理不尽な世界に咲くは笑顔をたたえたキミという花
木根間鉄男
第1話プロローグ&第1章「空が、落ちてくる」
―もしも世界人類の意思が統一されていたとすれば、争いは起こらないのだろうか?
人々の意思はすべて同じ方向を向き誰しもが悩む選択肢さえ全て同じ方向を指差したとすれば、世界は争いなど起こらないはずだ。なにせ一人が右を向いたら全員が右を向き、誰一人左を向くものなどいない世界だ、反発する思考がないのだから争いだってきっと起こらない。誰もが反発なく同じ思考で統一された平和な世界だ。
けれどそんな世界があるとして、そこにいる人々は本当に生きていると言えるのだろうか?
誰もが同調しあい自己の利益も求めずに、ましてや自身の存在の象徴である自己を手放してしまっているような、そんな人々は本当に生きていると言えるのか。それはきっと生きながら死んでいる悲しい世界。誰もが何を求めることもなくただ目の前に出された幸福を分け合うだけのつまらない世界だ。
今から語るのはそんなつまらない世界に生まれた少年の物語だ。
つまらない、つまらない、つまらない―
つまらない、彼の世界の物語を今、始めようか。
―第1章「空が、落ちてくる」―
「この世界の人間はすべて扇動(プロパガンダ)されている。俺の住むこの世界は、ただ柔らかい何かに包まれているだけだ」
あの日世界は姿を変えた。未曽有の大戦争を引き起こしたあの日、それは2020年、東京オリンピックが開催された年のある日の出来事だ。
「あの日東京の新国立競技場で爆弾テロがあり数多の尊い命が犠牲となりました。テロの首謀者は当時世間をにぎわせていた宗教国家の人間とされていますが真相は闇の中です」
オリンピックが開催された競技場で、万全の警備体制にもかかわらずテロが起きた。係員に扮したテロリストたちが一斉に自爆、さらに事前に設置されていた爆弾も爆破し見物客の無数の命を奪った。その主が日本人だったがそれでもアメリカ、中国、ロシアなどの列強国の選手が、見物に訪れていた政府の要人が、死んだのだ。その犯人は当時世界でも問題視されていた宗教国家の仕業だと言われたが不可解な部分もあり真相は闇だ。
その3日後、世界はその宗教国家を暫定の敵とし狙いを定めた。数多の命が集まるオリンピックを狙った卑劣な犯行だということで世界の意思は一つになった。爆撃など数の暴力で世界の敵を減らしてきた彼らだがうまくいっていたのは最初だけだった。
「2021年5月、一発の銃弾が世界を変えました。行軍中の合衆国兵の頭を撃ち抜いた一発の銃弾、それは連邦軍から放たれた物でした。世界のバランスはその一発の銃弾によって壊れました。意図的な攻撃を仕掛けた連邦に合衆国は報復、しかし連邦もそれを黙って受けるわけはなく反撃を加えました」
あと一歩で世界の敵は滅びる、そんなとき連邦軍が同盟である合衆国軍の兵士を撃ち殺したのだ。理由は世界の覇権を握られたくなかったから。軍事大国の連邦国は数多の兵士を投入して戦いに貢献していたのだがこの事件の1か月前大敗を期し兵のほとんどを失ってしまったのだ。この敗北がなければ連邦国が最大の貢献国として世界を動かしていく権利を得るはずだったのだが、それは合衆国に奪われてしまいそうになった。過去の冷戦時代の生き残りのお偉いさんが合衆国にだけは覇権を渡すまいと起こしたその行動が、世界の未来を大きく分岐させた。
「合衆国と連邦国、東西に分かれた戦争がはじまりました。それは世界全土を巻き込む大きなもので2次大戦で比較的被害の少なかったオーストラリアやアフリカをも巻き込む大規模なものとなりました」
通称第3次世界大戦、世界はまたも戦いの世に染まってしまったのだ。それに巻き込まれたのは日本も例外ではなく、当時平和主義を掲げていた日本も見ているだけという日和見主義でいられるはずもなくやむなく戦いに参加した、合衆国側として。しかし日本の最大の敵は連邦国ではなく連邦国側についた中国だった。中国は韓国方面も占領し、当時そこで盛んだったロケット技術を吸収し長距離ミサイルで本土攻撃を行ってきたのだ。そのせいで数多の罪のない命が奪われた、大人も子供も老人も、男も女も関係なく、命という命が摘み取られた。ここで黙ってやられる日本でもなく2次大戦の合衆国のように中国へと爆撃を開始した。それが戦いが佳境に入った2023年のこと。
「このままではすべての国が潰しあった末世界は滅びる、そう思われたとき救世主は現れました。人類管理機構の出現です。彼らは各国に停戦を求め世界の管理を一任させてもらうことを約束しました」
人類管理機構、平和をうたう各国の数少ない人間の生き残りによって結成された機関は各国に停戦を求めた。彼らは世界の今後の永久の平和を約束するという条件で停戦を求めた。そんなむちゃくちゃな要求でも疲弊した世界は文句なく受け止めた。世界はストッパーを欲していたのかもしれない。
「その後人類管理機構は箱庭を作りそこで永久の平和を築き上げることに成功しました。今日2055年4月15日は世界で初めて箱庭が完成した日でありその日からちょうど25周年です。皆でこの平和を与えてくれた日を喜びましょう」
テレビからはアンドロイドのアナウンサーが何度も聞かされた世界戦争から箱庭構築までの経緯を無表情に語る声が聞こえる。
「あぁ…私たちはこの平和な世界に生まれて本当によかったわ…これも人類管理機構の皆様のおかげね…」
「あぁ、本当だな。私たちがこんなに幸せに過ごせているありがたみをもう一度深く噛みしめないと」
国民全員が空で言えるほど聞かされ続けた戦争の話を聞いていた男女は感動の涙を流しまるで神様をあがめるように手を握った。そんなに大げさにしなくていいのではないかとその男女の横で独りつまらなさそうにしていた少年、黒崎カルラは思う。けれどそれは決して彼ら、カルラの両親には言えるはずなかった。ただカルラはひたすらつまらなさそうな顔を浮かべて冷めた視線でテレビに映るアンドロイドを睨みつけた。そんな彼の視線など知らんふりで両親はただただテレビから垂れ流されたくだらない情報をありがたがるだけだった。
カルラもそんな両親を知らんふりし家の外へと出た。外はまだ午前中だというのに春の陽気で暖かくぽかぽかとした空気が彼の奥底の眠気を誘った。彼はぐっと伸びをして空を眺める。今日もいつもと同じ太陽がそこに姿を現していた。きっとそいつは自身の住むこの箱庭ができた日にもこんな顔を浮かべていたんだろうな、なんて感傷的なことを彼は思った。
彼の目に入ったのは太陽だけではなかった。それは背の高いタワーだ。箱庭完成前には634メートルのタワーが建てられていたというが今目の前に見えているそれはもっと高い700メートルだ。太陽と同じでそいつは今日も人々を下に見る。
「おはようカルラ君」
ふと声をかけられて彼が振り向くとそこには齢でいえば50くらいのおばさんがいた。おばさんは手に大きなゴミ袋を持ちその中に花壇の雑草を引っこ抜いては入れる作業を繰り返している。
「おはようございます、おばさん」
近所に住んでいるが数回しか顔を見たことがないおばさんからの挨拶にもカルラはしっかりと返した。これも日常の光景、彼の日常では顔も知らない誰かにもしっかりとあいさつするというのは必然の行為であり当然の行為であった。
と、そのおばさんに続いて彼女の周辺で雑草抜きをしていた人たちが一斉にカルラにあいさつをしてくる。カルラは全員にまとめてぺこりと頭を下げてその場を背にした、その顔を嫌そうに歪ませながら。
「ちっ…あんな挨拶されたってどうせポイント目当ての挨拶だろ…そんなのされるこっちの身にもなれっての…」
カルラは街を適当にぶらつく。けれど彼と同じように散歩をしている人間は一人もいなかった。外に出ている人間はみな雑草いじりをしているのだ。それもそのはず、今日は市が開催するクリーンデー、要するに街の清掃の日だ。市が開催するといってもボランティアみたいなもので強制参加ではない。これに参加していない人間はみな一様に家で例のアンドロイドの声をありがたそうに聞いていることだろう。
「くそ…どこもかしこも同じ顔ばっかりしやがって…」
そんなとうの昔から知っている事実を舌打ち交じりに誰にも聞こえない声でこぼしてカルラは植え込みをいじる人たちを蔑みの目で見た。せっせとボランティアに精を出す人たち、その人間のどれもが皆同じなのだ。まるで工場でまとめて作られてパッケージ化されたようなそんな雰囲気を与える彼ら。太った人も痩せすぎの人もいない、カルラみたいに目が悪くてメガネをかけている人間もいない。そこにいるのは男の平均的な体格と顔を持った何かと、女の平均的な体格と顔を持った何かだった。ただわかる外見的な特徴といえば老いだけで、けれど老いたところで周りとの差異がはっきりするかといえば微妙なもので、やはりこちらも老人の形をした何かがいるだけだった。
(俺も…こんな人間の仲間入りを、するのかな…?)
