自分が地雷を踏んだことに気付き珍しくスイは慌てたが時すでに遅し。その地雷は爆破して彼の心の奥をえぐっていた。
「俺にだって、友達って呼べる奴はいたさ…たった一人の、大事な友達がさ…」
「そ、そうだよね!カルラ君もちゃんとお友達作れるよね!ごめんね、私無神経だったかも…それじゃ気を取り直して次に行ってみよう!」
沈んだその場を盛り上げるためにスイはわざと大きな声をあげた。ついでセリもやんややんやと合いの手を入れて場を盛り上げようとしている。カルラは彼女たちの必死さにふっと笑みを漏らし自分の心の中に地雷の傷を押し込めた。自分のせいで空気が悪くなったのを詫びてなのかカルラもまたワイワイと無駄に盛り上がる。どうにもぎこちない空気だったが何とか次の自己紹介にはいきつくことができた。
次の相手はこの中でも幼い印象を受ける女の子だった。ぷっくらとした頬に白馬の毛並みのように美しい白い髪の毛をサイドテールでくくる赤と金の互い違いの二色の大きな瞳を携える不思議な印象の少女に彼は一目で魅了された。
「ミカはね、鈴原ミカ、っていうの!よろしくね、カルラお兄ちゃん!」
見た目はノブナガよりさらに年下に見える。しかも舌ったらずな喋り方をしているのでさらに幼さを増して見える彼女だが一つだけ幼くない部分があった。それは…
(な、なんだこの子…ちっちゃいのに…おっぱいがでけぇ!)
明らかに身長とは見合っていない驚異の胸囲をしていたのだ。想像でしかないがカルラの手にも収まらないであろう程の大きな胸はやはり彼のうぶな心を責め立てる。ミカは落ち着きがないのか常に動き続けていて、動くたびにその巨大なおっぱいがぽよんぽよんと跳ねまわる。そのつどカルラの瞳は右へ左へ縦横無尽に動き回るおっぱいに釘づけにされていた。
「いやん!カルラお兄ちゃんのえっちー!ミカのおっぱいばっかり見てる!」
「な、そ、そんなことは…」
「カルラ君、確かにミカのおっぱいは大きいけど、でもそれで興奮するのは変態だよ?この子はこう見えてもまだ4歳なの。さすがのカルラ君も4歳児に興奮する変態じゃないよね?」
「え!?4…歳…?」
スイから与えられた言葉にカルラは目をぱちくりしてもう一度ミカを見た。身長は確かに低いがそれでも10歳以上には見える、とても一桁台には見えない。どういうことか説明を求める目をスイに向けた彼だが以外にもそれを拾ったのはミカ自身だった。
「ミカはね、実験で体がおっきくなったんだよ!それでね、見ててよ…えい!ほら、こんなことができるようになったんだから!えへん!」
彼女が部屋に置いてあった机の上にあるペンを指差してその指を上へと向けた。するとペンが彼女の指の軌跡を辿るようにふわりと上空へ持ち上がったのだ。彼女はさらに右へ、左へ指を動かすとそれにしたがってペンもふらふらと空中遊泳をした。
「え?な、なにこれ?マジック?」
「違うよ!これは、ボールペン!」
「いや、そっちのマジックって意味じゃなくて…」
ミカに変わりスイが言葉を紡ぐ。
「あれは正真正銘の、サイコキネシス。ミカは彼女が言う通り実験によって生まれたの…母親のお腹からむりやり取り出されて培養液で成長を加速させられて…まだ実験段階でしかない脳の手術をされたのよ…しかも箱庭の連中にね…どうやらあいつらは人類をさらに高次の存在に格上げすることももくろんでるらしいわ…」
「なんだよ、それ…」
忌々しげに顔を歪めるスイに驚きの顔をこぼすカルラ。けれど当の本人のミカはまるで気にしていないとでもいうようにニコニコ顔だ。そんな彼女の様子にカルラは胸が痛んだ。まだ完全に成熟していない胎児にまで実験を施すほどの箱庭に、彼らによって侵されたミカの体に、カルラは心を痛めたのだ。
クローン技術の発達により人体成長も可能となったが問題が一つある。それは心の成長が伴わないということ。知識や行動の仕方は脳に電気信号として送ることで埋め込むことで成長させることができるが心はそうではない。何物にも手を付けることができない不可侵な領域だけが非人道的に育てられた身体と隔離されて浮いてしまうのだ。それがこのミカという少女の本質だった。
「ミカは見てのとおり体はそこそこに成長してるけどまだ心が成長しきってない。とても危ない均衡で彼女は今成り立っているの。だから私たちが保護して育ててるってわけ。いざとなれば一緒に戦ってくれるけど、普通はここでお留守番…痛!ちょっとミカ!何するのよもう!」
「うわー!スイお姉ちゃんが怒ったー!」
浮かせたペンをスイにぶつけてミカはきゃっきゃと笑っている。やはりスイの話は本当でミカの心は未成長なんだと改めてカルラは心を痛めた。ワイワイと騒がしそうにしているがやはりカルラにはまだ笑えなかった。
「さて…残りはこの2人なんだけど…」
残ったメンツにカルラは目を向ける。先ほどの騒がしいメンツとは違い残りのメンツはいたって寡黙、クスリともしていないしずっとカルラのことを冷たい目で睨んでいた。そんな二人の視線に気づかないほどコミュニケーションがないカルラではない、今までずっとこの二人からは意図的に目をそらしてきていたが、これから仲間になる二人だ、どうあがいてもいずれは話さないといけなくなるのだ、なら早いうちから手を打っておいた方がいいと彼は二人の方を向いた。けれどそんな彼の決意などお構いなしに二人は冷たい視線を送り続ける。まるで敵を見るように。
「えっと、まずは黒髪ポニーテールのマフラー巻いた子なんだけど…この子はミコト。ちょっと過去にショッキングなことがあってね、ほとんど口を開かないの…けど根はいい子だから心配しないで」
「すっごい視線で睨まれてるんだけど…」
ミコトと呼ばれたその少女は青く澄んだ瞳をぎらぎらと輝かせカルラを睨む。その瞳にはただ困惑気味のカルラが映るだけだった。スイと同じ17歳にしては長身でスレンダー体系を持つ彼女はどういうわけか口元までマフラーで隠れている。全身黒ずくめの衣装で暗い印象を与えるがその無口さからかさらに冷たい印象をカルラに与えていた。
「この子ちょっと人見知りな所があるからさ…今も警戒してるだけだと思うよ」
まるで犬みたいだ、なんてカルラは思ったが口に出すのはやめておいた。なにせミコトの視線には人を殺せるほどの鋭さがある。もしへたなことを言えばあの視線で彼の心はズタボロに傷つけられるだろう。だから彼は極力その瞳を見ないようにただ、よろしく、とだけ彼女に言った。けれどその瞬間だった。一筋の閃光が、彼の目の前を横切った。続いて黒い何かが彼の目に残像として映る。
「えっと…これは、どういうことかな…?」
「ちょっとミコト!何やってるの!早くそれ下ろして!」
あまりにも素早い動作で彼はわからなかったが、あの一瞬で彼の喉元には銀色に光る短めの刃が突きつけられていたのだ。場の空気がミコトに制圧され一気に凍り付く。さっきまで騒がしくしていたミカたちも今はただ呼吸することも忘れてカルラとミコトの二人に交互に目を移していた。ゴクリ、カルラがつばを飲み込む。その瞬間突き出た喉ぼとけが刃に触れ冷たい殺気を彼の体へと流し込み瞬時にその熱を奪っていく。
「ミコト!やめて!大丈夫だから、カルラ君は怖い人じゃないから!ね?」
スイが必死にミコトをなだめてその場はどうにか収まった。カルラはふぅ、と小さくため息を吐く。その時のカルラは向けられた殺意に怯えて気づかなかったが、ミコトの刃を持った手が震えていたのだ。その震えはミコトの恐怖からくるもの、見ず知らずの他人の接触に彼女は怯えたのだ。彼女が纏った暗さも冷たさも、どれもこれも他人を寄り付けないため、必要以上に恐怖を孕んだ人との接触を避けるものだ、そうカルラがスイから教えられたのはまた別の話だ。つまり何が言いたいのかというと彼女のあの行為は自衛であり決してカルラを本気で殺そうとしようとしたものではないということだ。
「ミコト、大丈夫?ほら、深呼吸して…お薬いる?」
