十章 白兎と金烏 3

 背後で何かがさっと駆け抜けた。

 湧き水で咽喉を潤していたイチが振り返ると、梢の向こうに獣の影が消える。西に傾き始めた日が木立を橙に染めている。獣たちの領分、夜の時間が近い。

 碧水を発って数日あまり。

 山をふたつほど越え、イチは地都ツバキイチの近くにたどりついた。小高い丘陵からは、眼下に造営途中の都が見渡せる。地神退治をやめた燐圭が本格的に都の整備に着手しているという噂は本当のようだ。


「燐圭は東の御殿にいるのか」


 地都の玄関口へと続くなだらかな道をくだりながら、肩に留まった鳥からイチは燐圭の居場所を教えてもらう。ちなみにイチは雛鳥のすがたでしばらく過ごして以来、なぜか鳥語を解するようになった。鳥たちのほうもイチを見つけると、仲間のように集まってきて、あちこちの噂話を聞かせてくれる。

 碧水にいた頃に、孔雀姫の侍従をしていた小鳥とも樹上ですこしのあいだ話をした。孔雀姫は小鳥に導かれ、まほろばの地に旅立ったそうだ。天の一族の大半が、すでにかの地に移ったという。

 結局、と呆れた顔で小鳥はつぶやいた。


『天の一族の血を引く者としては、あなただけがこちらに残るんですね、イチ』

『はなから天の一族の頭数に入ってないから、問題ないだろ』

『……天烏テンウさまとは話されないのですか。天烏さまを運ぶのを最後に、我々もまほろばの地に旅立ちます。もう互いに会うことはできなくなりますよ』

『あいつにはとくに興味がない。あちらもたぶん同じだろう』


 うんざりした風にイチが言うと、そうですか、と苦笑気味に小鳥は顎を引いた。

 その口琴はあなたに差し上げますよ、と孔雀姫の言伝を残して、枝から飛び立つ。最後に少年の声がちくりと刺した。

 ――あなたも存外、あきらめが悪いようだ。


 地都ツバキイチの東に、その御殿は立っていた。

 まだ造営途中であるらしく、支柱となる大柱と木組みがのぞいている箇所がそこかしこにあり、木材を運ぶ人工がせわしなく出入りしている。開け放されたままの表門をイチが仰いでいると、「おやまあ」と通りがかった老婆がきひきひと聞き覚えのある笑い声を立てた。

 童女とみまごう小柄な体躯に、鏡面のごとき丸い眸という特異な容貌は、一度見たら忘れない。大地将軍に仕える刀鍛冶、カムラだ。


「あんた、生きてたのか」

「死にゃあしませんよ。ご主人さまに御用ですか?」


 まるでイチがここに来ることを見越していたかのように訊く。相変わらずのうさん臭さに辟易としつつ「そうだ」とこたえると、カムラはにんまり目を細めた。


「お待ちしておりました。さあ中へ」


 開いた門の両脇に立っていた兵にカムラが何事かを耳打ちすると、あっさり中へと通される。宵闇に沈みはじめた御殿には、灯火がともされていた。

 カムラに先導されながら、絶え間なく木槌や鋸の音が響く外廊を歩く。

 たどりついたのは、御殿の最奥に位置する部屋だった。透かし彫りがなされた窓から、蝋燭の灯りが漏れている。中では、うず高く積まれた書物に半ば埋もれるようにして、男が机に広げた書面に何かを書きつけていた。

 こちらの気配にはきづいていたらしい。硯に筆を置くと、「なんだ、なつかしい顔だな」とふてぶてしく口端を上げる。大地将軍、燐圭であった。


「さゆこ。おまえは外しておれ」


 はい、と澄んだ声が燐圭のかたわらから上がる。さらりと衣擦れの音をさせて立ち上がった女人を何気なく目で追い、イチは細く息をのんだ。

 歳はちがうが、自分がよく知る少女と似ていた。偶然とは思えないほど。

 呆けたイチに楚々と微笑み返し、さゆこと呼ばれた女は部屋を出ていく。

 白銀の髪をゆるく束ねて花挿をさし、赤の眸にはたおやかな雰囲気と異なる芯の強さを秘めている。イチが知る少女よりはいくらか年上だが、特徴のある容姿はうりふたつといってよかった。