そんなことを想像してカルラは背筋が震えるのを感じた。あんな無個性な人間になるのは死んでもごめんだ、カルラはまた小さく吐き捨てて歩を進めた。どこか行く当てがあるわけでもなくただぶらぶらと歩くだけ。ただ歩くだけでも何かしていないと自分の気が狂ってしまう、カルラはそう自覚していた。そしてその自覚の上で自分の命の管を掻き切ってしまうかもしれないという危うい橋を渡りかけていた。
世界に永久的な平和を与えることが約束され作られたのが箱庭システムだ。このよくわからない何かを量産することこそ箱庭の目的であり成果だ。世界人類すべてを統一することがこの箱庭という小さな世界で実現されてしまったのだ。
人類管理機構、平和を望む彼らが作ったシステムこそ箱庭だ。人類が平等ではないから戦争が起こる、そう考えた彼らはまず人間を一か所に集め平等に管理することから始めた。それが箱庭の始まりだ。ただ箱庭といっても昔の東京くらいの広さしかないわけでそこにすべての人間を収めることはできず、何カ所かに分けて収容することを決めた。ちなみにカルラが過ごすここは関西圏にある箱庭第3セクションである。箱庭の正確な数はカルラたちには知らされていないが少なくとも200はあるとのことだ。その箱庭では人類はすべて平等となる。
それはなぜか、それを紐解くカギは特徴のない何かたちに秘められている。特徴のない体つき、それは人類管理機構、いや、その支部である箱庭ごとに配置された政府の食管理のおかげだ。政府は箱庭に住む人々の最適な食事を選択する。栄養バランスが取れた食事を当人の適切な量で、しかも調理されて家に無料で送られてくるのだ。人類は皆同じものを、ほぼ同じ時間で、ほぼ同じ量を食べる。
例のタワーで政府が人工的に育てた食料、それがカルラたちの食事となって出てくる。この箱庭すべての人間を養うほどの食料を量産する技術を政府は持っているのだ。
だが食事制限だけでは同じ人間を作るのは難しい。そこで彼らは一日のスケジュールまでも管理した。そこに組み込まれた運動プログラム、政府が推奨するテレビチャンネルで放送されているエクササイズを箱庭の人間が一斉にすることにより彼らは適切な脂肪を燃焼している。その健康的な食事制限と管理された運動のおかげで忌み嫌われた太っちょも痩せ形もいなくなった。さらには無料の配給食のおかげで食の平等化が行われた、つまり食べたくてもお金の問題で食べられない人間がいなくなったのだ。そう、この箱庭では争いの一番の元凶である貧富の差もないのだ。
管理されたのは食生活だけではなく一日のスケジュールもだ。政府が管理したその人間にあった行動スケジュールをその通りに人々はこなしていく。朝は7時に起きて8時には朝食を食べ終えてその後1時間のウォーキングでカロリーを消費しなさい、とか昼の12時から政府放送の討論番組があるからそれを見ながら昼食を取りなさい、だとかそんなスケジュールを組まれて人はそれを鵜呑みにして生きていく。そうすればまっとうな人間に、箱庭、いや、人類管理機関の人々が求める人間になれると信じて。
そう、この世界では人類管理機関は神にも等しいのだ。その神が求める人間になる、それは太古から続く人類の神仏崇拝の意識に根付いたものであり完全遵守の出来事なのだ。
「なんか、喉乾いたな…」
散歩途中そう感じたカルラは近くのコンビニエンスストアへ入る。ドアをくぐると店員の無機質で機械的ないらっしゃいませという声が響いてきた。コンビニにはカルラ以外誰もいない、やはりまだみんなはあの放送をありがたそうに聞いているのだろう。
「ジュースジュース…」
カルラは棚に並べられていた缶ジュースを取りレジへと向かう。
「こちらを飲むと今日の摂取カロリーの基準を超えてしまいます。適度な運動によりカロリー消費を行うことを推奨します。本日の19時からの政府チャンネルでエクササイズの放送があります、そちらを行うというのはどうでしょうか?」
「あーはいはい、わかりましたよ…」
やはり機械的に話すアンドロイドの店員にイラつきぶっきらぼうな口調になるカルラだがこんな機械人形にイラついてどうすると頭が急に冷め始めた。
(ジュース一本くらい好きなように飲ませろって…)
これも箱庭のシステムだ。食が厳重なカロリー計算で統制された今、たかがジュース一本でも規定カロリーに大きな影響を与えることがある。それを抑制するために今のような警告が買う前に必ず現れるのだ。さらに買ったことが政府のネットワークに転送されそのカロリーを加えた計算で食事が制限されることもある。ひどい場合は政府からじかに連絡が入り運動のプログラムを組まれてそれを強要させられる場合もある。この健康社会ではこれが常識なのだ。だが誰しもがそんなきつい運動をすることを望んでいるはずもなく物を買うという行為はだんだん廃れていった。戦前はあちこちにあったというコンビニも今じゃ街に一つのレベルにまで減ってしまっているのだ。
「こちら30ポイントの消費となります」
「はいはい」
自身の携帯端末を取り出して専用の読み取り機の上に載せる。チャリン、と小気味のいい音が鳴りこれで買い物終了だ。戦争の終結により通貨も廃止された。代わりに広まったのがポイントだ。それは自身の社会的地位によって毎月一定額供給される。社会的地位とは何か、それは自分が社会にどれだけ貢献しているかということ。たとえば今日カルラが出会った雑草除去のボランティア、あれに参加することで社会貢献をはたしたということで社会地位が上がりもらえるポイントが増える。自由参加なので参加しなければ社会的地位が下がるということはない。ならどうすれば地位が下がるのか、それは社会に背く行動をすることだ。自身が公共の敵となること、それが地位を下げる条件だ。例えばボランティアで清掃された道に平気でポイ捨てをしたり通りかかる人間にあいさつをせず不快にさせたり、その他社会的悪とされることは自身の地位を下げるだけだ。だが地位が下がったところでポイントは一定額もらえる。ただ自由に贅沢を送る幅が減るとだけ考えてもらえばいい。
「ごくごくっ…ぷはぁ…やっぱりコーラはうまいな。このシュワシュワがたまんねぇぜ!」
ちなみにカルラの社会的地位ではこのコーラを月に10本買えるレベルのポイントが贈呈されている。これはいわゆる平均的な額であり出費をほとんどしない箱庭の人間にとってはなかなかの大金レベルなのだ。勘違いしないでほしいが1ポイント=1円の価値というわけではないのだ。
カルラはコーラを飲みながら周りの家々に目を向ける。無機質で温かみのない造りの家が、決して街の景観を失わないような絶妙なバランスで群れを成して建てられている。さらにその奥には10階建てのマンションがまるで天を突き刺すように立っている。
平等を目指した箱庭なら住居の大きさも同じにするべきだ、と言われるかもしれないがさすがにそこは人間の自由に任せられている。例えば3人家族とその倍の6人家族がいるとして同じ大きさの家が箱庭から与えられました、その場合損をするのは6人家族だ。なにせ一人当たりの敷地面積が小さくなるのだから。だからと言って6人家族に大きな家を与えると優遇だと3人家族は異議を申し立てるかもしれない。そんなリスクを回避するために箱庭は住居の選択の自由を与えた、もちろん社会的地位を優先的に考えてだ。いい家に住もうとすればそれなりのポイントが必要なわけで、人々はそこを目指して社会奉仕を繰り返す。この住居の自由には人々の競争心をあおりより社会奉仕を勧める効果も含まれていたのだ。
「俺もあんなでかい家に住めるかな…」
さすがにカルラの今の地位では10年かかってようやくと言えるくらいだろう。
さらにポイントの有用性を語るとするなら、それは政府へ職に就けるということだ。この箱庭ではすべての仕事が先ほどのコンビニのようにすべてアンドロイドに任されている。それがたとえお役所仕事であってもすべてアンドロイドだ。だがこの世界でただ一つ人間に残された職業、それが政治家だ。ただ戦前の政治家という意味とはだいぶ変わってしまっているが。政府へ入り人間の管理を行ったり政府の推奨するテレビ番組の作成、その他諸々が政治家の仕事だ。要するに支配される側から支配する側へ転向するというわけだ。ただそんな考え方を持っているのは全世界探してみてもきっとカルラだけであり普通の人間はあの世界に平和をもたらした人類管理機構の下で働けてうれしいとしか思っていないはずだ。
「いずれ俺もこの壁の外に行ける日が来るのかな…?」
あてもなく歩いていてもやはり果てはあるわけで、カルラの目の前に現れた高さ200メートル以上の大きな壁こそがこの箱庭の終着点である。無機質な壁一面に取り付けられた機械の瞳だけがカルラの姿を捉えていた。この壁こそ箱庭と外の世界をつなぐ唯一の場所だ。この巨大な壁の外に、外の世界がある。ただ外の世界といっても他の箱庭があるだけ、後は大戦の影響で荒野と化してしまったとされている。それはたとえ日本以外でも同じことで、箱庭の外はミサイルのせいで焦土と化した更地だけだ。噂によればもう草木も育たないらしい。もちろん人類などいるはずもない。それでもカルラは外へ出たかった。この優しすぎる平等主義の世界に、彼の居場所はなかったから。こんな世界にいるといずれ優しさに殺されてしまうから。カルラはぼぉっと壁を眺めながらそんな感傷に浸った。
と、そんな彼のことなどお構いなしに頭上からけたたましいサイレンが鳴り響いた。
「警告。これ以上の接近は逃亡の意思ありとみなしただちに通報します。警告。これ以上の接近は…」
これまた機械仕掛けの音声がどこかから警告を告げる。
「はいはい、警告ご苦労様ですっと」
カルラは肩をすくめながら後方へと下がる。するとそれにしたがって警報音も消えた。
壁の外、箱庭の外へは誰しもが出ることができない。自由であり平等とうたう箱庭に、人間は捕らわれているのだ。だけどそう思っているのはやはりカルラだけ。一般人はここにいれば政府が供給した食事を食べ、戦いもなく優しい世界で安心して暮らすことができると考えている。けれどそれで本当に生きていると言えるのだろうか、カルラは内心でそう考える。毎日他人が決めた食事を他人が決めた量摂り、他人が決めたスケジュールに従って一日を過ごす、そこに自身の選択も、意思も、介入しない。奉仕活動とか言っているけれどあれも結局はご機嫌取り、自分と周りの協調にすぎない。そんな世界で人間としての権利を剥奪されたなにかは今日もぼんやりと過ごす。今日も平和でよかった、なんてひよったことを考えながら。
「はぁ…今日もつまんねぇな…」
人類管理機構が作った平和の楽園、箱庭。人類が求めた平和の桃源郷、きっと人々にはそんな風に街の姿が映っているのだろうが、社会を敵として見てきたカルラの目にはこの街の全てがモノクロにしか見えていない。すべてのものが白黒で、何もかも同じぼんやりとしたものに見えているのだ。彼はそんなぼやけた視界から世界を覗きながら今日も同じセリフを呟く、つまんねぇな、と。
「…ただいま」
カルラが帰宅したのは太陽が真上から少し傾き始めた頃、まだ日差しの強さが残る午後のころだった。彼は昼食を食べることもなくただふらふらと歩きまわっていたのだ。そのことが今朝の放送を中途半端にしか見ていないことに怒りを覚えていた両親の気をさらに逆撫でした。
「あなた今までどこ行ってたの?今日は政府放送を見る日でしょ、スケジュールにもちゃんと書かれているはずよ」
(何がスケジュールだよ…あんなの指令書と変わりねぇじゃねぇかよ…)
とは口が裂けても言えるはずもなくカルラは人当たりのいい余所行きの笑みを浮かべた。
「母さん、俺さ、街の清掃を手伝ってきてたんだよ」
「清掃を?でも昨日まで行かないと言っていたんじゃ…」
「気が変わったんだよ。こんなにいい天気だしさ家にいるのもなんかなぁって思ってさ。それに今日は初めて箱庭が完成した日だろ?ならそれに感謝して箱庭を綺麗にしようって思ってさ」
よくもまぁ自分の口からこんなにぺらぺらと嘘が言えるものだ、それはカルラの慣れから来ているものだった。箱庭に反発を持っている彼は普段からああしてスケジュールを無視した行動を行う。その都度両親に非常に口当たりがいい言葉をこぼして場を切り抜けてきた。その言葉の積み重ねが今の嘘吐きカルラの原点である。
「そう、それはよかったわ」
母親はそれで納得したようだが父親は納得しないようだった。
「それでどうして昼ご飯を食べないことに繋がるんだ?清掃活動は昼前には終わるはずだぞ」
「それは俺が途中参加だったからさ。みんなは朝早い時間から綺麗にしてたのにさ、俺だけが中途半端な時間から初めてみんなと同じ時間に終わるっていうのはさ、フェアじゃないでしょ?だから一人だけ残って掃除してたんだ」
「なるほど。確かに一人だけ作業時間が違っていたら平等じゃないからな。不平等ほど争いを生むことはない、うむ、立派に成長したな、カルラ」
「ははは、父さんたちがちゃんとしつけてくれたおかげだよ。あと政府放送かな。この前の番組でも確か父さんが言ってたみたいなこと言ってたしね」
これも真っ赤な嘘だ。彼自身その綺麗な嘘に反吐が出そうになっている。けれどそれ以上に両親の信じ具合に余計に吐き気を催していた。なぜこうもホイホイと言ったことを信じてしまうのか、これもやはり箱庭の教育の影響だろう。
―いいか、カルラ。他人の言葉はすべて本当だとは限らない。自分の利益のために嘘をついている奴もいる。テレビでは嘘をついてはいけないとか言ってるけど嘘をつかない人間なんて人間じゃないよ。だから俺たちは他人の言うことをまず疑ってかかることにしようぜ―
脳内にふと懐かしい言葉がよみがえりカルラの吐き気はなりを潜めた。その懐かしい言葉はカルラの胸に浸透していきだんだんと心地よい気持ちにさせてくれた。けれどそんな気持ちなど知るわけもない、いや、理解する術を持たない他人は彼に声をかける。
「カルラ様、外から帰られたら手洗いうがいをしましょう。風邪の原因となります」
「ちっ…」
両親に聞こえないように小さくその他人に舌打ちする。耳に心地よい女性の声を扱うアンドロイドが一体、カルラに近づいてきた。そいつはアンドロイドといっても外見はどちらかというと映画に出てくるモブロボットに近い、寸胴の体に車輪の足、やたらと伸びるアームを携えた姿の家庭用メディケアだ。まるでドラム缶に腕が生えたみたいなそいつはカルラの周りをくるくると回り先ほどの言葉を繰り返していた。
家庭用メディケア、これは一家に一台配布される医療ロボットだ。役割としては目覚めた時の体温、脈拍を測り記録し異常がある場合は自身の体内で薬を配合し処方すること。他には栄養を身体に分解させるための補助薬を政府の命令で配布したり病気の予防を促したり、万が一病気になった時は特効薬を配合してくれる。さらには常時CTスキャンを使っているので体内の異常も即座に発見できることができる。こいつのおかげでがんを初期で発見することも可能になった。がんはいまだに人類の抗えぬ病巣となっているが初期の発見を可能にしたことで転移するまでもなく即座治療が可能となり限りなくがんを0にしたともいえる。
この平等の世界ではほとんどの病気はこのメディケアで回避できる。人類は病すらもかかることを許されなくなったのだ。それも医学の進歩のおかげ、いや、これも人類管理機構のおかげなのだ。彼らは大国の有名な医者たちを集めて病気を駆逐することに成功したのだ、ウイルスも生まれついて持った病気も、ましてや脳や心の病気でさえ大国の医療技術が結集したこのメディケアが出す薬を一錠飲めば治ってしまう。
今この世界には心臓病で苦しむ少女も、心を病み自殺を考える若者も、認知症になる老人も存在しない。すべての人間が身体の異常は何もなくただ健康に年を取り生涯を終えるだけの優しい世界、きっと唯一の病人は自分だけだろうとカルラは思った。他人と同じが嫌で悪くなった視力を治そうともせずメガネで補正し、この世界の全てをニヒリズム的に見る彼はきっと、この世界に残された最後の病人だ。
「カルラ、早く手を洗ってきなさい。その間にご飯を温めておくから。早くしないと回収屋さんが来ちゃうでしょ?」
回収屋、といってもたいそうなものではなくただ食べ終えた食器を引き取ってくれるアンドロイドのことだ。そいつは政府の奴らが待つタワーへと帰って行きまた指定の時間になると食事を配って回り、また食器を回収して戻っていく、その繰り返しだ。多分この箱庭での一番の労働者じゃないかとひそかにカルラは思っていた。
「そうだね、わかったよ、母さん」
カルラはいい子ちゃんの表情を顔いっぱいに貼り付けて手を洗うために洗面所へ。洗面所の鏡に映る嘘だらけのその表情に先ほど起こした吐き気がまた蘇ってきた。
(俺はいつまでこの表情を貫かなければいけないんだろうか…こんな世界に押し込まれていたらいずれ本当の俺も、いなくなってしまうのだろうか…?)
