後日譚 わだつみの宝石

わだつみの宝石 1

 いまはむかし、天地にあまねく神がいたいにしえの時代――

 これは莵道の末姫が人間の男に嫁いだあとの短いおはなし。



「はあー、ほんにかさねの花嫁姿ときたら、女神もかくやという麗しさであったのう……」


 かさねは上機嫌である。

 喜怒哀楽の情がよく浮かぶ顔は、今はほんのり上気して、頬を緩ませている。ふだんから機嫌がよいことが多いが、今日の機嫌のよさは天井知らずだ。なぜなら、かさねは本日、イチと結婚したのである。結婚。結婚した。つまり妻だ。本日から人妻である。


「ふふっ」


 ただでさえ緩んだ頬をさらに緩ませていると、「姫さま」と至極冷静な声がかさねをたしなめるように呼んだ。


「姫さまったら」

「え? ああ、なんじゃ。かさねがかわいい?」

「ちがいます」


 侍女である亜子の即答に、さすがに水を差された気分で眉根を寄せる。

 婚姻の儀式もそのあとの宴も滞りなく終わり、夜はどっぷり更けた。何枚も重ねた袿をようやく脱ぎ捨て、身体は軽い。

 下ろしたかさねの髪を櫛で梳いていた亜子は、「よいですか、姫さま」と重々しく口をひらいた。


「今日が姫さまにとって大事な夜であることは亜子も重々承知しております。姫さまがいくらぼんやりしていて、頭のなかがお花でいっぱいでも、おなごである以上、緊張だってするでしょう。ですから、送り出すまえにわたくしから姫さまに一言申しあげておきたいのです」

「亜子……」


 真摯な声音に胸を打たれて、かさねはかつて乳母でもあった侍女の手を取る。

 亜子とかさねのつきあいは長い。なにしろ、産褥で母を失ったかさねに乳を与えて育ててくれたのは亜子なのである。侍女ではあるが、気持ちとしては母に近い。ゆえ、この晴れの日に際して、きっと亜子が日ごろの感謝か激励の言葉をくれると思ったのである。


「ありがとう。かさねだって亜子にはずっと――!」

「どうか新床でだけはそのおしゃべりは控えてくださいますよう。姫さまの余計なおしゃべりのせいで、殿方がやる気を失くされたら、亜子はあまりに不憫で、今から不安で不安でたまらないのです」


 うん?とかさねは首を傾げた。


「よいですか、姫さま」


 かさねの空ぶった手を亜子は反対にぎゅっとつかんだ。


「肝要なのは黙っていることですよ。ただ黙って身を任せていればよいのです。余計なことは一切しないように」


 噛んで含めるように繰り返す亜子に、「なにをいう!」とかさねは声を荒らげた。


「余計なおしゃべりなど、かさねがいつしたと!?」

「ほんに黙ってさえいれば、やんごとなく見えなくもない姫さまですのに」

「しゃべってるかさねのほうがよいに決まっておろう!」

「姫さまはおしゃべりがすぎて、ちょっとざんねんになってしまうのです」

「でも、イチならそんなかさねもかわいいって思っておるもの!」

「あら、そう言われたのですか?」

「言われ……? 言われた……ような気もする! たぶんそう思っている! まちがいない!!」


 床をぺしんぺしんと叩いて言い返しはしたが、亜子のほうは耳を貸さない。

 どうか無駄なおしゃべりだけはお控えくださいましね、と三度も四度も念を押され、かさねはふてくされたまま部屋を送り出された。


「しゃべるなとはなんぞ! 初夜の心得ならば、もっとほかにもあるだろうに。亜子ときたら……」


 ぶつくさとひとり文句を言いながら、手燭を持って廊下を歩く。

 春の夜は、昼とはちがって肌寒い。婚礼のときは白の小袖に袿を何枚か重ねていたが、今は単衣一枚きりで髪も下ろしている。内側から細く灯りが漏れた部屋が見えてきたので、ずんずんと動かしていた足をかさねは止めた。

