十章 白兎と金烏 5
長い夢を見ていた。
永遠に終わることがなさそうな長い夢を、ひとり。
夢の中で、かさねは風になって大地を旅し、魚に転じて海を泳ぎ、それから鳥となって山の火口を眼下に空を悠々と翔けていた。そして時折、よその神の夢のなかに出入りした。ひとりで旅してばかりなのは退屈だったので。
『――というわけじゃ。かさねの故郷のどじょう踊りは、宴ではだいたい盛り上がる』
デイキ島のくだりを聞かせながら、つやつやと金の輝きを帯びた羽の毛づくろいをしていると、あふ、と天帝は退屈そうにあくびをした。かさねは眉根を寄せて、でい、と鳥の頭頂部付近の羽を引っ張る。不満げに身体を揺すり、天帝はかさねを睨んだ。
『なんですか。こちらの夢に勝手に入ってきたと思えば、かしましく』
『かさねが楽しいはなしをしているというのに、そなたときたらあくびなどして。もちっと真面目に聞けい』
『千年ぶりにめざめたせいで、眠たいのです。あなたは結局わたしと交わってくださらなかったし……』
『くどくどと未練がましい神じゃ。だから、こうして遊びにきているというに』
『あなたはほんにかしましくて、かなわない。ああ、千年前がなつかしい……』
『その言い草はなんじゃ!』
口をへの字に曲げて、かさねは天帝の羽毛をぐいぐい引っ張る。金色の羽根は一枚一枚が金糸の織物のようで、うつくしい。かさねの手からわずらわしげに首をそらしながら、『次の乙女が現れるまで、また千年待たねばならないとは』と天帝は息をつく。
『そなたも懲りぬのう……』
『次はひよりのような、つつましやかな乙女がよい』
『千年後には大蛇になって追いかけ回されるぞ』
『かように烈しいところもまたよい』
危うく天地を破壊しかけていたというのに、当人はまるで悪びれもしない。そなたなあ、と文句を言っているうちに、天帝がまたまどろみ始めてしまったので、かさねはしかたなく毛づくろいを続ける。
*
『そういうわけで、あやつはてんでだめな寝ぼすけじゃ』
『だろう、だろう』
地の底からするすると立ちのぼった蛇たちは何度もうなずいて、『では、ころせ』『はよう、ころせ』『天帝、ころせ』と誘惑をする。次々生える蛇の小さな頭をこぶしでひとつずつぽかぽか叩き、『ちっとは頭を冷やせ』とかさねは頬をふくらませた。
『かさねが女神を継いだのに、なぜそなたらがまだおるのか……』
『さきの大地女神の情を見くびるでない』
『これは土に刻まれた残滓』
『執念』
『もはや魔じゃな……』
はあ、と嘆息して、かさねは蛇の頭を指でつつく。
『まあよい。時間はたっぷりある。恨みつらみは聞くと約束したし、つきあってやろう』
*
『いやいや、あれはだめじゃ、つきあいきれぬ!』
息を切らして飛び込んできたかさねを、『おや、かさねどの』と今はこの地を去りし樹木老神・
在りし頃の乙女とセワの化生のすがたに戻ったふたりは、睦まじげに寄り添い、切り株を円卓代わりにして茶を飲んでいた。消え去ったふたりとは、いまは星和の本性である樹の残骸が見る夢のなかでだけ会うことができた。
『そなたが千年ためこんだ怨念だがな。くどくど、くどくどと、もうたまったものではないぞ。蛇たちに日がな恨みつらみを大合唱されるかさねの身にもなってみよ。耐えきれんわ』
『それで、またここに逃げ込んだのか』
『ときには家出も必要じゃ』
胸をそらして、かさねは樹木老神が用意してくれた茶を啜る。ぶうたれた顔であれこれ文句を言うかさねを、星和とひよりはくすくすと笑いながら眺めている。
どれくらい話していただろうか。ふいに会話が途切れ、かさねはそれまで決して尽きなかった茶が空になっていることにきづいた。
『お茶の時間はそろそろ終わりですね』
『ひよりどの?』
『我々もこの地を去らなくてはならない』
『星和?』
つぶやく星和の身体は透けるように薄くなっていく。
それに端を発して、星和の見ている夢が端から崩れ始める。
『おい、星和』
『かさねどの。夢はめざめなくてはなるまいよ』
すがりつこうとしたかさねの頭を、星和のあたたかな手が撫ぜる。
木肌に似た固い手のひらがかゆらぎ、ひよりの残滓と溶けあってひかりをまとう。額をくっつけあって微笑むふたりは、しあわせそうだった。引き留めることができなくなって、かさねは宙に伸ばした手を丸めて下ろす。
『ふたりずっと一緒にな』
