七章 くちづけ 3

 千の炎が揺らめく森を走る、走る。

 巨大な狐の姿に転じた朧は、一陣の風のように速い。朧の首に左手でつかまりながら、かさねは身をかがめて前方を見据える。

 銀の雫がふるえる常緑の森を抜けると、無数の鳥居がつらなる道が現れる。

 普段は鳥采女たちがかしましく行き来しているのだというこの場所に、今ひとの気配はなかった。異様な静けさがあたりを包んでいる。


「そなた、神であろう? 神道は使えぬのか?」

「下界から天都につながる道はただひとつ、わたしたちが最初に降り立った鳥居のまえだけです。ほかからは入ることも出ることもできない」


 薄闇に燈火が掲げられた道は、地に敷かれた小石が淡くひかって見える。

 駆け抜ける朧の影が、すばやく燈火を横切る。


「この先に神道の入り口があります。鳥居を出たら、すぐに道をつなぎますから、しっかりつかまっていてください!」


 朧の声を聞きながら、かさねは頭上に連なる鳥居を見上げる。

 柱と柱のあいだに垣間見える空は、夜になったり朝になったりを繰り返していた。前脚で強く地面を蹴り、朧は鳥居の外に飛び出す。本来ならば、そのまま神道につながるはずであったが――。


「鳥居が……!」


 入口の役割を果たす大鳥居をふさぐように、きりきりと矢をつがえた鳥の一族が整然と待ち構えていた。二の足を踏んだ朧が、大地に降り立つ。

 一列に並んだ鳥の一族の後方から現れたのは、白の浄衣に身を包んだ壮年の美丈夫だった。長い黒髪に金目の容姿には見覚えがある。


天烏テンウどのか」

「花嫁御寮よ。その鏡を持ってどこへ行く?」


 天の一族の長・天烏の声は、厳かにその場に放たれた。今下界で起こっていることにはまるで気を留めた風でもない。かさねは朧の背に乗ったまま、ふところに入れた鏡に衣のうえから手をのせる。


「天帝と燐圭のもとじゃ。すまぬ、そなたと話し合う時間が今は惜しい!」


 朧、と促すように背を叩くと、前脚に力をためた銀灰色の身体が矢のように跳躍した。一列に並んだ鳥の一族を飛び越し、大鳥居に向かって飛び込む。天烏が何かを唱える声が聞こえた。直後、組み合わされていた大鳥居の柱が外れて、行く道をふさぐように重なり出す。


「まずい、神道がふさがれます……!」

「すり抜けよ、朧!」


 柱のあいだのわずかな隙間に朧が身を滑りこませようとする。

 ガコン、とみたび形を変えた大鳥居の柱がかさねと朧の眼前に迫った。ぶつかる、と思わず目を瞑ったかさねの耳に、澄んだ銀鈴に似た女人の声が響く。天烏が唱えたものと似た響きの、されど別の言霊が唱えられた。促されたかのように大鳥居がもとのかたちを取り戻す。


「いったいなにが……」


 眉根を寄せ、かさねは背後を振り返った。

 鳥の一族たちの後方に、孔雀姫がいた。そのかたわらには、黒装束を着た老年に差し掛かろう男が寄り添っている。かつてイチが、じじさま、と呼んでいた、陰の者の教育係の老爺だった。


「道はわたしがひらいた! 行け、かさねどの!」


 何故、どうして、という言葉は、力強い声だけで十分だった。

 まっすぐ向けられた碧眼に、かさねはしっかりとうなずく。もとに戻った鳥居のあいだに生じた裂け目に、朧が勢いよく飛び込む。

 何故、と閉じゆく裂け目の向こうで、天の一族の長がつぶやいていた。


 ――天の一族の姫たるおまえが、なぜ。


 澄んだ衣擦れの音を立てて長の前に立ち、孔雀姫は口をひらく。

 姫はなんとこたえたのだろう。清冽な横顔をさいごに、水鏡が溶けるように目の前の情景がかき消えていく。

 来たときと同じ、身体が風に転じる軽やかな浮遊感があり、次の瞬間、かさねと朧は雪で覆われた急斜面に落とされていた。


「う、わわっ、わっ」


 雪のうえを何度か跳ねて、深雪に頭から突っ込む。

 呻きながら身を起こし、ふところに入れた鏡が割れていないことにひとまず胸を撫で下ろした。しかし、雪一色に染まるあたりの情景には見覚えがない。


「朧。どうやら別のところに落ちたようだぞ」

「道の途中でひずみが生じたようです。木道に戻ってしまいましたね」


 雪片のくっついた頭をぶるぶると振って、朧が鼻面を上げる。

 朧とかさねが落ちたのは、どこかの山の中腹のようだった。樹氷に覆われた背の高い木立が急斜面に並んでいる。時折、下方で雷鳴が轟き、大地がふるえた。おそらく山をだいぶくだった先に、天帝と燐圭がいる。


「ひずみとはどういうことじゃ?」

「天帝と大地女神が争っているからでしょうか。神道や天道、地道にもひずみが生じている。樹木神が守る木道はまだしっかりと根を張っているようですが。……神道がひらけません。ここから先は走るしか」


 身体をかがめた朧に「わかった」とうなずき、かさねはその背に飛び乗った。

 左右へ跳んで器用に木々をよけながら、朧は斜面をくだっていく。銀灰色の毛を左手でぎゅっと握り、かさねは身を伏せるようにして衝撃に耐えた。


「さっきの話だが、ひずみが生じるとどうなる?」

「道がひずめば、天地の境界が揺らぎます。境界が揺らげば、神も魔も化生もひとも獣も、棲み分けていたものたちがごったに混ざりあう。ひとと魔と化生が互いに食らい合う、おそろしい世界です。かさね嬢。早々に天帝と大地女神の争いを止めねば、まずいですよ」