カルラの心に不安のしずくが垂れた。しずくはポチャリと過去の不安の水たまりに落ちて水滴を跳ね上げた。食料も、健康も、一日の行動も、何もかも管理されたこの社会、どこもかしこも優しさであふれ窮屈な世界、いずれ自分もこの世界に適応するつまらない人間になってしまうのだろうか、そんなことを思ってまた不安のしずくは垂れおちる。彼は気分転換に冷たい水で顔を洗ったがそこに貼りついた嘘の表情は洗い落とすことができなかった。
彼が食事をとりながらまさにプロパガンダともいえる政府推奨のテレビ放送を眺めていた時、事件が起きた。今日の放送もいつもと変わらず他人には優しくしましょうだの一日のスケジュールはしっかり守りましょうだの戦争の無くなった世界に感謝をだのつまらないことをアンドロイドはその冷たい言葉で語り、両親は、いや、きっと世界の人々はありがたそうにそれを聞いていた。感情のこもらない口から吐かれたその言葉がまるで神様がこぼした言葉だとでも言いたげにありがたそうに、その言葉通りに過ごそうと意思のこもった瞳でそれを聞いていた昼過ぎ。太陽はまだ春の暖かな陽気を空にこぼしている、これから起こることを知らずにただ呑気に、眠たくなるほどに温かな空気を孕んだ風がふんわりと吹いた。
部屋の窓から入ってくるその心地よい風を彼が感じた瞬間、世界にパリン、とまるでガラスを割ったような甲高い音が響き渡った。それが日常の壊れる音だとはっきりわかったものは誰もいない、かくいうカルラも常に世界が壊れたら、と想像してはいたがその音がつまらない世界の終わりになるなんてことは想像もできなかった。
「な、なんだ!?」
初めは窓ガラスが割れたと思っていたカルラだが部屋を見渡して何も異常がないことを確認し不審そうな目を向けた。機械の神様の言葉が紡がれているテレビを真剣に見ていた両親もきょろきょろと辺りを見渡して珍しく不安そうな表情を見せていた。
「隣の家か?いや、それにしても音が大きい…」
カルラは頭を回転させて今何が起きたのかを考察する。考える彼の耳に聞こえるのは嫌に騒がしい外の雑音だった。昔は誰もが自由な時間に外に出て自由におしゃべりしていたと聞いたことがある彼はその音にふと昔はこんなに音が世界にあふれていたのか、なんて場違いなことが一瞬頭によぎる。けれどそれはこの世界では異常な音でありそれが逆に彼の鼓動を高ぶらせた。
彼はバッと窓から身を乗り出して外を眺め、その光景に目を見開いた。
「空が…落ちてきている…」
それは何かの喩えでも何でもない、正真正銘、空が落ちてきているのだ。はるか上空の天空の一画が、まるで窓ガラスが割れるみたいにビキビキとヒビが入り、パリン、と無数の破片をこぼしながら地面に落ちているのだ。それは本当にガラスが天から落ちてくるようで、キラキラと日光に反射して輝くその破片にはちらちらとつまらない箱庭の景色が映っていた。
「どうなってるんだよ…これ…」
ぽっかりと穴を作る割れた空を眺めて彼は信じられない、という風に呟いた。けれど彼はその言葉とは裏腹に、口角がにっと釣り上がっていた。それはまるで夜空に浮かぶ三日月のように鋭利で、輝かしいものだった。
穴あきの空を見上げていた彼の目があるものを捉えた。それはその穴から入ってくる何か、まるで虫のように小さななにかが、箱庭に入ってきた。一匹の虫が侵入に成功すると後に続くようにたくさんの虫が人類の楽園に侵入してきた。初めはその数を数えていたカルラだが10を超えたところでどれを数えてどれを数えていないかわからなくなりやめた。とにかく小さななにかが箱庭に侵入してきたのだ。
「あれは…なんだ?鳥…にしては形がおかしい…」
小さななにかはどんどんと下降してきてその姿を目にとどめることができた。それは、人間だった。背中にまるで飛行機の羽を小さくしたような何かをつけて、そこから噴出されたジェットのようなものを使い飛行していたのだ。そいつらは空中に漂いだんだんと地面に降下してきている。
「は?人?どういうことだ?これも…箱庭のイベント、なのか?いや、そんなはずはない…」
あまりにも非日常的な光景が目の前に広がり彼らしくもないくだらない考察が頭の中でぐるぐると回る。けれどどれだけ考察をたてたところで空が割れることも、虫のように飛び回る人間も納得する説明をつけることができなかった。ただ彼が分かるのはこれだけ、箱庭の外に人間はいないのではないのか、ということだけだった。
―箱庭の外には絶対に人がいる!間違いないって!あ、もちろんここ以外の別の箱庭に人がいるっていう意味じゃないぞ?本当の箱庭の外の世界さ―
そんなことを彼がカルラに話したのはいつのことだったか。
「でもお父さんもお母さんも外に人はいないって…それにテレビでも言ってるよ?外の世界は戦争で汚染されて草木も生えないほどに荒れてしまったって。そんなところで人間が住めるわけがないよ」
―お前は何でも鵜呑みにするなぁ。この前言っただろ、まずは疑えって。で、俺は考えてみたわけだよ。世界の外に人がいるか…いたらさ、絶対に面白いと思わないか?―
「面白い?」
彼は小首をかしげるカルラをあざ笑うかのようにこう言った。
―だって考えてもみろよ!こんな管理された世界の外にいる人間、そいつらは何物にも管理されない自由な生活をしてると思わないか?自分の好きなものを好きな時に食べて、自分の好きなテレビ番組を見て自分の好きな時間に寝る…こんな制限だらけの世界じゃなくてさ、きっとみんな自由で楽しい生活を送ってるはずなんだよ!もしもこんな世界があるとしたらさ…一度でいいから、行ってみたいよなぁ…―
「けどそれは××の妄想でしょ?ほんとにいるかどうかの証拠にはならない」
そんな彼の言葉はまだ自分を箱庭を否定する者としての刃を研いでいないカルラの心には響かなかった。ただ漠然とそんな世界がどんなものかという想像しかカルラはできずにいた。けれど彼はそんなカルラの言葉なんて知ったことではないという風に楽しそうに続けた。
―人間は自由に生きるべきなんだって!何者にも縛られない本当の自由をさ!戦ってもいい、それが人間らしい事っていうなら俺は戦争でも何でも大歓迎だ!それにはまずさ、想像の自由を鍛えることから始めないとな。お前みたいにカチカチの頭じゃなくて自由に想像できる柔らかい頭を持たないと!―
ふとカルラの心には過去の幼馴染と交わした会話がフラッシュバックのようによぎった。当時よりも柔軟に想像できる頭を持ったカルラでもいまだに箱庭の外の人間のことは想像できていなかったが、どうやら外の世界に人はいるという彼の言葉は当たったらしいな、なんて心の中でほくそ笑んだ。カルラの心の奥にいた過去のガチガチ頭の自分が見えない何かにぶん殴られたような気がした。
懐かしい昔に浸っているカルラの頭を現実に戻したものが一つ、それは耳を劈くようなサイレンの音だった。壁から外に出ようとしたものに告げる者よりもさらにうるさく凶暴にそれは世界に響き渡る。
「避難警告、住人の皆様は直ちに政府のアンドロイドの指示に従い避難してください。避難警告、住人の…」
「慌てないでください。皆さまを必ず安全な場所へ連れていきます。あわてないでください」
「現在の状況は開示できません。政府によりロックがかかっています」
街には様々なアンドロイドの声が響く。皆に避難を呼びかける物、避難場所への誘導をスムーズに行おうとする物、情報の開示を拒む物、様々な機械の声が人間の不安な声を混ぜあわせ耳だけで世界が一瞬にして地獄絵図に叩き落されたことが分かる。
その地獄絵図はすぐ近くでも起こっていた。両親がバタバタとまるでヒステリックを起こしたように部屋の中を行ったり来たりを繰り返している。目をぐるぐると回しわけのわからないことを口からこぼしながら必要じゃなさそうなものを両手いっぱいに抱えてうろうろしている。その瞳にはもう息子の存在など映っていないかのようだった。
「心拍の異常な増加を確認。ただちに深呼吸することを推奨します。心拍の異常な…」
そんな中働き者のメディケアだけは普段の仕事を淡々とこなしている。けれど今は立派に仕事をはたしているメディケアの声に耳を傾けている場合ではない、カルラは慌てふためく両親を横目に家を飛び出した。彼はとうに向かう先を決めていた。それは避難所、ではなく箱庭の外だ。彼はこの混乱に乗じてこのつまらない世界からの脱出を図ったのだ。過去に幼馴染が望んでいたことを、あのころから随分と社会的凶器として成長したカルラは果たそうとしていた。
「おい、空を見てみろ!」
逃げ惑う人々の群れの中で誰かが叫んだ。その言葉に誘われるように人々は一斉に上を向いた。
「あ、あれは…なんだ…?」
空を見上げた人々の表情は一斉に硬直する。ある者は恐怖へ、ある者は畏怖へと顔を変える。彼らが空に見た物、それは平穏な世界に侵入してきた虫の群れに突撃するようにやってきたマンタの群れだった。ジェット噴射で空をかける虫たちに機械的なマンタの群れが近づき、その群れの一匹が、一線の光の筋を作った。赤とも黄色とも言い難い色を浮かべたその光はマンタの腹から一直線に一匹の虫へと伸びる。
その瞬間下界の人々は息をのんだ。虫が一瞬にして、はじけ飛んだのだ。光線を浴びた虫はまるで空気が入った風船に針を突き刺したときのように、パン、と一瞬にしてその姿を崩壊させたのだ。そしてその残りかすが赤や紫の何かとして青いカンバスに水滴を垂らしたかのように落ちていった。
「な、なんだよ…あれ…?人を…殺した…?」
今人々は信じられないという顔を一様に浮かべていた。あの機械のマンタを思わせる戦闘機から発射されたレーザー光線が、虫けらのように小さな人間をはじけさせたのだ。それは明らかに命の終わりであり、平和を享受され生きてきたこの箱庭の人間には一生無縁の代物と思われた戦争の光景だった。
その一瞬の閃光こそ、争いの引き金となった。今度は虫が抵抗する番だ。虫たちはいっせいにマンタに向けて何かを打ち込んでいく。それは旧時代の遺物と言えるミサイル系の武器だった。撃ち込まれたミサイルがマンタの腹を、頭を、翼を襲う。バゴン、とこの世の思えないほどの轟音とともに爆炎がマンタを包み込む。その瞬間人々の顔に不安な表情が浮かぶ。それもそのはず、侵入者である害虫どもを退治してくれたマンタが一匹とはいえやられかけているのだ、絶望や不安を覚えるのも無理はない。けれど次の瞬間には人々はまた顔の表情を変えていた。こんな短時間でよくもまぁこれだけころころと顔が変わるものだ。けれどそれもしょうがない、撃ち落とされたと思ったマンタが爆炎の中から姿を現したのだ。人々は歓喜の声をあげてマンタの群れを応援する。悲鳴だけに支配されていたその場が、喜びに勇み立つ瞬間だった。そんな人々の横を何体もの武装したアンドロイドが通り過ぎるが、彼らはそんなもの眼中になかった。いや、彼らが何か理解できなかったのだろう。きっと避難が遅れた人間を救うためのアンドロイドだと彼らは思ったのだ、腰に下げた銃の意味など知らずに。
「アルファ3、撃墜されました!これより防衛戦を開始します!」
「いや、待て!可能な限り弾薬は節約しろ!今は相手の動きをかく乱させながら降下するのが先決だ!」
「しかし第15部隊が突撃をかけました!彼らの援護も必要かと…」
「捨て置け!彼らの身勝手な行動で作戦が失敗すればどう責任を取るつもりだ!悲しいが、彼らを助けることは許されない。今はただ降下して目的を達成することだけを考えろ、いいなベータ1」
「ベータ1、了解」
いつ自身に向けて発射されるかわからないレーザー光線にひやひやとしながらベータ1と呼ばれた少女は胸のトランシーバーとの会話を終了させた。そして少女は唇を少し噛んだ。空中に浮かぶ彼女の綺麗な黒髪が場違いなほどに綺麗になびく。
「ちっ…こんなの出てくるなんて反則よ…」
少女は空を飛ぶ虫たちの群れの一人だ。背につけたジェット装置を操ってどうにかあのマンタのような戦闘機のレーザー光線の軌道から逃れようと努力している。あの攻撃を目の前で見てしまった彼女だ、そうするのは当然といえよう。
ほんの数十秒前、彼女の目の前で仲間が一人死んだのだ。あのレーザー光線にやられて。仲間は体をまるで膨張しすぎた風船のように膨らませて、破裂して死んだ。かつて仲間だったモノがぼたぼたと地面に落ちるのを必死に恐怖の感情を殺してトランシーバーの奥の作戦本部と連絡を取っていたのだ。
「ベータ1からセブンス各位、聞こえる?」
「あぁ、聞こえるぞ」
「こっちも同じく」
トランシーバーの向こうから様々な声が聞こえてくる。そのどれもが少女の聞き慣れた声であり一つも欠けていないことから安堵の息を漏らした。
「作戦は続行!あいつらの光線に当たらないように降下して!無事に降下できたら合流地点で会いましょう。時刻は今より20分、それまでに集合しなかった場合置いていくから遅れないようにしてね!」
『了解!』
トランシーバー越しの仲間の声を確認すると少女は通信を切りため息を一つ。そして目の前のマンタを見て少し緩めていた気を一瞬で引き締めた。
「これ…まずったかな…」
無機的なマンタは今まさにこちらに向けてあのレーザーを撃ち込もうとする体勢に入っていた。光の玉がマンタの腹に集まり数秒後光線となって射出される。彼女はチャージタイムから射出されるまでの時間がまるで10分以上のものだと感じられた。あの数秒の中で彼女の中の時は10分以上も思考したのだ、生き延びるために。
「くそ…!いきなりこれなんてほんとついてない…!やっぱり朝の占いなんて見なきゃよかった!」
朝の最下位だった星座占いを思い出して彼女は叫び声をあげた。今日のあなたは人生で一番怖い目に会うかもしれない!ラッキーアニマルはマンタ!、今日の占いはなんて皮肉的だったのだろうかと彼女はあの笑顔が眩しい占い担当のキャスターを恨んだ。
「なんでラッキーアニマルに殺されそうな目に遭ってるのよ私!てか何よラッキーアニマルって!ふつうラッキーアイテムとかじゃないの!もう!」
彼女は不平を漏らしたがすぐにそんなことを言っている場合じゃないと意識を戻す。目の前に迫りくるレーザー砲、あれに当たれば自分もあのように膨れ上がって破裂してしまう、つい数瞬前の仲間の無残ななれの果てが脳裏に浮かび上がるのを少女はまだ小さな頭を振って払いのけた。
(私はあんな風にはならないよ…まだみんなを残して死ねるわけないもん!)
