七章 くちづけ

七章 くちづけ 1

 黄泉の入り口とされる雪の峡谷は、今やひとと鳥が入り乱れる乱戦の場と化していた。

 男が振りかぶった太刀が、対峙する鳥の青年の片腕を斬り落とす。断たれた肩を押さえた青年はすぐさま白い鳥へと転じ、さらに追い打ちをかけようとする男の両目を嘴でくりぬいた。ギャッと悲鳴が上がり、かさねのまえに赤黒い血飛沫が散る。

 鳥に首をかき切られて絶命した兵が、太刀を握ったまま、かさねのほうに倒れてくる。鋭い切っ先がかさねに向いている。目を大きく瞠らせながら、とっさに逃げられずにいると、衿首をつかんで後ろに引っ張り上げられた。


「なん――……」

「おしずかに!」

 

 抗おうとしたかさねに濡れた鼻を押しつけ、相手が鋭く喚いた。


「天帝と大地将軍がどんぱちやっているうちに逃げますよ、かさね嬢」

「そなた……朧、か?」


 左目にぼんやり像を結んだのは銀灰色の狐だ。

 頬に押しあてられた黒い鼻に触れて尋ねると、「めっそうもない!」と相手は慌てた様子で首を振った。


「わたくしは通りすがりのただの狐です。ええ、あなたとは何の縁もゆかりもない。天帝にそむいたことなどありませんし、今日は偶然、目の前に倒れていた見知らぬ乙女を助けただけですとも」


 いささか苦しい言い訳に、かさねは瞬きをしてから、眉をひらいてわらった。


「そなた、緑嶺からここまで来てくれたのか?」


 重い身体を引きずるようにして立ち上がると、朧が身を寄せてかさねを支えてくれる。銀灰色のあたたかな毛並に額をくっつけ、かさねは朧の首に動くほうの腕を回した。


「鼻はちゃんともう治ったか?」

「樹木星医特製の薬草をいただきましたから。彼らが言ったのです、かさね嬢のもとへ行ってやれと」

「そうか……。あのときは、ほんにすまなかった」


 話している間にも、大地女神の力を宿した太刀を燐圭がふるい、それをかわした天帝が雷を落とす。峡谷にせり出した岩盤に次々大穴があき、周囲の雪を巻き込みながら黄泉の奈落に落ちていった。


「イチ……」


 燐圭が勝つのか、天帝が勝つのか、かさねにはわからない。

 だが万一にでも、燐圭が天帝を討ちとることがあれば、イチの身体も肉体としての死を迎えてしまう。せめて天帝をイチの身体から引き離し、燐圭の太刀をひととき止めることができれば。両者のあいだに、かさねが割り入る隙をつくれるかもしれない。

 ――だが、そのための神器「鏡」は天都にある。


「天都」


 跳ねるように天上を見上げたかさねは、曇天を覆う無数の鳥影に気付く。

 そのうちの一羽がふいに妙な動きをした。くるくると仲間のあいだを縫うように空を旋回したあと、かさねと朧に向かって急降下したのだ。


「何やつ!」


 かさねのまえに飛び出た朧が毛を逆立てる。

 半ば転げるように雪上に降り立った小さな鳥は、みずらを結った少年の姿に転じた。しかし、浅葱の水干を身につけた左腕は傷つき、血を流している。


「小鳥! そなた……!」

「かさねさま。ああ、よかった……」


 朧を押しのけて駆け寄ったかさねに、少しほっとした風に小鳥が微笑む。

 小鳥の左腕は無残に折れてしまっていた。この身体でよくここまで飛んできたものだと、そのことに涙ぐみそうになる。


「あなたさまに孔雀姫さまから言伝を預かっています。お探しの『鏡』は、天都にある天帝の祭壇に鎮座しているはず。どうか誰にも気付かれぬうちに持ち去られよと。すいません、咥えてきて差し上げたかったのですが、途中で我が一族の襲撃に遭い――孔雀姫さまも閉じ込められてしまったのです」

