八章 神を射る矢
八章 神を射る矢 1
――おはよう、イチ。
相好を崩したかさねに、あぁとゆるやかに笑って、イチはかさねの身体を引き寄せる。
「おはよう」
深い森にも似た低い声が耳を打つ。
腕にこもった熱と力が心地よい。天帝が降りていたときの、きよらげで無駄のない所作とはちがう、不器用な力のこめられ方がイチらしかった。ほんとうは力いっぱい抱きしめ返したかったけれど、震える指先はかろうじて男の上着を握りしめることしかできない。代わりに、額を押しあてていた胸に頬ずりをしてやった。
「そなたが燐圭めに蠅のように叩きつぶされたときは、どうしようかと思ったわ。ほんにそなたは危ないことばかりをするから」
「そういうおまえこそ、太刀のまえにほいほい飛び出すな。命知らずにもほどがある」
頬ずりをするかさねの頭に手を回して、イチが悪態をつく。言葉のわりに声はやさしかった。久しぶりに聞くイチの声は、やさしくて甘い。いつもこうだったのか、いつの間にか変容していたのか、すぐには判別できなかった。
「どこも怪我はないか」
「うむ、このとおりじゃ」
燐圭が太刀で貫いた腹の穴は塞がり、傷も見当たらなかったが、衣は大きく裂けていた。かさねはつつましやかに育った姫君であるので、腹というかへそがぺろーんと見えている格好はたいへんに破廉恥である。おおおおお、と呻いて、左手で裂けた布切れを引っ張っていると、イチが上着をかけて前で紐を結んでくれた。
かがんだ男の横顔を眺め、かさねははっと口元に手をあてる。
「のう! もしや、かさねの破廉恥なすがたを見てむらむらしておる?」
「どちらかというと、ヒトが腹出して寝てるのを見かけた気分だ」
「馬鹿な、かさねのおへそまで見ておいて!?」
「――かさね嬢!」
頭上からきぃきぃ声がして、子犬ほどの大きさに戻った銀灰色の狐が降り立つ。この騒乱のなかで後ろ脚を怪我したらしい。赤い血の滲んでいる脚に驚いて、手を差し伸べようとすると、大地が再び蠢動した。もとよりひらいていた巨大な裂け目がめりめりと左右に広がっていく。かさねたちが立っていた山の斜面も割れ、大きな亀裂が蛇のように走った。
「うわっ」
よろめいたかさねと朧をつかんで、イチは地に深く根を張っている老樹ののもとに逃れる。隆起した大地が傾き、若い木々や雪のかぶった土が裂け目にのみこまれていくのが見えた。
「地道の境界が揺らいでおるのです」
かさねを老樹の根に座らせたイチのかたわらで、朧がつぶやいた。朧の琥珀の目は、傾斜した大地をのみこんで、さらに広がる裂け目に向けられている。
「天帝がつかさどる天道と神道、大地女神のつかさどる地道がぶつかりあい、交わり始めている。普段なら境界の外にいるはずの魑魅魍魎があふれだし、神とひとと魔がごっちゃに……あぁ、おそろしい……」
おびえたようすで朧が前脚で顔を覆った。
裂け目の向かいにある山の端をさっと駆け抜ける、流星のような金烏のすがたが見えた。イチから抜け出た天帝の真の姿だ。それを追いかけるようにいくつもの首を持つ影のごとき蛇が、裂け目からうねうねと立ちのぼる。
両者がぶつかると、天地のあちこちに亀裂が入り、そこから臭気と瘴気を纏った魑魅魍魎があふれだす。無数の魑魅魍魎が地を覆うさまは、あらぶる土石流にも見えた。のみこまれた大地が瞬く間に破壊され、黒い腐地と化す。
「このままでは、天地が壊れてしまう。どうにか止められないのか」
「天地をつかさどる二神が争っているのですよ。我々地神にどうにかできるわけがありますか!」
「確かに女神のあのすがたは、天帝を滅ぼすまでしずまらなそうだ」
老樹の幹に手をついて、イチは眼下を見下ろしながらつぶやいた。
