九章 女神のねむり 2

 山嶺にひろがる平らかな原に、かさねがでんとあぐらをかくと、天帝もまたひとの形をとって対面に座す。依り代となったイチのすがたに似せていたが、以前とはちがってそれは実体のない、かりそめのものだ。

 にんまり笑うかさねに対し、天帝のほうは不服そうに眉根を寄せている。ひとならざる気配をまとった美貌の男は、ただびとならば震えあがる凄みを帯びていた。天帝が口をひらくと、空気がびりりと震え、青い火花が散る。


「誓約とは? わたしとの誓約を果たさず、勝手に女神となった乙女が何をおっしゃる」

「交わりなら、さっきこの身が壊れ尽くすまでやってやったぞ。ただし、ひとの娘ではなく、女神としてな。――そなたとかさねの力が何度もぶつかりあい、そして生まれた。新たな道じゃ」


 天地の隅々まで伸びた道を見渡し、かさねは胸を張った。

 かさねもすがたこそ、ひとの娘のままだったが、それもまた実体のないかりそめのものである。白銀の髪を組み紐でひとつに束ね、白の上衣に茜の帯を締めている。打掛がないせいでだいぶすっきりとしていたが、莵道の花嫁衣裳に似ていた。

 かさねが声を発すると、春のそよ風が吹いて、大地にぽつぽつと花が咲く。


「千年前、そなたが莵道と神道、天道を敷き、大地女神が地道を生み出したように。こたびの代替わりを機に道を敷き直し、かさねとそなた、それぞれがおさめる領分の境界をあらためようではないか、天帝よ」

「境界をあらためる?」

「そうじゃ。千年のあいだに、ひとと神とは互いの領域を侵食し合い、双方だいぶ生きづらくなっておった。ゆえに、生まれたふたつの道のうちひとつと、それにつながる領域にわれわれ神が棲み、もう片方の道と領域は人間らにゆだねる。どうじゃ」


 それは古くは当たり前のようにできていたすみ分けだ。だが、いまや神とひとは争いあい、燐圭のように神殺しの太刀をふるう人間までも現れた。天地から神々を一掃せんとするのが燐圭の主張である。かさねはちがう。両者はすみ分け、互いの領分で生きていくべきだと考える。


「道の片方をゆずるのは、慈悲をかけすぎでは。樹の古神が守る木道は別としても、もともと天道と神道はわたしのもの、あなたが作った地道だけがひとのものだったのに」

「ならば、片方の道をそなたに、もう片方の道はかさねがもらおう。ふたりの力で生んだものであるから、道理であろ?」

「それは……まあ、そうですね」


 これについては天帝は素直に受け入れた。

 

「それでは、生まれた道のひとつはそなたに」

「そして、かさねはもらったその道を、あまねくひとに譲り渡そう」


 大地から取り出した筆と紙にそのように書き記し、かさねは丸めた紙にふっと息を吹きかけた。花びらまじりの風にのった巻物は、老樹のしたで休む燐圭リンケイの手に届けられる。山嶺からそれを見下ろし、かさねはふんと鼻を鳴らした。


「そなたに預けるのはまっこと不服であるが。大地の管理者である将軍、ひとのいただきに立つ者、燐圭よ。これは女神とひととの誓約である。かさねがゆずった道と、それにつながる領域はそなたらのもの。これよりは、そなたらが育み、守るもの。それをしかと心得よ」


 さらに、とほの白く輝く紙のうえに、かさねは筆を走らせる。


「神とひとのあわいを生きる者たち、行き場をうしなう者たちには、木道とそこにつながる領域を。よかろうか、樹木神」


 大地に手を触れさせて語りかけると、星和に代わってそこに根づいた若木から、「はい」という声が返った。新たな誓約を紙に書きつけ、最後にかさねは一文を記して筆を置く。


「そして、莵道はこのときをもって閉じる。おのおの異論はなかろうか」


 莵道はもともとかさねに属していた道である。誰も異を唱えなかったので、かさねは紙を丸め、そこに息を吹き込んだ。白い花びらに似た炎に包まれ、紙片が大地に溶け去る。

 かくのごとくして、新たな国づくりの神謀りは幕を閉じた。


「そなたが再びねむりにつくまで、まだ時はあるのか、天帝」


 一仕事を終えたかさねは大きく伸びをすると、衣の裾をさばいて立ち上がった。

 かりそめのひとのすがたを取ったまま、対面に座る天帝の両手を引いて、山嶺の端へと連れ出す。凍てつく雨風に代わって、春の穏やかな風が吹き渡っていた。


「我らはこうして夫婦とあいなったわけであるし、互いにねむりにつくまで少々旅でもするか。そなたから逃げ回ったことについては、すこし、わるかったと思っておるのだ」

「ままならぬ乙女ですね、あなたは。千年も待ったのに、結局逃げおおせるなんて」

「ふふん、かさねを見くびるでないぞ」


 にんまり笑い、かさねは己の胸に手をあてる。

 高い山嶺からは緑の深まる大地が見渡せた。新たな誓約にもとづき、いにしえの神々が道の片方とそれにつながる領域に、ひとびとがもう片方に分かれていく。ふたつはすみ分ける。けれど、さみしがるでないぞ、とかさねは大地に向けて語りかける。ふたつは接している。祈りも呼び声もきっと伝わる。離ればなれになるわけではない。


「女神の真心はそなたにやろう」


 かさねはつぶやいた。


「が、この恋はゆずらない。それはひとであった頃のかさねのもので、かさねが愛した男にくれてやった。こちらの世界に置いていくゆえ、そなたにはやらん」


 広い大地に男のすがたを探そうとして、かさねはやめた。

 いまは失くしてしまった身体を、さいごに抱きしめてくれたときの腕の強さを想った。

 乞われて、最後には腕を解いてくれた男のやさしさを想った。

 ひどくさびしげだった表情を思い描いた。

 

(そなたは己のさびしさではなく)

(かさねの願いをさいごに選んでくれたのだな)

(イチ)

 

 別れるさびしさも、ひとり遺される苦しみも、みんな知っていたのに。

 わかった、とイチは言ってくれた。

 かさねが選んだ道をきりひらいてくれた。

 それでも、たぶん自分が欲しかったものは何ひとつ手に残らないで、ひとりぼっちでこの世界に遺される男がかなしくて、かなしくてたまらなかった。だから、探すことなどできなかった。顔を見たら、心が千々に乱れて、ぜんぶやり直したくなってしまうから。


「ああ、また眠たくなってきた……」


 遊び疲れた幼子のようにあくびをして、天帝が瞼を下ろす。ひとをかたどっていた身体がかき消え、黄金に輝く巨大な鳥に戻った。徐々に透けゆく鳥の首に手を回し、かさねはあたたかな羽毛に額をくっつける。


「長い時に飽いたら、ときどき夢で語らおう。そなたとは話し足りなかったゆえな」

「わたしにはあなたと語ることなどないですよ」

「そうつれないことを言うでない。ときには話をしたほうがきっと楽しい」

「ほんにあなたは、変わった乙女であること……」


 金の目を細めて、呆れた風に鳥は息をついた。 

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