彼女は心の中で叫んでレーザー砲から離れる、わけではなく突っ込んでいった。傍から見たら気が触れた自殺願望者のようにも見えるが、彼女にはもちろんその行動に意味を持っていた。
「3…2…1…ここ!」
彼女は口の中でスリーカウントを唱えそれが0になった瞬間背負っていたジェット噴射の勢いをあげた。噴射の勢いと同時に彼女は右へ体を回した。あとは遠心力に身を任せるのみ、勢いをつけて右に曲がった体はジェットの推進力と相まってぐいっとレーザー砲の手前で右に避けた。見守っていた仲間が肝を冷やすほどのギリギリの回避劇を彼女はやって見せたのだ。だがこれで彼女を安堵させるほどに敵は甘くなかった。
「ちっ…またなの…!ほんともう鬱陶しいんだから!」
第2波が彼女に向かって放たれようとしていたのだ。しかももう一匹マンタが加わって砲門は二つになった。2つのレーザーが同時に少女目指してぶち込まれる。けれどそれも針孔に糸を通すような繊細な、それでいて華麗な動きでかわしていく。
「あー、こちらベータ1、どうやら作戦開始時間には降りられそうにないかも…今ラッキーアニマルに襲われてるから」
「は?ラッキーアニマル?わけのわかんねぇこと言ってんなよ」
「とにかく私は合流できないからそのつもりでよろしく!」
逃げながらも器用にトランシーバーへ会話を向ける彼女に、遠くから答える男の声。彼女の仲間の声だ。仲間の声はいいもので聴くだけで少し頭に余裕が出て落ち着くことができる。けれどそれも一瞬だ、次の瞬間にそれは苦痛に変わる。
「あぁ、わかった…うわぁ!」
彼の驚いたような声とビームの音がトランシーバーから聞こえたと思うとその一瞬後にはノイズの音だけが虚しくトランシーバーに響くだけだった。少女はその事態に戸惑う。
「応答してベータ6!何があったの!?ねぇお願い!応答して!」
彼女は必死にトランシーバーへ向けて声を荒げるが返ってくるのはざざざ、というノイズの音だけ。そのノイズ音はまるで彼女の心まで飲み込んでしまったように深く深く彼女の奥底に沈み込んだ。ノイズが彼女の心を乱す。
「ベータ6!ベータ6!お願い!聞こえてるんでしょ!?」
「ベータ1…俺は…大丈夫だ…かすっただけ…」
そんな弱々しい声でよくも大丈夫と言えるな、彼女はそう口に出そうと思ったがその言葉が彼なりの気遣いだというので黙っておくことにした。
「わかった。ベータ6、集合地点に行ける?そこで回収してもらいなさい」
「そうする…といいたいところだが今のでジェットの一部がやられた。自由にはもう飛べないからこのまま落下するしかない。落下の速度を操るくらいにはまだ生きてるから安心しろ。ベータ1、俺のことは構わず作戦を遂行してくれ」
「…分かったわ、ベータ6…死なないでよね」
ノイズの奥底から聞こえてきた声に一応は安堵の息を漏らす少女。けれどあれが彼の強がりだというのはきっと今の通信を聞いた誰もが思うわけで、彼女も鈍感ではないので例にも漏れない。けれどいま問題なのはとりあえずは大丈夫と言ったあちらではなく、今まさにレーザーで打ち抜かれようとしているこちら側である。少女はキッと2体のマンタを睨みつける。けれどマンタは少女のにらみなど知らないといった風に突っ込んでくる。マンタと少女の距離は先ほどの連続回避によりそれなりに開いていたがその隙間を一瞬で埋めてくる。どうやら相手はちょろちょろと動き回る彼女をレーザーで仕留めようとするのではなくその巨体で押しつぶそうとしたのだ。けれどそれが彼らの判断ミスだということはそのすぐ後、ことがすべて終わりマンタの頭脳であるコクピットの中にしまった、と声が響いた時だった。
「すべてを切り裂いて…高周波ブレード展開!」
彼女がブン、と腕を横に振るとその腕に透明な刀身が姿を現した。何もない空間から現れた、と錯覚されるそれだが出てきたのは彼女の腕に備え付けられた機械的な腕輪からだ。時代が時代なら特撮ヒーローが付けているものと勘違いされそうな腕輪から透明なブレードが現れていたのだ。
高周波ブレード、高周波振動によって発熱したそれは切れ味も威力も抜群だ。すごく簡単に説明するなら超高温に熱した刃をぶつけて焼き切っていると考えてもらえればいい。
「一瞬で終わらせるよ…3…2…1…加速!」
またスリーカウントを唱え終えるともう一度ジェットをブーストさせた。ギリギリの回避を決め込むとさらに加速、マンタの胴体をすり抜ける。その一瞬のうちに腕のブレードがマンタの体を横一文字に切り込んだ。
少女がマンタを通り抜けたと同時、奴の体は爆発四散した。ばごん!という激しい轟音と爆風が彼女のまだ成熟していない体を包み隠す。けれど彼女はその爆風の中ジェットを駆使して華麗に飛び回る。そしてその体が次に空に姿を現したときにはもう一体のマンタも爆発、破片を空中にばらまかせながら地面へと落ちていった。
「ふぅ…これでいけるかな…」
いつも通りブレードの抜群の切れ味に満足そうな笑みを漏らす、その笑みにはきっと鬱陶しい敵を屠ったという意味も含まれているだろう。けれどその笑みも一瞬後には凍り付いた。マンタを屠ったことで目をつけられたのだろう、ほかのマンタたちのレーザー砲が一気に彼女の小さな体に向けられていた。
「あ、アハハ…マジ、ですか…ほんと、勘弁してよ…」
少女はブレードを構えて敵を倒しにかかる、と思いきや踵を返してその場を撤退した。多勢に無勢ではいくら彼女でも無理ゲーだ。ここは三十六計逃げるに如かず、戦略的撤退、様々な言い訳とともに彼女は迫りくるレーザー砲を器用に避けながら背後への前進を開始した。
この一件で少女がマンタを大嫌いになったのはまた別の話だ。
「これが本当に…現実なのか?」
少年の上空では信じられない光景が浮かんでいる。割れた空、開いた穴から次々と落ちてくる虫たち、その虫を蹴散らすように現れたマンタの群れ、空中で飛び散る赤と機械のかけらたち、そのどれもが彼が苦痛に感じた日常から完全に乖離されていた。ありえないほどのその光景に彼は胸が自然と高鳴る、きっと今この世界で一番興奮していると思えるほどに彼は胸を高鳴らせていた。
「夢ならお願いだ。俺の目を一生覚まさせないでくれ」
なんて口からおとぎ話のお姫様チックな言葉が出てしまうのもきっと興奮のせいである。
彼は空から地上に視線を戻す。今地上には機械のあられが、赤の雨が降り注ぐ。赤の雨は問題ないのだが機械のあられは地上に落ちてはドン!と轟音をあげて周囲一帯の建物を塵となしていく。だんだんと街が崩れていく。機械的で無機質な一般住宅も、高級そうなマンションも、人の廃れたコンビニエンスストアも、すべてすべて、日常のかけらとともに壊れていく。そんな光景も彼にはただの興奮材料にしかならないわけで、今も遠くのマンションが落下した破片が放つ衝撃でグラグラと今にも潰れそうになっているさまを見てまるでいたずらをした子供のようにニヤニヤとほくそ笑んでいた。
「はは、すげぇなこりゃ…どれもこれも一瞬でつぶれてる…ポイントを大量消費して買ったマンションも、少ないポイントでも住めるぼろい一軒家も、全部同じだったんだ!どれも潰れたらただのゴミだ!そうだ…箱庭もしょせんただのゴミの集まりだったんだ!」
興奮した頭はそんなわけのわからないことを口にしていた。と、その時一体の人型アンドロイドが彼の横を通り過ぎすぐにしまったと口を閉ざす。箱庭の悪口も悪、発言の自由すら奪われたこの時代には当然の罪であろう彼の言葉も今のアンドロイドには取り締まる余裕もなかった。アンドロイドは小脇にいかついライフル銃を持ち人々が避難するのとは逆の方、つまり彼が向かっている方向へと走って行った。そいつに続けとばかりにアンドロイドの群れが後方からものすごい勢いで現れる。人型、ドラムに腕が生えたような奴、寸胴鍋みたいなやつ、様々な形のアンドロイドが皆一斉に同じ方向へ向かっているのだ。それを不審に思った彼は前を見る。その先の光景、それは阿鼻叫喚というものでは片づけられないようなものだった。マンタが捉え損ねた虫たちが、地上に降り立ち破壊の限りを尽くしているのだ。彼らは皆銃器を持ちそれを乱射している。時には轟音が上がりマンションの一階からがズドンと崩れ落ちていくさまが見て取れた。けれどそれもまだ先、彼がいる場所とはずいぶんと距離がある場所だ。彼はそれをテレビでも眺めるかのようにぼぉっと見ていたが自分が足を止めていたと気付くとまた走り出した。
「ここからは要注意ゾーンってことか…」
ブラウン管を覗いたような視界の先では空から落ちてきた人間と箱庭の守護者であるアンドロイドが銃撃戦を繰り広げていた。ズガガガガ!と遠くでもわかるほどの銃声の群れが彼の耳を穿つ。
彼は銃撃戦に夢中になっている横をこっそりとすり抜けていく。侵入者もアンドロイドもそんな彼のことには気付かずに仲良く銃撃戦を繰り広げていた。にへへ、と彼はいたずらっ子のような笑みを漏らす。そんな余裕があるほどにブラウン管越しの光景を眺めていた彼だが、その光景が一瞬にして現実のものとなって彼の目の前に映し出された。
「誰だ…?」
こっそりと進む、ということは崩れた家やがれきの山を障壁に使うということで、当然その障壁は人間一人が隠れながら銃を撃つにはうってつけの場所である。そういうわけで彼の目の前に先客がいた。やばい、と思った彼だが先客はどうやら銃撃戦に夢中でこちらのことなんて気付いていない。そのまま気配を消して背後からやり過ごすか、それとも迂回してでも安全な道を進むか、そんな選択を思考している時だ、それは起こった。
―パン!
