八章 神を射る矢 2

 風のように周囲の景色が後方に過ぎ去っていく。

 イチの首に腕を回したかさねは、「解せぬ」と唇を尖らせた。


「結局、俵担ぎをされておるではないか。はじめはおひめさまだっこだったのに!」

「こっちのほうが走りやすいんだ。あんた軽いし」

「そうか? かさねは羽のように軽い?」

「そこまでじゃない。糠漬けを担ぐ程度には重い」

「乙女に向かって、そのたとえはどうかと思うぞ」


 ぞんざいに担いでいるように見えるが、腰に回されたイチの腕は力強い。四肢にほとんど力を入れられないかさねが振り落とされることがないよう、注意を払ってくれている。

 唯一自由になる左手でイチにしがみつきつつ、かさねは天上でぶつかりあう二神を見上げた。無数の首を持つ蛇と空を翔ける黄金の鳥がぶつかりあうたび、境界に揺らぎが生じて、大地が隆起する。山の中腹で、一列に並んだアルキ巫女たちは苦悶の表情を浮かべている。網目状の繕いが破れ、激しい地揺れが起きた。

 前方から転がってきた巨岩にきづいたイチが横に飛びのく。


「おわっ」


 首に回していた左腕が滑り、落ちかけたかさねをイチが両腕で受け止める。すぐ脇を転がっていった岩が地面にぶつかり、白い雪煙が上がった。

 どちらともなく息をつき、「平気か」とイチがかさねの背をさする。


「うむ。これは神道を使ったほうがよかったかの……」


 神道を使えば速いが、境界がだいぶ揺らいでいて、天都まで無事にたどりつけるかはわからない。それに動かぬ両足が厄介だった。かさねに今残っているのは左腕と左目と頭だけ。ほかの部分は感覚がぼんやりとして、自分の意志ではほとんど動かせない。残った部位をくれてやるつもりで朧に頼むべきだったろうか、と考えていると、「大丈夫だ」とかさねの頭に手をあてて肩に引き寄せ、イチが言った。


「あそこまで連れて行けばいいんだろ。今なら見えているし、どうにかする」


 どうにかする、と言って、どうにかできてしまうこの男もだいぶひとの範疇から超えているな、と苦笑する。

 イチは雲間にのぞいた青い嶺を見据えると、「力を入れてなくていいぞ」と言った。かさねが左腕だけで必死にしがみついているのにきづいていたらしい。口にはしなかったが、両足が動かせないのもたぶんお見通しだった。

 断続的な地揺れは続いていたが、イチが老樹の根が這ったうえを選んで走っているため、足元が揺らぐことは少ない。とはいえ、木の根が複雑に隆起した道を駆けるのは容易ではない。瞬く間に後方に流れ去る木々を目で追いかけ、かさねはイチの肩にそっと顔をうずめた。固い身体の内側に、熱い血潮をかんじる。生きている、と思った。


「こうしていると、出会ったばかりの頃を思い出すのう」


 狐神から逃げるときや、兄いざりの庵から去るときも、イチは泣きべそをかくかさねを連れて走った。あの頃はぞんざいで無愛想なこの男の真意がわからなかった。だから、恐れを抱いたし、反発もした。

 けれど、今はちがう。


「のう、イチよ」

 

 土と汗のにおいがする男の首筋に頬を擦り寄せ、かさねは囁いた。


「前に身代わってやりたいとそなたは言ってくれたの。かさねの苦しみや痛みをできるなら代わってやりたいと」


 目を瞑ると、そうつぶやいたときのイチの心中にありありと想いをはせることができた。――やさしい。やさしい、男なのだ。自分よりも相手の痛みを拾って、取り除いてやりたいと、代わってやりたいと願う。

 きっと同じことを願いながら、イチは病床の壱烏にも寄り添っていたのだろう。かさねには、壱烏がさきぶれ神にイチのことを祈った気持ちがわかる気がした。片割れを遺していくのは、どれほどこころもとなく、さびしかったろう。


「だがな。本当はそなたがそばにおるだけで、あたたかくて……苦しみだとか痛みだとか、そういう小さきことは後ろに過ぎ去るのじゃ。嘘ではないぞ。かさねはそうだった。……壱烏もきっと。そうだったと思う」


 イチは長いあいだ、何もこたえなかった。

 やがてかさねの頬にもあたたかな水滴が落ちてきたが、微笑んだだけで、かさねもそれ以上は何も言わなかった。



 げにうつくしき天の宮は見る影もなかった。

 朧と踏み入ったときには、整然と並んでいた殿舎は倒れ、鳥采女たちや都を守る鳥の一族たちが逃げ惑うすがたが見える。

 たどりついたのは、天都の端にあるひらけた丘。石でつくった大鳥居に、平たい岩がひとつあるだけの祈りの場だ。冬であるにもかかわらず、青草が颯と揺れるその場所からは、空と大地が接する地平線が見渡せる。

