八章 神を射る矢 3

 目を腫らした少女がそれでも底抜けにあかるく笑うので。

 イチはもうそれ以上繰り言をいうことはできなくなった。

 この娘の願いを叶えてやりたいと思う。それが自分にとってどんなものであっても、この娘の願いのほうを叶えてやりたいとイチは思うのだ。


「わかった」


 左胸に押しあてられたこぶしを取ると、イチはそれを両手で握りしめる。


「けど、俺は戻ってくるからな。おまえはそこで待ってろ」

「もちろんじゃ。帰りはおひめさまだっこで頼むぞ」


 ちゃっかり注文をつけてきた少女のえらそうな顔にすこし笑い、イチはかさねの額にくちづけた。くすぐったそうに笑い声を立てた少女の髪をさらりと撫ぜて、身体を離す。

 岩のうえにかさねを置いて、イチはひとり来た道を引き返した。

 影に似た多頭の蛇と金烏は、そのあいだももつれあいながら、天地を駆けめぐっている。大地が脈動するたび、なぎ倒される木々や石つぶてが降ったが、ぎりぎりかわして、白銀に染まった急斜面を駆け下りる。

 空を厚く覆った雲から灰まじりの黒い雨が降りだし、頭上で紫電がひらめいた。

 稲妻が千々に大地に落ちて、直撃を受けた大蛇が咆哮を上げる。

 蛇の頭のひとつが天都の先端にぶつかるのが見え、イチは息をのんだ。一瞬不穏な想像がよぎったが、あいつならどうにかしているはずだと思い直して、そのまま足を止めずに走る。激しくなった雨のせいで、白装束だったイチの衣はあっというまに泥と灰で黒に変わってしまった。ただ、このほうがいつもの自分らしい。

 大地に生じた裂け目から溢れでた魑魅魍魎は、さっき自分たちがいた山の中腹まで到達したようだ。裂け目はいまだにめりめりと広がっており、大地のさまざまなものがのみこまれていっているのがわかる。

 魑魅魍魎から逃れるように、こちらにのぼってきた銀灰色の狐と甲冑姿の男を見つけ、「燐圭!」とイチは声を張った。


「ああっ、坊主! おまえ、かさね嬢を置いて戻ってくるとは、なんたる不忠!」

「あいつに別のことを頼まれたんだ」


 かしましくまとわりつく朧を引き剥がし、「おまえ、弓矢を持ってないか」と燐圭のほうに尋ねる。男の肩には弓と矢筒がかかっていたが、天帝との攻防で消し炭と化していた。かろうじて残っていた矢は二本、弓も何度か引けば崩れてしまいそうだ。


「それとその折れた太刀を貸してくれ」

「いったい何に使う気だ?」

「あの女神の注意を自分に向けろ、とあいつが言った」

「かさねどのが?」


 あぁ、とうなずき、イチは燐圭が腰に挿した太刀に目を向ける。半ば壊れて、柄の近くにわずかに鉄が残っているだけだ。

「もうたいした使い道もないだろうが」と燐圭はイチに太刀を差し出した。


「かさねどのには、勝手に命をすくわれたゆえな」

「ありがとう」


 太刀の柄を帯に挟むと、イチは弓を肩にかけて、山の中腹から下方を見下ろした。今もなお広がる大地の裂け目から、魑魅魍魎だけでなく黄泉の瘴気がたちのぼっている。影の大蛇は、この場所から生まれでているようだった。

 

「ただびとのおまえに、神をどうこうできるのか」


 燐圭が背後からかすれた声で尋ねる。

 そうだな、とイチは首にかけた口琴を衿下にしまいながら苦笑する。神々をしずめてきた口琴も、天帝と完全に分かたれた今となっては役に立たない。天帝から与えられた恩寵も、女神に対抗するには無いに等しい微かなものだ。


「ただ、この身を流れる血はまだ使い道がある」


 イチの父親は天の一族の長、母は正妃、身体に流れる血は正統な天の一族のものである。天の一族は、天帝と莵道の姫が交わって生まれた子を祖としている。千年のあいだ守られてきた、神の末裔たる血筋。ゆえにこそ、デイキ島の島巫女のように異なる神の力が及ぶものには、別の作用を及ぼす。

 自分の血筋になんか生まれてこのかた興味もなかったが、そこに活路を見出す日が来るとは思わなかった。

 息を整え、イチは下方に向けて大地を踏み切った。

 うごめく魑魅魍魎のなかにかろうじて残った岩を飛び石のように使って、大地に生じた裂け目のぎりぎり先端まで近寄る。岩の割れ目から生えた大樹は、倒れずにまだ根を張ってくれている。幹を伝ってよじのぼると、太い枝のうえに立ち、そこから今もなお広がり続ける亀裂を見渡した。

 帯から引き抜いた太刀の折れた切っ先で、己の腕を傷つける。見る間にあふれ出した血液で矢尻を濡らし、それを弓につがえた。

 張り詰めた弓弦が雨滴を弾きながら、きりりと震える。

 亀裂から生じた黒い靄のような大蛇の胴体をイチは見据える。


(俺の道を見届けるとあいつは言った)


 それ以上のことをかさねは何も言わなかった。

 言わなかったがそれは。


(あいつの道は俺が見届ける)


 それと同義だ。

 彼女が選ぶものと、

 そのために失うもの、

 イチが選ぶものと、

 そのために失うもの、

 見届けよう、すべて。

 互いが選んだ、その道のうえから。


 雨は降りしきっていたが、ふしぎと視界は明瞭だった。

 呼吸をしずめ、立ちのぼる蛇身の、その中心にイチは矢を放つ。

 しとど雨降るなかを、それでも風を切り裂きながら矢は進み、大蛇の胴体を射抜く。とぷんと吸い込まれたあと、巨大な影が揺らいで霧散した。

 支柱を失い、のたうち回る蛇の頭のひとつに向けてさらに一矢。

 昏い眼球に吸い込まれていく矢を目で追い、イチは弓を下げた。

 多頭の大蛇が崩れ落ちる。逃れた金烏が離れた山頂に留まる。

 一瞬の静寂。天の嶺から大蛇に対峙する少女のまぼろしが、イチには見えた。

 

 *


 どういう仕掛けかわからないが、イチの矢で射抜かれた大蛇は一度力を失い、大地に崩れ落ちた。厚い雲の切れ間から一条の光が射す。よろめきながら岩盤を支えに立ち上がり、かさねは大地でのたうつ大蛇を見つめた。

 イチが射抜いた硝子質の目からどろどろと黒い涙が流れている。

 心無きものの目であり、空虚な闇そのものであった。

 

「大地女神……ひよりのなれの果てよ」


 左腕を差し出しながら、かさねは大蛇に呼びかける。


「今、千年の牢獄から解き放つゆえな」


 この身が、不幸だったとは思わない。

 運命が残酷だったとは、かさねは思わない。

 岐路に立つたび、考えた。

 迷いながら、泣いて、あがいて、考えて、

 選びとった道をかさねて、かさねて、

 今、この場所に立っている。

 選び続けた、

 望み続けた、その道の先に立っている。


(さあ、天も地も見よ。これがかさねの道じゃ)


 すぅ、と息を吸い込むと、かさねは天に向かって大きく笑ってやった。


「ひらけ、莵道」


 だから、泣かない。

 さいごまで笑って、この道果てまで駆け抜けてやる。


「かさねに女神の力、残らず寄越せぇえええい!!!」

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