十章 白兎と金烏
十章 白兎と金烏 1
天都の奥深く、鎮守の森に囲まれた社にある祭壇のまえで、ひとりの女人が膝を折り、祈りを捧げている。祭壇の両側に灯した炎がひときわ大きく揺れた気がして、
祈りのために結んでいた手を解いて振り返ると、見知らぬ男が奥社の出入り口に立っていた。下界ではあまり目にしない白の旅装に身を包んだその男は、いましがたこの宮にたどりついたかのように旅のずた袋を肩にかけている。のっぺりした顔立ちの、年齢不詳の男であった。
「この宮の片付けもだいぶ済んだようですね」
あたりをぐるりと見渡して、男がつぶやく。
すがたこそ、ひとをかたどっているが、この奥社に踏み入ることができたということは本性はひとではない。ただ、見目麗しいことが多い神々とは異なり、男は人ごみに放り込んだら、たちまちまぎれてしまうだろう特徴のない顔立ちをしていた。
長い衣裾を絡げて腰を上げ、孔雀姫はきれいなかたちの眉をひそめた。
「おそれながら、そなたはどちらの神でいらっしゃるか」
「さきぶれですよ、ただの。まほろばの地に旅立つ前に、大地をぐるりと旅しておりました。天の一族の皆さまも、我々とともに神々のすまう場所へと行くのでしょう?」
「わたしたち一族にとって、ひとが住む下界は毒じゃ。長く暮らすことはできぬゆえ」
肩をすくめ、孔雀姫は紺青から薄水色へと幾重にもかさねた打掛の褄を取って歩く。祈りを捧げるあいだはかたわらに置いていた燭台を持ち、社のなかの消えかけていた蝋燭に炎を灯していく。
さきぶれ神の言うとおり、天の一族の長は「二神の国分け」ののち新たに生まれた神々の地――「まほろば」に移り住むことを決めた。ゆえ、倒壊しかけた社や建物はつくり直さずに、天都にいた者たちは皆、少しずつ鳥の背にのって、まほろばの地へ旅立っている。
「下界はどうであったか。燐圭めが懲りずに都をつくり直しているのだろう?」
「二神のすみ分けの際、命を落とした者こそいなかったようですが、野山や川、大地はだいぶかたちを変えてしまったので、それにあわせて地都をつくり直しているようですね。まあ、あの者はそういうことが好きなのでしょう。ほかの人間たちも、すこしずつかたちを変えた大地にあわせて、里をつくり直しているようす。神もひとも、双方痛み分けといったところでしょうか」
とはいえ、とさきぶれの神は苦笑する。
「あちこち、まちがえて『つながってしまっている』場所も多い。女神は繕いものは不得手だったごようす。神々とひととが完全にすみ分けられるまで、あと何百年かかることやら」
「アルキ巫女たちが境界の繕いを続けている。あやつらはわたしたちとはちがって下界でも生きていけるゆえな。まほろばには連れていかず、こちらに置いていくつもりじゃ」
蝋燭にまた新たな灯りをともすと、孔雀姫は社から外に出た。
まばゆい日輪が目を刺す。社の出入り口にいたさきぶれの神がそっと柱から背を離したので、「もう行くのか」と尋ねる。ええ、とうなずくさきぶれの神は、後腐れのない表情をしている。
「唯一の心残りは、この旅で果たしてきましたから。まほろばの土地でまた、千年後にめざめる天帝をお待ちしますよ。わたしはさきぶれの神。天帝のめざめをあまねく天地に伝え、依り代となるものを見つけることがお役目ですから」
「そなたとはもう会いそうもないな」
「かもしれません。孔雀姫さまにおかれましては、これからもご健勝であることをお祈りいたしますぞ」
編み笠を持ち上げると、さきぶれの神は人間らしい微笑みを漏らして、するりとすがたを消した。まほろばの土地に渡っていったのだろう。
ひとり奥社に残された孔雀姫は、鎮守の森を抜け、天都の端まで歩いていった。
さいごに女神が舞ったと伝わるみどり野は、うさぎの足跡のようにぽつぽつと咲いた花がよそ風に揺れている。記憶のなかの少女のあっけらかんと笑う声が、つかの間孔雀姫の耳奥によぎって消えた。
「ここにいらっしゃいましたか、姫」
かたわらに舞い降りたみずらの少年を振り返り、「侍従」と孔雀姫は呼ぶ。
最後まで天都に残っていた孔雀姫にも、まほろばの地へと旅立つときが近づいていた。道案内は、かわいがっていたこの侍従がしてくれるという。鳥の一族や地神は皆まほろばの地に渡るが、樹木神や森の古老たち、半化生のものたち、水魔などは木道とそれにつながる土地にすむことを決めたらしい。
「なにをご覧になられていたのですか?」
「下界の花をな。昔、
大地はいま、春の季節らしく、うすべにの霞に包まれている。