 岩のうえにかさねを下ろしたイチは、そばにかがんで息をついた。

 大地から天の宮までのぼった男はさすがに息も切れぎれで、生成りの衣はあちこちが破れて、血が滲んでいる。汚れた袖で汗を拭い、イチは裂け目から立ちのぼる多頭の蛇身を見上げた。


「あんなものを本当に取り込めるのか。だいぶ醜悪だぞ」

「燐圭の太刀のときと同じ要領で、できるとは思うのだが」


 正直、かさねとてできるという確信があるわけではない。それに、女神の力を取り込んだとして、あらぶる天帝をしずめられるかも定かではなかった。


「しかし、何とかせねば」


 背を正して、かさねは二神を仰ぐ。

 身体の感覚の大部分は失われたが、代わりにこの身をずっと苛んでいた重苦しい痛みや熱もおさまっていた。膚に浮かんでいたうす紅の痣は、花散るように消えてしまっている。その意味も、わかっている。

 

「イチ」


 かたわらにかがむ男の袖を引っ張る。

 かさねは首にかけていた口琴の紐を外し、イチに差し出した。


「これはそなたに返そう。かさねの息吹を入れておいたから、御守りにするとよい。そなたは先ぶれの神が恩寵を与えているらしいが……、まあ一度くらいなら死にかけても治してくれよう」


 イチの金と灰の目が何かを感じ取った風にゆがむ。

 イチはしばらく動こうとしなかったが、かさねの左手が疲れて震えてくると、下からすくうように手を添えた。常盤色の口琴を男に預け、かさねはその手を残った力でぐっと握りしめる。


「頼みがある」


 力を込めて見据えたかさねに、イチは苦笑した。


「この期に及んでまだ俺を使う気か」

「すまぬな。しかも結構、大変かもしれない」


 すでにだいぶ無茶をさせている男にまだ何かを頼むなんて、かさねもたいがい人使いが荒いと思う。やってくれるか、と尋ねると、なんだ、とイチは先を促した。


「あのうねうねした蛇の注意をかさねに向けてほしいのじゃ。どんな方法でもかまわぬ」

「あれは今、天帝以外目に入っていない。相当荒っぽい手段を使わないと、難しいぞ」

「多少傷つけるのはしかたがない。ひとの力で傷つけられるものかはわからぬが……」


 天地をのたうつ巨大な蛇をかさねは見つめる。声を張ったくらいでは、とてもかさねにきづきそうもない。以前は神霊に働いた口琴とて、天帝が離れ去り、イチが完全にただびとに戻った今、効かないだろう。我ながらむちゃくちゃ言っている自覚があったが、反面、イチならどうにかしてくれる、というふしぎな確信もある。

 イチは長いこと、返事をしなかった。

 方法を考えているというよりは、別の何かがイチをためらわせ、心を乱しているようだった。

 イチ、と呼びかける。

 男は深く息を吐き、やがてひどくさびしげにかさねを見た。さびしい。さびしさを抱えた男だというのは知っていたけれど、かさねはイチがこちらがわかるほどにその感情をあらわすのを初めて見た。


「それはどうしても、か?」


 尋ねる声に、かさねの心も揺れる。

 口をついて別の言葉が出そうになる。


「ど、どうしてもじゃ!」 

 

 結局、目を瞑って言い張ると、そうか、とつぶやいて、イチはつないでいたかさねの手を下ろした。代わりに、身体ごと胸に引き寄せられる。かさねの、もうほとんど自分の意志では動かせない身体は、イチの腕のなかにたやすくおさまってしまう。額が触れた首筋があたたかい。吐息が耳元をくすぐった。かさねは左腕を男の広い背中に回してから、髪に手を触れさせた。よしよし、と声に出して撫でてやる。


「そんなにかさねと離れがたいか? ふふ。かわゆいのう」


 いつもなら、絶対に返ってくるはずの悪口はなかなか返らなかった。

 眉尻を下げ、かさねはよしよしを続けてやる。自分よりもずっと強くて、歳もちがう男だが、そのときのかさねの胸に浮かんだのは、何かをいとしむような、慈しむような情だった。やさしすぎるこの男が不憫で、……だから、いとおしかった。


「道はつながっておるぞ、イチ」


 くっつけた頬から伝わる体温を感じながら、かさねは目を細める。


「かさねはかさねの道を。そなたはそなたの道を。だーいじょうぶじゃ。一度離れたくらいでそう簡単には途切れぬ。もし見失っても、またかさねがそなたを見つけてやる。三年前のようにな」


 この手からこぼれおちたものも、あきらめたものもさまざまあったが、かさねがいちばん欲しいものだけはちゃんと残った。腕にひとかかえくらいの、かさねにとってはかけがえのないもの。かさねが見つけた、かさねの大事なもの。

 ぎゅう、と左腕で力いっぱい抱きしめたあと、でい、とかさねはイチの身体を離した。口端を上げ、男の胸にこぶしを押しあてる。


「そなたの道はこの莵道かさねが見届ける。だから、イチ。安心して行けい!」

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