一発の銃声により、彼の世界は静止した。
「え…?なんだよ…これ…?」
自身が発した言葉さえスローになった風に聞こえる。世界の時間間隔がおかしい、周りの光景も、自分の行動も、目の前で起こっている出来事もやけにスローモーションだ。そんなスローの世界の中、目の前の出来事に釘付けになった彼の心臓だけはやけに速くバクバクと鼓動を繰り返していた。
「ぐはっ…!」
目の前にいた先客の眉間に、一発の銃弾がまるで吸い込まれるようにして撃ち込まれた。スローモーションのようなその光景、撃ち込まれた銃弾が頭蓋をえぐりそして後頭部から貫通し血しぶきをあげる、そのほんの1~2秒にも満たない時間を、彼はまるで永遠にも似た時間見ている気がしていた。頭蓋を撃ち抜かれた先客は頭を軸としてのけぞるように吹き飛び、バタリ、と地に伏した。そいつが地面に完全に崩れ落ちたところで彼の世界はまた時を取り戻した。
(何だよこれ何だよこれ何だよこれ!目の前で人が、死んだ?本当に死んだのか?死ぬ?死ぬってどういうことだ?あれは死体なのか?さっきまで動いていただろ?じゃああれは人だ。でももう動かないぞ?じゃあ死体だ。でも本当に死体か?ただ動かないだけじゃないのか?)
先ほどのスローモーションとは違い彼の頭は高速に思考を巡らせる。ただどれだけ思考を素早く行ったところで所詮は人間の脳、わからないことはわからないことのまま脳みそがショートを起こした。彼は自分が考えて思考回路がオーバーヒートする間に先客が起き上がってくるのを期待していた。けれど先客はもう二度とその体を動かすことはない。まるで今の空のようにぽっかりと穴が開いた頭からはどくどくと命の液体が漏れ落ちていた。
彼は恐る恐るそれに近づいて、ひっ、と短い叫び声をあげた。数分前までの高揚とした気持ちはどこへやら、今は恐怖が全身を支配して収まらないのか、彼はがたがたと体を震わせてその場にうずくまってしまった。
その恐怖は目の前で人が死んだことに起因するのではない。彼の恐怖は、たった21グラムの魂が抜けた器のこんなにも恐ろしく、醜いものなのかということだった。本能を逆なでするほどの冷たさを彼は今全身で感じているのだ。
箱庭では一生死体を見ることはない。それは箱庭の人間に与えられた平等の現実だった。ならなぜ一生と言い切れるほどに死体を見ることがないのか、それは箱庭のシステムに起因する。箱庭は平等を追及しているのは先にも述べたとおりだが、その平等の矛先が命にも向けられているとしたら?そう、箱庭は命の長さですら平等にしてしまったのだ。それは医療の発達からも窺えることだが、それだけではやはり平等ではない。車を排除し無駄に外を歩かせないスケジュールを立て、政府の公共放送で殺人、自殺を防止するプロパガンダ放送を行い人類の死因を老衰のみにまで追い込むことができた。だが老衰では一定の年齢で死ねない。そこで彼らは考えどうすれば命の長さを平等にできるかを決定した。それは、70歳に達した時に必ず殺す、それにより平等を作ったのだ。戦前の人間の平均寿命は大体80くらい、まだまだ若いといえば若いのだが、どんなイレギュラーが起こるかわからない、ということで70というラインを設定された。ならどうやってその平等を実現するのか、それは簡単だ。介護をするといって65になると政府が引き取ってしまうのだ。政府の誠心誠意の介護のおかげで満足な老後を送る彼らはいずれ来る70のラインになると安らかに眠れる薬を体内に入れられて幸せな眠りにつく。そして火葬されたものが家庭に戻ってくる、そんなシステムだ。
否定的な意見が出ると思われたそれだが誰も異を唱える者はいなかった。歳とともにだんだんと体力が落ちていく老人は社会にとっては邪魔な存在だったのだろう、充実な介護、という言葉がキーとなりそれは受け入れられた。ただ世間一般では70が人間本来の平均寿命でありそれ以上は生きれないと認知されている、殺す部分は完全に省かれているのだ。さすがに殺す、と公言してしまえば箱庭のメンツも丸つぶれである。そしてその事実はこの物語の主人公のカルラですら知りえないことだった。彼はただ人は死ねば灰になる、としか知らなかったのだ。こんなにも冷たく、恐ろしく、本能的嫌悪を催すものかなんて今目の前で初めて死体を見るまで、死への人間の本質が抜け落ちてしまっていたのだ。今まで反社会的な刃を研いできていざとなれば自身の命の管を切り裂いてしまおうと思っていた彼だが、そんな考えが恐ろしく幼稚で、そして勇気がいることだというのを知った瞬間だった。
目の前の死が、彼自身の全てを破壊した。彼の今まで抱いていた反平等思想も箱庭への嫌悪も崩れ最終手段であった自殺も手詰まりになってしまった。今では心が全身全霊をかけて死にたくないと叫んでいる。
(嫌だ…嫌だ…俺は、こんなものになりたくない…こんなに冷たくて無機的なものになりたくない…そうか、これが、死ぬ…何もかも抜け落ちて空っぽになる…いいや、空っぽじゃない、ただ恐ろしい何かを秘めたものになるんだ…嫌だ…死にたくない…死にたくない…死にたくない死にたくない死にたくない!)
彼は心の中で必死に死にたくないと叫んだ。ただただ死にたくないということだけを無機質に繰り返した。まるで壊れたCDプレイヤーのようにただ死にたくないというフレーズを繰り返した。死にたくないという言葉で酔い吐きそうになる。だがどれだけ死にたくないと心で叫んでも人は死んでいく。それは目の前で繰り返される、命の蹂躙だった。
今瓦礫の山の向こうでは銃声に交じって人々の断末魔が聞こえる。それに交じって様々な死に直結する声も聞こえる。死の恐怖に怯える心を必死に叱責する声、どこかを銃弾で撃たれたのだろう痛みとともに死にたくないと叫ぶ声、仲間の死に涙を流し絶望する声、様々な死の声がまるでオーケストラのように死への嫌悪に統一されたハーモニーを奏でながら彼の耳から脳を直に犯した。
「ひっ…!」
彼はまた間抜けな声をあげた。今隠れている瓦礫にも銃弾の嵐が降り注いだからだ。きっと彼が無意識に音をたてたせいだろう、それをアンドロイドの人間離れした聴力がつかみ取ったのだ。瓦礫越しに乱射される銃弾、耳を覆いたくなるほどの騒音が彼の心を、いや、本能を突き動かした。
「俺は…死にたくないんだ!死んでこんな意味わかんねぇ肉塊になるなんてまっぴらだ!俺は…生きるんだ!」
先客だった者が死の間際に手放した銃を彼は必死の形相で拾った。比較的軽めのアサルトライフルだというのに彼の手はずっしりとその重みを感じ取っていた。その重みに手を慣らす暇もなく彼は死んだ先客のまねをして(けれど瓦礫から覗くのはほんの少しだけだが)銃口を引いた。ズガガガガ!と銃口が咆哮をあげた。それと同時にまるで手の中で大蛇がのたうち回っているんじゃないかと思われる衝撃が彼の両腕を襲った。初めて撃った銃の衝撃に思わず彼はのけぞる。彼はのけぞった体制のまま視界を瓦礫の外に向けた。そこには自身の銃弾で倒れる一体のアンドロイドの姿があった。
「これでキミも立派な反逆者ね」
「だ、誰だ!?」
突然聞こえた女の子の声に驚いて彼は銃口を声がした方へ向けた。声の方にいたのは黒い長髪にぴょこんとはねたバカ毛を携え、さらにはハート、雫、星と種類の違うヘアピンをした少し童顔な女の子だった。まだ発育途中で青い果実を思わせるその女の子は銃口を向けられているというのにくすくすとしている。その瞳には格好良く銃を構えているつもりなのだが及び腰でへっぴり腰でガタガタと震える手で銃を構えるカルラの姿が映っていた。おまけに半べそをかきそうな顔をしているということも彼女の笑いを誘うには十分すぎた。
「あ~あ~男の子のくせになんて顔してるのよ」
「誰だって聞いてるんだよ!う、撃つぞ…!」
目の前の女の子に向けてカルラはもう一度、今度は大げさにガチャリと銃が音を鳴らすように構えてみた。けれどやっぱりそれも様になっていないようで彼女は呆れたという瞳を彼に向けた。だがその顔があまりにもイラついたのだろうカルラは本気でトリガーに指をかけた。
「お、俺は本気だぞ!早く名乗らないと俺が…」
「それ本気で言ってるの?」
俺が撃ち殺すぞ、そう言おうとしたカルラの声を少女は冷たい言葉で遮った。その瞳には先ほどのように嘲笑も呆れもない、ただ本当に冷たい無機質な光だけがあった。
彼女はぐっと彼に向かって踏み込んだ。突然の踏み込みに驚いたカルラは不覚にもトリガーを引いてしまいそうになった。撃ち殺すなんて言ってもそれにおびえて逃げてくれればいいのに、なんてひよった考えをしていたカルラだ、このままでは自分の望まない結末に終わってしまう、自身の先ほど目覚めた臆病な心のせいで。けれど彼女は引き金に力がこもる一瞬前にカルラの手から驚くべき速さで銃を弾き飛ばしていた。
「え…?」
「本気で撃ち殺すのは、自分が本気で撃ち殺される覚悟がある人だけ。マンガにもそう書いてあったでしょ?」
気がつけばカルラの手の内にあった銃は女の子特有の小さな手の内におさめられていた。何が起こったのか目をぱちくりするしかないカルラの目の前で女の子は銃からマガジンを慣れた手つきで取り外し地面に落として見せた。
「はい、これでキミは制圧されました~」
なんて緩い声で言われても今のカルラの耳には届かない。柔和な表情を浮かべている彼女だが今の混乱しきったカルラにはそれがまるで悪魔が人間をだます時のような顔をしているように見えていた。本能がさらに死にたくないと叫ぶ。きっとこの女もいい顔をして油断させておいて殺すのだ、そう思った時には彼は行動に映っていた。
「うりゃぁぁぁぁ!」
自分でも間抜けな声であると分かるほどの奇声を発してカルラは女の子につかみかかる。ほっそりとした体だし自分よりも身長が低い、しかも非力な女の子だ、そう思ってカルラはとびかかったのだが、瞬間的に返り討ちにされる。カルラの視界がぐるんと見事な一回転を決めた。
「はい、これで二回目」
女の子はカルラを地に伏せて腕を封じ込めて楽しそうに笑っている。けれど次の一瞬彼女はコロッと表情を変えて先ほどの冷たい顔を浮かべた。
「これで三回、キミは死んだことになるね」
ずぎゅん、と凄まじい速度で鉛弾が彼女の頭上すれすれを横切った。それを見てカルラは背筋に冷や汗が浮かぶのを止めることができなかった。なにせそれは先ほどまで自分が立っていた場所であり、もしも彼女を組み伏せていると先客のように頭蓋をぶち抜かれて血や脳漿を地面に汚くまき散らして死んでいるところだったのだ。
箱庭に反抗的な態度を取り世界に反発している彼は、結局一人の女の子にも勝てなかったのだ。その事実が彼のこれまでナイフとして研いできたプライドを傷つけ、惨めさに心が潰されるのを感じた。気がつけば目に熱い何かが浮かび上がってきている。
「くそ…くそ…!俺は…死ぬのかよ…こんなところで…やっと…やっと箱庭から自由になれると思ったのに…現実ってこんなもんだったのかよ…畜生…!」
「ほら、男の子が泣いちゃダメだって…って箱庭から自由になる?」
「あぁ、そうだよ…俺はこの箱庭が嫌で逃げだしたいって思ってた…こんなシステム無くなればいいって思ってた…けど女の子一人にも勝てずに死にたくないなんて騒いでる俺には思い上がりだったんだよ…殺す前に盛大に笑ってくれよ」
けれど女の子は彼の望み通り笑おうとはせずにうんうんと唸っていた。彼は頭上のそんな彼女の様子を見てころころと感情を変える女の子だ、なんて場違いなことを思っていた。数秒ほど唸った彼女はポン、と手を叩き何か妙案を思いついた悪ガキのような顔を浮かべた。
「キミ、私たちと一緒にこない?」
「え…?」
あまりにも突拍子のないその言葉に彼は素っ頓狂な声をあげた。そういえばこの女の子にこんな間抜けな声を聞かれるのは何度目だろう、なんてまたどうでもいい場違いなことが頭をよぎった。
「キミは箱庭を壊したい。私たちも箱庭を壊したい。ほら、目的が一致した」
突然発表された彼女の目的に驚く間もなく女の子は続ける。
「それにキミは死にたくないって思ってる。私たちならキミにこの世界で死なない術を与えることができる。ほら、見返りも十分だよ!どうどう?お得でしょ?今だけ限定超お得パック!今私と契約しないと損だよ?あ、ちなみに言っておくと断った場合キミの頭に穴が開くかそれとも首が変な方向に捻じ曲がるか、それとも胴体と首が永遠にさよならするか選び放題だからね」
「…分かった…俺はキミと一緒に行くよ…」
こんな理不尽な選択肢を出されたのは人生初めてだ、彼はそう思ったが言葉には出さなかった。言葉に出せば断った場合のどれか一つをむりやり彼女が強行しかねないから。
「んん?それが頼む方の態度なのかな?言っておくけどキミは今私の手の中にいるんだよ?これってどういうことかわかるよね?賢いキミなら、わかるよねぇ?」
(うっぜぇぇぇぇぇぇ!)