「孔雀姫が? 無事なのか?」


 とたんに顔を蒼白にさせたかさねに、「ええ」と小鳥はあえかに息をつく。


「じじさまとて、天の一族の姫に無体はしないでしょう。ですが、もう時間がない。僕が天道をひらきますから、かさねさまは天都の祭壇をめざしてください」

「かようなこと、そなたにできるのか?」


 天道は天帝が守護し、天の一族が管理する道だと聞いている。天の一族たる孔雀姫ならばともかく、眷属に過ぎない小鳥にそれができるのだろうか。

 はい、と顎を引き、小鳥は折れた左腕に手をやった。


「我々は天の一族の眷属ですので。もしものとき、一度にかぎり天道をひらくことをゆるされています。両翼が供物です」


 そのままためらうことなく片腕を引きちぎろうとした小鳥を、「ま、待てぃ!」と抱きしめるようにして止める。小鳥がいぶかしげにこちらを見上げる。その手を包み、「朧」とかさねは背中に寄り添っていた狐神を呼んだ。


「このとおり、かさねは天都に用がある。神であるそなたなら、道をひらくことはできぬか」

「そりゃあ、わたくしども地神が使う神道ならば、ひらけますが。ただ、そこの半化生はともかく、ただびとたるあなたには……。いえ」


 かさねの頬についた血の痕を舐め、朧はぶるりと身震いした。

 琥珀の両目が驚いた風にみひらかれる。


「あなたはもう……神道が使える」


 あぁ、とつぶやく朧は何故かかなしげだった。

 琥珀の目にみるみる水膜が張り、大粒の涙がこぼれ落ちる。朧自身、それに驚いているようだった。あぁ、おいたわしい。おいたわしや、かさね嬢。あなたは……あなたは、もう。


「泣くでない、朧」


 めそめそと泣く狐を片手でぞんざいに撫ぜ、かさねは空を走る稲妻を見据える。


「かさねはかさねじゃ。たとえ、身体がどうなっていようとも。――さあ、『鏡』を盗みにいくぞ。はようイチの身体を取り戻して、あやつらの横っ面を張り倒してやらねば」

「そういえば、イチは今いずこへ?」

「食べた」

「は?」

「かさねが食べてしまった。ゆえ、今はかさねの中におる」

「それはなんといいますか、雄々しい愛の形ですね……」


 困惑したように顔を前足で洗い、「そこの小鳥」と朧は尊大に言った。

 

「半化生のおまえなら、神道をひらくことはできずとも、通ることくらいはできるでしょう。はよう、もとの姿に戻りなさい」

「ですが、かさねさまが……」

「かさね嬢のそなたを想う厚情を無駄にするでない!」


 神と半化生という関係からか、朧の物言いはやたらに尊大である。

 気むずかしげに目を伏せた少年に、「ありがとう、小鳥」とかさねはうなずいた。


「傷ついた身体でここまで飛んできてくれたのだな。かさねは天都のことはようわからぬゆえ、そなたが天帝の祭壇まで案内してくれるとうれしい」

「……仰せのとおりに」

 

 こうべを垂れて、小鳥は鳥の姿に転じる。

 手の上にすっぽりおさまった小鳥をかさねは胸に引き寄せた。

「参ろうか」と声をかけると、朧が雲のようにふくらませた銀の尾を振った。

 直後、宙にぽっかりと星々の瞬く穴が生まれ、かさねの衿首をくわえて朧がそこに飛び込む。


「う、おおぉおおおおお!?」


 さながら身体ごと大地を翔ける風になったかのようだった。雪をかぶった峡谷を過ぎ去り、樹氷を纏った木々の間を抜け、山の峰をのぼり、空へ、空へ、空へ。

 天地がひっくり返るような浮遊感があり、気付けば、かさねは注連縄の張られた大樹のまえに落とされていた。地面にぶつかるまえに朧が背で受け止めてくれたので、何度かそのうえを跳ね返りながら、草原に転がる。


