一章 うさぎの嫁入り 2
お狐さまへの嫁入りは、莵道ではそう珍しいことではない。数年から数十年に一度、たいていは不作が続いた年のあとにお狐さまから里の巫女へお告げがあり、輿入れする娘が選ばれる。無事輿入れが済めば、その返礼として、狐神から莵道の里への豊穣がもたらされるのだ。数年前にはかさねの姉がお狐さまへと嫁いでいた。
「眠れぬ」
格子天井を睨み、かさねは今晩何度目かになる寝返りを打った。夜はとうに更けたが、目が冴えて一向に眠気はやってこない。諦めてかさねは半身を起こした。
「亜子に会いたいのう……」
莵道の屋敷では亜子がいつも隣の部屋に侍り、幼いかさねが夜中にむずがると、飛んできて背中をさすってくれた。さすがに十四にもなれば、添い寝なしに眠るようになったが、これからずっと知る者もいない狐たちの中で暮らさねばならないのだと思うと、押し込めていたさみしさが腹の底からせり上がってくる。たった一日ですっかりしょぼくれてしまって、かさねは膝に顔をうずめた。
『――それで……うさぎの姫君は――……』
外から微かな話し声が聞こえたのはそのときだ。
(今、うさぎの姫君と言ったか?)
瞬きをして、かさねは障子戸を引く。吊り灯籠の下で、碁を打つ狐たちの姿が対面に見えた。かさねは耳はよい。狐たちに気付かれないよう障子戸を細く開けたまま、会話に耳をそばだてる。
『先ほど見てみたが、もう休まれたようですよ』
ぱちり、と碁を鳴らしつつ、狐が口を開く。
『ひとの子は眠るのが早いですからねえ』
『朝も早くからまめまめしく働くものな』
『何も知らされずに嫁がされたのでしょう。まったくおいたわしや』
よよ、と嘆いたのは、おそらく夫となる婿狐のほう。それに対して、野太く、低い声がかかと笑った。
『いたわしゅうなどと、
『これは手厳しい。しかし、前の贄とはちがって、かさねは無知な小娘ゆえ、楽しめると思いましてな』
『そなたの好みは知らんが、忘れるなよ。あやつは贄。逃がしてしまってはことだ』
(にえ?)
耳慣れない言葉に、かさねは眉根を寄せる。こちらには気付かぬまま、夫となる婿狐が碁笥に手を入れた。
『そう言うでない、満月どの。前の贄は薄紅の頬や、乳房のふくらみや、うっすら血管の浮き出た首筋など、むしゃぶりつきとうて、たまらなくなってしまったのですよ。耐え切れず、涎を垂らすと、あの娘、目の色を変えた。かさねはまだ青い娘で、腹も鳴らなかったから、気付いてはいないでしょう』
(何を……)
何を言っておるのだ、この狐は。
周囲の音が遠のき、かさねの身体から血の気が引いていく。
五年前。かさねの姉は村の巫女のお告げを受けて、お狐さまへと嫁いでいった。それきり莵道の屋敷に里帰りをすることはなく、嫁いだあとのことは誰も知らない。
『しあわせにおなりあそばせたのですよ』
小さなかさねの髪を梳きながら、亜子は絵物語を聞かせるように教えてくれた。
『異界は昼も夜もなく、一年中花が咲き乱れているといいます。かさねさまの姉さまも、きっとしあわせに過ごされているはずです』
そう信じて生きてきた。
だが、これでは。これでは、まるで――。
『はよう味見をしたくてたまらぬ。かさねは、牙をつきたてたらどのような味がするのかのう』
「――――っ!」
声にならない悲鳴を上げて、かさねはあとずさった。はずみにつかんでいた障子戸が大きく軋む。
「何奴!」
碁盤から二匹の狐が顔を上げた。
「ひっ」
取り繕うのも忘れてよろめき、弾かれたようにかさねは部屋を飛び出す。明かりの落とされた御殿を駆けると、何事だと侍女の狐たちが起き出してきた。白布を面に掛けていないせいか、その顔はどれも狐面をしている。
「花嫁御寮、どこへ行かれるのですか」
「お待ちください! 皆のもの、花嫁御寮をお止めせよ!」
「ええい、どけい!」
狐たちの手をかいくぐり、御殿の外へ何とか逃げ出す。あたりに人気はなく、ただ月が来た道を照らしていた。もつれる足で転びそうになりながら、両脇を林に囲まれた山道を走る。眦に涙が滲み、視界が霞んだ。
(何故。どうして。父上は……)