心配そうにミコトをなだめるスイだがその見返りを求めない優しい手はわざと冷たさを孕ませた手にあしらわれてしまった。
「あ…」
小さく声を漏らしたスイのことなど構わないとでもいう風にミコトは談話室の奥の自室へと姿を消した。あとには皆の気まずそうな空気が残るだけだった。
「ごめんね、カルラ君…あの子、ほんとに人見知りでさ、知らない人は近づくだけでもあんな感じなの…あの子には悪気はないの、それだけはわかって」
「あぁ、ごめん…俺も、無神経すぎたかもしれない…スイを通してごめんって言っておいてくれるか?」
「うん、任せて」
どうにかその場が落ち着こうとしていたが、火種がもう一つ残っていた。その火種は今までずっとくすぶってのだが今の一件で我慢が限界にきたのか大爆発を起こした。
「あぁくそ!なんで俺がこいつのくだらねぇ仲良しごっこのために時間を割かなくちゃいけねぇんだよ!」
あらぶった男の声だ。金髪にピアス、狂犬のように鋭い顔立ちの18歳の少年がこの声の主だ。少年はただただ気に入らないと喚く。
「くそ!くそ!どうしてお前みたいななよなよしたまるで温室暮らしのお坊ちゃまが俺たちの部隊に入ってくるんだよ!あぁ、理由は言わなくてもわかってるさ!どうせクロムが欠けた穴を補うためだろ!なぁスイよぉ!」
今度は矛先をスイに向けた少年。その顔には憤怒の表情がべったりと貼りついていたがその奥には少しの悲しみが見て取れた。
「お、落ち着いてよトージ!」
「あぁ?俺は質問してんだよ!答えろよ!こいつはクロムの欠けた穴埋めなんだろ?お前は、仲間が死んだその日に新しい奴を呼んでくる、そんな冷たい人間なんだろ!」
トージと呼ばれた少年、佐野冬二は瞳に怒りの炎をたぎらせてスイを睨む。トージの怒りはもっともと言えばもっともだ。大事な仲間が死んだというのにスイは仲間に何の相談もなくカルラを仲間に引き入れた、時系列としてはカルラを仲間に引き込んだのが先なのだが状況が状況なだけにそう勘違いされてもおかしくはない。そして勘違いしていたのは仲間たちも同じで今までは抑えていたのだろうがそれが彼の一言によって零れ落ちた。今までの家族のような温かな瞳とは違いただ冷たいとしか表現しようがない瞳をスイへ向けていた。
「ち、違う…!私は、カルラ君をクロムの穴埋めのために呼んだんじゃない!」
「だったとしても俺たちの誰か一人にでも相談してくれればいいんじゃないのか、おい!くそ!だから俺はお前が嫌いなんだよ、スイ!いつもいつもリーダーぶりやがって…!もともとは俺がリーダーだったってのに!」
睨みつけられたスイは何も言葉が出てこなかった。彼の言葉を黙って聞いているしか、彼女には行動できる選択肢がなかったのだ。ただ誤解がないように言っておくとこれはスイにも悪いところがあるにせよ完全にトージの八つ当たりだ。
トージは昔この部隊のリーダーを務めていたがとある作戦で彼以外が全滅、のちに人員補強のため数名がこの部隊に配属された、その中にスイがいた。初めはトージがリーダーとして指揮をとっていたのだが彼の今のような気に入らないものにはとことん喚き散らす悪い癖と、スイの持ち前の人当たりの良さが相まって皆スイについてくるようになった。名目ではリーダーのトージだがそれはただのお飾りのようになりその座を全てスイに奪われた、そう思い込んでしまったのだ。そこから彼はスイを敵視するようになったのだ、部隊として成り立たないので日頃は仲良くしているふりをしているが。
そういうわけで彼の怒りは至極理不尽なものなのだがその原因を全く知らないカルラは声をあげていた。
「おい、俺のことは何と言ってくれてもいい…だけど、スイには謝れよ!俺は確かにお前が言うみたいになよなよだし確かに温室育ちだ…だけどそれとスイとは何の関係もないだろ!」
「うるせぇなおい…がたがた言いやがって!ぶっ殺すぞ!」
普通ならここでビビるのがカルラという人間の本質だ、彼自身それを自覚しているかどうかわからないが。けれど今の彼はそれに怯まなかった、どういうわけかスイのためだと思うと自然と彼の奥から今まで感じたことのない何かがあふれ出していた。その溢れた何かはカルラを動かす原動力となる。
「うるせぇのはお前だよ!スイが冷たい人間だと!?笑わせる!お前がどれくらいスイと過ごしたか知らねぇがたった数時間しか過ごしてない俺でもわかる…こいつは、すっげぇあったかい人間だ!スイはなんも知らねぇ俺にも優しくしてくれた…なにも知らずにのうのうと内側で過ごしてたきっと殺したいくらいの甘々な俺にもチャンスをくれた…だからこんな子が冷たいはずないだろ!」
カルラは一気に自分の思っていたことをまくしたてた。今までの弱い自分も、ここまでで感じたスイの優しさも、すべてがこの言葉に集約されていた。皆が口を開けてぽかんとしている。けれどそれは何もあのなよなよの少年がこれだけ声を荒げて狂犬に噛みついたからではない。
「お前…内側の人間だったのか?」
「あ…」
そこでカルラは先生に言われたことを思い出した、決して内側の人間だとばらしてはいけない、と。しまったと彼が思った瞬間もう時はすでに遅い、皆驚きの顔を向けてみんなはカルラのことを見ていた。けれどその中で一人、笑っている人間がいた。もちろん、トージだ。
「フフフ…はは…アハハ!お前、内側から来たのか!なるほど…だからそんなに弱々しいのか、アハハ!そうか…分かった、お前の言うことを聞いてやるよ…ただし、俺に実力を示せ。お前が箱庭への反逆者として立派にやり遂げればお前のことは認めてやるしスイにも謝ってやる。だがもし失敗すれば…お前には死んでもらう。もちろん楽には殺さない…内側で過ごしたことを後悔しながら苦しんで死んでもらう」
「ちょっとトージ!何言ってるの!」
「いいぜ、上等だ。俺は、やってやるよ…だがこれだけは言っておく…俺は決して俺自身を認めさせるために挑戦に乗ったわけじゃない。スイのために、俺は挑戦を受けるんだ!」
「ますます気に入った!すっげぇバカな奴が内側にもいたもんだ!…1週間後、犬どもへ襲撃をかける。次の箱庭襲撃に備えて情報と武器を奪いに行く。その任務でお前は成果を残せ」
「あぁ、わかった…やってやるよ!」
カルラのその言葉を聞いてトージはさぞ愉快そうに部屋を出ていった、高らかに笑いを残しながら。
「…カルラ君」
「ん?なんだ、スイ」
「何勝手にキミは変な約束しちゃうかなぁもう!これだから男の子はバカなのよ!どうしてこうも血気盛んなのよ!それにキミ、成果を残せって言われたけど大丈夫なの?武器とか使えないでしょ?」
「あ…」
あの時は頭に血が上っていた、という言い訳をカルラはこぼしたが本心は違った。スイのことで頭がいっぱいになって、スイのためにと思うと彼の心は自然とその言葉を漏らしていた。けれどそれは恥ずかしいので言葉にはしなかったが彼の顔には少し赤がさしていた。
「えっとその…うちはカルラが内側の人間やって知ってたけど…その…やっぱり、なんでうちらの部隊に入れたのか、それは気になるな…教えてくれへんか、スイ…」
「ボクも、それは気になる、です…」
「ごめんね、この後そのことについて話そうと思ってたんだけど…私の順番ミスだね、ごめん…私のせいでみんなを変な空気に巻き込んで…」
「スイお姉ちゃんは悪くないよ…悪いのはトージお兄ちゃんだ!全部全部トージお兄ちゃんのせいだ!」
「ふふ、ありがとね、ミカ」
先ほどまで弱ったような顔をしていたがスイの顔にまた少しだが笑顔が戻った。まだ完全な調子とはいかないが笑顔の彼女はカルラのことについて仲間たちへ話し始めた。
「なるほどなぁ…カルラは箱庭で唯一その支配体制に疑問を以って逆らおうとした人間や、というわけやな…それをスイが見出した、と…そういうことならうちらは大歓迎や!ようこそカルラ!一緒に箱庭と戦おうな」
「え…?いい、のか?」
