一章 うさぎの嫁入り 3

 ――死ぬ。確実に。

 ぽっかり口を開けた裂け谷は、ひとたび落ちれば死体すら見つからぬというほど。

(助けると言ったはしから身を投げるなど!)

 男の首にしがみついて、かさねはぎゅっと目を瞑り込んだ。

「あほうのすることじゃ……!」

「誰があほうだ」

 ぞんざいに頭をはたかれ、「ふお?」とかさねは瞬きをする。

「それと、いい加減離れろ。動けない」

「……ここはどこじゃ」

 かさねはイチの肩越しに周囲を見回す。あわや谷底まで落ちたかと思われたが、かさねを抱えたイチは擦り傷ひとつなく平べったい岩盤の上に立っている。イチが勢いよく腕を振ると、大樹から伝った縄がほどけて手の中に戻った。谷底の川から立ちのぼる霧のせいで見通せなかったが、実は崖のすぐ下には岩盤が広がっていたらしい。

「こっちだ」

 かさねを下ろし、イチは山の側面にくり抜かれた穴を示す。不自然に開いた形からすると、過去にひとの手で作ったもののようだ。腰袋から淡い光を放つ石を取り出して、イチはそれを前方へ掲げた。

「どこへ向かう気だ?」

「ひとまず山を降りる。狐に追っかけられるのは嫌だろ」

「まっぴらごめんじゃ」

 今頃、崖上では狐たちが大騒ぎをしているにちがいない。谷底へ落ちたと思って諦めてくれればよいのだが、とかさねは低い天井を祈るように仰いだ。あたりは暗く、明かりといったら、イチが掲げる石くらいだ。それもかなり小さなもので、離れたらたちまち見失ってしまいそうなほどの明るさである。

「へーっくしょい!」

 むずがってくしゃみをすると、音が何度もこだました。前を歩くイチが冷めた一瞥を送る。

「盛大なくしゃみだことで」

「襦袢一枚で歩くかさねの身になってみよ。背中のあたりがぶるぶるする」

「お姫さんてのは、たいそうひよわでいらして大変だな」

「わかったら、かさねを負ぶうとか、気遣うとか、少しはせえよ」

「なんで俺が? あんた銅貨一枚も持ってないだろ」

 商人のような物言いに、かさねは閉口した。

「……かさねをどこまで連れてゆく気じゃ。ひとさらい」

「俺の言うことを聞けば、そのうち家には帰してやるよ」

「何をさせると?」

「そのはなしはあとだ」

「ここで話さねば、動かぬ」

 立ち止まって反応をうかがうが、イチはついてこないならば置いていくといわんばかりだ。仕方なく己の足で歩き出す。兄姉たちも亜子も、かさねがこう言ったら、まったく甘ったれめと叱りながらも、たいていは言うことを聞いてくれたのに。かさねは唇を尖らせた。

(所詮はかどわかしの盗人よ。はよう家に戻らねば)

 かさねは知らなかったが、今歩いている坑道は峡谷に橋をかける際使ったものの名残だという。細い道は複雑に曲がりくねり、途中行き止まりや落石で塞がったところもあったが、イチはするすると正しい道だけを選んでいった。これでは、たとえ狐たちが橋下のからくりに気付いたとしてもすぐには追いつけまい。

「よそもののおまえが、よう知っておったな、このような道」

「きゆの家にいたとき、古地図を探った。坑道が載っていたから、もしかしたらと思って、あんたを運ぶ前に調べておいたんだ。まさかあんたを盗む前に、狐が襲ってくるとは思わなかったが」

 ぬけぬけと言い放つイチに、かさねは眉根を寄せた。

「待て。よもやそなた、最初からかさねをさらうつもりであったのか?」

「俺が進んで人助けするようにお思いで? お姫さま」

「きゆの姉上に拾われたのもわざとか? そうだろう、盗人!」

「静かに。狐に尻からかじられるのは嫌だろ」

 かさねの口を手で塞ぎ、イチは鼻で笑った。身の丈に違いのあるイチにそうされると、かさねはろくに反抗もできない。ちょうど坑道の出口に行き当たったらしく、視界が開けた。下方から湿り気を帯びた風が吹き上がってくる。数日前の大雨のせいで増量した川の水が近くまで迫っているのだ。