思考は千々に乱れ、いっこうにまとまらない。ようやく視界が開けたと思うと、谷の間に渡された吊り橋が現れた。
橋のこちら側は、狐の治める異界。渡ったあちら側は、莵道の土地。
橋を越えれば、莵道の者に助けてもらえるはずだ。けれど、これまでの道でかさねはすっかり息が上がり、橋のたもとのぬかるみに足をとられて転んでしまった。
「ふ……ぐぅ……」
「おやおや。どうされたのです、かさねどの」
背後から伸びた狐のかたちの長い影に、かさねは息をのむ。涙の溜まった目を向けると、「まるであやかしにでも会ったような顔をしていらっしゃる」と朧が肩をすくめた。
「ささ、お風邪を召されてはいけない。戻りましょう」
「いや……いやじゃ……」
尻もちをついたまま、あとずさろうとすれば、背にもでっぷり肥えた狐――満月が回り込んだ。ひゃあと悲鳴を上げたかさねの腕をつかんで、満月は獣くさい呼気を放つ顔を近づける。
「もしや、花嫁御寮は何か悪い話でも盗み聞かれたのでは? のう朧よ」
「かもしれぬ。たとえば、そう、ひとを喰らう狐の話であるとか」
「そなた、ほんとうに……?」
「ちと『決まり』は破ってしまうが、まあよかろう。次は逃がしませぬ」
地の底から響くような声だった。ひとの変化が解け、銀灰色をした大きな狐が現れる。鋭い歯を見せて舌なめずりをする狐を、かさねはただ呆けた顔で見上げた。恐ろしいのに、身体がまったく動かない。
「ちちうえ。あねさま。あにさま……」
ぽろぽろと涙をこぼし、かさねはしゃくり上げる。
「亜子。たすけて」
身をすくめたかさねに、口を開いた狐が迫る。
ひょろろろろろ……
鳥の鳴き声にも似た不思議な音が突如あたりを切り裂いた。口を開いたまま、狐が動きを止める。背後の満月も同様だ。どちらも驚いたように目を見開いているが、微動だにしない。
「たすけてやろうか、かさねどの」
頭上から降った声に、かさねは濡れた睫毛を震わせる。雲間から射し込む月光が樹上にしゃがむ青年をあきらかにした。
「少しの間は動けない」
口元に寄せた小さな笛のようなものを外し、青年は狐たちを見渡して言った。木の葉の作る暗がりの向こうで金のまなこが爛と光っている。かさねは腰を抜かしたまま、青年を見上げた。
「おまえ……輿の担ぎ手だろう。きゆの姉上が拾った」
「よく覚えていたな。そうだよ、あんたと一緒に御殿に泊まってたんだ」
するりと樹から滑り下り、青年はかさねの前に立った。金色の眸。異形のそれに見据えられると、たましいを引き抜かれるような恐ろしさがある。
「あんたが選べる道はふたつにひとつ」
おもむろに青年が言った。
「ここで狐の餌になるか。それとも、俺に盗まれるかだ。どうする、かさねどの?」
「……おまえは何者じゃ」
「イチ」
「いち?」
名前らしいが、かさねには聞き慣れない響きだった。『めぐり芸座からはぐれた、拾いもん』。『半化生』。行く道での担ぎ手の言葉がよみがえる。確かに青年は端正な顔立ちをしていたが、それは現世を離れた異形めいた美貌だった。ただ、表情は妙に人間らしい。イチはじれた様子で眉根を寄せ、かさねを見下ろした。
「どうする。手を取るのか、取らないのか。狐たちはもうすぐ身体の自由を取り戻す。二度はない」
一時は放心していた狐たちの四肢がぴくぴくと動き始める。朧の牙から涎が滴ったのを見て、かさねはたまらず叫んだ。
「ええい、わかった! 狐に喰われるなぞ、ごめんじゃ。――かさねを助けよ、イチ!」
「確かに承った」
顎を引く青年の横顔に酷薄な笑みが浮かんだ。その冷ややかさに、とんでもないまちがいを犯した気分になる。けれど今はこの青年以外、かさねを助けてくれる者などいないのだから、どうしようもない。
「俺から手を離すなよ」
かさねの身体を抱き上げたイチが崖のふちから足を蹴る。
「う、わあああああああああああ!?」
腹の底がひっくり返るような落下に、かさねは男の首にしがみついた。
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