先ほどのトージの様子を見ていたカルラは呆気にとられる。なにせ断られたり罵倒されたりされるかと思っていたのだが、皆は優しく彼へと手を差し伸べたのだ。彼のぽかんとしたアホ面がみんなのキラキラとした優しい瞳に映っている。
「いいもなにも…ボクたちは箱庭を倒そうとしている人の味方、です…それに、仲間が増えるのはやっぱり、うれしい、です…それが内側の人間とか、関係ないです」
「ミカはカルラお兄ちゃんがどんな人でも気にしないよ?だってもうお友達だもん!ね、そうでしょ、カルラお兄ちゃん!」
「みんな…ありがとう…」
皆がどれだけカルラを迎え入れようと彼ののうのうと過ごした罪は消えない。けれど彼女たちはその罪ごとカルラを優しく招き入れた、それも無償の優しさで。彼はそんな彼女たちの優しさに応えよう、そう決意した。今までの無知の罪を償うべく彼は一人心に火を灯していた。
「さて、まずは当面の問題としてはキミが受けちゃったトージの挑戦、これをどうにかしないと…」
「せやなぁ…まずはカルラの実力が分からんことにはなんも対策が立てられへん」
「ノブナガ、トージが言っていた任務の内容はわかる?」
「うん、もちろんです…ちょっと待つですよ…」
ノブナガはボード型の携帯端末を慣れた手つきでいじくりある画面をカルラたちに見せた。それは作戦の指令書でありトージの名義でセブンスの作戦参加が認められていた。
「1週間後、道頓堀区画の箱庭軍から情報を奪取する任務です」
「道頓堀と言えばあそこは箱庭管轄の兵器工場が密集しているエリアやな」
「そのエリアで作られている兵器の情報を奪い対策をたてる、ということね…きっとその兵器は箱庭の内側にも必ずある、だから次の襲撃に必要な足がかりとなるわけだね」
「ま、道頓堀のワン公どもなら楽勝やろ。なんたってあそこには科学者風情の連中しかおらんのやからな」
その情報を聞きカルラはほっと息を漏らす。だが油断は禁物だとすぐに顔を引き締めた。そんなカルラの様子がおかしかったのかスイはふふと小さく笑みを漏らした。
「作戦の展開としては軍のメインコンピュータにアクセス、ボクがハッキングをかけて情報を奪う、たったそれだけの簡単な任務です。問題はメインコンピュータへの道を確保することです。きっとトージさんはその過程でカルラさんのことを見定めるつもりです」
「つまり俺がどうにかして道を切り開けばいいわけだな」
「言葉にすると簡単そうに聞こえるけど結構難しいよ?キミには初めての作戦になるし、思った通りに事を進めるのは困難かも…」
「それはわかってる…けど、俺はやらなくちゃいけない。なにせスイのことがかかってるんだからな。絶対アイツに謝らせてみせる!」
「はぁ…カルラ君、私のことよりまずは自分の命のことを心配してよ…失敗したら死んじゃうんだよ?あんなに死にたくないって騒いでたくせに…」
「あ、あの時のことはもういいだろ!」
「…っと、バカやってる時間はキミにはないね。こうして暇な時間があるんだったらまずはキミを鍛えないと」
「鍛える?筋トレでもするのか?」
「バカ、違うわよ。教官のところに行くのよ」
「教官?」
「ま、来たらわかるわよ」
そう言われてゆるゆるとついていったカルラだが、その時はのちに地獄を見るなんて思いもしなかった。今から会いに行く目当ての人物が別名鬼軍曹と呼ばれていることすら知らなかったのだから。
「おら!早くリロードを済ませろ!何をもたついている!これが実戦ならお前は3回は死んでるぞ!早くしろ!」
「は、はいぃぃぃぃ!」
射撃場に響き渡るのは教官の怒声とカルラの悲鳴じみた叫び、それに交じるように弾丸の耳を劈くような音が鼓膜を震わせる。カルラの目の前にいるのはセブンスの特別軍事顧問、コードネーム名無し(ジョン・ドゥ)である。肩幅の広い筋肉質な体つきに彫りの深い顔、それをさらに引き立たせるスキンヘッドが特徴的なジョンは声を荒げて新人にスパルタ教育を行っていく。カルラが練習を開始して3時間、その怒声が枯れることはなく、ここに連れて来てくれたスイも途中で耳を抑えながら出て行ってしまった始末である。
「新人だからと言って甘えた教育は俺はしないぞ!ビシバシ行くから覚悟しろ!」
一週間でカルラを立派な兵士に鍛え上げてくれと言われた教官は目の色を変えて彼をビシバシと扱いていく。この部隊ができる前にも各地で反箱庭を掲げて戦っていた彼は無敗のジョンと呼ばれていた。その実力はお墨付きで彼は真っ先にこの部隊にスカウトされた。現在は歳のこともあり前線から引退しているが彼が鍛え上げた人間は今も立派に解放戦線の前線で戦果をあげ続けている。そんな彼に教えてもらっているカルラも立派な兵士になれる、はずなのだが今はまだ始めたばかり、どうにもまだ頼りなさが抜けきっていない。
けれど彼のあることの上達の速さは過去に何百、いや、何千もの人間を鍛え上げた教官も目を見張るものがあった。それはハンドガンによる精密な射撃精度だ。初めこそ的を外していたが10発目を超えたあたりだろうからかコツをつかんできたのかどんどんと的のど真ん中に近づいていき、今では全弾ど真ん中にぶち込めるほどの才を発揮していた。
「まずは頭部に一発、次は心臓に二発、次いで腿を狙い最後にもう一度頭部に一発ぶち込め」
「はい!」
人型の的を用意してそんなことを注文してみせる教官、カルラはそれをことも簡単に成し遂げてしまった。やはりこの才能は特別だ、教官がカルラにはばれないように内心で驚きを浮かべる。そんな教官の驚きも知らずにカルラはただ熱心に銃弾を的に向けてぶち込んでいた。
けれどやはり彼にも欠点はある、それはリロードの遅さだ。まだ慣れていないせいもあるがどうもリロード時間は人一倍長いのだ。カルラの手つきが不器用なのか、それとも慣れないものを扱うせいか、それとも教官の肉食獣のような瞳に怯えてか、とにかく今わかるのはカルラがとてつもなくリロードが苦手だということだった。
「今日はここまで!」
「はぁ…」
教官の怒声がようやく終わりを告げる、かと思いきやまた彼は大声で彼の頭上から言葉を雷のように落とす。
「お前はリロードができていない!ハンドガンの正確な射撃は目を見張るものがあったが、やはりリロード速度が足を引っ張っている!それがどういう意味か分かるな?」
「すいません!わかりません!」
「バカ者が!ハンドガンはその造り故マガジンに収まる銃弾は10前後、弾切れが起こりやすいのだ。それ故リロードは必要な動作となってくるがそれが遅ければリロードの最中に頭をぶち抜かれて死ぬぞ!死にたくなければリロードの速度を速めてお前が敵の眉間をぶち抜くんだ!わかったか!」
「サーイエッサー!」
「なら明日までにリロードを完璧にして来い!練習用のハンドガンはくれてやる!いいな!もし上達していなければ…命はないと思え!」
「サー!」
カルラは自覚がなかったがこの教官のペースに乗せられて自身の中に軍隊の心が芽生え始めていた。
「はぁ…腹減った…」
今まで忙しかったカルラだが訓練から解放され少し時間を持て余しているとどうしようもない空腹が彼を襲った。やはり今までのことで腹の具合を感じる暇すらなかったのだろうが、ここで反動的にお腹が空いてしまった。一度感じた空腹はどうにも抑えられないもので、先ほどから彼のお腹は地鳴りのような音を漏らし廊下ですれ違う人間をくすくすと笑わせていた。
「はぁ…ほんっとにやばい…腹、減った…死にそう…」
「あれ?カルラお兄ちゃん、どうしたの?」
カルラが振り返るとそこには白髪オッドアイのロリ巨乳、ミカがいた。ぷにっとしていてふにゃふにゃのその表情は見ているだけで癒されるような感じがした。ミカの声に返事をしようとしたカルラだがその前に彼の腹が真っ先にミカへのあいさつを交わした。
