一章 うさぎの嫁入り 4

「おい。起きろ」

 軽く頬を叩かれて、かさねはうっすら目を開けた。

「いち……?」

 水のにおいがぷんとくゆる。気付けば、かさねはびしょ濡れになって河原に横たわっていた。流れているうちにぶつかったのか、身体のあちこちがひりひりして痛い。

「ここは?」

「わからない。気付いたら、木道のほうに流れ着いてた」

 答えるイチの姿もかさねに負けずひどい。濡れ鼠になっているうえ、擦り切れた衣からは蒼褪めた膚がのぞいていた。

「……そなた、かさねを追って飛び込んだのか」

「ひとりで狐を相手にしても無駄だろ」

 肩をすくめると、イチは濡れた衣を絞って、そのうち一枚をかさねへ寄越した。襦袢一枚で逃げてきたせいで、見れば、かさねはおなごとしてあられもない姿だ。刀を腰にくくり直したイチが立ち上がる。

「あんたの屋敷がある方角は?」

「……川上じゃ」

「なら、向かうのは川下だな」

「イチ!」

 それでは菟道の屋敷に帰れない。

 声を上げたかさねに、イチは面倒そうに嘆息した。

「戻ったところで、また狐に差し出されるだけだ。そんな屋敷に帰ってどうする?」

「先ほど起きたことを話せば、輿入れの件は取り消しになろう。ち、父上はたぬきだが、かさねを可愛がってくれていたし、亜子だって、兄さまたちだって皆……」

「皆、狐に差し出すあんたを憐れんでいただけだろ。騙されてたんだよ、あんたは」

「ちがう!」

「へーえ」

 冷笑し、イチはかさねの身体を抱え上げた。

「あんたが何を信じようが勝手だけど。助けたぶんの代償は払ってもらう」

「代償? さっきは盗み損と言うたのに?」

「あんたは一瞬だが、莵道を開いた。なら、使い道がある」

 使い道。なんてひどい言い草だろう。

 目を腫らして睨んだかさねを片手だけで担いで、イチは河岸の側面に這うサジの蔓をつかんだ。淡く光る石を渡される。表面を苔が覆い、そこから滲むように光が生じていた。傾いた小道をするするとサジの蔓を使って渡っていくイチは手慣れており、まるで獣か何かのようだ。

「見えるか。あそこに樵の船がある」

「きこり?」

「村の外にいる連中だ。夕べ伐った樹を積んで、夜明け前に市に向けて出発する。……声を上げるなよ」

 イチはかさねの身体を俵のように船へと放り、自分も飛び移った。いちおう藁の積まれたあたりに放られたらしいが、受身が下手なかさねは頭から藁に突っ込むはめになる。

「おまえは……!」

「声を上げるな」

 船の前方にもたれて眠っている男たちを指し、イチが言った。船内には真新しい材木が並べてあり、樹特有の湿った香りがくゆっている。深く寝入っているらしく、男たちは時折大きないびきを立てた。

「夜明け前にはまだ早いな」

 空に瞬く星を仰ぎ、イチが呟いた。胸元からたぐり寄せた口琴に唇をあてる。口琴は鳥笛とも呼ばれる子ども用の玩具で、菟道の里では健やかな成長を祈って、生まれたばかりの赤子に親がこしらえた口琴を贈る。普通の口琴ならば、できるのはせいぜい鳥真似くらいだが、イチはひととき狐たちの動きを止めていた。おそらく、何かの呪具なのだろう。

 ぴじじじ、ぴじ、ぴじじ……

 今度は何を起こすのだろうと身構えていたかさねは、「本来の」口琴の使い方に、目を丸くした。イチが奏でる音は、朝一番に聞こえてくるサジャの鳥の声にそっくりだ。

「なんだい。もう朝か?」

 案の定、船の操舵の近くで寝ていたらしい男が大あくびをして、腕を伸ばした。材木の下に隠れてうかがっていると、たしたし、と足音がしてから、「うぉおおおおおい」と男の野太い声が上がる。

「サジャの声がしたぞ。船を出せ」

「へえ、おかしら。今日はずいぶん早い気がするなあ」

「うすのろめ。サジャの声で船を出さねえと、市に遅れて材木がみぃんな売れ残りになるわい」

 ねぼけまなこの徒弟をどやして、おかしらが錨を引き上げる。石と木でできた錨が揚がると、川の流れに沿ってゆっくりと船が動き出した。

「助けを呼ばないでよかったのか。かさねどの?」

 樵が近くからいなくなると、イチが皮肉るように言った。

「あやつらが味方とは限らんもの」

 こたえながらも、さっきのイチの指摘が決意を鈍らせたことに、かさねも気付いている。菟道の領主である父は数年続いた不作を憂い、かさねを狐に嫁がせた。これまでも不作のたびに菟道の領主は選ばれた娘を異界に送り、その翌年には必ず豊穣がもたらされてきたという。菟道では昔から伝わる話で、かさねも疑問に思ったことすらなかったが、狐たちはかさねを「贄」と呼んだ。

(つまり、もたらされる豊穣は贄の見返りに……?)

 恐ろしい考えが頭をよぎって、かさねは引き寄せた膝をぎゅっと抱き締めた。そう考えれば、嫁入り前の亜子の取り乱しようにも説明がつくが、まだとても信じられない。

(かさねはいったいどうなるのじゃ)

 抱えた膝に顔をうずめていると、こおん、と櫓が水を叩く音が聞こえてきた。こおん、こおん……。材木に背を預け、空を仰いでいるイチの横顔をかさねは見やる。懊悩に沈む前に、目の前の男に訊くことがあるはずだと思い出したのだ。

「イチ。そなたはなにものじゃ」

 先ほどはうやむやになってしまった問いを、かさねはあらためて訊き直した。

「かさねに何をさせたい?」

 「よそもの」と聞いたが、イチはこのあたりの地理を知りすぎているし、身のこなしがただびとと違う。それに、狐たちの動きを止めた不思議な呪具。あのようなものは莵道の里でも見かけたことがなかった。

 イチは立てた片膝に頬杖をついたまま、しばらくこたえなかったが、やがて思い直した様子でかさねを見た。

「莵道かさね。あんたには、俺の道案内をしてほしい」

「道案内? おまえは旅をしているのか」

「ああ。天都あまのみやこという」

 澱みなく、イチはその名を口にした。

「それが俺の目的地だ」

 あまのみやこ。

 この国を統べる天帝のおわする、まほろばの地である。地に住まう者たちはひとりとしてその場所を知らず、名前を口にすることすら恐れ多いとためらう。無論、かさねも物語以外で話を聞いたことがない。

「……かさねは、天都への道なぞ知らんぞ」

「だが、天道以外で唯一、天都へ繋がる『莵道』を開くことができる」

 瞬きをしたかさねを見据え、イチは言った。

「何者かと聞いたな。天帝に仕える天の一族の元皇子、壱烏イチウ。それが俺の名前。七年前、ゆえあって壱烏は天都から追放された。戻ることはゆるされてない。だけど今、俺はどうしても天都にのぼる必要がある」

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