二章 天の皇子 2

 翌朝、サジャの一番鳥の声で目を覚ました一行は、ともに山小屋を発った。皆、ふもとの里をめざしているわけであるし、固まって下山したほうが危険も少ない。新調した草鞋のおかげで、かさねの足取りも登りよりは軽かった。

「……なんだよ」

 歩きながらイチの横顔をちらちらとうかがっていると、金の眸がわずらわしげに眇められた。

「べぇっつに、何でもー?」

 つんとそっぽを向いて、かさねはそしらぬ顔をする。

 一晩を明かしても、ほかの旅人たちと打ち解ける様子もなく、イチは列の端をひとりで歩いている。周囲にひとがいないことをそれとなく確かめて、かさねは口を開いた。

「のう、そなた天の皇子とやらなのだろう? なら何故ひとりで行動している」

「何故って?」

「普通、従者とかおるだろう。かさねだって、幼い頃から世話をしてくれる亜子という乳母がおった。屋敷にはほかにも使用人が何人かいたし……」

 話しながら、ひとつの嘘も見逃さないようにイチの顔色を注視する。端正に整った横顔に宿るのはしかしどこまでも冷ややかな表情だ。

「俺に従者はいない」

「なら、その口琴は?」

 引いてはならぬ、とかさねは問いを重ねた。

「そなたの口琴は一度狐を遠ざけた。呪具のたぐいであろう。そうそう転がっているものではあるまい。いったいどこで手に入れた?」

 わずらわしげにイチは息を吐き出す。

「『大地将軍のもとにいる壱烏とこっちの壱烏。どちらが本物だろう?』ってか」

「え、なっ、何故、」

「おおかた、旅人に地都の話を聞いたんだろ。俺が見張りをしている間に」

「そなた、気付いて……!」

「聞かなくてもわかる。あんたは声がでかすぎるが」

 肩をすくめ、イチは鋭い眼差しをかさねに向けた。

「俺が本物かどうかなんて、あんたには関係ない。あんたの仕事は天都へ繋がる莵道を開くことだ」

「もしかさねが嫌だと言うたら?」

「そのときは仕方がない」

 イチは腰に佩いた刀の柄に手をやった。

「安心しろ。

 しかし必要ならば、斬るということなのだろう。狐神と対峙したとき、イチはためらいもなく刀を抜いた。どんなたいそうな目的なのかは知れないが、イチはそのためにほかのものを傷つけることを厭わない。

「けだものめ。おまえは狐神と何も変わらぬ」

「どうとでも言え。その手を取ったのはあんただろ」

「……それは」

 悔しさから唇を噛み、かさねは俯いた。

「溺れたかさねをおまえは助けてくれたようだったから……。少しは話が通じるやもと思ったかさねが馬鹿であったわ」

 低い声で吐き捨てると、イチから離れ、草木が繁茂する道を早足で歩く。新調した草鞋でだいぶ楽になったが、徐々に手足が突っ張って涙が滲んでくる。

(こやつの手だけは借りぬ。ぜったいに借りぬ)

 弱音を吐きそうになる自分に言い聞かせ、かさねは滲んだ涙を手の甲で拭った。


「通行止めだってさ。なんでも、『守り』に綻びが出たらしい」

 ふもとの里の入り口にある鳥居の前には、いつにないひとだまりができていた。話を聞きに行った旅人がお手上げといった様子で首を振る。樹木神の加護を受けた木道は、節目ごとに「守り」と呼ばれる柱が立ち、外の魑魅魍魎を中へ寄せ付けないよう境界の役割をしている。しかし、どうやら数日前の落雷で柱のひとつが傷つき、補修のためにいったん道が封鎖されてしまったらしい。地都へ向かう街道は一本道なので、旅人たちはふもとで「守り」の修復を待つしかない。

「どれくらい待つことになりそうなのだ?」

「アルキ巫女さまが運よく通りかかったらしい。そう大きな綻びではないようだし、すぐに繕いを始めたから、明日の昼には元通りだと」

「そうか……」

 アルキ巫女というのは天の一族の眷属たる者たちで、全国の街道を歩き、綻んだ「守り」の繕いをしている。かさねの住む莵道にも、ときどき宿を借りに訪れることがあったから知っていた。道の「守り」をしている柱が壊れると、あちらとこちらの境が曖昧になり、魑魅魍魎の棲まう異界にひとはたやすく落ちてしまう。ゆえに千を超えるアルキ巫女が各地をめぐり歩いて、道の管理をしているのだった。