「アハハ!カルラお兄ちゃんすっごいお腹の音!お腹の中で怪獣さんが暴れてるみたいだよ?もしかしておなか減ったの?それじゃミカと一緒にご飯食べにいこ!ミカもちょうどご飯行こうとしてたところなの!」
そうしてカルラはミカに連れられて地上へ向かうエレベーターへ乗せられる。
(そういえば俺、今日ずっと女の子にエスコートされてる気が…男としてなんか悔しいかも…いや、そんなことよりご飯食べたい…)
エレベーターの上昇の間彼の頭は男としてのプライドと食事のことが交互に浮かび上がっていた。
エレベーターは地上に、つまり例のファミレスの倉庫へと到着した。ミカはそのままずんずんと進んでいきホールの空いていた席へ腰を下ろした。
「ほらほら、お兄ちゃん!早く来てよ!」
「あ、あぁ…」
カルラはきょろきょろと辺りを見渡して気付いた。アジトの廊下ですれ違ったことのある連中もファミレスで食事を摂っていたのだ。カルラはのちに知ることになるのだが、ここは解放軍のカモフラージュのためのファミレスであり同時に食堂でもある。もちろん一般人も利用可能だがたいていが解放軍の連中でいっぱいである。ちなみにこのファミレスで店員を務めているのも解放軍の人間である。この夕飯時にはほとんどが満席で厨房からのいい匂いがホールにまで漏れ出てきていた。そのいい匂いは腹ペコだったカルラの腹を余計に刺激する。
「お兄ちゃん、お金は心配しなくていいよ。スイお姉ちゃんからカルラお兄ちゃんの分ももらってきたから」
「え?それって…」
「うん、ミカはね、最初からお兄ちゃんと一緒にご飯を食べるつもりだったんだよ」
偶然かと思っていたらまたスイが気を使ってくれていたようだ。スイには今日一日でたくさん感謝することができたな、なんて思いながらカルラはメニューを開く。
「な、なんだ…これは…!」
彼にとってそのメニューはまさに宝の地図のようなものだった。色とりどりの鮮やかな料理がまるで宝石のように輝いて彼の目に映る。それは彼がただ単に空腹だからという理由ではない。彼の箱庭での規則正しい食生活が、この栄養もカロリーも知ったことじゃない自らの欲望を満たすだけの罪深い料理たちに宝石以上の価値を見出していたのだ。彼がわくわくしたのはそれだけではなかった。自らの好きなものを食べられる、それがどれだけ彼をうきうきとした気持ちにさせたか、それは目の前でうんうんと迷いながらメニューを何度も往復するミカの幼心のウキウキとは比べ物にならないものだった。
「な、なぁ…ミカは、どれがおすすめなんだ?こんなにいっぱいうまそうなのがあったら俺、選べないよ…」
「う~ん…ミカはね…これとこれと…これも好きだし…あ、これもジューシーでおいしいんだぁ!これもこれも…全部好き!」
「そうか、全部好きか、それぐらいおいしいんだな!」
「うん、とってもおいしいよ!あ、でも…サラダは嫌い!お野菜苦いから食べたくないのに…スイお姉ちゃんは体にいいから食べろ食べろってむりやり食べさせるんだよ!ひどいよね!カルラお兄ちゃんは…そんなこと言わないよね?」
「あぁ、もちろんそんなのは言わないよ。好きなものを好きなだけ食べる、それが一番だ」
なんて二人で談笑しながら好きな料理を注文していく。やがてやってきたのは二人で食べるには多すぎる量の料理だった。ハンバーグにオムライスにピザにコーンスープ、食後にはパフェまで注文済みだ。色とりどりの輝きとおいしそうなにおいを放つ料理に二人は目を輝かせる。人生初のまともともいえる食事を摂るカルラに、人生で一番好きな時間は食事の時間だと豪語しているミカは大きな声でいただきますと叫ぶとすぐに料理にがっついた。繊細な料理の味に舌鼓を打つ暇もなく彼らはただ美味しいという感情に突き動かされ次々と会話も忘れて料理を腹の奥へと押し込んでいく。会話も忘れて、とは言うが美味しいという言葉は常に彼らの口から漏れていたが。
「うまい!何だこれ!内側の料理と全然違う!お肉はジューシーだしスープも水の味しかしないのとは大違いだ!」
健康志向の内側の料理は減塩だったり必要以上の脂の抑制だったりで完全に病院食のようだったのだが今食べているのは違う。これこそ本当に人間が食べる食事だった。戦前の人間のあたりまえの食事こそが嗜好の食事だったのだ。食欲のその先の欲望を満たすために進化した料理たちを自由に選んで食べることができる、これこそが人類に与えられた最大の幸福なのではないだろうか。
もし世界中の人間が当たり前の日常の食事を一緒に摂ることがあれば、きっと少しだけ世界は平和になっていたのかもしれない、なんて考えながら彼は泣きそうな顔で料理をかきこむ。この日食べたありきたりな料理の味を、彼は生涯忘れることはなかった。
「カルラお兄ちゃん!もうすぐパフェが来るよ…ねぇ、どっちが早くパフェを食べるか競争しない?」
「お、いいね、負けないぞ!」
こうしてカルラの幸せな初めての人間らしい食事時間は過ぎ去っていった。
―もし箱庭の外に出ることができたら、まずうまいものを好きなだけ食べたい…―
過去の親友の叶わなかったそんな願いをカルラはふと思い出す。もしも彼が、なんてことを思ったがその陰鬱な気分もこのあとやってきたパフェの甘ったるさによってかき消されてしまった。
「ふわぁ…食った食った…大満足だ…」
カルラはぽんぽんと膨れた腹を叩きながらアジトの廊下を歩き談話室へ向かう。その間今日の出来事がフラッシュバックのように彼の脳裏に浮かび上がる。つまらない、逃げ出したいと思っていた日常、崩れ落ちる空に虫とマンタの戦い、壊れる日常、目の前の死、初めて感じた死の怖さ、スイとの出会い、箱庭からの脱出、初めての口喧嘩、初めての美味しい食事…様々なことが浮かび上がるが一番容量を占めるのはやはりスイのことだった。彼のことを外に連れ出してくれた女の子、罪深い彼を助けてくれた女の子、優しいけど意地悪で、それでいて温かい、そんなスイのことがカルラの脳内で回る。一人の人間についてこれだけ深く入れ込むなどカルラにとっては人生初めての出来事だった。そして初めて故に気付かなかった、彼の胸の高鳴りの正体に。スイのことを考えると胸がポカポカすると同時にキュッと締め付けられるようになるその症状に、彼が気づくのはまだまだ先の出来事だ。
「はぁ…ただいまぁ…」
談話室の扉を開けて挨拶をする。今日からセブンスの一員(まだ一部認めていない人間がいるが)になったカルラにも当然この談話室の奥の自室を使う権利がある。いわば今日からここがカルラの家であるわけだ。時代が時代ならシェアハウスとでも呼ばれていただろう。
「…誰も、いないな…」
そりゃそうか、とカルラは内心でこぼした。何しろ彼は食後の軽い運動のため適当にプラプラとアジト内を散策していたからだ。正直に言えば迷子になってしまったのだがそこは永遠の彼だけの秘密だ。
「ん?置手紙、か…」
談話室のど真ん中の大きなテーブルに置かれた可愛らしい便せんに書かれていた内容をカルラは目で追った。それはスイからでカルラの部屋がどこかを示したものだった。
「手前から二番目、右側の部屋、青いドアが目印、ね」
カルラは指示された部屋の前へ行く。ちなみにその手紙にはスイの部屋の場所も書かれており夜這い禁止、などあまり笑えない冗談が書かれていた。絶対に行かないと内心で苦笑しながら部屋を探すと確かに青塗りのドアがそこにあった。ほかの部屋のドアも別の色で塗られているので間違えることはない。カルラは勢いよくこれから自分の部屋になる扉を開いた。
が、開いたはいいもののそこで彼の時間は一瞬停止した。なぜならそこには、女の子、ノブナガがいたからだ。しかも着替え中で上半身は裸、下半身も可愛らしい下着のみだった。なのにノブナガは自らの華奢な裸体を隠そうとはせずに笑顔をカルラに向けて動揺の色も見せず挨拶をしてきた。
「あ、お帰りなさいです、カルラさん」
「し、失礼しましたー!」
バタン!彼は扉を開けた勢いそのままに扉を閉めた。