「はいはい、わかりましたよ…お願いします…俺を、あなたたちの仲間として連れて行ってください…」
「よろしい!ならばここに契約の儀を…」
「あの…その前にどいてもらえませんかね…?そろそろ重く感じてきたんですけど…」
「なっ!?女の子に思いとはなんて失礼な!やっぱりここでキミとはバイバイする運命だったようだね。ほら、選びなよ。今ならお得パックで全部体験させてあげるよ?」
「すいませんでした…あなた様はとてもかるうございますので永遠にわたくしめの上でお過ごしくださいませ…」
「キミっていつの時代の人間なのよ…」
鬱陶しい奴に目をつけられてしまったな、なんて内心で苦笑するカルラだが同時に安心感も湧き上がってきていた。命のやり取りが行われるこの場所で、彼女といるだけでなぜだかとても心地が落ち着くのを感じていた。先ほど感じた死にたくないの飽和も、彼女といれば安心できる、カルラはそう感じたのだった。
この時カルラはこんなつまらない世界にもほんの少し救いがあるかもな、なんてがらにもなく思っていた。
「ん?私の名前?あぁ、そういえば名乗ってなかったね。私はスイ、キミは?」
「俺はカルラ、黒崎カルラだ」
「カルラ君、ね。覚えたよ」
ちなみにスイは先ほどまでラッキーアニマルのマンタに追い回されていた女の子である。が、どのようなことをしてあのマンタを回避したのかはこの物語で語る必要性もないので割愛させてもらう。
「あ、そうそう、初めによりたいところがあるからそっちの方を優先するよ」
スイと名乗った少女についていく途中カルラはいろいろなことを尋ねた。その答えをまとめてここに記しておく。一つ、彼女たちは箱庭に依存しないで生きているれっきとした外の人間であること。一つ、箱庭が外の世界は爆撃で荒野と成り果てたと広めていたがそれは嘘だということ。一つ、彼女たちは箱庭の支配から人々を解放するために戦いを仕掛けたこと。
「箱庭の支配から人々を解放する?それってどういうことだ?俺みたいな箱庭に生きる人間をここから逃がす、というわけじゃないよな?」
「うん、違うよ。箱庭の支配を受けた内側の人間も、外側の人間も開放するって意味。多分キミは知らないと思うけど箱庭の外の人間は内側の人間を養うためにむりやり働かさせられているの」
忌々しげにスイがつぶやいたがカルラにはどういうことかぴんと来ていないらしくただ首をかしげるだけだ。
「箱庭の人間は食事をすべて政府に管理されてるでしょ?」
「あぁ、そうだな」
カルラが今日食べた食事も政府の支配の象徴であるタワーで原材料から作られたものだ。
「その食べ物がもし政府が作っていないとしたら?」
「それってどういう…」
「外の人間がキミたち中の人間のために食べ物を作っているのよ。多分キミが今日食べた野菜も果物も、牛も豚も鳥も、魚だってほとんどが外の世界の産物…内側の世界で作ったのなんてほんの一握りしかない…考えても見てよ、毎日3回の食事をしかも箱庭の人間全員分を用意するとしたら、本当にあのタワーで生産されている分で賄えると思う?」
「俺はタワーの内側のことなんて見たことないから確証は持てないけど…確かに今考えてみるとおかしいな…」
箱庭のことを忌み嫌っていた彼でもこの事実は言われるまで気づかなかった。世界に反抗しようと試みた彼も、プロパガンダで都合のいいように先導されてしまっていたのだ。
「外の人間は自分で食べる分まで内側の人間に差し出さなくてはならない、選ばれた内側の人間を養うためにね。キミが今まで何気なく食べてきた食べ物も、全部全部外の人間が自分の命を削ってまで提供してくれたものなんだよ?」
「まさか…そんなことが…」
彼は今まで食べてきたものを思い出そうとするが普段何気なく食べているそれを事細かに思い出すことができなかった。やっとのことで思い浮かんだものもあるがその時感じた味やおいしさが思い出されない。それが先ほどまで食べていた昼ご飯でもだ。そう感じてしまうほどに彼はこの管理された優しくて平等な食の日常にどっぷりと浸かりきってしまっていた。
「キミたちを養うために外の人間は毎日汗水たらして畑を耕したり家畜の世話をしている…自分でそれを食べることすら許されずにただ命令のままに動く、まさに箱庭の奴隷という風にね」
スイの言葉にカルラは何も答えることができなかった。ごめん、とか、ありがとう、とかそんな言葉が頭に浮かんだがそのどれもが彼らのことを労える言葉かというとやはり違った。こんな簡単な言葉では済まされない、きっと言葉にできないほどの何かをカルラは探したが結局それは答えを出すことができずに彼の内側にもやもやとしたものを残すだけだった。
「それにね…」
言葉を話すことができなくなったカルラに変わりスイが続ける。
「箱庭で働いてるアンドロイド、あの部品を作っているのも外側の人間、安い賃金で工場に押し込まれて一日中何に使うか用途もわからない機械を永遠と作り続けさせられる…」
「あの、機械たちが、か…」
自分たちが作った機械を自分たちが壊す、その行動に違和感を覚えた彼だがその違和感も箱庭のぬるま湯につかった彼独特の考え方のようだった。スイは歩きながらもクルリとこちらを振り返りニッと笑って見せた。
「どう?キミたちの罪がどれだけひどいものか、わかったでしょ?」
その冷たいとも感じれる言葉とは逆に彼女はにへらにへらといたずら好きの子供みたいに笑う。けれど彼は笑えなかった。笑うことすら、許されなかった。それは当然のことだ、何も知らずに隠されていた本質を知ることもなく彼はただ子供のように嫌いと喚いていただけなのだから。彼はぎゅっと唇をかみ、手の平を強く握った。本当に強く強く、手の平に爪が食い込んで血が出てきそうなほどに。けれど彼女はそんなカルラの様子とは打って変わりまた笑いの表情を浮かべた、ただしそれは先ほどのいやらしいものではなくて凛とした笑いだ。
「でもキミはもう違うよね?キミは箱庭を壊すために私たちに加担することを決めたんだからさ」
「いや、でもあれはほとんど脅されて…」
カルラはその途中でしまったと口をつぐんだ。またどんなことを言われるか、恐る恐る彼女の反応をうかがったがあまりにもあっけらかんと次の言葉を吐いた彼女に彼は少しにやついた照れた笑みを浮かべるしかできなかった。
「私に脅されてなくてもキミはこっち側に来たよね?」
「…」
彼女のその言葉に彼は言葉の代わりに照れた笑みを浮かべるだけだった。それが肯定だというようにただスイのように、けれど彼女と遠くかけ離れた笑みを浮かべた。
「ま、もう一度私たちの目標を大雑把に説明するとこの世界を支配しているつもりでいる箱庭のお偉いさんの鼻っ頭をへし折ってやろう!ということだね。何か質問あるかな?」
「…いや、今は無いかな。また何か思いついたら質問するかもしれない」
「あぁ、その時はちゃんと答えてやるさ、ウェルカムカムカムだよ」
彼女はにやにやとした笑みをたたえながらわけのわからないことを言った。周りはもう戦場と化しているというのにこんなにも笑みを絶やさないなんて不思議な奴だ、カルラはそう思ったがやはり口にしない。それはどうしてだか彼にはわからなかった。恥ずかしさか、それとも遠慮か、それ以外の何かなのか、とにかく彼はまた口を閉じた。静かになった彼の耳に聞こえるのはこの場に響く銃声とスイのカラカラとした笑いだけ。
「あれ…?ここら辺のはずなんだけどなぁ…」
会話が一段落したところでスイは辺りをきょろきょろと見渡して首をかしげる。
「何か探しているのか?」
「うん、仲間を探してるの。ジェットに異常が起こってここら辺に不時着したはずなんだけど…」
ジェットと聞いてカルラはふと頭上を見上げた。空には豆粒みたいに小さく見える人間がまるで蜂が群れのまま敵に攻撃を仕掛けるようにマンタにとびかかっていた。人間の背中に映えた羽のようなジェットがうなりをあげて一筋の緒を引いたのが見て取れた。
「あれ…?ほんとどこにいるんだろう?」
「俺もよければ手伝うけど…」
「そう、なら…」
スイは懐から一枚の写真を取り出してカルラに見せた。写真には幸せそうな顔で笑うスイとなかなかに美形の顔を少し鬱陶しそうに、カルラがスイの冗談を聞くまさにその時のように顔を歪めた長身の男が映っていた。
「彼氏か?」
「やだもぅ…そんな風に見える?え~照れちゃうな~…やっぱり滲み出る恋人オーラがそう見せてるのかもね」
「いや、やっぱり全然彼氏には見えねぇわ。男の方から嫌嫌なオーラがにじみ出てる」
「もう何よそれ!ま、確かに彼氏じゃないけど…」
「あ、やっぱり。俺にはスイがわがままなお嬢様でこっちの男がなんだかんだわがままを聞いてくれる従者に見える」
「そっちの方が正解かもね。てか私がわがままなお嬢様ってひどくない?」
「ならマリー・アントワネットみたいなお嬢様だなって言った方がいいか?」
「どっちも同じじゃない!あ、ちなみに言っておくけどマリーの有名なパンがなければケーキを食べればいいっていうのはケーキに使われてる小麦がパンよりランクが低く安いからで決してブルジョアジーな生活に浸かりきった暴言じゃないことは確かだよ。あの発言は実は国民のお財布のことを思って言ったのにどこかで勘違いされちゃったみたい」
「へぇ…」
スイの口から放たれたまさかの雑学に思わずカルラは声を漏らしてしまった。感心した一瞬ののち彼は本来の目的を思い出してもう一度彼女に尋ねた。
「で、これは誰なんだ?彼氏じゃないなら何者?」
「私の家族って言ったらいいかな…18歳だから私より1つ年上でお兄ちゃんって感じ。名前はクロムっていうの」
「ふ~ん、クロム、ねぇ」
そこから彼女はクロムについて、自分の家族のように親しい彼について話し始めた。
「クロムは普段とっても優しくて面倒見がいいんだよ。私たちの部隊に来たのは一番遅いのにそれでもずっと昔っから一緒に過ごしてる感じでさ…でもね、クロムは病気なんだ…内臓のいたるところに病巣が巣食っててあと1年生きれるかどうかって先月言ってたっけ…」
「病気ならメディケアで治せばいいんじゃ…」
無神経なカルラの言葉もスイは軽く受け流した。彼女はまるで子供に教えるみたいに優しく、諭すような、それでいて批判するような口調で声をこぼした。
「外の世界にはさ、メディケアは無いんだよ…あんな夢の技術、全部内側の人間が独占しちゃってて外になんて回ってこない…それにお薬の材料もほとんど内側に持って行かれちゃうからさ、外の人間はちょっとした風邪でも命の危機に陥るときもあるんだよ…ほんと、ちょっとした病気でもみんな苦しんでる…」
「ご、ごめん…」
無意識にこぼしたごめん、という言葉だがカルラのそれには感情と言える感情がこもっていなかった。メディケアが当たり前にある世界に生きて風邪の苦しさすら知らずに育った彼には、病気にかかるという感覚が分からなかったから。どういう顔をしてどういう風に言葉をこぼしたらいいか彼には全く分からず、とっさについた人としてのごめんという言葉だけが虚しくスイの耳に反響した。
「そうだ、クロムの話だね…で、彼は残り少ない余命だっていうのにみんなを助けるために使うって嬉しそうに、誇らしそうに語っていた。自分の残り少ない命をはって箱庭の外で重労働に苦しむ人間も、内側で捕らわれたように生活を送っている人間も救えたら、ってずっと言ってたとっても優しい人…」
