三章 孔雀姫 4

 並べられた料理は豪勢だった。炊き上げた米ときのこ汁、川魚の塩焼きまである。

「どうぞ、たんとお食べ」

 いざりは椀にきのこ汁を注いで、かさねに渡してくれる。ぼんやりしていたかさねは危うく椀を取り落としそうになり、「ありがとう、兄さま」と慌てて言い繕った。

「あしたは早いんだろう、にぎり飯を作ってあげよう」

「う、うむ」

 うなずきながら、かさねはそれとなくイチをうかがう。イチは円座に片膝を抱いて座り、ごはんに漬物を乗せて、黙々とほおばっている。かさねにはごはんと水だけと言ったくせに。恨めしげに男を睨み、かさねは茶碗によそわれたごはんを口に入れた。おなかがすいているはずなのに、砂を噛んだような味がする。

(イチが言ったことの意味はわかる)

 ごはんと水以外を口にするなというのは。

 つまり、いざりが夕餉に何かを盛るとイチは考えたのだろう。

(馬鹿な。兄さまがそのようなことするはずがない)

 即座に怒りにも似た気持ちがこみ上げる。しかしその反面、かさねの心の一部は、ほんとうか?と尋ねもするのだ。いくら兄さまが世間と隔たって生きてきたとはいえ、本当にかさねの嘘を鵜呑みにするほど愚かな方だったろうか。それに、先ほどのアルキ巫女はいったい。神像を差し出した代わりに、いざりが受け取った小瓶にはが入っていたのだろう……。

(だからといって、夕餉になんぞ盛るなど)

 出口の見えない迷路に迷い込んだ気分になって、かさねはぎゅっと目を瞑った。

(兄さまがするはずがない)

(かさねの、やさしい兄さまが)

「かさね?」

「ふおっ!?」

 いざりに顔をのぞきこまれ、かさねは再び茶碗を落としかけた。

「まったく食べてないじゃないか。やっぱり具合が悪いの?」

「い、いや、そのようなことはない……」

「汁ものだけでも啜るといい。身体が温まるから」

「……うむ」

 やさしく微笑まれ、かさねはおそるおそる汁椀を持った。味噌の甘いかおりが鼻腔をくすぐる。一瞥した限りでは、毒などとても入っているようには思えない。当たり前だ。兄さまがそんなことをするわけがない。そんなことを考えるイチのほうがおかしいのだ。

「あ、あにさまは」

「うん?」

「かさねの兄さまだものな……?」

「……どうしたの、突然」

 瞬きをしたいざりの顔を見て覚悟を決める。

(かさねは兄さまを信じる)

 息を吐くと、両手で抱えたきのこ汁を一気に飲み干そうとする。だが、それを横から伸びた手がかすめ取った。

「なっ」

 かさねから奪った汁椀にイチが口をつける。三口でぺろりと食べ終え、「おかわり」と空になった椀をいざりに差し出した。いざりの目におびえに似た何かがよぎる。二杯、三杯とイチが平らげていくうちに、それはひどくなっていくようだった。膝頭に置かれたいざりの手が震えているのに気付いて、「兄さま?」とかさねは尋ねた。

「貝や動物から取ったものは得意じゃない。けど」

 四杯目を平らげて、ほぼ鍋の中を空にしたイチはぽつりと言った。

「植物から取ったものなら効かない。子どもの頃、何度ものまされたから」

「……何の話ですか」

「微かに土のにおいがするから、サジの根か。熱さましにも効くが、量によっては昏倒する。あんたの妹みたいにひよわでちっさいのなら、死に至ることもある」

「私はかさねを殺したりしない!」

 とっさに言い返し、いざりは眉をぐっと寄せた。

「あにさま……?」

 それきり口をつぐんでしまった兄の膝をゆすって、かさねは首を振った。

「兄さま。な、何ゆえ、黙るのじゃ。かさねの兄さまはそのようなことはせぬ。ぜったいにせぬ。だから、ちがうと言ってよいのじゃ」

 俯いて黙り込むいざりに痺れを切らして、かさねは鍋に残ったきのこ汁をお椀によそおうとする。それをいざりの手がぴしゃりと払った。汁椀から中身がこぼれ、打たれたかさねの手が瞬く間に赤く染まった。目を瞠らせたまま、かさねは今度こそ言葉を失くす。