「ど、どういうことだ…?なんで中にノブナガちゃんが…しかも着替え中なんだよ…」
扉をくぐれば、そこには着替えの真っ最中の女の子がいた、なんて簡単な言葉で片づけるわけにはいかない。彼は早まる心臓を押さえつけながら自分の開けた扉を確認する。
(青色、だよな…うん、青色だ。それに手前から二番目だし右手の部屋だ…大丈夫、俺は間違えてない、うん、間違えてない)
彼は自らの間違いがないことを確認してもう一度扉に手をかけた。どうか今のが思春期の煩悩に染まった脳が見せた幻覚だということを信じて扉を開くが状況は何一つ変わっていなかった。
綺麗な健康的な肌色のつるぺったんを浮かべたノブナガの姿が、やはりそこにあった。寝間着のズボンを履こうとしている最中なのか中途半端まで持ち上がったズボンがやけにエロく彼の瞳には映った。彼が着脱最中の方が裸を見るよりエロいと初めて知った瞬間だった。
「ご、ごめんなさい!」
彼はまた勢いよく扉を閉めて対岸の部屋の赤色の扉を開く。そこは手紙に書かれていたスイの部屋であり彼が数瞬前に絶対に行かないだろうなと思っていた部屋だった。彼はその扉を勢いよくノックもせずに開く。どういうわけかそこはもぬけの殻だった。スイに一言文句を言ってやろうと意気込んでいた彼はそのまま部屋をクルリと見渡した。愛らしい人形が山積みにされたベッドに可愛らしい家具たち、けれど壁を覆うようにぎっしりと隙間なくつまった本棚が並べられていて、女の子らしさにもシックな所がある部屋だ、なんて彼は思った。すると部屋の奥の方の扉、そこから光が漏れていたのを見つける。光だけではなく女の子の声も漏れている、きっとスイの声だと判断した彼はまるで夜光虫のように光を目指して歩いた。
「おい、スイ!どういうことだよ、俺の部屋にノブナガちゃんが…いた…ん…だ…けど…」
その扉を遠慮もなく開いて中にいるスイに文句を言っていたカルラだが次第にその語尾は弱まり言葉が出なくなる。彼の瞳に映るあまりにも刺激的な光景に言葉が口から出ることができなくなったのだ。
「え…?」
その瞬間、時間が止まる。ノブナガの裸を見てしまった時よりも長い時間、時間が止まっていた。カルラの視線の先、そこには、お風呂上がりで何も纏っていない裸のスイが、体中に湯気と水滴を携えて無防備になっていた。じっとりと濡れて色っぽい髪の毛、肌はピンク色に上気していてこれまたたまらなく色っぽい。さらに服の上からではわからなかったが案外大きなその胸にも彼の視線は注がれる。ふっくらとした半球状のそこに付着した水滴が重力に従ってつつぅとプルンとした球面上を滑り落ちていき胸の谷間へと姿を消していく。
互いがこの状況に制止せざるを得なかった。突然の来訪に驚きを隠せないスイに、初めて見る完全な女の子の裸体にまるでメデューサに睨まれたように石になるカルラ。何とか茹る脳内を思考して搾り取った考えが、もう発禁になったが昔こういう女の子がたくさん載ってた写真集があったらしいな、ということだった。そして彼女もあまりの恥ずかしさからか場違いなことを口走る。
「え?もしかしてカルラ君…夜這い?」
お互いの時間が完全に止まる。そのとまった時間はものの数秒だったのだろうが、彼らには永遠にも似た時間に感じた。そして止まった時を動かしたのは風呂場から出てくるもう一人の女の子だった。スイに勝る驚異のバストサイズを持つ女の子、ミカが恥ずかしげもなく風呂場から上がってきたのだ。
「スイお姉ちゃん、ちゃんと100まで数えたよ!もう上がっていいよね…あれ、カルラお兄ちゃんだ、どうしたの?まさか覗き?えっちなんだからぁ…」
間の抜けたミカの声にハッと我に返ったのはスイだった。
「み、見ないで…!見ちゃ…ダメ…」
鋭くも、それでいて悲しそうな声が石ころになったカルラをもう一度人に戻した。カルラは慌てて背を向き扉を閉めた。抑えられない動悸を持て余す彼の脳内には先ほどの二人の裸がべったりと貼りついてしまっていた。ぷっくりと丸みを帯びてきている成長途中の青い果実のようなスイに、背徳を孕むアンバランスな体を持つミカ、脳内で二人の裸がぐるぐる回る。見てはいけないものを見てしまった、彼は自分の浅はかな行動を呪った。興奮とともに襲い掛かるのは後悔、この安易で軽率な行動できっと彼女は傷ついた、カルラはそう思ったから。そう、彼は見てはいけないものを見てしまったのだ。もちろんそれは彼女らの裸体ということだけではない。彼女らが秘めていた確かな秘密を。ミカの左腕に染みついた青紫色の小さなあざを、風呂場に転がっていた注射器に人間が一度に服用する量をはるかに超えた錠剤の残骸を。そしてスイの体に刻み付けられた、無数の傷跡を。彼女の真っ白な雪のような肌に染みこんだ赤、紫、黒、様々な色を、彼の脳内は奥深くまで刻み付けてしまっていた。
「その…ごめん!俺、見るつもりじゃ…」
「カルラ君、談話室で待ってて。ミカを寝かしつけたら、行くから」
冷たいその言葉にカルラは背筋が凍り付く。彼女は裸を見たことを言及するつもりではなく、彼女の傷を見てしまったことを言及するつもりだ、考えるまでもなくそう思ったから。
「カルラ君…あの…その…やっぱり…見ちゃった、よね…」
「あ、あぁ…」
事件から20分くらいが過ぎたころ、スイは談話室へやってきた。カルラが座っている席の対面に座る彼女。彼女の姿を見てふと先ほどの裸体が脳内に浮かんでくるのを必死に振り払いカルラは努めて平静に尋ねた。
「あの…答えたくないなら無理に答えなくていいけどさ…できれば教えてほしい…スイたちには、何があったんだ?体の傷だけじゃなくて、ミカの腕についた青紫の痕、あれって注射の痕だろ?」
カルラはそれを箱庭のテレビで見ていたから知っていた。メディケアの使用上の注意を促す番組で見た注射を打ち続けた人間に現れる青紫の斑点、何でも皮膚が硬化して針が通らなくなるというやつだ。それがミカの腕についている、ということは彼女は何らかの薬を常用していることになる。それもあれだけたくさんということはビタミン剤やらそういうサプリメント関係ではないことが無知なカルラでも容易に分かる。
「言ったでしょ…ミカは、むりやり成長させられたって…」
「あ、あぁ…」
「その時にね、あの子は脳をいじられたの、これも言ったよね、まだ試作段階の人間の超能力の発現の実験…まだ胎児だったあの子の成熟途中の脳をむりやりいじくってあの力を埋め込んだバケモノみたいな実験…そのせいであの子は人間に必要な機能の大半を失った」
超能力の発現実験はカルラも知っていた。もちろんそれは箱庭のテレビ放送で得た知識なのだが、内容と言えば脳に電気信号を送り脳の未使用部分を覚醒させ超能力を発現させようとするものだった。胎児の脳をいじるなんてことはされておらずしかも数多の実験を重ねてほぼ不可能と断言されたので凍結された、とあの無機質な声は言っていたが、やはりそれも内側の人間をだます嘘。外側ではたびたび軍でそのような実験が行われているとのことだった。
「必要な機能の大半って?」
「体の中身を制御する機能よ。思考能力や運動能力、対話能力は絶対的に必要だし今の人類には不可侵な領域が多い。それに比べて内臓器官の制御、つまり栄養を分解したり消化を助ける酵素を作ったり、そういうのは今の時代すべて薬で補える、だからあいつらはあの子からそういう力をすべて排除した…あの子はね、薬で今の命をつないでいるようなものなのよ…もし一回でも薬を使い忘れたら…それは死を意味するわ」
カルラの背に冷たい汗がつつぅと流れた。あまりにも残酷であまりにも身勝手、箱庭はまだ意識すら確立されていない胎児になんてひどい、いや、ひどいと簡単に片づけられないほどの凄惨な運命を背負わせたのだ。それは罪なんて生易しいものではなかった。人間への冒涜、神への背徳的行為だ。