「ここは……」

「我々地神にとっての玄関口のようなものですね。普段は鳥の一族が見張りをしているが……だいぶ地上に連れて行ったようだから、もぬけのからです」


 衿首を引っ張る朧に助けられて起き上がり、かさねは朱塗りの鳥居をくぐる。

 千年前に一度踏み入ったときと変わらない、清冽な空気がかさねを包んだ。

 高い嶺にある天都の空は、下界とは異なる、澄んだ青色をしている。冬であるはずなのに、地には花が咲き乱れ、青葉を茂らせた木々が風にそよいでいた。


「天帝を祀る祭壇は、森に囲まれた奥宮にあります。こちらへ」


 小鳥に導かれ、かさねと野良犬ほどの大きさに転じた朧は歩き出した。

 天都は、千年前、嶺のいただきにある平地に降り立った天帝が作ったのだという。天帝がねむっていた奥宮と、それを守るように形成された巨大な森、そしてわずかに残った土地に御殿と社があり、天の一族や眷属たちが暮らしている。


「天の一族の長は、天都のことなら水鏡ですべてが見通せる。急ぎましょう、長に気付かれないうちに」

「――のう、天の一族の長とは、イチのお父上なのであろう?」


 かさねも花嫁のさだめを告げられたときに、一度だけ顔を合わせたことがあった。年齢のわからぬ美丈夫で、ひどく澄んだ金の目をしていた。

 

「イチを救いたいとは思わぬのだろうか」

「かさねさま」


 小鳥は苦笑気味に息をつく。


「御子ではないのですよ。イチは生まれたときに片割れと離され、『陰の者』に落とされた。それはすなわち、天の一族ではなくなるということです。人間ではなくなるということ。イチは、長の后の胎を借りて生まれた、ただの依り代です。あなたの考えるような……僕とじじさまのような肉親の情は存在しない。イチは自分の親の話をしたことなどないでしょう」


 確かに一度もなかった。

 イチが肉親と呼ばれるものに近い情を抱いていたのは壱烏だけだ。孔雀姫にすら、そういう情は抱いていないようだった。


「長はこたびの天帝の降臨を、依り代のほまれと考えていると思いますよ。大事な依り代を、知らず天都から追放してしまったことについては、悔いているかもしれませんが。それだけです。ただそれだけ」

「……そうじゃな。長が非情であるとはかさねも考えないことにする」


 神々は神々の、人は人の、天の一族は天の一族の、燐圭は燐圭の、理屈と道理で生きている。そこに絶対の正しさであるとか、善悪というものは存在しない。

 かさねだって、己のゆずれぬものと信じるもののために今、この場所を駆けている。それだけだ。ただ、それだけなのだ。

 やがて巨大な鳥居が現れ、銀の雫をまとった深い森がその先に続く。

 どこまでも続くように見える細い道に、無数の蝋燭の炎が揺らめいていた。


「なんと清浄な気に満ちた……」


 ほう、と息を吐き、かさねは蝋燭を倒さないよう気をつけつつ、緑の天蓋に覆われた道を歩く。どこからか湧き出た水がこんこんと地を伝っていた。薄く張った水面に橙の炎が映って、鏡面の世界にも炎が揺らめいて見える。

 長いようにも短いようにも感じる時が過ぎ、そしてたどりついた。

 巨大な岩をくり抜いてつくった祭壇だ。

 両脇にひときわ大きな炎が焚かれ、中央には、水を凝り固めたかのような銀の鏡が鎮座している。


「これが神器……」


 朧とともに鏡を見上げたかさねは、しゃん、と間近で鳴らされた鈴の音に、視線を跳ねあげた。祭壇の背にひろがる闇から、銀の鈴を結わえた杖が差し出される。そして、その杖を持つひとりの男。


「だ、誰じゃ、そなた」


 気配をまるで感じなかった。

 顔を引き攣らせて尋ねたかさねに、男は小首を傾げる。これといった特徴のない、瞼を閉じればすぐに印象が薄らいでしまいそうな年齢不詳の男だった。

 糸目をさらに細めてかさねをじっと見つめると、男はいかにも気だるげに口をひらいた。


ですよ、ただの」

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