「ひとまず、今日はここで泊まることになりそうだ」

 旅人の言葉に、かさねはしぶしぶ顎を引く。

 立ち往生した旅人たちのために、里の者は快く屋敷を開いてくれた。かさねにすると、風呂を貸してもらえたのもうれしい。野宿が続いたせいで、汗と埃で髪がごわつき、気持ち悪くなっていたのだ。

「毛先がふたまたに分かれておる……」

 洗いたての麻衣に腕を通したかさねは、乾かした髪をつまみ上げて息をついた。指どおりのよい白銀の髪はかさねのいちばんの自慢だったが、ひとりでは少し扱いに困る。考えた末、麻紐でくくってしまった。

「イチ、いるか?」

 屋敷の貸し部屋では、旅人たちが何人かで雑魚寝をしていたが、その中にイチの姿はなかった。携帯食や着替えが入ったずた袋だけがぽつんと置き去りにされている。

「あやつ、どこへ行ったのか……」

 ひとりごちたかさねは、はたと口をつぐむ。

(今なら……逃げられるのではないか?)

 かさねの住む莵道からこの里までは徒歩で四日ほど。道のりは覚えている。

(あるいは、アルキ巫女に助けを求めれば……!)

 異のものに通じるアルキ巫女ならば、かさねの話を信じ、狐神に関しても知恵を貸してくれるはずだ。イチが本物の皇子なのか、偽の皇子なのかはかさねにはわからないし、確かめる術もない。けれど、あの男が目的のためなら平然と刀を持ち出すであろうことはわかる。狐に喰われかけたとはいえ、そんな男とこのまま旅を続けられるわけがない。

(だが、イチは川に落ちたかさねを助けてくれた)

 微かな迷いを振り切るようにかさねはかぶりを振った。

(道案内が必要だったからであろ! けだものだって、あやつも自分で認めたではないか)

 腹をくくると、かさねはずた袋を抱いて屋敷を忍び出る。今日はちょうど新月だった。屋敷を出たとたん、広がった暗闇の深さに背筋が冷たくなる。けれど、のんびりしていれば、イチに気付かれるかもしれない。

(何もひとりで山を越えるわけではない。アルキ巫女に助けを求めるだけじゃ)

 里の者に聞いた話では、アルキ巫女は里の中に入らず、「守り」のそばに立つ庵で寝泊りをしているということだった。

『ああ、それと。繕い途中の『守り』には絶対に近づいてはいけないよ』

 しかめ面で忠告をした里の者の顔を思い出し、大丈夫だとかさねは自分に向けてうなずく。「守り」は柱のかたちをしているからわかりやすいし、かさねが用があるのはアルキ巫女のほうだ。

 村の境界を示す木組の門を出ると、星明かりに照らされた木道がほっそり暗闇の向こうへ伸びていた。遠目に小さな明かりが見える。あれがアルキ巫女の泊まる庵とやらだろう。

「よかった……。思ったよりも近い」

 ほっと息を吐き、かさねはずた袋を抱きしめた。人気のない道は山影に沈んでいる。時折、夜鳥の鳴き声がして、そのたびかさねはびくっと肩を跳ね上げさせた。こころぼそい。ひとりで歩く道はこんなにも恐ろしいものだったろうか……。

 くすん……くすん……

 不意にどこからともなく幼子がすすり泣くような声が聞こえて、かさねは足を止めた。見れば、道端にひとりの童子がしゃがみこんでいる。

「どうした。里の子か?」

 駆け寄り、童子の肩に触れる。その顔を見てかさねは息をのんだ。童子には顔が

「待ちなさい! そのものに触れてはならぬ!」

「え……」

 背後から怒声が飛んで、手をひっこめようとするが、そのときには何かに手首をつかまれていた。童子の足元を見て、あっと呻く。繕い途中の「守り」の柱。暗闇の向こうから何ものかがかさねに手を伸ばしている。

「柱に近付いてはいけないとあれほど言ったのに……!」

 アルキ巫女らしき女性は顔をしかめ、衿元から取り出した符を放った。ぎゃっと何もかが呻いて、かさねも道の向こう側に転げ落ちかける。

 ――道の向こうは魔物の巣窟。

 一度落ちれば、帰ってこれない。

「い、いや……いやじゃ!」

 手を伸ばすと、傷ついた柱に指が触れた。身体に何かが絡みつき、向こう側に引きずりこもうとしているのがわかる。かさねは無我夢中で柱に取りすがった。道のほうからアルキ巫女が手を伸ばしているが、何ものかが邪魔をするせいで届かない。ずるりと手が汗で滑って柱から離れた。

「たすけ……」

 つかむものを失くした手が空をかき、身体が宙に投げ出される。

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