「今のあの子の体は薬漬けよ…初めは投与する薬の量も少なかったんだけど身体が薬に慣れてきて今ではあんな山の量よ…それに成長に伴って薬の量も増やさなくちゃいけない…だから、私は彼女から成長を奪ったの…二度と成長しないように、抑制剤を打ち続けてるの…」
人間をむりやり成長させることができればその逆もまたしかり、体から一切の成長ホルモンを殺す薬だってこのご時世簡単に手に入れてしまえるのだ。身体の時間の管理、老いが来ない身体、人類が過去に目指した死からの解放による恐ろしいまでの医療の発展が今こうしてあんなにも小さな子を傷つけているのだ。人々の幸福のために使われる医学が、人を不幸へと落としていたのだ。
「私だってあの子を成長させてやりたい…大人の体にしてあげたい…でも、そうしたらあの子は薬によって壊れちゃう…自分の身体を助けるための薬に、殺されちゃう…」
まさに八方ふさがり、苦渋の選択の末の今。無力なカルラにも、解放のために働くスイにも、この残酷な運命を変える力は持ち合わせていなかった。残酷な運命への憤りはやがて箱庭の支配者たちへの怒りに変わり彼の中で大きくくすぶり始めた。きっとこのまま何もしなければミカのような人間がたくさん作られてしまう、そうしないためにもカルラは戦いの意思を大きく固めた。
「たぶん俺がスイの立場だったとしても、同じことをしたと思う…だからそう自分を責めないでくれ…ミカには必要なことだったんだろ…?」
「ありがと、カルラ君…私のこと励ましてくれるなんて優しいんだね…」
彼はドキリと鼓動を高めた、瞳を赤く染めたスイが優しそうに微笑むその顔に。弱々しくて儚いけれど、どこか心の奥に突き刺さるその笑みに彼の心臓はわしづかみにされた。自然と顔が赤くなるのを自覚しそれをごまかすために別の質問をした。
「じゃ、じゃあさ…その…スイの身体の、傷は…」
「それは…はぁはぁ…あ、あぁ…あぁぁぁぁぁぁ!」
「ど、どうしたスイ!?」
先ほどまでのほほえみはどこへやらスイは今頭を掻きむしるように抱え苦しそうなうめき声をあげていた。ガタガタと体が小刻みに震え目が飛び出しそうなほど見開かれている。この尋常じゃない様にカルラはただただ慌てることしかできなかった。
「はぁはぁ…カルラ、君…ごめん…ちょっとだけ…目を瞑っててくれる…私がいいって言うまで、絶対に開けないで…」
「ど、どうして…?」
「いいから、お願い…今は何も聞かずに…目を瞑ってて…」
「わ、わかった…」
ただ事じゃない雰囲気のスイを心配するも言われたとおりに目を瞑るカルラ。スイはそれを確認するとポケットに隠し持っていた冷ややかなそれを取り出した。それは小さな注射器だった、中にはたっぷりの液体がつまっている。スイはそれをちゅうちょなく首の命の管に差し込み液体を身体の中へと流し込んだ。血液に乗ったその液体は瞬時に体に巡り渡り沸騰しそうなほどに揺れていた脳をぼんやりとかすめさせた。過去の記憶とともに引きずり出されようとしていた恐怖が薬のかけた靄に迷いどうにか彼女はほっと息を漏らした。スイは空になった注射器をポケットにしまい込み首筋に浮かび上がった血を素早くふき取るとカルラに合図を送った。
目を開けたカルラは心配そうにスイを見たが先ほどまでの苦しそうな顔とは違いどこかすっとしたような表情を浮かべている彼女に彼はほっとした。スイの注射のことはきっとカルラは知ることができないだろう。なにせ彼女はそれを自分の弱みだと隠してしまうから。薬に頼ることでしか過去から逃れられない弱い自分を、誰にも見せたくなかったのだ。
「えへへ…ごめんね、カルラ君…ビックリ、したよね…ほんと、ごめん…私の傷のことは…教えられない…ううん、私が、思い出したくないの…思い出そうとすると、さっきみたいになっちゃうの…」
「俺こそごめん…ほんと、無神経だった…スイにも言いたくないことの一つや二つ、あるもんな…ごめん…」
そのあとの二人はやっぱり無言だった。気まずい空気が場を支配する。その気まずさはお互いが先ほど負った心の傷を深く深くえぐる。スイはカルラを心配させてしまった傷を、カルラはスイにつらいことを強要しようとした傷を、ずきずきと冷たくなった空気にさらしては心の涙を流した。
「…あ、そうだ。カルラ君はどうして私の部屋に来たのかな?急用、だったんでしょ?女の子の部屋にデリカシーなくノックもしないで入ってきたんだからそれ相応の用だったんだよね?…もしかして、やっぱり夜這い?それならもっと夜が更けてからじゃないと…」
「だからちげぇよ!」
緊張した冷たい空気が一気に崩壊して温かな笑みが広がった。
「え~ほんとかなぁ…?」
あまりの事件に頭から抜け落ちてしまいそうになっていたが本来の目的はどうしてカルラの部屋に女のノブナガがいるかということだ。カルラはそのことについてスイに問い返す。すると彼女から返ってきたのは大笑いだった。何がおかしいのかわからないカルラはただぽかんとするだけだった。
「アハハ!キミとノブナガは相部屋だよ。だからなにも驚くことはないさ」
「いや、だからって男女で相部屋っていうのはまずいんじゃないか?ほら、倫理観的にもさ」
「いやいや、キミ…ぷふっ…ノブナガは男だよ、男同士の相部屋なんて全然おかしくないさ…アハハ!それとももしかしてキミは男でも可愛ければ問題ない、むしろストライクゾーンで間違いを起こしちゃうような人間だったのかな?」
「え…?ノブナガちゃんじゃなくて、ノブナガ君だったの?嘘だろ?あんなに女の子みたいにかわいいのに…」
「そうだよ、私もはじめは信じられなかったけどね。あんなにかわいい女の子が男の子のはずないって思ってたけど…いやぁ…真実は小説より奇なりってね。ほら、ノブナガ、そこでこそこそ隠れてないでこっち来なよ」
スイの呼びかけに隠れていたノブナガが姿を現した。自分がかわいいと言われて照れているのか少し頬が赤く染まっていた。
「その…ボク、だますつもりはなかったです…カルラさんがボクが男だって気づいたうえでからかってノブナガちゃん、なんて呼んでるかと思ったです…」
「からかってなんかないよ!あの時は本当に女の子に見えて…今でも信じられないよ…ノブナガちゃんが男だったなんて…」
男だと言われてノブナガのことを見てもどうにもその実感がわいてこない。まるで人形のように小さくて愛らしいノブナガだ、その華奢な体形からも相まってそこらにいる女の子よりよっぽど女の子らしい。
けれど言われてみればノブナガには男っぽいところもあったのは事実だった。着替えをカルラに見られても声一つ上げなかったのはやはり同性同士羞恥心がないからだろう。
(そういえばこいつの胸…やたら平べったかったような…それに、パンツもちょっと…膨らんでた、かも…)
冷静になって裸のノブナガを思い返したカルラは頬を赤らめた。相手がいくら男であれあの綺麗な女の子みたいな裸はカルラには少々刺激が強すぎる。
「信じられないって顔してるね、カルラ君…そうだ、試してみたら?ノブナガにカルラ君にあって私にはないものがちゃんとついてるかね」
にへへ、と下卑た笑みを浮かべるスイにカルラもノブナガも首をふるふると振った。その二人のリアクションに気を良くしたのか彼女はまた楽しそうに笑った。
「あのさ、どうしてノブナガちゃんは女の子の格好をしてるんだ?もしかして、女装癖ってやつ?…あ、ごめん。人には言いたくないことってあるもんな…今の忘れて」
先ほどの失敗を繰り返すところだったカルラはぶんぶんと首を振った。ここ一日で彼のコミュ力は相当鍛えられたがまだまだトレーニングは必要なようだ。
「いや、いいです…カルラさんが知りたいなら、教えるです…別に隠すほどの理由じゃないです」
「無理、してないか?」
「ううん、そんなことないです。むしろ、カルラさんに聞いてほしいです。ボクたちの仲間になってくれたカルラさんだからこそ、聞いてほしいんです…」
