十章 白兎と金烏 4
一度死ぬ。それが大地女神にまみえる唯一の方法であるという。
「おそろしいか?」
沈黙したイチに、燐圭は試すように笑う。
「たいていの者はおそれる。おそれずやりおおせた者も、運悪くそのままかえらずに終わる。数百年に一度くらい、わたしのような運のいい者が現れて、女神と対面を果たしたのちにこちらに戻ってくる。そなたはどうかな」
「……なるほど」
大地女神の領分が黄泉であることを踏まえると、燐圭の言は腑に落ちた。すこし考えこむようにしてから、「場所は?」とイチはさらに尋ねる。
「あんたがかさねを連れていったあの山奥の洞窟か?」
「ああ、あそこが地上でもっとも黄泉に近い場所だと言われている。……そなたがちっともおそれぬせいでつまらぬな」
「俺にはどうやら、死なずの恩寵が与えられているらしいんだ」
苦笑し、イチは肩をすくめた。
「ある神が気まぐれに与えたものだ。だからまあ、たぶん死なない。運だというなら、はじめから、ついてたんだろう」
普通なら、天帝が離れ去った時点で崩れさるはずだったこの身が保てたのも、そのためだったと聞いている。すこし前にイチのもとへと訪れたさきぶれを名乗る神が明かした。神々がまほろばの地に旅立った今、イチに与えられた恩寵がどれほどもつかはわからなかったが。
「死なずの恩寵があるなら、千年待つという手もあるのではないか」
女神が大地に縛られる時間は千年。
星和のように、かさねが次の女神となる乙女に力を譲り渡すまで待つという選択肢もある。だが、それは地の底に千年、あの娘を閉じ込めるということと同義だ。
「こちらの道に賭けてみる。俺もあいつもあまり気が長くないんだ」
気負わず言ってのけたイチに、そうか、と燐圭は口端を上げる。
存外愉快そうな表情だった。
「それなら、せいぜい試してみるといい。無事、あの小娘を連れ帰ったときには鳥文でも飛ばしてくれ。祝言用の酒くらいは樽で用意してやる」
それはどうも、と返して、イチは立ち上がった。
*
燐圭が言っていた洞窟は、地都から少々離れた山奥にあった。
以前、かさねが連れていかれたとき、イチも一緒にいたから覚えている。あのときは雪で覆われていた山道はいまは緑が芽吹き、苔むした岩のあいだから雪解け水がさらさらと流れていた。
高い木々に囲まれた細道をしばらくのぼると、視界がわずかにひらけて、平らな岩盤が現れる。木々が天蓋のように網目状の枝を伸ばした頭上から、細い一条のひかりが射していた。割れた岩盤には、風に運ばれた種が根づいたのか、一本の若木がすっくと天に向かって生えている。
春の陽であたたまった岩のうえに座り、イチは風に揺れる若木の隣でしばらく空を仰ぐ。そして軽く息をつくと、腰に佩いていた太刀を外した。
この道はほんとうにあいつに通じているのだろうか。
イチにはわからない。
神でもなんでもない、ただびとであるイチは、ただ祈ることしかできない。
けれど、祈りが届いてほしいと思う。つながっていてほしいと願う。――どうか途切れないで、消えないで、愛した娘にたどりつけますように。
いつの間にか組み合わせていた手をほどき、イチは目をひらいた。
鞘から抜き放った太刀が、しろじろと輝きを帯びる。
迷いはなかった。一息にそれを己の胸に突き立てる。
・
・
おちる。おちる。
どこまでも落ちていく。
冷たいような、あたたかなような、暗いようで、まぶしくもある、無音の常闇。
大地の底、地の最果て。もっとも暗くてさびしい場所。
どこからか微かな水音が聞こえて、イチはうすく目をひらいた。
洞窟にも似た、さして広くはない空間には、岩壁の凹凸に沿って青白い炎がいくつも灯っている。天井からは濡れた鍾乳石が無数に吊り下がり、先端に溜まった水滴が落ちるたび、玻璃のような水音を鳴らした。
ぼんやりとその音の連なりに耳を傾けていると、つめたい呼気が頰を撫ぜる。身体がすこし重い。見れば、横たわったイチのうえに馬乗りになった童女が、しげしげとイチに顔を近づけていた。
「――っ!?」
思わず肩を跳ね上げると、童女がわずかに身を離す。
六つか七つほどの歳の童女は、面に白い布をかけており、同じように四方からこちらをのぞきこむ童女たちも同じ姿かたちをしていた。
童女のひとりがイチを指さし、すぅ、と息を吸いこむ。
「皆の者、ひとが落ちてきたぞ!」
「生きた人間が落ちてきた」
「すごい」
「めずらしい」
「いや、待て。こやつは死んでいる気がする」
「胸に大穴があいておる」
「いや、待て待て。まだ死んでいない」