「そうか…クロムって人は、みんなにも好かれていたんだろうな…」
「うん、みんなクロムのことが大好きなの。友達として、仲間として、家族として、みんな彼のことが大好き」
照れる素振りもなく力強く彼女は呟いた。その言葉を、家族としての好きの気持ちを、口の中で噛みしめるように力強く、彼女は言葉をついたのだ。スイが絶賛する彼に、カルラはとても会いたくなった。
けれどカルラは二度と天に見放された優しい彼と出会うことはなかった。
「嘘…でしょ…こんなのって…ないよ…どうしてよ…」
崩壊した瓦礫の山に囲まれたそこで、彼女は立ち尽くしていた。今までたたえていた笑顔が涙によってべりべりと剥がれ落ちていく。その下から現れたのは、後悔とも絶望とも違う、なんとも形容しがたい負の表情。訳の分からないその顔をさらしながらスイは目の前に横たわる人間だったモノを見つめていた。
「嘘でしょ…クロム…ねぇ、眼を開けてよ…まだ、余命は来てないんでしょ?あと1年は生きられるって言ってたじゃん…まだ、寝るには早いよ…クロム…」
スイの目の前に、赤い水たまりの上、横たわったものは、写真に写っていた彼、クロムだ。あの写真の困ったような表情とは逆に彼はどこかやり遂げたような安心した顔を浮かべていた。ただ体の方はその安らかな顔とは裏腹に痛々しい穴が無数に開いていた。彼の周りの瓦礫には建物の破片に混ざってアンドロイドの亡骸も埋まっていた。きっと彼は不時着したこの場所で最後の最後までアンドロイドと戦い、銃弾の嵐に死んだのだ、カルラは傍からその光景を見てそう考えた。二度目に見る死体、けれど先ほどより吐き気は起こっていない。きっともう死んでいたから、動いているところを見たことがなかったから。なんて薄情なんだろう、自分自身の心に冷静に浮かんだそんな考察をかき消すように彼は頭を振った。
「なんで…なのよ…」
スイは膝をつきクロムだったものに縋りついた。彼女の瞳からは大粒の涙が零れ落ち血だまりの上にポツリポツリと落ちる。まだ水気を含んだそれがぽちゃん、ぽちゃんと安らかな音を響かせた。
「スイ…」
カルラはふとスイの名前を呼んだ。振り返ったスイはウサギのように目を真っ赤にして涙で顔がぐちゃぐちゃに歪んでいた。今まで彼女の笑った顔しか見たことがなかった彼はその表情の変化に胸が締め付けられる思いを感じた。死を悼む彼女にひどく心がざわめいたのだ。けれど彼が感じたその感情も、結局は他人行儀なものだった。他人の友人が死んで、その場に合わせて涙を流したと感じさせる自分の心がとてつもなく嫌になった。これが、箱庭の内側で過ごす本当の恐ろしさだ、自分は自分で他人は他人、完全に割り切った人付き合いしかできなくなってしまっていた彼はスイにかける言葉を見失っていた。
「カルラ君、知ってる?昔はね、いい人ほど早く死んでいったんだって…誰かを助けるために頑張ってたり夢に向かって一生懸命に努力してたりしてる人はみんなすぐに死んで、悪い人間はとことん生き残ってみんなに迷惑をかけまわる…もしクロムがいい人じゃなくて、悪い人だったら、死ななくてすんだのかな…?」
彼女はきっと憎まれっ子世に憚る、的なことを言いたいんだろうなとカルラは思った。けれど彼にはこの質問に答える術は持ち合わせていなかった。If(もしも)の世界なんて彼には想像できなかったから、いや、想像する権利を持ち合わせていなかったから。今までのうのうと死から隔離されてきたカルラにはもしも○○だったら生きていたかも、なんて考えること自体傲慢だ、無意識の意識は彼の心に深く傷をつけた。
「ごめん…意地悪な質問だったね…忘れて…」
カルラが答えなかったのを答えが出せなかったと捉え間違えたスイはそのまま俯いてごそごそとクロムだったモノの体をまさぐった。そこからいくつかの品を取りポケットに押し込んだ。
「ごめんね、クロム…これだけしか持って帰ってあげられないけど…でもあなたの意思はちゃんとみんなに伝える、みんなクロムのことを忘れたりしないから…」
静かに贈られたクロムへの最後の言葉とともにその場には長い沈黙が訪れた。どちらも話す言葉を失った、というわけではない。話しかけられなかった、と言った方が正確だ。どちらもが互いの傷ついた心を敬遠しあい話し出せない状況が続いていた。
けれど黙っている状態が永遠に続くわけはない。その重苦しい沈黙はノイズを含んだ女の声によってかき消された。
「スイ!大変や!」
「何よ、セリ…」
セリ、というのはスイが胸に下げているトランシーバーから漏れる声を発している主の名前だろう。セリという女は声を荒げてまるで叫ぶようにスピーカー越しに声を響かせた。その関西弁の言葉がさらに彼女の声を切羽詰まったように聞こえさせた。
「撤退命令や!ついさっきただちに撤退せよって全部隊に送られよった!」
「撤退命令!?どういうことよ!」
先ほどまで沈んでいたスイの声が急に鋭くとがった。その変化に傍で聞いていたカルラもただ事ではないと察する。
「戦艦や…戦艦が、出動したって…」
「せ、戦艦!?」
スイが突然空を仰ぎ見た。様々な場所から上がる土煙によっていつもの透明さを失った空に巨大な影が割り込んできた。空に浮かぶ太陽を遮り地上が暗く冷たい影に覆われた。
「あ、あれ…なんだよ…?」
「戦艦まで出張ってきたら…もう勝ち目なんてないじゃない…」
スイが呼んだ戦艦というものをカルラは仰ぎ見た。それは空に浮かぶ船、いや、軍艦だった。まるで昔のアニメに出てきた宇宙戦闘を繰り広げるあの艦のようなそれが今空中に浮かび地上を見下ろしていた。だがそれはまだ彼らがいる場所とは遠い場所に浮かんでいる。が、それでも確実に巨大だと分かるその姿にカルラは身震いする。
「はよ逃げるで!幸い戦艦の飛行速度はとろいから今なら逃げられる!もうほかのみんなは拾った!後はあんただけや!」
「わかった、すぐに合流する。車の座標を送って。そしたら私が一番合流に適したポイントを見つけて座標データを転送する。どちらが早く着いたとしても合図として硝煙弾を飛ばして」
「おっけいや、任しとき!ほなデータ送るからな!」
ぴろん、と電子音が響いたのと同時にトランシーバーはノイズ交じりの声を吐き出さなくなった。スイはポケットから携帯端末を取り出して慣れた手つきでそれを操作する。
「よし、行くよカルラ君。ここから逃げるの。ぼぉっとしてないで早く!じゃないとあの戦艦に粉微塵に吹き飛ばされちゃうよ!粉末になりたいの!?」
「そんなのなりたくないに決まってるだろ!」
「なら走って!今はそれしかない!ちゃんと私の後ろについてきて!」
スイは走りだそうとするがカルラは止まったままだ。その目線は地面に横たわったクロムの亡骸に向けられていた。
「なぁ…あいつは…」
「いいの…クロムが生きてた証はちゃんと私が回収したから…それに彼を背負いながら逃げるのはきっと私でも無理…下手したら死んじゃうかも…そんなのきっと、クロムは望んでないから…」
やはり弱々しい言葉をこぼしたスイだが、その言葉には明らかに強さが孕んであった。生き残るための意思がこもった強さが、スイの言葉には見受けられた。だからカルラは走り出した、振り返らずに、ただ自分が生きるために、自分を生かしてくれようとしている彼女のために、ただただ走った。
「こんなやばい時でも敵さんは手を止めてくれないのね!カルラ君!頭下げて!」
「お、おう!…うわっ!」
「大丈夫、怯えなくていいわ。銃弾が頭すれすれを飛んで行っただけだから!」
「そんなの普通怯えるよね!?」
「男の子のクセに軟弱ものだよねカルラ君は!次、私の左側に回って!」
カルラたちが必至で逃げるにもかかわらずアンドロイドは忠実に仕事をこなす働き者のようで、べったりと彼らに張り付いて取れないのだ。アンドロイドの中にもサボり魔がいてもいいのに、なんてやっぱり場違いなことがカルラの頭にはよぎった。どうにも死にそうになると馬鹿な考えが浮かんでしまうのが癖らしい、という箱庭にいれば一生知ることのなかった癖が発覚してしまうカルラだった。
「もうすぐ合流地点だよ!頑張って!…あ、硝煙弾!あっちの方が早かったのね…なら十分!こいつで何とかなる…!」
スイは手に丸くて黒い何かを握る。カルラはそれを一瞬海苔巻きおにぎりかと思ってしまったがこんな危ない時におにぎりを取り出すバカもいないだろうと冷静な心がツッコミを放つ。その黒い何かを後方に迫ったアンドロイドの群れへ投げ込んだ瞬間、それは爆ぜた。圧倒的な爆風にアンドロイドの体はバラバラに吹き飛んだ。
「そんな便利なアイテム持ってるなら最初から使ってくれよ!」
「とっておきは最後に使うってのがお約束じゃないの?」
「その最後って死ぬか生きるかの瀬戸際って意味じゃないよな?」
「さぁ、どうだろ?クヒヒ」
なんて憎たらしい笑いを浮かべるのだろう、とカルラは思った。しかしこんな状態でもやはり笑顔を浮かべられるようになっているスイは尋常ではない精神力の持ち主だろう、なんてカルラの頭によぎったがすぐさまそれを否定した。
(いや、きっと彼女は何度も仲間の死を見てきたんだ…だからまるでスイッチを切り替えるみたいに感情の切り替えができる…沈みかけた心を鼓舞するみたいに無理に笑って見せられている…これもきっと…)
そう、これもきっと箱庭の影響だろう。箱庭を壊すために戦ってきた彼女の逃れられぬ宿命であり彼女が負った心の傷、一生治ることがない心の傷に、彼の心はまたキュッと締め付けられるのを感じたが、その締め付けの本当の意味を理解できるにはまだまだ彼は他人との付き合いに未熟すぎた。
「ごめん!待った?」
「何デートの待ち合わせの時のキメ台詞言うとんねん!はよぉ乗り!…ってこのメガネの兄ちゃん誰や?それにクロムは一緒じゃないんか?あいつの反応と一緒の場所におったからてっきりついて来とるとおもっとったのに…もしかしてアイツしんがりでもしとんのか?」
そこに停められていたのは巨大なトラックだった。その運転席から顔を出して今では死語である関西弁丸出しで会話するこの少女がセリ、ボブカットの金髪と快活そうな笑顔が眩しい少女だ。少し切れ長で釣り目な瞳がまるで狐を連想させる少女はきょろきょろと辺りを見渡してもうこの世にはいない仲間の姿を探る。
「ならはよう呼んできいや。うち、あいつに見せたいもんがあんねん。なんとな、メディケアをかっぱらってきたんや!そこら辺をぐるぐるしとるはぐれやったんやし持ってきても大丈夫やんな?これでクロムの病気も治るで~」
事実を知らないセリは無邪気な表情をたたえてまるで親に褒めてほしい子供のように瞳をキラキラと輝かせている。それとは対照にスイは奥歯をギリリと噛みしめあふれ出してくる感情をこらえているように見えた。
「セリ、早く車出して。カルラ君も、早く乗って」
「え?ホンマにええんか?車出してもうて…」
「えぇ…いいから早く出して…早くしないと戦艦がやってくる…」
「あ、あぁ…せやな…」
静かに感情を押し殺したスイの言葉にセリは何かを悟ったのだろう、ブン、とエンジンをふかせて巨大な鉄の騎馬を操り始めた。