仲間、カルラは小さくその単語を口の中でつぶやいた。音にすればたった3つのそれでもずっしりと重くカルラの胸に心地よく沈み込んでいく。ノブナガもちゃんと自分を仲間と言ってくれたことにカルラは胸が熱くなり思わずその熱さが瞳から零れ落ちそうになっていた。
「ボクが女の子の格好をしてるのは、両親が言ったからです。ボクは生まれたときとても小さくて軽かったらしいです、いわゆる未成熟児だったんです…成長してもあんまり大きくならないし身体も弱かったボクを守るために、両親はボクを女の子と育てたです。女なら箱庭の重労働から免除されるからです」
「そうなのか?」
「うん。男の人は体力があるから力仕事を主に任されるの。非力な女の人は畑の土いじりや収穫した野菜の選別とかの軽い仕事につかされるの。まぁこれも支配する軍の管轄によっては違うところもあるけど、大体がこんな感じ」
ノブナガの代わりにスイがこう答えた。
「女の人は子供を産まないといけないからね。箱庭側としては重労働の苦労で女の人が死んじゃったりストレスで不妊になっちゃったりすると後の働き手が減るから極力女の人は大事にするようにしてたのよ」
結局は箱庭の利益のための免除、奴らはどれだけ人間を舐めれば気が済むのだろうか、カルラは不快感を顔いっぱいに表す。
「両親のおかげでボクは女の子として軍の目をだますことができたです」
「へぇ、優しい両親だな。で、両親は今どうしてるんだ?」
「死んだ、です…」
「え…?」
「殺された、です…毎日辛い仕事ばかりさせられて不満がたまったんです…僕が住んでた村の人たちが一斉に軍に抗議に行ったです。けど、あいつらは聞く耳もなしで問答無用でみんなを殺したです…両親はボクが危なくなる前に逃がしてくれたです…精いっぱい生きろ、それがボクが聞いた両親の最後の言葉です…」
「そのあとあてもなく放浪していたノブナガを見つけて私たちが保護して今に至るってわけ」
ここにいる人間はやはり何かしら過去に重いものを背負っている。それは無垢な笑顔を向けるミカも、人形のように可愛らしいノブナガも、きっとトージもセリもミコトも同じだ。スイも苦しむほどの過去を背負っていた。カルラはふと、過去の親友の姿を思い浮かべた。自分の凄惨な過去、ただ黙ってみていることしかできなかった彼の罪、それが今になってずん、と彼の心に重く重く突き刺さった。
―お前は、そういうやつだったんだな…親友といったのも全部嘘。お前なら一緒に来てくれるって、箱庭に一撃を加えてくれるって思ってたのに、お前は俺と一緒だって思っていたのに…!ただの、臆病者だったんだな―
過去の言葉が罪を思い出した彼に突き刺さる。幼いカルラの過去の亡霊が、彼の背中を捕らえて離さない。
(俺は今こうして戦う決意をした…だから、許してくれよ…といってもお前は帰ってくるわけないもんな、ノエル…)
榛名ノエル、彼が背負った亡霊の名前だ。彼は今のカルラを作り上げた人物であり、カルラの初めてできた親友だ。
「あ、あの…俺も、昔のことを…」
「はい!今日はこれで解散!もう夜も遅くなってきたし、カルラ君明日…っていうかもう今日か、訓練あるから早いんでしょ?」
「あ、あぁ…」
カルラが過去について話そうと思った瞬間スイはそれを察してかどうかわからないが解散の声を出した。時刻はもう12時を過ぎておりカルラのとても長い一日はもう昨日の出来事と化していた。ノブナガもあくびをこぼして愛らしい瞳をしばしばと眠そうにしばたたかせていた。
「ほら、みんなもう寝るよ、お休み。あ、ちゃんと歯は磨くんだよ!」
また普段通りの笑い顔をたたえてスイは部屋に帰って行った。取り残されたカルラたちもそれに続くように部屋へ帰っていく。あとに残るのは夜の静寂だけ。
どんな過去を背負っている者にも等しく夜は訪れやがて明日も訪れる。過去に犯した過ちのマイナスを取り返すように人間にはチャンスが必ず訪れる。それを取り返すのは明日か明後日か、それとも一年後か、それは誰にも、そう、神様にだってわからない。だから彼らは何も見えない未来の暗闇から、一筋の光を見つけようと必死に生きる。幸せになること、それが生きるということであり人間に与えられた最大の権利なのだろう。その権利が剥奪された人間は死という暗闇に落ちる。たとえ当人が願っていなくともその権利はいつ剥奪されるかわからない。だから人は明日を夢見、今を精いっぱい生きていく。内側でのうのうと過ごしたカルラと外側のスイとの違い、それは生と死、幸福と不幸の概念の違いだろう。今日一日で生きることも死ぬことも、幸せも不幸も、何もかも知った反逆者見習いのカルラはただ願う。明日はみんなにとっていい日になりますように、と。そして誓う。明日も精いっぱい生きていこう、と―
そこから一週間、彼は訓練漬けの生活だった。銃器の扱い、剣術の練習、爆発物の知識、すべてをこの一週間で叩き込まれた。その間のカルラの話と言えば訓練場と自室の往復をするだけのつまらないものだ、なのでここではカットしてしまおうと思うが、一つ、面白い話があるのでそれだけを記しておく。
それは3日目の午前中、カルラのもとにスイと珍しく、いや、初めてミコトが訪れた時だった。そこで彼は知ることになる、ミコトという人間のことを、ミコトが背負う過去を。
「ヤッホーカルラ君。調子はどうかな?」
「まぁまぁ、かな…まだリロードがうまくいかなくてさ…」
「カルラ!話している暇があるなら手を動かせ!」
「サーイエッサー!」
「あらら…ずいぶん教官の熱血指導が身に染みちゃって…」
苦笑いを浮かべたスイは教官に話しかけた。
「どう、カルラ君は?」
「前にも言った通り射撃の腕は殺し屋のそれ並みだ。ほかにも爆弾関係に関してはなかなかにいいセンスをしている。だが後はまだまだだな。成長の見込みはあるが…それがいつ開花するかはわからん」
「そっか。ま、教官の腕ならすぐにそれを引き出せるでしょ」
バン!とカルラが銃を放つ音に負けないほどの大笑いを教官は浮かべた。その顔はいつもの厳ついものではなく本当に楽しそうなものだった。
「あ、そうだ、教官、今日はミコトが…」
スイが言葉をこぼしているのを遮るように背後からミコトが現れた。けれど彼女はこの前カルラに見せたあの冷ややかな一面を持つ彼女とはまるで別人だった。
「パパー!」
彼女は幼い少女のような笑顔を浮かべて教官の背中に抱き着いたのだ、まるで幼子が父親に抱き着くように無邪気に暖かく。
「パ、パパ!?」
ミコトの予想外の甘ったるい声と教官をパパと呼んだことに動揺したカルラは珍しく的を外してしまう。普通なら集中が足りん!と教官に怒られるところだったのだが彼はミコトに抱き着かれてそれどころではない、カルラは安堵の息をこぼす。
「もう、ミコトってば本当に甘えん坊なんだから…教官も困ってるよ?」
「そうなの、パパ…?ミコトのこと、邪魔?」
潤んだ瞳が教官を捉える。教官はその顔に全く似合わないデレデレとした笑みを浮かべてミコトを見ていた。
「邪魔なわけないぞ~。あぁもうミコトはかわいいなぁ」
「パパのおひげじょりじょりだ~」
「えい、じょりじょり攻撃だ~」
「キモ…」
思わず漏れたカルラの一言は教官の耳にとらえられたようでキッと殺されると思うほどの視線が彼に突き刺さった。地獄耳かよ、とカルラは思ったが口にはしない、理由は言わなくてもわかるだろう。
「な、なぁスイ…ミコトの奴、なんかおかしくないか?変なものでも食わせたのか?そうじゃないならどんな催眠術を使ったんだよ…」
「ん?ミコトはあれが素だよ…まぁちょっとばかり幼児退行しちゃってるけどね」
あっけらかんと言い放つスイ。どうにも初めて出会った時の冷たい印象が取れないカルラにはあれが双子の姉妹の片割れなんじゃないかとさえ思えた。
「わかった。100歩譲ってあれがミコトの素だとしよう…でも、あの教官がパパ?いやいや、ないないない。あんなハゲからミコトみたいなかわいい子がどうして生まれてくるんだよ」