「孔雀姫からの命は絶対だ」

「兄さま?」

「姫からの御達しをリンに教えられたのは、ついさっきだよ。天都におわする孔雀姫がおまえたちを探している。かさね。おまえたちを差し出さねば、私もリンも罰せられるんだ」

 リン、というのが神社で逢瀬をしていたあの巫女であることはすぐに知れた。あのとき、やはりいざりはアルキ巫女にかさねたちのことを話していたのだ。

「何故菟道から出た、かさね。おまえがかような真似をしなければ、ただ懐かしく昔話をして別れられたものを」

「あにさ……」

 赤く腫れた目がかさねを睨みつける。そんな風に、厭わしげにいざりから睨みつけられるときが来るなんて、思ってもみなかった。今のかさねはこの穏やかなセワ塚に禍を持ってきた疫病神に過ぎないのだと気付く。

「かさね……、かさねは」

 喉の奥に何かが詰まって、言葉が出てこない。おこりを起こした風に震え始めたかさねの衿首をイチがつかんだ。そのまま俵でも担ぐように、ぞんざいに肩に抱き上げられる。

「いいだろ、もう」

 こういうときも、イチの物言いは淡泊だ。驚いた風に見上げたいざりへは一瞥もせず、庵の扉を勢いよく蹴破る。

「この娘はさらってく。もとから、そういう『筋書き』なんだ。孔雀姫にはそう伝えろ。壱烏がおまえのところへ向かっている。手出しはするなと」

 放心したようにうなだれた兄は身じろぎもしない。返事を待たず、イチは歩き出してしまったので、庵の中の兄はどんどん遠のいた。

「あ……あにさま、あにさま、だけど、かさねは。かさねは」

 かさねは――……。

 そのあとにいったいどんな言葉を続ければよかったのだろう。身体が傾ぎそうになって、かさねはイチの首にしがみつく。次に顔を上げたとき、兄の姿はセワの木々が閉ざした暗闇の向こうへ見えなくなっていた。あおくさいセワの葉と土のにおいを吸いこんで、かさねはきつく目を瞑る。けれど、閉じた瞼を押し上げてこぼれる涙は止まらない。声を殺して何度もしゃくり上げ、しまいには口に手を当てた。

「別に、たいしたはなしじゃない」

 セワの太い根が這う道を器用に走りながら、イチが呟いた。

「ひとはひとを騙す。別の誰かのために。誰もがやっていることだ。あんたの兄さまが特別ひどい奴なわけじゃない」

 独白めいた口調のせいで、すぐにはわからなかったが、いちおうかさねに向けられた言葉であったらしい。瞬きをしたかさねとは別のほうを見つめてイチは息を吐いた。

「……愚かだろ?」

 その横顔につかの間よぎった、果敢ない影をかさねはどう捉えらればよかったのだろう。わからない。この男がこれまでどのように生きて、誰に騙され、誰を騙したのか。出会ったばかりのかさねにわかろうはずもない。答えを探すように頭上を仰ぐと、千年を生きたセワの老樹は四方に枝を伸ばして、ひとつの森のようにそこに立っていた。

(この男がかさねにはようわからぬ)

 ひとはひとを騙す。裏切る。嘘を吐く。それを当然だと言い切るイチもまた、誰かを騙し、嘘を吐いているのだろう。

(だが)

 涙が溢れてきて、かさねはイチの首筋に額を押し当てた。うっすら浮いた汗のにおいと、草と土のにおいがして、常よりも高い体温がじかに伝わってくる。

(だが――)

 その確かなぬくもりにまた泣きたくなって、かさねは目を伏せた。

 千年を生きるセワの合間から、満天の星はただ瞬いている。

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