かさねたちがいたのは山の中腹だったため、まだ魑魅魍魎に飲み込まれてはいないが、足元に見える大地は黒々とした坩堝と化している。こちらまで迫ってくるのも時間の問題だった。そうでなくとも、大地に生じた巨大な裂け目からは、今も黒々とした魔が新たにあふれ続けているのだ。
「あの男は――大地将軍はどこにいる?」
「わからぬ。そなたを斬って、あるいは死んだか……」
話しながら、はるか下方に、壊れた太刀を抱いて岩のうえに横たわる男を見つける。焼け焦げた甲冑にわずかに朱色が残っている。燐圭だ。
「イチ!」
取り囲んだ魑魅魍魎が岩をのみこもうとしているのにきづいて、かさねは声を上げる。かさねが何かを口にするよりも早く、同じものを見つけたらしいイチが立ち上がった。
「おまえはここにいろ」
かさねに短く告げると、イチは老樹から飛び降り、勢いをつけたまま急斜面を滑りおりる。後方から転がってくる倒木や岩をかわしながら、黒々とした坩堝に押し流されていく男を追う。
燐圭も折れた太刀を何とかつき立てようとするが、失った右腕のせいで体勢を立て直せず、止めることができない。押し流されていく先の大地は円状にえぐれ、落ちれば、黄泉の裂け目にまっさかさまだ。かろうじて老樹の根が守っている斜面を併走しながら、イチが舌打ちするのが見えた。
燐圭の兵が落としていったものか、誰ぞやの刀を拾い上げると、イチはそこに固い蔦を結びつけ、近くの老樹に向けて投擲する。ぐん、と跳ね上がった刀が太い幹に突き刺さった。
朧、とかさねは動かせる左手で狐神に懇願する。
「わたしはあの男は好きませんよ。地神殺しのひとの子など」
「だが、それでも頼む。ふたりを助けてほしい」
大仰に息をつくと、「わたくしはかさね嬢に甘すぎるのでは」とつぶやき、狐神はかさねのへそをべろっと舐めた。変態め、とかさねは顔をしかめたが、それでお代は支払われたらしい。後ろ足を治した朧が下方へ駆けていく。
「燐圭!」
伸びた蔦の先をイチが燐圭に向けて投げる。魑魅魍魎の群れから半分ほど顔を出した燐圭が無事な左手を伸ばした。たわんだ蔦を男の手がつかみ取る。思わぬ重量がかかった蔦がぎしりと軋んだ。それを引き上げながら、イチが己と燐圭を結ぶ蔦に目を向ける。
「地神を殺しまわったこいつに、地のものが味方するかな」
軋んだ蔦はそれでもよくもちこたえていたが、やがてたおやかな表皮が裂けて、端のほうからちぎれかける。それをイチの手がつかんだ。すんでで何とか命を取り留め、燐圭がイチの腕をつかむ。
地面に転がると、燐圭は己の足にまとわりつく黒い子蛇をわずかに鉄の切っ先が残る太刀で振り払った。女神の力はまだわずかに残っているのか、太刀に触れた魑魅魍魎はみるまに蒸発して、燐圭の身体から剥がれ落ちる。
息をつき、燐圭はイチを見上げた。
「さっきまで殺し合っていた男にたすけられるのは妙な気分だ」
「あれは俺じゃない。あんたも女神の太刀が壊れて、だいぶすっきりした顔をしているぞ」
片腕を失った燐圭を後ろから押し上げるようにして、イチは斜面をのぼる。そのとき、イチたちの足元で地揺れが起きた。べこん、と莵道の屋敷ほどはあろう土の塊が陥没し、一気に亀裂に吸い込まれる。大狐のすがたに転じた朧が、投げ出されかけたふたりの男の衿をくわえて引き上げた。
「ぐぬっ、嫌なものをくわえた。ぺっ、ぺっ!」
思いきり顔をしかめて、朧はかさねのそばにふたりの男を放り落とす。
直後、断続的な脈動を続けていた大地が唐突にしずまりかえる。ゆがんだ斜面から砂煙がのぼった。
「揺れがとまった……?」
「アルキ巫女たちが壊れた境界を繕い直しているんだ」