「ここが莵道の境界。里の『守り』が及ぶ範囲だ」

 「守り」の外には魑魅魍魎が跋扈しているため、とても危険だ。とぐろを巻く黒い川を見つめ、「どうする気じゃ」とかさねは尋ねる。

「戻るのか」

「いや」

 かさねの首根っこをおもむろにつかんで、イチは腕を川のほうへと差し出した。

「この先には本来、別の道が接しているはずだ」

「別の道だと?」

「――莵道うのみち

 イチは低い声でそう言い放った。

「狐に聞いたろ? 遠い昔、帝に莵道の姫が嫁いだときに使われた道だ。きゆの家に残された文献ではこの先に入口があると書かれていた。もう千年以上使われていないが――、莵道のすえであるあんたなら、道を開くことができるはず」

「なにを馬鹿な……」

 千年以上前に使われたといっても、もはや伝承に近い。かさねは眉根を寄せたが、イチは本気らしい。証拠に、川のほうへ差し出された手が緩むことはない。

「道にはそれぞれ守護をする神がいる。木道には樹木神、天道には天帝のようにな。莵道の者ではない俺に、彼らに働きかけることはできない。だから、あんたが神に乞うて道を開け」

「わ、わけがわからぬ! おまえの言っていることはむちゃくちゃじゃ」

「のんびりしていると、狐が追ってくるぞ。次は助けない」

 脅しに近い言葉を投げられ、かさねは歯噛みする。もしイチの言うように、里の境界に接して千年前の古道が存在するというなら、かさねだってすがりたい。けれど、目の前には黒々した川が広がるばかりで何も見えないのだ。

 そうこうしているうちに、足元からぬっと黒い鼻先が突き出された。

「ああ、いたいた。莵道の娘。手こずらせおって」

 ひととは異なる道を通り、狐が追いついたらしい。舌打ちしたイチが明かりに使っていた石を懐にしまった。

「道は」

「見えぬ。見えんのだもの、仕方なかろう!?」

「……盗み損か」

 嘆息し、イチは刀を抜いた。しろじろとした輝きはまぎれもない鉄である。

「おまえ、よもや狐神を斬る気か!」

「悪いか。喰われる前に斬るしかない。それとも、あんたがどうにかしてくれるのか」

「……それは」

 痛いところをつかれて、かさねは口ごもる。

「よくも贄を盗んでくれたな、人間」

「とんだ盗み損だったけどな。仕方ない」

 鱗粉めいた金の光をまいて、狐神がひゅるん、と姿を現す。眸を眇め、イチは刀を構えた。唸り声を上げて跳躍した狐を刀が一閃する。岩壁にぱっと赤黒い血が散り、うわん、と狐が身をくねらせて鳴いた。

「イチ!!!」

 耐え切れず、かさねはイチの腰にしがみつく。

「やめよ! 斬るでない、やめよ!」

「あんた……邪魔!」

 もがいたはずみに足が滑って、身体が傾く。目をいっぱいに見開いて、かさねは宙を手でかいた。けれど抵抗もむなしく、次の瞬間には水飛沫が上がって、冷たい水に身体が飲み込まれる。

「……たすけ、……」

 生まれてこの方、かさねは泳いだことがなかった。身体にまとわりつく水は思った以上に重く、どんどんと下方へと押し流されていく。遠くで水の跳ねる音がしたが、振り返る余裕もなく、次第に視界が霞がかっていく。

(――おや。迷子ですか。めずらしい)

 硝子の鈴が振れるような声がして、かさねは重い瞼を開いた。

(……誰じゃ?)

(テンテイ)

 聞き慣れない言葉を相手は口にした。声のした方角を探すものの、まばゆい光のせいで、ぼんやりした輪郭しかつかめない。テンテイ、と呟いたかさねに、「そなたは莵道の末姫でしょう」と相手はいくらか気安く言った。

(かさねじゃ)

(かさね。よい名です)

 やさしい声がして、額にふわりと口付けが舞い降りる。

(道を開くには足りないけれど)

(通行料にはこれで十分)

 通行料。通行料とはいったいなんだろう。

 考えているうちにこめかみが痛んで、また何も見えなくなっていく……。

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