六章 姫の決断 4

「おい、花嫁。起きろ」


 外から乱暴に檻を蹴られて、かさねは目を覚ました。

 燐圭の見張りは夜明け方まで途切れることなく、結局ぐすぐすと泣いているうちにまどろんでいたようだ。狭い檻の中で手足を抱えるようにして眠っていたため、身体の節々が痛い。けだるい動きで身を起こし、腫らした目をこすっていると、かさねの準備を待たずに何人かの手で檻が持ち上げられた。


「おわ、わっ、わっ」


 体勢を崩して、狭い箱の中をごろごろ転がる。「水平をきちんと保てというに!」とかさねは訴えたが、担ぎ手たちはまるで気にかけるそぶりを見せなかった。もとより、燐圭の兵たちからすれば、天帝への贄に供するだけの花嫁である。

 なんとか半身を起こして座り直し、木製の格子のあいまから外をのぞく。洞窟から出ると、氷まじりの風がつぶてのように顔面を打ち、かさねはぶるりと身を震わせた。まだ夜が明けて間もない時間のようで、あたりは雪のつくった青暗い闇に沈んでいる。

 松明を掲げた兵が先導し、かさねを入れた檻を担いだ兵たちがあとに続く。赤い甲冑を着けた燐圭は、先頭近くにいるようだ。


「いったいどこへ向かっているのであろう」

「一度のぼった山をくだりはじめたな。ただ、ふもとの方向じゃない」


 かさねの懐から顔を出したイチは、何かを探るように金色の目を細めた。雛鳥の濡れ羽色の羽にも、細かな氷の粒がついている。イチはしばらく風音に耳を澄ませるようにしていたが、やがて首を振った。


「この山、どうやら奥に深い峡谷があるらしい。雪でよく見えないが、風が下のほうから吹いているだろ」

「天帝ならば、山上のほうが呼びやすい気がするが……。この先に、そなたが言っていた大地女神ゆかりの『場』がある?」

「おそらく。そして、たどりつくのも時間の問題だろう。――かさね」


 かさねの肩に這いのぼり、イチは耳元に嘴を寄せて囁いた。


「一撃目をよけろ」

「イチ?」

「おまえの身に危険が迫れば、天帝は降りてくる。おそらく、大地将軍の思惑どおりに。だから、一撃目さえよければ、まだこちらにも逃げる機会はある。天帝と大地将軍が争っておまえのことにかまけていられない間に、その場からなんとか離れるんだ」

「そなた……」


 怜悧なひかりを宿した両目をかさねは見返す。

 イチはまだあきらめていない。ぜんぜんあきらめてなどいない。

 そのことに気付いて、胸を撃ち抜かれる思いがした。


 ――テン、テイ……


 そのとき、微かな声が耳朶を震わせ、かさねは顔を上げた。

 

 ――テンテイ、テン、テイ……


 樹氷がそびえる急斜面を吹き抜ける雪風にまじって、地響きにも似た声が聞こえてくる。前方にいた燐圭がかさねの視線に気づいて、「聞こえたか」と薄く笑った。


「大地女神の怨嗟の叫びさ」

「ここは……」

「わたしが女神と出会った地。黄泉の入り口だ」


 白い大地の先にただならぬ気配を感じて、かさねは顔を強張らせる。

 峡谷の底ともいうべき場所に、ぽっかりと深い裂け目が広がっていた。はじめ、ただの溝にも見えたが、先が見通せないほどに続く裂け目は、地の底にすら通じていそうに思える。濃紺の暗がりから、蛇のような瘴気がたちのぼるのが見えて、かさねはひっと檻の中で飛びすさった。本当に黄泉につながっているのか。


「そなた、ひとの身で黄泉に下りたのか……?」


 震えながらつぶやいたかさねに、今さら何を言う、という顔を燐圭はした。


「わたしはこれまでに二度、大地女神とまみえた。太刀に力を授かった一度目、そして折れた太刀を持って向かった二度目。二度目のときはそなたらにも会ったな。千年前の大地に飛ばされた」

「……そうであったな。そなたはひとの身のまま黄泉に下り、そしてこちらに戻った」

「だから、わたしの身体は二度死んでいる。二度死んで、二度息を吹き返した。ゆえにここにいる。女神とはそのようにしてまみえるものだ」


 肩をすくめ、「下ろせ」と燐圭は兵に短く命じる。

 投げ捨てるような乱暴さで、かさねを入れた檻は雪上に下ろされた。

 格子を開けた燐圭が、首根っこをつかんでかさねを中から引きずりだし、裂け目の手前にある、雪が薄くかぶった岩盤に転がす。それまで荒れ狂っていた風がふいに凪いだ。雪で閉ざされていた視界がひととき帳がめくれるように晴れていく。

 現れたのは、透き通った樹氷が並び立つ青銀の大地。

 刺すような澄んだ気に満ちた、不思議な場所だった。

 この場所で燐圭は一度死に、黄泉の大地女神とまみえた。


「そなたとかさねは、話し合うことはできぬのか」


 岩のうえを這いつくばり、かさねは正面に立つ燐圭を見つめる。

 真紅の甲冑を纏った男は、まっしろな大地で唯一燃え立つかのようだ。炎を宿した両目がかさねを見下ろしていた。その炎に宿る冴え冴えとした冷気に気づき、かさねは確信する。

 この男とはこれまで幾度となくぶつかりあった。

 ぶつかりあって、ぶつかりあって――


「できぬ。そういう結論にわたしとそなたはたどりついたはずだが」


 できない。

 互いの答えはもう出てしまっている。

 この男と手を取り合う未来はない。分かり合う未来も。

 身をよじろうとすると、格子から剥がした符を背に貼りつけられる。


「っううううう……」


 符が貼られた箇所を中心に、身体にわだかまっていた力が抜けていく。イチが前に語っていた転身の術に似ていた。急激に体温が下がり、身体を芯から凍えさせるような重苦しい痛みが広がっていく。くるしい。さむい。息が、できない。かさね、と呼ぶ男の声が耳元でした。はくはくと浅い呼吸を繰り返すせいで、その声がよく聞き取れない。諦めたらしい小鳥が、かさねから離れていく気配がした。


「そなたは前にわたしに言ったな、子うさぎさん」


 鉄を熱したような燐圭の声だけが、やけに鮮明に頭に響く。

 ぞっとする瘴気が背後でたちのぼった。

 岩盤に転がされたかさねの頭上で、太刀が振り上げられたのだとわかる。実際は見ていないのに、白天にぎらりと輝く大太刀がかさねの脳裏にくっきりと現れた。


「そなたがいる限り、この太刀は抜かせぬと。その言葉、試してみよ!」


 斬られる、と予感めいた確信が頭の奥にじん、と伝わる。

 斬られる、かさねは。

 ここで、

 こんな場所で、


(死ぬ)


 何かが破れる音がしたのはそのときだ。

 身体を押し潰しそうになっていた重くて冷たいものが弾け、左半身と両足が感覚を取り戻す。


「よけろ!!!」


 怒声に鞭打たれるようにして、かさねはとっさに左に転がる。背に貼られていた符が破られていたことには遅れて気づいた。イチが破ったのだ。

 かさねの身体から落ちた雛鳥が岩盤に転がる。あっ、ととっさに伸ばしたのは右手のほうで、ぴくりとも動いてくれなかった。かさねがいたはずの岩盤で身を起こした雛鳥のうえに、燐圭の太刀が落ちる。それは斬るというより、叩き潰すに近かった。制止をかける暇もない。雛だったものは金の粒子をまいて、木っ端微塵に潰れ消えた。

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