「……なんだ、あれは」

「ひとの妻になんだとは失礼ではないか」

「あんた、妻がいたのか?」


 いぶかしげな顔をするイチに、「娶ったのは十年以上前だ」と燐圭はしごく当然のように言った。聞いたことはなかったし、興味もなかったが、なんとなくこの男は独り身を貫いているのかと思っていた。それにあの容姿。


「あれは莵道うじの者じゃないのか」

「かさねの前に狐神に捧げられた姉がいただろう。あれがわたしの妻だ。逃げてきたさゆこを助けて手元に置いた。それ以来のつきあいだ」


 明かされた妻とのなれそめに、イチは驚くのを通り越してしばし言葉を失った。


「妻の妹相手に、よくあんな仕打ちができたな……」

「わたしからすれば、さゆこにして、なぜ猿のようなあの妹が育ったのか、つねづね摩訶不思議であったが。ちなみに性格もまるでちがうし、さゆこのほうがよっぽどかわいげがあるぞ」

「それはかわいげの見解の相違だろう」


 なんとなく不機嫌になって、イチは言い返した。

 かさねは自分の姉は贄として捧げられたまま帰ってこなかったと言っていた。つまりさゆこは燐圭に助けられたあとも、莵道には帰らなかったのだろう。今は燐圭のもとで別の人生を歩んでいる女の背に一瞥を向けてから、イチは燐圭に向き直った。


「傷はもう治ったのか」


 天帝との死闘で失くした右腕に代わり、今燐圭は左手で筆をとっている。ただ、顔色はわるくなかった。

「まあ見てのとおりだ」と肩をすくめ、燐圭は部屋の端を目で示す。そこには折れた太刀がそのまま飾られていた。

 

「本来ならば、前の大地女神と誓約をかわしたわたしは、女神が代替わりしたとき、ともに死ぬはずだったのだがな。次の女神はだいぶ目が節穴らしい。わたしの命をとるのを忘れてしまったようだ」

「天帝を弑す――望みが叶わなくて不満か?」

「あの娘が別の方法で神々とひとのすみかを分けてしまったのだから、しかたがない。太刀をふるう理由もないし、あとは粛々と都づくりにでも励むさ」


 目を通した書面に印を押すと、「それで?」と燐圭は尋ねた。


「わたしと世間話をしにきたわけでもあるまい。何の用事だ」

「あんたはかつて二度黄泉に下りたと聞いた」


 以前、燐圭はイチに語った。

 大地女神と誓約を結ぶために一度。

 そして、折れた太刀に加護を受けるためにもう一度。

 黄泉に下り、大地女神とまみえたと。

 

「その方法が知りたい」


 真意を探るように目を眇めた燐圭は、はっと鼻で笑った。


「酔狂なことだな。あの猿のような女神にもう一度まみえたいのか? 騒々しくてわたしはごめんだ」

「見失わないと、言ったんだ」


 かつてひよりの末路を知ったとき。

 イチの背に額を押しつけて、かさねが震えながら吐露したことがある。

 自分もひよりのようにひとならざるものになってしまったらどうしよう、こわい、と。

 そのとき、イチはかさねに約束した。

 かさねが「なに」になっても、「どこ」にいっても、イチだけは見失わない。何があっても絶対に。

 言葉は誓約だ。先を縛る強い力を持つ。

 かつて少女の涙を止めるためにした約束は、彼女を失くしたあとも、イチの道ゆきを照らし続けてくれた。


「だから、探しに行く。どこへでも」


 イチの言葉に、たいそうなことだな、と燐圭は苦笑する。呆れているようで、存外愉快がるような声だった。


「なあに、簡単なことさ」


 おもむろに衣の衿をひらいて、燐圭はそこに刻まれた傷跡を示す。

 左胸と腸に何かで貫いたような大きな傷が残っていた。


「一度死ぬ。運がよければ、そなたが望む女神にまみえることもできよう。何しろ黄泉とは死者が向かう場所なのだからな」

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