昔、壱烏に連れられて、天の端にあるこの場所から花霞に染まる大地を眺めた。あのとき見た景色は、孔雀姫がこれまで目にした何よりもうつくしかった。それをうつくしいと言って微笑む壱烏も、春風のようにいとしかった。
「あの片割れも、この大地のどこかで生きているのだろうか」
瞼の裏に壱烏と同じ顔の、されど無愛想な男がよみがえる。
察したらしい小鳥が「イチですか」と言った。
「二度も半身を失うのはつらかろうが、強く生きておるとよいな」
「さて、あれはだいぶしぶとい男ですから」
何か別のことを知っているようすで、小鳥は意味深にわらう。もしや下界の鳥たちが何かおもしろい噂話をこの少年にしたのかもしれない。
「そういえば、孔雀姫さま」
ふと思いついたようすで、小鳥が口をひらいた。
「壱烏さまの口琴は手放されたのですか?」
「ああ、あれは」
苦笑し、孔雀姫は裳裾をひるがえす。
「イチにくれてやった。口琴はさいご、かさねどのの手からイチに渡されたのだという。わたしはまほろばへと旅立つ身。あれはイチが持つほうがふさわしいだろう」
春のうららかな大地を眼裏に焼きつけるようにすると、「行こうか」と孔雀姫は侍従に声をかける。鳥のすがたに転じた侍従が、孔雀姫の足元でこうべを垂れた。
またひとり天上人をまほろばの地に運びながら、白い鳥はげにうつくしき声を響かせて啼く。
*
にぎりめしを葉で包んだものを腕に抱き、ヒトは妹たちと手をつないで、とことこと波打ち際を歩く。白い貝殻とみまごう花びらが濡れた砂のうえに幾片も落ちている。ひかりがうらうらと射した海は、豊かなみどり色をしていた。
波音にまじって、ひょろろ、ひょろろろ、と微かな笛の音が聞こえてきたので、ヒトは眉をひらく。
ヒトの探しびとは、たいてい樹のうえに腰掛けていた。
ときどき手慰みに吹く口琴の音が、ヒトたちに彼の居場所を教えてくれる。やがて青々と茂る巨木の枝に腰掛ける男を見つけると、ヒトたちはヒト、フタ、ミィ、と肩車をして、持ってきた包みを男のかたわらに置いた。口琴の音が途切れ、いちばん上のミィの頭を大きな手のひらが雑にかき回す。
天変地異ともいえる二神の国分けのあと、この湊に姿を見せて以来、イチはずっとこうだった。昼ともなく夜ともなく、樹上に座ってじっと水平線の先を見つめている。そんな日々を続けて、一年が経った。
妹たちは、イチは「かさね」を失ったかなしみでどうかなってしまったのだと囁きあう。自分たちもおかあさまを失ったとき、とてもかなしかった。きっとかなしみのあまり、イチの心は潰れてしまったのだ。そのうち、樹のうえで干からびて死んでいるかも。死んだら、黄泉をつかさどる女神さまには会えるらしいね? ほんとうかな。イチはそうするつもりなのかな? それはいやだなあ……。
そうかなあ、とヒトは妹たちの意見には首を傾げてしまう。
イチはいまも、きちんといただきますと手を合わせてにぎりめしを食べているし。ごちそうさまもするし。樹上でときどき眠っていたりもするし。その目は確かな意志を宿して、水平線のかなたへと向けられているし。
ヒトには、イチが何かを待っているように見える。
ずっと、ずっと、何かを。
かなしみに打ちひしがれないで、
生きることをやめないで、
ずっと、ずっと、
この場所に訪れるであろう何かを。
待っているように見えるのだ。
「――……来た」
イチがふいに身を起こしたのはそのときだった。
獣のように音もなく樹から滑りおり、イチは波の打ち寄せる浜へ向かう。ほどなくヒトの目にも、青空にきらりと輝く白い龍が見えた。それは風を裂いて急降下すると、海面すれすれを水飛沫をあげながら駆け抜け、イチのまえへと降り立つ。
ごう、と音を立てて吹いた風が、海水の塊をなぎはらう。
頭から海水を浴びたイチは頬をゆがめつつ、龍からひとに転身した女に、羽織っていた上着を投げて寄越した。
「相変わらずだな、
波打つ黒髪を白い裸身にまとわりつかせた女は、腕に赤子を抱いていた。
銀のひかりを帯びた、生まれたばかりの神である。
あぁ、果たされていたのだ、とヒトは理解する。
わだつみの宮にこもって、紗弓は胎に宿した神を産んだ。転生を繰り返し、ひとのすがたでこの世にあらわれる、天帝の兄神。島巫女であった千のあいした神さま――……。
「それに
まだ瞼を開けたばかりの赤子を見つめ、イチは言った。
「あんたは前に言ったな。もっとも非力な姿で地上に生まれたあんたのまえに、見つけた神器を持って来いと。――神器はここだ。あのときの約束を果たしてもらおう」
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