 そうか、とあたりまえのことにきづく。


(この戸の先に、かさねの旦那さまがいる)


 自覚するや、鼓動が急に跳ね上がった。

 妻戸に伸ばした手を止め、かさねは意味もなくその場をうろうろする。三度くらい回ってから、ぴたっと動きを止めると、今度は落ち着きなく前髪を直しはじめた。


「……いや、うろたえるでない、かさねよ」


 かさねは一度深く息を吸って吐いた。

 亜子があれこれ言うから変に意識してしまったけれど、イチと寝たことなど腐るほどあるし、かさねのほうがたぶん知識も経験も豊富だし、むしろ自分にすべて任せろくらいの気概でいけばよいのである。たとえ、旅のあいだイチの横でぐうぐう寝たことしかなくて、知識と経験はおもに莵道家秘蔵の絵草紙で、実技は生まれてこのかたなかったとしてもである。

 さらに追加で三度くらい回ってから、よし、とかさねはこぶしを握った。


「いざ参る!」


 覚悟を決め、妻戸を勢いよく引いた。


 ・

 ・


 チュンチュン……チュンチュン……

 鳥が鳴いている。

 チュンチュン……チュン…ヂヂヂュン!

 鳥がけたたましく鳴いている。


「んんん……」


 もうすこし眠っていたいのに、あまりに外が騒がしいのでうっすら目をひらく。

 飛び込んできた光のまぶしさにかさねは目をこすった。もそもそと半身を起こすと、なんだか頭が痛い。というか、割れるように痛い。「うぅううううう……」と立てた膝に突っ伏して呻いていると、


「平気か?」


 という声がすぐそばからした。

 頭を抱えて目だけを上げると、隣に腰を下ろした男がかさねをのぞきこむ。短い黒髪に、灰色の双眸、鋭利な黒曜石を思わせる美貌。かさねの旦那さまである。


「もしや夢……? ぜ、ぜんぶ?」


 尋ねたかさねに、「は?」とイチは顔をしかめた。

 枕元に置いてあった水差しから空の椀に水を注ぐ男を見上げ、かさねは男の上衣をひしとつかむ。


「そなたはかさねの旦那さまであるよな!?」

「あー。そうなんじゃないか」

「かさねとそなたはきのう結婚した」

「したな」

「かさねの婚礼衣装はとてもかわいかった!」

「かわいかった、かわいかった」

「それは二度繰り返さなくてよい」


 頬をふくらませ、かさねは受け取った水に口をつける。

 とりあえずすべてが夢だというわけではないようだ。ほっと胸を撫でおろして、つめたい水を味わう。そしてはたと我に返った。


「そ、そなたとかさねは……」

「うん?」


 と尋ねる男はとてもふつうである。

 上から下まで眺めるが、いつもとなんら変わるところなどない。胸元で揺れる常盤色の口琴に墨色の小袖、外に出る用事がないからか、袴はつけていない。あまりにも見慣れた、いつもどおりのイチである。


(かさねはこやつと昨晩……)

(いたしたのか、いたさなかったのか、まるで思い出せない……!)


 頭がまたきりきりと痛んできたので、かさねは椀を横に置いて突っ伏した。

 かさねの記憶は妻戸に手をかけたあたりでなぜか途切れているのである。頭が痛い。初夜のあとは頭が痛くなるものなのか? 聞いたことがない。


「ほんとうにあんた平気なのか?」

「いや、あまり平気ではない……」


 突っ伏したまま呻いていると、なにかを確かめるように額に手を置かれた。前髪を指でいじってから、かるく頭を撫でられる。

 やさしい。旦那さまがやさしい。

 もっとやさしくしてほしかったので、えいえいと大きな手に額を押しつける。嫌がらずに撫でてくれる。頬が緩むのが止められなくなり、ふふふっと笑い声を立てる。とくになにも解決していないのに、おおむね満たされたような気分になってしまう。かさねは単純である。


