第2話 〈彼〉のこと
5年前のある嵐の日、1人の少年が傘も差さないずぶ濡れの状態で歩いていた。
右腕に怪我を負い、患部を押さえふらつきながら人通りの少ない住宅街を進んでいた少年は、転んで倒れたところを若い男に助けられた。高熱も患っていた彼は男に支えられた途端に気を失ってしまい、男は彼の名前を聞くことしか出来なかったという。
少年は、朦朧とする意識のなかで、〈しゅう〉と名乗った。
身元不明のまま〈しゅう〉は病院に運ばれ、1週間高熱にうなされた。そして目が覚めたとき、彼はすべての記憶を失っていた。言葉も文字も、そして名前さえも。
身元もなにもわからない少年の存在に、警察も事件絡みではないかと懸命に捜査した。まだ10歳頃だろう幼い子どもに、腕の他にも小さな傷があちこちにあったこともあり、虐待の可能性もあるとみられて初動から多くの警官が動いた。
しかし、事件の気配どころか、〈しゅう〉と名のつく子どもの情報すら何も挙がっては来ず、この一件は迷宮入りとなる。
1番対処に困ったのは少年の処遇だ。記憶は一向に戻らず、そして言葉も話せないことで会話もままならない状況だった。どうするべきかと周囲が困惑していたときに、1人の男が手を挙げた。
『――私が、彼を引き取ります』
最初に〈しゅう〉を保護し、その後すぐ病院に駆け込んだ例の若い男だ。
男は
周りの状況をほとんど理解できず、警戒心をむき出しにしていた少年自身も、よく訪れては優しく接してくれていた彼のことは信用しているようだった。
『〈しゅう〉、大切なものを思い出すその日まで、私が君を守ります』
当時は言葉がわからなかった〈しゅう〉も、彼の真摯で穏やかな姿を見て、自然とこの人は大丈夫だと感じたという。
そして一馬は周囲の人間を納得させ、やがて退院した少年と病院を去った。
新しい居場所と、新しい名を与えられて。
* * *
緑豊かな草原の真ん中で、ぱあんっ、と乾いた破裂音が響き渡った。
「ご馳走様でした!」
正座した上に置かれた弁当を片付け終えた桜井修は、満足げな様子で手を合わせ一礼をおくった。
「いやあ、腐ってなくて良かった。駄目にしていたら食材に申し訳ないもんな」
うんうんと1人相槌を打つように頷きながら、そのまま弁当の入った巾着をリュックにしまう。
修の引き取られた施設には6人の子どもが生活していた。彼と同年代の子もいれば2、3歳ほど年上の者、まだまだやんちゃざかりの幼児まで、年齢は様々だ。その所為もあってか経営はやや苦しい様子で、特に食べ盛りが多いため食費がかさんでいた。そんな状況に慣れない環境ながらも危機感を覚えたのか、言葉を覚えるよりも早く修はどんどん料理の腕を上達させた。料理の出来る者がおらず外食ばかりだった施設での食費は一気に改善されたのだ。
勿論、弁当の中身は修の自作だ。
――ちなみに、このことから彼の最初に発した言葉が
『ごはんつくる』
であったというのは、紛れもない悲しい事実である。
「……さて、と。これからどうするかなあ……」
荷物を背負いながら立ち上がった修は、改めて辺り一帯を見渡す。昼食を摂りながらも眺めていたが、やはり
此処が何処でどうして倒れていたのかという疑問は一先ず置いておくとしても、なんとか日暮れまでには人の住んでいる場所に辿り着きたい。そう考えながら視線を巡らせていたとき。
「……ん? …………なんだ、あれ」
ふと、視界に入った黒い影を、修は見つめた。まだ距離はあるため点ほどの大きさしかなかった影は、徐々に大きく鮮明に見え始める。影はどうやら生き物で、そしてこちらに近づいてきているようだった。
ウサギとかタヌキとかの動物か、と思ったがまず大きさが違う。近づくにつれて見えてくるその姿は到底小動物と言えるほど小さいものではなく、どちらかというと豚か、あるいは牛ほどの体躯をしている。
猛突進しながらやってきている謎の生き物。
そして、狂暴な目つきをしたその動物と、がっしり目が合った修。
「……あれ、もしかして標的、俺……?」
およそ150m。
対象が視認できるほどの距離に来てから、ようやく修は己の危機を悟った。
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