第3話 異質はどちらか





「うおおおおおおおおおっ!」

《ガァァアアアッ!》



 走った。全力で。

 それと目が合った瞬間、自分の本能が指示するままに、脇目も振らず彼は走った。

 ただひたすらと、間違いなく後を追いかけてきているであろう、その怪物から逃げるために。


 それは、修がこれまで見たことのない奇妙な生物だった。

 大人のイノシシを凌ぐ体躯に、爛々と輝く赤い眼。ユニコーンのようにまっすぐ伸びる角は黒々としており、さらには針のようにとがった全身の青い毛がその凶暴性を際立たせていた。

 そんな生物、いや怪物が自分をすっと見据えて駆けてきているのだから、まさか逃げないわけにはいかなかった。


「なんでわざわざ俺のところまで来るんだよおおおおおおおっ!」


 遠い森の中から出てきてまで追いかけるほどあの怪物は暇なのか、もしくは腹が減っていたが身近に獲物がいなかったのか。十中八九後者なのだろうが、それでも相当に距離があっただろう位置にいる獲物に食らいつくためにやってくるとは思うまい。

 ならば何が原因か。

 そのとき、修はハッと目を見開いた。


「まさか……弁当か!?」

《グルァアアッ》


 まるで肯定しているかのように、怪物は咆哮した。

 どうやら空腹で嗅覚の鋭くなった獣に弁当の匂いを捕らえられてしまっていたようだ。

 今になって修は数分前の自分を叱咤する羽目になった。


「ちっくしょおおおおおおお俺の馬鹿ぁあああああ!!」


 だが後悔したところで現状はなにも変わらない。腹を空かした獣はそれ故に眼前の獲物を逃そうなどという気がまったくなく、彼との距離もどんどん縮まっているのだと背に鼻息が近づく度に感じられた。

 もっとも、全速力で駆ける獣に差が減りながらも逃げられている修の脚力も一般的に見れば尋常ではない光景であるのだが、本人は必死さのためか気付いていない。


 2者の距離はおよそ50m。短くはないが、かといって離れた位置でもない。一度足を止めてしまえばその瞬間埋められるだろう、それほど危うい均衡にある。そしてその均衡も、今は徐々に崩れ始めているのだ。

 だから決して止まるわけにはいかない。

 そうやってなりふり構わず走っていた所為か、彼は自分が服の中にしまっていたが外に出てしまっていたことも、を結びつけていた紐が首から外れかけていたことにも、直前まで気付くことが出来なかった。


「え、あ……!」


 違和感を覚えたときには既に遅く、首に掛けていたはいともあっさりと宙に飛び出した。

 そういえば巻いていたはずのマフラーがないな、と他人事のように考えた修は、いやに冷静な面持ちのなか無意識に手を伸ばす。自分に迫る怪物に対し身体ごと振り返り、ただ落ちていこうとするを掴むことだけを考えていた。

 走ることをやめた修に、獣は真っ直ぐに突っ込む。それまで保っていた差を一気に埋められ、咆哮をあげた怪物の角が怪しく輝くのを視界に入れても。


 不思議と焦りはなかった。

 死んでしまう、と感じることもなかった。

 ただ漠然と、こうしなければならない、と思ったのだ。


 そして、修の手と怪物の角が、互いにに触れるか触れないかの位置まで近づいたとき。




「それは、俺のだ」




 だから触れるな。

 そう言って手を伸ばし、右手にが収まったと感じた途端―――。












 目の前には、首を切断され事切れた怪物が横たわっていた。



 森の中程まで進んだ場所で、鬱蒼と緑が生い茂るなか。

 獣だったものと、彼の右手で輝く一振りの剣だけが、赤く紅く異質に染まっていた。






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ルチルストーン伝記 花鶏 @MIKA-I

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