「そういえば、祝いの品のなかに妙な文があった」

「ふみ?」


 文机のうえに置いてあったものをイチはかさねに差し出した。

「祝い」と表にすっきりした筆で綴られた文は、しかしひらくと真っ白い。


「何も書かれておらぬな」


 と言っているあいだに青墨の文字が紙に浮かび上がり、かさねの膝のうえにはらはらと一字ずつ落ちてきた。摘まみ上げると、煙のようにゆらめいて宙に溶ける。


「『碧』『水』……?」

「デイキ島を探していたときに立ち寄った湊だな」


 隣で眺めていたイチがつぶやく。


「『わだつみ』『宝石』『あげる』……『紗弓さゆ』。紗弓どのか!」


 龍神の娘であり、今は漂流旅神ひょうりゅうりょじんの母でもある友人を思い出し、かさねは顔を輝かせた。イチは黄泉へくだるまえに一度赤子の漂流旅神と紗弓に会ったらしいが、かさねは文を数度交わしたきりでいまだに会えずじまいだったのだ。


「なぜあいつはふつうに文を寄越さないんだ?」

「うーむ、かさねをびっくりさせたかったとか?」

「そういうかわいげがあるやつだったか……?」


 いまひとつ腑に落ちないようすで、イチはまっさらに戻った紙をひっくり返したり透かしたりしている。

 かさねは文の内容のほうが気になった。


「『わだつみの宝石』とはなんであろう?」

「人魚の涙のことじゃないか?」

「人魚のなみだ?」

「人魚が流した涙から生まれる石のことだ。なんでも持つ者に、永遠の愛だの莫大な富だの長寿だのを与える希少な石らしい」

「え、えいえんの愛……!」


 思わず「欲しい!」と前のめりになったかさねに、「そんなもの要るのか?」とイチは胡乱げな顔をする。乙女ならば欲しいに決まっている。


碧水へきすいに行こう、イチ!」


 かさねはイチの膝のうえに両手をのせた。


「わだつみの宝石とやらを見てみたいし、なにより、紗弓どのと漂流旅神にかさねも会いたい!」

「まあ、おまえが行きたいならいいけど」

「なら、決まりじゃ!」


 大きな声を出していると、また頭が痛くなってきた。

 うー、と呻いて、イチの膝のうえに頭をのせる。


「頭がずきずきするううううううう……」

「あまり痛むなら、森の古老にみてもらうか?」

「やぁーじゃ、もうすこしイチといちゃいちゃするぅうう」


 駄々っ子のように足をばたばたさせると、ふっと空気が緩む気配がした。

 イチはわらうとかわいいので、かさねはそれを端からぜんぶ指摘して、天地にかさねの旦那さまがかさねの次にかわいい件について自慢したくてたまらない気分になるのだけど、それはいつもぐっとこらえてかわいさを堪能している。かさねのまえでは、ずっとわらっていればいいのに。でもときどきほろっとこぼれるからときめくのか。どちらもよい気がして選ぶのが難しい。

 ――しかし、このかわいい旦那さまといたしたのか、いたさなかったのか、かさねは覚えていないのである。

 何かそういう痕跡はないものかとじーっと見上げていると、イチはいぶかしげな顔をした。


「実はそなたに訊きたいことがあるのだが……」

「なんだ?」

「そのう……きのうそなたとかさねは……」


 朝陽が射しているし、鳥が鳴いている。

 さすがにいたたまれなくなってかさねは目を伏せた。いくらかさねがぼんやりしていると言っても、初夜がどうだったか記憶がないなんて、うっかりにもほどがある。さっそく夫婦の愛の危機である。イチに幻滅されたらどうしよう。いや、かさねは幻滅されても余りあるほどの魅力があると思うが。


(……やっぱり自分で思い出そう)

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