対面の山の端に並ぶ数百の巫女たちを示して、イチが言う。
おお、とかさねは胸を撫でおろしたが、そのわりには巫女たちの表情は厳しい。繕い直される端から、新たなほころびが生じ、修復が追いついていないようだ。「とどめておけるのは時間の問題だな」とイチがつぶやいた。
大地は今やだいぶ姿かたちを変えてしまっていた。
氷をまとった樹々がそびえる白銀の雪原には、黄泉へとつながる巨大な亀裂が生じ、先が見通せないほどの闇がどこまでも続いている。大地はえぐれ、土石流が流れ去ったあとのように木々が倒れて、混ぜ返された土があらわになっていた。亀裂から噴き出した魑魅魍魎は、あっちへこっちへ押し寄せては、大地を破壊し続けている。
天を覆う暗雲のした、稲妻が千々に閃いた。金烏と無数の頭を持つ蛇は、天地のあいだで今も攻防を繰り広げている。
「無事か、燐圭」
木の根元に腰掛けた燐圭に這いよって、かさねは尋ねる。男は全身に火傷を負っていて、焦げた衣のしたから赤黒い膚がのぞいていた。右腕は肩のあたりからばっさりと断ち落とされている。生きているのが不思議なくらいだ。
裂いた衣で腕を止血しながら、「さぁな」と燐圭は口端を上げる。
「もうだいぶ身体の感覚がない。今度こそ死ぬやもしれん」
「そなたのような男はそうそう死なぬよ」
苦笑し、かさねは男の傷口にふっと息を吹きかけた。
白銀のひかりが粉雪のように舞い、焼けた血肉が露出していた傷口が徐々にふさがっていく。赤黒く爛れていた膚が息を吹き返す。痛みも少しはしずまったにちがいないが、「余計なことを」と忌々しげに燐圭は吐き捨てた。
「ちっとは感謝くらいせえよ。素直でない男じゃ」
「そのようすだと、もうだいぶ女神の力は譲られたようだな」
「……かもしれぬな」
「だが、まだ一部でしかない」
裂け目からたちのぼる影にも似た蛇身を仰ぎ、燐圭が言った。
「あれらはそなたの意志とはちがうだろう、かさねどの。前の女神の力が現れたものだ。本当に天帝とやりあうつもりなら、まずあれらを己のものとせねばならんぞ」
「そなたとちがって、かさねに天帝と争う気はない。が、あれらをしずめてやりたいとは思う。天地が破壊しつくされてしまっては困る」
イチ、とかさねは男を呼んだ。伸ばした左手でぐいぐい男の袖を引っ張って、「だっこ!」とのたまう。
こんなときに何を言ってるんだ、と呆れられるかと思ったが、存外素直に腰と膝裏に手を回して抱き上げられた。かさねはイチの首に左腕を回す。実際、両足がもうほとんど動かなくなってしまって、ひとりでは立ち上がることが難しかったから助かった。
「そなたに頼みがあるのじゃ」
「なんだ」
「聞いてくれるか?」
イチの頬に手をあてて、かさねは尋ねる。まるで試すような言い方をしてしまったが、気分を害した風はなく、「あぁ」とイチはすんなりうなずいた。
安心させるようにかさねの手に手を重ねながら、なんだ、と尋ねる。
「あの山のいただきにかさねを連れていってほしい」
かさねが目で示した先には、ふだんなら見ることの叶わない青き嶺が雲間からのぞいている。――天都。天道がゆらぎ、さまざまな境界がまじりあう中、常ならたどりつけないまほろばの宮も、すがたをあらわしていた。
「あそこからなら、かさねの声も届くだろう」
「二神をしずめるのか」
「うむ。今それができるのはかさねしかおるまい」
「おまえは……」
何かを言いかけたまま言葉を切ったイチに、「うん?」とかさねは首を傾げる。
イチは目を伏せて、かさねの身体を抱え直した。
「……わかった。連れて行ってやる」
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