崩れていく星和の夢をあとにして、かさねは久しぶりに風となり、地上を旅した。
樹木老神・星和の残滓も、これですべて消え去った。まほろばの地に旅立ったのではない。すでに神として消滅していた星和は、ひよりとともに大地に還っていったのである。
ふしぎな悲しみと切なさに襲われながら、かさねは日の暮れ始めた草原にひとり立ち、空を仰ぐ。さっと駆け抜けた風が草原を波立たせていく。揺れる青い穂のなかで、かさねだけが髪も白の上衣もちらとも乱れることがない。まるで世界にかさねひとりが取り残されてしまったかのようだ。
女神としての生は、そうつらいものではない。
神々と語らうあいだに時は流れ、芽吹きと衰えを繰り返す大地をめでて、空が朝から夜へと移りかわるのを眺めているうちに、また時が過ぎる。
静かで穏やかな生。
ただ、独りだった。どこまでも。
それだけ、それだけだ。
それだけのことが、時折ひどくさみしい。
このさみしさもまた、いずれ大地に溶けて、かさねのなかから失われていくのだろうけれど。
――女神よ。
リン、と鈴の音とともに、ねむたげな声が聞こえてきた。
(そなたはもう目を覚ましなさい)
リン、リン。
それは草に宿った銀の露のように、どこからともなく聞こえてくる。
めざめなさい。
めざめなさい。
嵐のように現れ、ついぞ手に入らなかった。
わたしの花嫁よ……
・
・
ふつっと何かが途切れる音がして、かさねは目をひらく。
はじめに感じたのは、頬が痛い、ということだった。なぜか両頬を誰かに引っ張られている。しかも力いっぱい。
「いい加減起きろっつってるだろうが。強情な奴だな」
ぐいぐいと力任せに頬を引っ張る手をはたいて、「いたい!」とかさねは訴えた。
「何をするのじゃ、無礼もの! 頬がもげるかと思うたわ!」
「なんだ、起きたのか」
力を緩められた隙に、かさねはすばやく「無礼者」の手から逃れる。かさねは黄泉のいつもの寝床におらず、どころか抱き起こすように男がかさねの背に腕を回していた。瞬きをして男を見上げ、かさねはぽかんと大きく口をひらく。
「イチ! 何故ここに!?」
「おまえを探しにきたんだよ」
「えええええっ! かさねに会いにここまで!? そなたすごいな!?」
素直に感動してしまっていると、「もとに戻ったな……」とイチがつぶやいた。
「でも、せっかくなのだから、起こすときくらい、もちっと、ちゅうするとか……」
「それはさっきした」
「へっ」
「それでも、おまえが涎を垂らして眠りこけているから、こういうはめになった」
「……そうなのか?」
首を傾げたかさねの両頬をイチの手が包む。
さっきは力いっぱいだったが、いま頬を包む手はやさしい。かさねが夢を見ているあいだに、何かあったのだろうか。大きな手のひらで頬を擦り、耳たぶやこめかみ、額にも触れた。何かを確かめていくような手つきだった。夢から覚めたばかりのぼんやりした頭のまま男を見返し、かさねはイチの胸のあたりに手を置く。
「なあ、ここにおるということは、そなたは死んでしまったのか……?」
あたたかな胸に触れると、太刀を突き立てて流れ出した血の熱さがまぼろしのようにかさねの手を過ぎ去った。黄泉には生者は来られない。かさねは時間の感覚が薄れてしまったけれど、イチのすがたを見るに、まだ別れてからそう時が経っているようではなかった。イチにはかさねのぶんも長生きしてほしかったのに、自ら胸に太刀を突き立てるだなんて、なんとむごい死に方をしてしまったのか。
涙をためて見つめたかさねに、「ちがう」とイチは言った。
「俺はおまえを迎えに来たんだ」
呆けたかさねの手をイチがつかむ。思いのほか力強い手だった。つかんだ手をつないでしまいながら、イチはかさねの頬にかかった髪を耳にかけて囁きかける。
「“あんたが選べる道はふたつにひとつ”」
それは前に聞いたときよりもずっと、くすぐるように甘い声だった。
「俺に盗まれるか、自分で俺の手を取るかだ。どうする、かさねどの?」
かさねの目からぽろりと涙が一粒こぼれた。
堰を切ったようにそれはとめどなく、かさねの両頬を伝う。えずきながら懸命にうなずいて、かさねはイチの手を握り返した。
「かさねはそなたと一緒にいきたい、イチ……!」
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