「死んだなどと言ってはこやつがかわいそうじゃ」
「死んではいないくせに、どうやってここまで下りてきたのだろう」
「ふしぎな人間じゃなー」
「ふしぎな人間じゃなー」
前にイチたちを迎えた女神よりもだいぶかしましい。しかも、わらわらと大勢いる。白銀の髪をおかっぱにした童女たちは額を寄せ合うと、おかしそうにころころ笑いだした。そのしゃべり方や挙措には、だいぶ見覚えがある。正確に言えば、このかしましい娘たちが長じた少女なら知っている。
「かさね?」
太刀で貫いた胸は穴があいたままだったが、血は止まっていた。痛みもとくにない。半身を起こしたイチが尋ねると、イチの膝にのったまま、童女はおや、と首を傾げた。
「こやつ、何か覚えがある名を言ったぞ」
「いやいや、覚えなんかない」
「かさね」
「それは失くした名だもの」
「失くした人間の名」
「『かさね』はもうひとではないもの」
「ねー?」と童女たちはうなずきあって、イチのもとから走り去ってしまう。そのうちの足が遅いひとりの首根っこをイチはつかまえた。はなせ、と童女がじたばたと四肢をばたつかせる。
「女神に会いたい。この土地を治める女神はどこにいるんだ?」
不満げにちいさく唸った童女は、「しーらぬ」とぷいっとそっぽを向いた。
「いじわるをする者には教えぬ」
「しーらぬ」
「しーらぬ」
追従するように声をそろえる童女たちに、「面倒くさいやつだな」とイチは舌打ちをする。
「めんどうくさい、とは!?」
癇に障ったらしく、童女たちはイチを振り仰いで、足をぽかぽか叩く。
それをひとりずつ引き離していきながら、先ほどの童女に目の高さを合わせて「女神はどこにいるんだ?」とイチは尋ねた。白布越しに童女がじっとイチを見つめる。やがて、ぽつりとつまらなそうに言った。
「しーらぬ」
「……あのな」
「だって、女神はずっと眠っておる」
「夢ばかり見ている」
「つまらぬ」
「つまらぬ」
「一緒にあそびたいのに」
むくれた童女たちが視線を下方に落とす。
「ねー?」とうなずきあって童女たちがまた走り去ろうとしたので、イチはそのうちのひとりを両脇に手を差し込んでつかまえた。さっきの、ひときわ足が遅かった童女だ。いやじゃ、いやじゃ、と逃れようとする童女を膝のうえに抱き上げて、イチは尋ねる。
「それで、おまえは俺を覚えているのか?」
童女が細く息をのむ。
あわててイチの膝からおりようとしたのを、衿首をつかんで引き戻した。しばらく引っ張り合ったすえ、観念したようすで童女が息をつく。
「……わからない」
「かような場所に下りてくる馬鹿な人間のことなど知らない」
「まったく心当たりがない」
「まるで、ちっとも、さっぱりじゃ」
「どこの誰だか見当もつかない」
左や右からかしましく言い合う童女たちに、そうか、とイチはうなずく。
童女たちは急にしゅん、と静かになった。
もたもたとイチから逃げようとする童女の腕をまたつかんで引き戻す。
「けど、あいにくこっちは覚えてるんだ。おまえのことはぜんぶ。見つけるとも言った。その約束を、果たしに来た」
面にかかった白布に触れると、跳ねるように童女はイチから飛びすさった。
「さわってはならぬ!!!」
明確な意志の宿った剣幕に、イチは瞬きをする。
そこにいるのは、すでに童女ではなかった。
少女だった。イチのよく知る。
彼女はイチを拒むように固く俯いて、肩を震わせていた。
「さわるでない。かさねにさわるでない……」
「なんでだ?」
地を這うほどの長い白銀の髪がすだれかかっているせいで、彼女の表情は余計にわからない。ぐすっとすすり泣く声が白布の下から聞こえた。腕をつかんだままのイチにいやいやとかぶりを振って、少女は、だって、だって、としゃくり上げる。
「ひどいすがたを、しておるもの……」
「ひどい?」
「う、蛆がわいて! 肉も腐り果てて! きたなくてみにくい……。ふ、ふれたら、よごれる。そなたも嫌だとおもうもの……」
ひっくと嗚咽をこぼして、少女は身をよじる。
イチは眉をひらいた。こんな場所で急にしおらしいことを言い出す少女がおかしかった。そしてひどく、いとおしいと思ってしまった。
腕の拘束を緩めて、イチは首にかけた口琴の紐をたぐりよせる。金と銀のひかりが翅のように舞った。口琴に口をあててそれを吸い込むと、少女の面にかかった白布をほどく。そして、引き寄せた少女に深くくちづけていく。
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