二章 天の皇子 3
「どけ」
アルキ巫女を押しやり、男の手が差し伸ばされた。
「イ……」
手首をつかまれ、たすかった、と思った直後、身体が大きく傾く。何かに引きずられるがまま、どこまでも、どこまでも下方へ落ちていく。しなやかな腕がかさねの頭を抱え込むのがわかった。落ちた、という衝撃はなかったが、気付けば、かさねはなまぬるい泥濘に膝までつかっていた。
「イチ? ここは……」
「目を開けるな」
短く命じ、イチはかさねの目元を手で覆った。
「こちらのものを長く見過ぎると、戻ったときに何も見えなくなる」
「……かさねたちはどうなったのだ?」
「道を外れた」
端的な言葉は、しかし頭を横殴りにされるくらいの衝撃をかさねに与えた。外れた、と繰り返し、かさねは目元を覆うイチの腕をつかむ。
「もう……戻れない?」
「さあ、それはあんた次第だろ」
「かさねの?」
「木道でも、莵道でも、戻る道を見つけさえすればいい」
話しながら、イチがおもむろに口琴を吹く。澄んだ音が広がって、足元で蠢いていたものたちがのいていくのがわかった。
「なに? なにがおるのだ?」
「目を開けるな」
泣き出しそうになったかさねに、ぴしゃりと言いつけて、イチはかさねの身体を担ぎ上げた。
「俺が魔を退ける。だから、あんたは道を探せ」
きん、と鯉口を切る音がした。イチが刀を抜いたらしい。狐神のときにもそうだったが、口琴というのはどうやら立て続けに吹くことができないようだ。
「幸い、莵道と木道は途中まではずっと隣り合って伸びているらしい。前はできたんだから、今回だってどうにかなるだろ」
「そんなことを言うても、どうしたら……」
イチの言う「莵道」を開く方法がかさねにはわからない。前に開いたらしいときも、気付けば、「通行料」を取られ、かさねはイチと河原に流れ着いていたのだ。
「やれ。あんたしかいないんだ」
こみ上げてきた嗚咽をのみこみ、かさねはこぶしを握る。
(前に莵道を開いたとき、通行料とテンテイは言った)
ならば、同様の代償を払えば、再び道を開けるはずだ。だけど、どのようにして?
(テンテイはどこだ。どこにおる?)
あたりは臭気がひどく、息を吸うだけで肺腑が爛れそうだ。しがみついたイチの首筋は水のように清らかな冷たさがあって、触れていると心が休まった。時折、鞘走る音がして、びちゃ、と何かが爆ぜるような不穏な音が立つ。びちゃ。びちゃ。そのたび臭気は強まるばかりだ。こわかった。魔を退けると言ったが、イチはいったい何をしているのだろう。
「テンテイ」
祈るようにかさねは呟いた。
おねがいじゃ。かさねを助けてくれ。この間は助けてくれたであろう――?
「……まだ?」
「い、今集中しておるというに……っ」
「おそい」
さなか、イチがずるずるとその場にしゃがみこんだ。
「イチ……?」
目を閉じたまま、イチの肩に触れる。指先にぬめりとした感触が触れた。
「イチ? どうした? のう?」
恐ろしい予感がよぎって、かさねはくずおれかけた身体にしがみつく。
「返事をせい」
何があったのだろう。どうしたというのだろう。
イチからは荒い呼気が漏れるばかりである。
「い、いやじゃ。だれか! だれか、おらんのか……!」
半べそをかきながら喚き散らして、天を仰ぐ。こんなにかさねが困っているのに、心の底から助けを求めているのに、「莵道」はちっとも開かない。どうしてじゃ、となじり、どうして、どうして、とかさねは呻いた。口琴の音で一度はのいた魔のものたちがかさねたちのほうへ手を伸ばしてくる。なにものかに額を撫でられ、思わず目を開く。
「――……っ!?」
たぶん上げたのだろう悲鳴は暗闇にのみこまれた。
大蛇。大蛇である。頭の崩れた大蛇が硝子質の目でかさねをじっと見つめている。いつ喰らおうか見定めでもするようだ。見れば、周囲は小さな蛇から大きな蛇、蛆のたぐい。そのようなものばかりだった。膝までつかった泥濘は赤黒く錆びた血の色をしている。
「ふっ……」
こみ上げた嘔吐をどうにかやり過ごし、かさねはイチの胸に顔をうずめた。イチの身体はびっくりするほど傷だらけだった。かさねのせいだ。たとえ目的のためだろうとも、こんな恐ろしいものたちからイチがかさねを守ってくれたのだ。
(いやじゃ。イチが死んでしまうのは嫌……)
「ひらけ……!」
なりふり構わずかさねは懇願した。
「もうなんでもよいから、ひらいてくれ!」
そのとき、伸ばし続けた手に何かが触れた。人肌のぬくもりに瞬きをして顔を上げると、
「――……かさね?」
懐かしい声が「向こう側」からした。何かが繋がったのだと気付く。藁にもすがる思いでかさねは触れた指先を握り込んだ。
「ここじゃ! かさねはここじゃ! たすけよ!」
つかんだ手がかさねを引き上げる。空を引き裂くような大蛇の唸り声が聞こえた。鎌首をもたげた蛇たちを制するように、かすれがちの口琴が響く。ぎゃっと悲鳴を上げて、魔のものたちがひるんだ。その隙に「向こう側」に強く引き寄せられ、次の瞬間、かさねはイチとともに地面に転がっていた。
「う……」
地面には大樹の根が這い、星明かりがほんのりあたりを照らしている。外れたときの木道とはちがう場所のようだ。目をこすったかさねの前に黒い人影が差す。
「かさね?」
「ひっ」
飛びのきかけるも、手を差し出した青年には見知った面影がある。信じられない想いで、かさねはセワの根元にかがんだ青年を見上げた。
「あ、あにさま……?」
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