「誰がハゲだと?」
「い、いえ!なんでもありません!」
思わず敬礼で答えを返すカルラをみてスパルタの成果が出ているな、なんてスイは内心で苦笑した。
「あの子は孤児だよ、私と同じでね」
「え…?」
思わぬ言葉が飛び出てカルラは聞き返す。まさかスイが孤児だったとは知らなかったし彼女もそのようなそぶりは全くなかった。けれど彼女はそれがさもどうでもいいことのようにあっけらかんと言い放ち続きの言葉を紡いでいく。
「私たちのことを拾ってくれたのは解放軍の人たちなんだけど、育ててくれたのは教官なんだ。その時のミコトは心に大きな傷を負って誰とも接しようともしないし今よりもっとひどい人見知りだったの、だからみんなもそんなミコトとどう接していいかわからずに困っていたの。だけど教官だけは違った。教官だけはみんなと同じように厳しく、それでいて本当のお父さんみたいに優しく面倒を見てくれた。だからミコトは教官にだけは心を開いて本当の父親みたいに仲良くしてるの」
「ふ~ん、そうなのか…あいつも、大変な過去を背負ってたんだな…」
誰とも接しようとはしないなんてどれほどの心の傷なんだ、とカルラは思ったがそれは聞かないことにした。過去の傷なんて誰にでもあるし、それを公に言うこともないだろう、それがこの3日で彼が学んだことだった。
「あの時俺のことを殺しかけたミコトにもこんな可愛らしい一面があったなんてな…やっぱり事実は小説より奇なりって言葉、便利だ…」
マフラーで半分ほど隠れてしまっているがそれでもミコトは満面の笑みを浮かべているのだと分かる。彼は楽しそうに父親代わりの教官にじゃれついていたが、教官は地獄耳でカルラの話を聞いていたらしく瞬時に表情を強張らせた。その表情の変化にミコトも不安そうに顔を歪めた。
「パパ…?どうしたの…?」
教官はミコトの問いかけには答えずに代わりにカルラたちに声をかけた。
「お前ら、その話本当か?ミコトが殺しかけたって…」
「えっと…それは、その…俺がミコトの人見知りのことを知らなくて怖がらせちゃったからで…ミコトは悪くないっていうか、俺も注意が足りなかったというか、それでも不可抗力っていうか…」
いったいカルラは誰に言い訳をしているのやら、しどろもどろなカルラの言葉だが要点は捉えることができた教官はさらに顔を曇らせていった。やばい、怒られる、教官が大きく口を開いた時カルラはそう思った。本当の愛娘のように大事にしていたミコトを怖がらせてしまったとなればきっとただ殺されるだけじゃすまないのだろう、なんて思いながらカルラはきゅっと目をつむりやってくる雷のような怒声に耐えた。
びしゃん!とやはり雷が落ちたような轟音の怒声が降り注いだ。けれどそれはカルラにではなく、ミコトにだった。
「ミコト!お前はなんてことをしたんだ!」
「ひっ…」
ミコトは小さく声をあげると次第に顔をくしゃくしゃに歪ませていって涙をこぼす。それはまさに幼児が怒られた時のそれで、ミコトは声をあげて涙を流した。
「うわぁぁぁぁん!」
「ミコト!泣いてもだめだぞ!お前、俺と約束しただろ?もう二度と仲間には刃を向けないって…確かにカルラはお前の人見知りのことを知らずに近寄ったんだからそれは悪いと言えるだろう…けど、お前はそれ以前にこいつが仲間になるってことをスイから聞いてたはずだ、そうだろ?」
「あ、はい。私はちゃんと言いました。最初にカルラが仲間になるって、そこから自己紹介をさせていって…」
「ちょ、ちょっと待て、スイ…」
教官に答えるよう求められたスイは包み隠さずすべてを暴露する、がカルラはそれを遮った。
「なんで本当のこと言ってるんだよ…あの場合嘘でもいいから仲間になるって言う前に俺がミコトに近づいたって言えばいいんだよ。教官にならもう怒られ慣れてる。だから俺が代わりに怒られれば…」
けれどカルラのお節介な優しさはミコトの冷たい一言で切り捨てられてしまう。
「そんなんじゃだめだよ。カルラ君、それじゃ全然ダメなんだよ…」
「でもミコトはあんなに泣いてる…きっと怒られ慣れてないんだよ…だから…」
「くどいよ。ねぇカルラ君、なんで教官は怒ってると思う?全部ミコトのためだよ?教官と私以外に心を閉ざしてるミコトのことを心配して、教官は叱ってくれてるの。何も教官は趣味でミコトのことを怒ってるのでもなければ楽しんで怒ってるわけもない。教官も傷ついてるの…ほんとはミコトのことを叱りたくないって思ってる。だけど心を鬼にしてミコトのためにしっかりと怒ってるの」
「どうして…」
「それが親ってものだよ、カルラ君…たとえ偽物でもね、親っていうのは子供を心配していつも大事に思ってるの…あれも教官の愛情だよ」
カルラは叱られているミコトの方を見た。彼女は顔を真っ赤にした教官の怒りをひたすらごめんなさいと泣いて謝っている。それでも教官は許さないのかまだまだ怒りの声を漏らしていた。
「ごめんなさいパパ…もうしないから…ゆるして…」
ミコトも泣き散らして瞳も顔も真っ赤だ。そんなミコトを見てカルラの胸はきゅっと痛む。もう許してやってくれ、とも思う。けれどきっと教官の痛みはこんなものじゃないはずだ。もう許してやりたい、けれど甘くしたらミコトのためにならない、そんな葛藤で心がずたずたに傷ついているのだ。ミコトの涙が、ごめんなさいという声が、教官の傷ついた心に染みこみずきずきとした痛みを生む。それが親の痛みであり愛情だ。けれどそれをカルラは知らない、内側でのうのうと過ごした彼には親に思いっきり叱られたこともなければ、きちんと愛情を注いでもらったこともなかったのだ。この時ばかりは愛情を受けて叱られているミコトが、とても羨ましく思えた。
「ミコト、本当にもうしないか?」
「ごめんなさい…絶対にしない…もう、しないから…」
「よし、なら俺にごめんなさいっていうんじゃなくて、カルラに言ってやれ。できるな?」
ミコトは考えるように俯いている。そしてやがてこくり、とうなずくと弱々しい足取りだがカルラの方へ近づいてきた。
「カルラ、ごめんなさい…もうあんなこと絶対にしないから…だから…ごめんなさい…」
弱々しいミコトの声、けれどその声にはしっかりと彼女の意思が込められていてカルラの胸に大きく突き刺さった。
「あの、俺の方こそごめん…ミコトのこと知らないで…」
「カルラ君、その前にまず、いいよって言ってあげて。ちゃんとミコトのことを許したよって示した後に自分も謝るの」
「あぁ、わかった…ミコト、いいよ、俺は全然怒ってない」
カルラがそう言った瞬間ミコトの緊張した顔が一気に緩みぽろぽろと先ほどとは違う温かな涙を流し始めた。涙に濡れる安心した笑顔に場のみんなもほっと気を緩めた。
「じゃあ改めて…ミコト、俺の方こそ悪かった…ミコトに怖い思いさせちゃって…ごめんなさい…」
改まってちゃんとごめんなさい、というのは気恥ずかしいな、とカルラは思った。けれどこの気恥ずかしいごめんなさいこそ人とのコミュニケーションの一歩なのだ、カルラはこれでようやく本当の人として一歩前に成長できたのだ。
「いいよ…」
そして成長するのはいいよ、とゆるしてあげた人間もである。ミコトはその手をカルラの方へと向けた。あの人見知りのミコトが、握手を求めたのだ。それにはスイも教官も驚きを隠せなかった。
「ありがとな、ミコト…」
カルラはぎゅっとその手を握る。その手はとても柔らかくて温かかった、まるで日の光を握っているような、そんな錯覚をカルラに与えた。この瞬間から彼の中でミコトの冷たいという印象はきれいさっぱり無くなった。だからといってこれからミコトと友好に接することができたというわけではなく、まだ警戒はされている。カルラとミコトが本当の意味で互いの手を取り合うのはもっともっと先の話、神様すら予想できない未来の話―
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