 話しているあいだにも、向かいの山々は噴煙を上げ、赤黒い火砕流が山の斜面を勢いよく流れ落ちる。大地の流す血流のようだった。熱と瘴気にあてられた生きものたちが次々のみこまれて、存在ごと蒸発する。

 どっと、のたうった大地が大きく脈動する。

 よろめきかけた朧にしがみつき、かさねはひらけた視界いっぱいに広がる巨大な裂け目を見つめた。大地を分断するように走った亀裂は、先が見通せないほどに深い。今、大地に蔓延する瘴気はそこから生じているようだった。おそらくつながった先にあるのは、大地女神の治める黄泉だろう。

 そのとき、頭上で走った二条の稲妻が、亀裂のそばにある一点に落ちた。燃え上がる炎のなかに揺らめく人影を見つけて、かさねは朧にせっつく。


「燐圭じゃ! ええい、朧。もちっと急げぬか!」

「これでも全力で走っておりますとも! かさね嬢! 前!」


 息を切らした朧がきぃきぃ声を上げる。

 焦土と化した大地に立つふたつの影。黒煙の向こうに見えてきた男のすがたを見て、かさねは小さく息をのむ。

 天帝が落とした稲妻が燐圭の身体を焼いていた。

 いったい幾度やりあったあとなのか。燐圭の半身は黒く焼け焦げ、まとわりつく鎧の残骸から煙が上がっている。腕の一本はなくなっていた。だが、まだ生きている。その両目には炎が燃え盛っている。

 対する天帝は、たなびく衣のどこにも焦げ跡など見当たらない。武器をなにも持っていないにもかかわらず、燐圭のふるう太刀をかわし、あるいは雷が受け止める。

 頭上を覆う巨大な暗雲のなかで、紫電がひらめいた。

 次で射止める気だとかさねは直感する。

 天帝はすでに飽いている。終わらせる気だ、もう。

 

「燐圭!!!」


 一閃、稲妻が男の太刀めがけて落ちる。

 雷の衝撃に吹き飛ばされそうになり、朧は強く大地を蹴った。しかい跳躍の途中で朧の身体が傾ぎ、かさねはその背から転げ落ちる。受け身もとれないまま、雪の斜面を鞠のように跳ね、雪原に転がった。

 稲妻の直撃を受けた燐圭は火炎と化していた。

 かろうじて男のすがたを保っていた黒い影も輪郭を失う。すべてを燃やして燃やして燃やし尽くして消える――ように見えた。

 大地を引き裂く女神の悲鳴に鞭打たれ、かさねははっと身を起こす。

 ならぬ、とつぶやきながら、雪を散らして駆けた。一直線に、天帝の、イチの身体に向かって。

 

(ならぬ)


 燃え上がった火柱が、ひとふりの太刀をかたどる。

 赤い火花を散らしながら、吹きすさぶ。天帝に向かう。


(ころしては、ならぬ)


「イチ!!!」


 半ば大きく転げるようにかさねはイチの身体に飛びついた。

 横殴りの衝撃が直後、かさねの身を襲う。

 貫いていた。

 女神の恩寵を受けた大太刀が、かさねの腹から背をひといきに貫いていた。

 ぜい、と息を吐くと、口内に血の塊がこみあげてくる。己を貫いた男の、炎と化した手をかさねはつかむ。目が合う。燐圭の目は忌々しげに眇められていた。荒くはずむ息を整え、かさねはうすく笑ってやる。だから、言ったであろうと。


「かさねがいる限り、この太刀は抜かせない、と」


 かさねを貫いていた太刀そのものがかたちを変え、纏っていた瘴気が剥がれ落ちていく。最後に炎そのものになった太刀は、かさねの身のうちに吸い込まれて消えた。

 太刀を受けたはずみに落ちた鏡が、天帝のすがたを映す。

 黄金のまばゆい鳥が、水面のごとき鏡面に映し出されていた。千年前に見たものとおなじ、天帝のもとのすがた。まことのすがたを暴かれた天帝が器から離れ、空に駆け上がる。蛇のように揺らめく大地女神の影がそれを追う。

 かさねのすがたも鏡は映していた。

 つぎはぎだらけで、もうだいぶひとではない。鏡のなかでまたひとつひかりが弾けて、かさねの身体の一部がなくなった。身体のほとんどが消失してしまったかさねを最後に映して、鏡は今生での役割を終える。


「イチ……」


 糸が切れたように寄りかかってきた男をかさねは支えた。

 瞼を閉じた男は、今は眠っているかのようだ。あおじろい頬に左手を添える。ひとならざる膚の冷たさに胸を痛めながら、すこし背伸びをして、かさねは男にくちづけた。金の粒子を息吹といっしょに送り込んでいく。目を細め、かさねはやがて目を閉じた。

 瞼裏でひかりが翅のように舞う。熱と吐息が渡されていく。

 そっと唇を離して目をひらくと、まどろむように灰と金の目が幾度か瞬きをした。その目に芯が灯って、かさねを映す。支えていた手を離すと、男のまえに立ち、かさねはにんまりと笑ってやった。

 ……会いたかった。とても会いたかった。


「おはよう、イチ」


 目を覚ました君が最初に映すのは、やっぱり笑顔がいい。

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