箱庭にも車はあるがどれも安全重視でスピードなんてろくに出ない、歩いたほうが早いんじゃないかというぐらいのスピードなのだが、今カルラが体感している速度は違う。トラックの寝室スペースに押し込められてはいるもののそこから覗く外の景色はまるで自分が風になったかのように素早く通り過ぎていく。外では必死にアンドロイドがこちらに銃をぶっぱなしているが巨大な鉄馬には通用するはずもなかった。鉄馬を仕留め損ねたオートマティックな労働者が背後で次々と倒れていく。その頭が銃弾にぶち抜かれて次々と吹き飛んでいく。ポン、ポン、ときれいに頭だけ飛び出すアンドロイドたちはまるで子供のころ遊んだおもちゃの黒ひげにそっくりだった。カルラからは見えないがトラックの荷台からスナイパーライフルがのぞいておりその銃口から放たれる凶弾がアンドロイドの頭をおもちゃみたいにポンと弾き飛ばしていたのだ。スナイパーの持ち主もスイの仲間であり家族なのだがカルラがその事実を知るのはまだ先のことだった。
「あ、あのさ…スイ…」
ピリピリとした沈黙が走る運転席、助手席に座るスイにセリはおずおずと尋ねた。
「もしかしてクロムって…死んでもうたんか?」
こくり、頷く代わりにスイはポケットから何かを取り出した。それは先ほどクロムの亡骸をまさぐって持ち帰ってきたものだった。まだ天に昇っている日の光を反射して輝くそれはブレスレットだった。銀色のそれには若干だが血が、クロムの命の証が付着していた。カルラからは見えないがそこには小さく名前と生年月日も記録されていた。
「そうか…ホンマに…死んでもうてんな…うち、てっきりあいつは病気で死ぬんやと思てた…うちらみんなに見守られてゆっくりと仏さんとこに行くと思うてたのに…こんなん嘘やろ…」
このブレスレットは彼女たちの生きた証だ。彼女が所属する部隊は皆このブレスレットを持ち、死ぬとその日が生年月日の後に刻み込まれる。これだけが戦場から持ち帰るのを唯一許された生きた証なのだ。
「嘘だと思いたいのは私も一緒よ…やっぱりあの時ジェットがやられたのが引き金になったのかもしれない…私が助けに行っていれば…死なずに済んだかな…」
「やめとき…もしもああしてたら助けられとったって話は、余計気がおもうなる…」
「そうだね…ごめん…」
運転席に、涙交じりの嗚咽が響いた。それはスイのものかセリのものか、はたまた両者のものか、それをカルラは知る由もなかった。ただそのやり取りのどうしようもないやるせなさを、切なさを、推し量ることしかできなかった。
「と、重い話はここまでにして、こいつ誰なんや?」
努めて明るいセリの声にこちらも努めて明るいスイの言葉が答える。
「カルラ君、箱庭の住人だよ」
「あんた内側の人間連れ出そうとしとんのか!?うちは今逃れられへん共犯関係にあるわけかいな!?」
「違うよ。カルラ君は箱庭を心底嫌ってる。箱庭を壊したいとも言ってくれた。だから、私たちの仲間にしようと思って…」
「それで拉致してきたんかいな…」
「拉致とは失礼な!」
「なら誘拐か?」
「同意の上だもん!飴ちゃんあげるよ~って言ったらホイホイついてきたの」
「それが誘拐言うんやアホ!」
アハハ、とカルラを置き去りにして二人は笑った。カルラは飴より鞭をもらったんだがと内心で思いただ小さく苦笑いをこぼすしかなかった。
「と、カルラ言うたな。うちはセリや。難波セリ、好きなものは金と粉もん!粉もんってわかるか?お好み焼きとかたこ焼きとか…ま、関西人のソウルフードやおもといてくれや!これから仲ようしましょうや」
「あ、そ、そうだな…よろしく…」
「どないしたんや、そんなおずおずして…もしかしてうち、嫌われてもうてる?」
「かもしれないねぇ。だってセリって関西から久しぶりに実家帰ってきて親戚の子供に会ったおばさんみたいな雰囲気だしてるもん。あの時の子供の気持ち考えたことある?よくわからない言葉で山のように何か言われるんだよ?あれ以上トラウマなものはないよ…」
「まるで自分が体験したような口ぶりだな、おい…」
よよよ、とわざとらしくやっているスイに思わずツッコミを入れるカルラ。
「まぁ全部本の知識なんだけどね」
「なんだよそれ…」
「あかんあかんそんな弱いツッコミじゃ!ツッコミはもっとこうシュッとしてビュッとしてドガッとやるもんや!」
「お、おう…?」
そのあとセリによる怒涛のツッコミ講座が始まったがいかんせん擬音が多すぎてカルラには理解することができなかった。関西は面白くもあり恐ろしいところだったんだな、なんて方言のほぼ死滅した世界で彼は一人思った。
「さて…冗談はこれくらいにしといて…みんなつかまりよ!飛ばすでぇ!」
アクセル全開、鉄馬は一気にトップスピードへと突入した。ぎゅんと過ぎ去る景色に酔いを感じる暇もなくただカルラはセリの運転に身を任せていた。スイはというとどういう神経をしているのかぐっすりと眠っている。本当にわけのわからない女の子だな、なんて思っていたカルラだがそのどうでもいい感想はすぐに吹き飛んだ。目の前に迫ってきた壁によって。それはカルラが今日訪れた壁であり箱庭の外と中を隔てる重要な一枚だ。それが今、だんだんと目の前に迫ってきている。
「お、おい…セリ…これ、もしかして…ぶつける気なんじゃないだろうな!?」
「さぁ、どうやろな?」
「や、やめろって!死ぬから!絶対に死ぬから!死にたくないって思ってついてきたってのによぉ!」
「泣き言言いなさんなや、男なんやろ?それに…死ぬか死なんかは、やってみなわからへんよ!」
「ぎゃあぁぁぁぁぁ!」
カルラの悲鳴が運転席に響いたその瞬間トラックはフルスピードへ壁へと激突、はしなかった。まるで自動ドアみたいに壁が一瞬で開きトラックを箱庭の腹の中から吐き出した。
「何が…起こったんだ?」
「うちらには優秀なハッカーがついとる。ただそれだけや」
「ハッカー…そうか…ほんと…ビビった…下手したらおしっこ漏れてたかも…」
「なにせこんな慌てようやったもんな?」
セリがポケットから取り出した銀色の何かのボタンを押すととたん運転席にさっきのカルラの無様な騒ぎ様が響いた。まぁなんと趣味の悪いことだろう、セリは今のカルラの騒ぎを録音して、しかも大音量で流したのだ。この時ばかりはカルラは本当に死にたい、と頭の中で強く思った。
というわけでカルラは無事に箱庭の外へと脱出することができた。去り際が無様な叫び声、というのはどうにも締まらないが望んだ外へと出ることができたのだ、結果オーライと言えよう。箱庭からの支配を逃れた、けれど彼の心は晴れ渡る快晴のようにはなれなかった。この後の外の世界で自分は生きていけるのか、その不安が心を塗りつぶそうとしていた。
「大丈夫だよ…カルラ君なら…」
けれどこの言葉が彼の心に引っかかった重荷を少なからず取り去った。どういうわけかスイと一緒なら大丈夫、と根拠のない自信が彼の心の奥底でそう叫んでいた。
「スイ…ありがとな…」
だから彼は感謝する、自身を外の世界へ連れ出してくれたきっかけを。自身を守ってくれた彼女を。常ににこにこしているけれど綺麗な涙を流す彼女に、人生の中で初めてであろう心からのお礼を送った。けれど…
「スイなら寝てるで?」
「え?もしかして…」
「あぁ、完全に寝言やな…」
(どうにも締まらないなぁ、やっぱり…)
結局彼の本心からのお礼も奔放な彼女には届かなかった。そんな彼の締まらない様を夢ででも見たのか、彼女はにやにやとした寝顔を浮かべていた。
「ちっ…まずったかなぁ…」
俺は舌打ち一つして辺りを見渡した。辺りには歪な機械人形の群れ、群れ、群れ、命あるものと言えば俺くらいしか見つからない。任務開始すぐにジェットエンジンがやられて不時着したのだがこうも敵に囲まれてしまうとなると絶体絶命以外の言葉が見つからない。
「こりゃだめかもしれないな…俺、死んだわ」
アンドロイドの群れをねめ回しながら俺ことクロムは諦めのため息をこぼした。こんな諦めの息をこぼしたのは2年前以来だ。2年前、俺は寿命を宣告された、あの時寿命を聞いた俺は今日と同じで諦めのため息をこぼしていた。
気がつけば内臓が侵されつくされていて医者に言わせれば手の施しようがなかったらしい。それでも薬で進行を遅らせればあと5年は生きられる、それが2年前の医者の見解だった。けれど俺の中の病は5年もの猶予を与えてくれるわけがなかった。医者の予想とははるかに速い速度で病が内臓を犯したのだ。気がつけば俺の残りの寿命は宣告された時間を過ごす間もなくただただ縮んでいくだけで、今は残り1年、いや、それが宣告されたのが先月だから残り11か月。きっともっと少ないのだろうな。
余命を知ったその時、俺は世界を諦めかけたが、どうにも根っからの性分というのだろうか、誰かを救いたいという思いが俺を突き動かした。諦めるのは簡単だ、残りの人生を病院のベッドの上で楽に過ごせばいい。けれど俺は行動をおこした、誰かを救いたい、ただその一心で。革命軍に所属し箱庭による圧政から人間を解放しようと今日まで戦ってきたが、どうやらもうだめみたいだ。
「神様はことごとく俺のことが嫌いなようだ」
なんて呟いて自嘲的な笑みを漏らす。俺の時間の経過に全く従おうとしない余命は今日この時点を持って0の針を示した。残っていた約11か月の時間がこの瞬間神様によって剥奪されてしまったのだ。アンドロイドが構える無機質な殺意が俺を捉える。
「はぁ…けど俺は、ただでは死ねるはずもないんでね。あいにく、背負ってるものがあるんだよ!」
背負っているもの、それはこの2年の間にできた俺の大切な仲間、いや、家族と呼ぶべき存在だ。目の前に転がる死を前にして俺は大切な家族の顔を一人一人浮かべた。記憶の中のみんなは常に笑顔で俺もつられて笑みが漏れるのを感じた。
「ま、最後は孤独な方が、いいか」
一瞬頭の中であいつらにもう一度会いたいという気持ちがよぎったが、それも別の考えに塗りつぶされる。最後に見た家族の顔、それは笑顔だった。きっと寿命を全うしてベッドの上で安らかに内臓を犯されながら死んでいく俺を看取りながらあいつらは泣くのだろう。そんなこと、俺は望んでいなかった。最後に見るのがあいつらの泣き顔、なんてのはやっぱりいくら考えても嫌だった。だからここでひっそりと一人で、あいつらの笑顔を思い出しながら死ぬのも本望かな、なんて思ったりした。
「ごめんな、みんな…先に死ぬ俺を許してほしい…いつか、箱庭を解放できた暁にはさ、天国で宴会でもしようや。先に準備して、待ってるからさ」
あ、別に早く死ねという意味じゃないぞ、と内心で付け加えてから俺は周りの命無き労働者を睨みつけた。どうせ死ぬならこいつらも道連れだ、俺は背負っていたマシンガンを構えて敵の姿を見る。銃弾が、放たれた、それが俺の最後の戦いの始まりの合図だった。
無数の銃弾が雨のように俺の体を、いや、侵されつくした内臓を喰い散らかす。けれど俺は崩れない、気力だけでマシンガンを操りアンドロイドの群れを破壊する。だがどうあがいても鉛弾に食い散らかされた病巣どもは俺の体から熱を、意識を奪っていく。クラクラと眩み闇の中に沈み込む意識に、最後に浮かんだのは仲間たちの笑顔だった。俺はがんばれよ、ありがとう、ともう震えない喉で言った。その瞬間俺の病巣はすべてを喰い尽くした。たった21グラムの魂まで喰らい、ご丁寧に俺という存在を完食してしまった―
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