九章 女神のねむり 3
かさねが抱きしめた黄金の鳥は、次の瞬間、無数の羽となって散らばった。
ゆるやかに大地に降るひかりの欠片を見下ろし、かさねもひとつあくびをする。
山嶺からは、この国のありようがどこまでも見渡せた。
ねむりにつく前にことほぎを贈りたくなって、かさねは山嶺の平らな野にぴょんと飛び出す。かさねが踏みしめた地面からは次々草木が芽吹き、花がひらいて、緑が生い茂る。あかるい空から透きとおった雨が降り、芽吹いたばかりの草花を慈しむように濡らした。
つづらかさねのかさねみち
うたいながら、かさねは故郷の古い舞を舞った。
降りしきる雨のなかを、雨粒に打たれることなく白い袖がひるがえり、かさねの指先で遊ぶように風が舞う。鼓の代わりに、踏みしめられた大地が脈動を刻む。
つづれてつづれて かさねみち
さあはなもて かさをもて
はなよめごぜんをあないせよ
鳥の群れが空を翔け、大地を獣が駆ける。
足元の草木にとまった虫が翅をふるわせて飛び去り、はじけた雫がかさねと一緒に歌う。祈りが空に満ちていく。
つづれてつづれて かさねみち
ひとさし舞い終えたかさねは、かるく息を整えると、ふふんとひとり笑った。
「ひとの子らは、のちの世までこのうつくしーき女神を褒めたたえよ。いやあ、かさねときたらば、女神が性に合いすぎて、ついには伝説になってしまいそうじゃ」
後方から足音が聞こえる。
呼び声が聞こえる。
口元に笑みをたたえたまま、かさねは目を瞑った。
「のう、イチ」
「かさね」
荒い息遣いと微かな血のにおいがした。
あぁ、またぼろぼろになりながら走ってきてくれたのだなと思う。
イチはすごい。ほんとうにすごい。
絶対に間に合わないということがない。いつもかならず間に合わせて、かさねのまえに現れるのだ。……あぁ、なぜ。なぜ、間に合ってしまうのか。戻ってくると言ったその言葉をほんとうに果たしてしまうのか。
つつましやかに微笑んでいたはずなのに、あふれるものをとどめておけず、ひぐっ、とかさねは涙と鼻水を垂らしながら男を振り返った。
「かさね」
泥や血を吸い襤褸布と化した着物をまとって、イチはそこにいた。
両肩がせわしなく上下している。乱れた呼吸はすぐには整わなかったが、金と灰の目はそれでも、かさねをまっすぐ映している。女神に転じてしまったかさねのすがたを。
もしやまたいつものように、おまえは馬鹿だのなんだのと悪態をつかれるのだろうか。あるいは叱責されるのか、嘆かれるのか。
みがまえていたのに、イチの表情はそのどれともちがった。金と灰の眸にひかりをのせて、ふわりと眉をひらく。見たことのない表情だった。大地に注ぐ慈雨にも似たしずかな愛情がそこにはあった。ずっと亡き男に向けられていたはずのそれは、いつのまにかさねにも注がれるようになっていたのだろう。
こらえていたもの、とどめていたものが堰を切ったようにあふれて、止まらなくなる。こんなにぼたぼた涙も鼻水も垂らして、ぜんぜん女神っぽくない。必死に眉根を寄せて、かさねはぐすぐすと鼻を啜った。
「すまぬ……」
だって、ほんとうは。
ほんとうは、ほんとうは。
かさねだって。かさねだって!
ずっとこの男の腕のなかにいたかった。いたかったよ。
さびしい。とてもさびしいよ。千年を生きていくのは。
ひとり、生きていくのは。さびしくてたまらないよ。
「すまぬな」
どんな顔をしたらよいかわからなくて、へにゃへにゃと泣き濡れた顔でわらう。
指先から身体が溶け去っていく。天帝とおなじように。
「かさね!!!」
伸ばされた男の手がかさねをつかむ。
その熱を感じることなく。
かさねの身体はかき消え、地に落ちた。
*
天帝と大地女神、天地を治める二神が山嶺にそろい、この国の道をふたつに分けた話は「二神の国分け」としてのちの世まで語り継がれた。国づくりを終えた天帝はねむりにつき、女神もまた地の底、己の領分である黄泉の地でねむりについたのだという。
そのねむりは長く、千年にわたるといわれている。
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