六章 姫の決断 5
木っ端微塵だった。
貫かれたわけでも、斬られたわけでもない。
小さな身体に燐圭の大太刀はあまりに不釣り合いだった。あまりに。
「イチ……」
半身を起こしたかさねは、いなくなった小鳥を探してあたりに視線をめぐらせる。雪がかぶった岩盤のうえで、小鳥の残滓のように金の欠片がひらひらと舞っている。今にも風に吹かれて消えてしまいそうなそれを、かさねは片手ですくいあげた。
たぶん、これはイチの魂の欠片だ。
かさねが口琴で呼び寄せ、樹木星医が雛のかたちを与える前の、金色をした蝶と同じもの。どうしたらもとの姿に戻せるのかわからなかったから、かさねは金の欠片を口元に持っていき、のみこんだ。
心臓がどくどくと激しく打ち鳴っている。こめかみが痺れるように熱い。
ひどいことが起きる、とかさねは予感する。これからひどいことを、じぶんは、起こす。だから、この金の欠片だけは守ってやらねば、と思った。巻き込まないように、隠してしまわなければ。
すぅっと金の欠片をのみこむかさねを、燐圭は何故か微動だにせずに見ていた。魅入られているようだった。炎を棲まわせた燐圭の目には、うすく微笑む白亜の少女が映っている。ごくん、とすべてを飲みくだすと、かさねの意識は揺らめいて、ほどけるように溶け去ってしまう。
代わりに、別の声が呼ぶ。
――テン、テイ
それは女の声。
女神の声だ。
――テ、ン、テ、イ
――ゆるさぬ
――ゆるさぬ、ゆるさぬ、ゆるさぬ、
――ゆるさぬゆるさぬゆるさぬゆるさぬゆるさぬゆるさ……
雷鳴のような怨嗟と呪詛がかさねを真っ黒く塗りつぶしていく。
ゆるさない、としか考えられなくなる。ゆるさない、ゆるさない、ゆるさない、ゆるさない、ゆるさない。わたくしを愛する者から引き離し、孕ませたのち、さいごは大地の冷たい底に叩き落した!! 天帝!!!
「天帝ぇええええええ!!!」
かさねのいる岩盤に亀裂が入り、どろん、と周囲のものが腐れて落ちる。
燐圭がとっさに足をのいた。その足元にあった雪が瞬時に蒸発し、あらわれた土膚がぼこぼこと泡立ちながら崩れ去る。無数にそびえていた樹氷も、影を残して溶け消えた。
叫び声を上げて、兵が四方に逃げ出す。
逃げ遅れた者の手足は、女神の瘴気に触れるや、あっという間に腐れ落ちた。苦痛の悲鳴がそこかしこでほとばしる。力なく岩盤に座るかさねの両目から、涙がとめどなくこぼれた。それはひどく熱い、血の涙だった。
――たすけて
誰かが叫んでいる。
――たすけて
――もうやめて、やめてくれ……
つたない嗚咽は、女神の烈しい咆哮に押し潰されて、粉々に砕けていく。
大太刀をつかんだ燐圭が、何かに気付いた様子で身構えた。
直後、頭上で雷鳴が轟く。
一閃。一閃だった。
巨大な火の玉が、眼前に落ちたかのようにかさねは感じた。
まるでふたつの異なるものが弾き合うように、暴発していた女神の力が一瞬にしてかき消える。うすい膜を隔てた遠い場所にあった身体が、もとの感覚を取り戻す。
雪に触れた指の先が冷たい。
小さく震えたかさねの前に降り立ったのは、金目をした男だった。
イチではあるが、イチではない。やさしく慈しむような顔で、彼はかさねを見返す。
「やっとわたしを呼んでくださった」
ふっと息をついて、男の大きな手のひらが血の筋が残ったかさねの頬に触れる。
かさねがいる岩盤はぎざぎざに割れ、あたりは焦土と化していた。兵の幾人かは、手や足が腐り落ちている。ぜんぶ、女神が、かさねがやったことだ。途方もなく恐ろしくなって、かさねは子どものようにしゃくりあげる。透明な涙が溢れて、ぽろぽろと血の痕がついた頬を伝った。
「かように壊して、まったくしょうのないひとです」
天帝はのんびりつぶやくと、吐息ひとつで傷ついたかさねの身体を癒した。ひとつ、ふたつ、生まれた息吹が風にのって、男たちの手足や爛れ落ちた木々を修復する。
――破壊と再生。
樹木星医の言葉がかさねの脳裏によみがえる。
天帝は破壊と再生をつかさどる神。大地女神とは表裏一体。
天帝が降り立つことで、大地女神の気が満ちていたこの場所に変化が生まれたのだろうか。危うく女神に共鳴しかけていたかさねの意識は、かさねとしての自我を取り戻す。それでも震え続ける手をかさねは力をこめて握りこんだ。
……まだ。
しがみつかねば。かさねは、まだ。
この身体をほかのものに譲り渡すことはできない。
大きく息を吐き、かさねは頬を伝い続ける涙を手の甲で拭った。
「そなたは天帝と見受ける」
地を這うような低い声が、かさねの背後からした。
瞬きをした天帝が、おや、と急に残忍な笑みを浮かべる。
「ひより。ずいぶんと醜い姿になったものです」
燐圭が掲げた太刀からは青黒い火柱が上がっている。
――天帝……
――天帝、天帝、天帝、天帝!!!
求めていた神が現れ、大太刀を通して顕現した女神が狂喜する。
黄泉につながっているという峡谷の底から、蛇のかたちをした瘴気が次々たちのぼった。狂乱の声で哭く女神の太刀を携え、燐圭は薄くわらった。
「その首、取らせていただこう」
「花嫁とのせっかくの逢瀬であったのに、無粋であること」
ひらりと男が袖を振ると、空から落ちたまばゆい一閃が岩を砕く。
暗雲の立ち込めた空に、無数の鳥影が現れた。
空を埋め尽くすほどの鳥影は、鳥の一族のものであるらしい。地に向けて急降下した鳥たちは人身に転じ、燐圭が率いる兵に襲いかかった。槍や太刀で男たちが応戦する。天帝の一閃を合図に、両者は入り乱れながらいっせいに対峙する。
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