一章 星和のみちびき 4

 どれほどそうしていただろう。

 地響きにも似た不穏な震動に、かさねは泉の中に立ったまま泣き濡れた目を上げた。神域であることを示す蜘蛛の巣状の守りが、びりびりと見ええぬ力に震えている。星が瞬いていたはずの空が曇り、稲妻が闇を切り裂く。ひときわ大きな落雷があった。守りが破れ、離れた場所で黒い煙が上がる。


「お嬢さん!」


 森のほうから呼ぶ声がして、かさねはのろのろとそちらを振り返る。樹木星医だった。めずらしく切羽詰まった顔で、「はやくこちらに」と身ぶり手ぶりで伝える。水際に上がったかさねの腕を樹木星医がつかむ。思いのほか、確かな意志がこもった力だった。


「天帝が神域の内側に入り込んだらしい。ふつうなら、他の神が樹木老神の神域にむやみに入ることはできないんだが……。あの方は今、眠りについておられるから」


 話しているさなかにも、別の場所に次々と雷が落ち、火が燃え広がっていく。夜闇に赤く噴き上がる炎は、巨大な生きものか何かのようだ。放出される光のせいで、頬が熱い。

 焼け出された木々の泣き声が、熱風にのって聞こえてきた。

 ――あつい。あついよ。身体がばりばりと燃えていくよ……。


「お嬢さん」


 木々の声に同調しかけていたかさねを、樹木星医が肩を揺さぶって呼び戻した。

 童子ほどの背丈の古老は、叡智を宿した目でかさねを見つめている。


「天帝が探しているのはあんただろう。星和のふところに、あんたは隠れていなさい。ほかの木々はだめでも、星和なら、あんたを守りきれるだろう」

「だが、木々が焼けて……」

「天帝の花嫁になりたいのかい、あんたは」


 鋭い問いかけに、かさねは瞬きをする。


「このままだと、あんたは何も選ばないまま、神の手に落ちる。あんたがそれでいいなら、かまわない。だが、あんたもイチも、それを嫌だと思ったから、抗っていたんじゃないのか。途方のない旅を何度も繰り返して」


 すべてを見ていたような物言いを森の古老はした。

 ともしたら、神域の水鏡とやらで本当に見ていたのかもしれない。

 天の頂に、海の果てに、

 黄泉に、時を止めた島に、廃れたわだつみの宮に。

 あの男と幾度と旅を繰り返した。

 己のさだめを知るため、知ってからはさだめに抗うため、

 かさねがかさねであるため、イチとしあわせになるために。

 岐路にぶつかるたびに、悩んで、考えて、いくつもの道の中から己が最良だと思うものを選んできたはずだ。道は今も差し出されている。かさねの前に、無数に。まだ、残っている。何を奪われても、選び取る自由が、自分には残っている。さいごまで、かさねがかさねであるさいごまで。残っている。

 それはどんな理不尽も奪い取ることができない、かさねの「道」だ。


「――……ありがとう、樹木星医」


 顔を上げたかさねの耳に、鋭く樹の裂ける音が響く。また、どこかの樹が焼かれたらしい。ものが焼けるにおい、火花が爆ぜる音、熱をのせた風といったものが鮮明にたちのぼる。かさねはこぶしを握った。


「だが、すまぬ。かさねは星和のところにはいかない。このまま緑嶺が焼かれているのをただ見ているのは、嫌だからじゃ」

「……お嬢さん」


 動くほうの左手で古老の小さな手を握りしめ、かさねはそれを離した。


「そなたの言うとおりだった。何も選ばないのは、いちばん、格好悪い。星和にはよろしく伝えてくれ。……かさねのせいで森が焼けてすまなかったと」

「お嬢さん!」

 

 きびすを返したかさねを森の古老が追うように叫ぶ。それに少しわらってみせると、かさねはいましがた落雷があった方角に駆けだした。天に網目のように稲妻が走っている。森が焼けていく。樹木老神の眷属たちが泣いている。


「天帝……」


 右肩から下の感覚がなくなってしまったせいで、若干ふらつきながら、かさねは木の根が這う道を走る。息を喘がせ、稲光る天に向けて叫んだ。


「かさねはここじゃ。森など焼いてないで、かさねの前に出てこい!」


 直後、びりりと天に光がほとばしり、近くで轟音がとどろいた。

 危うく転びかけたかさねは、噴き上がる炎の中心にたたずむ男の姿を見つけて、足を止めた。金の粒子が男のまわりで、意志を持つ何かのように脈動している。男が対峙しているのは、巨大な老木――今は眠れる樹木老神・星和だった。そばには樹木老神の眷属たちがいたが、皆焼け爛れて力なく折り重なっている。

 イチの身体に降りた天帝が、星和に向けて言った。


「そなたはいつも、わたしの花嫁を隠しますね。ひよりのときもそうだった」


 声も表情も、銀の鈴がふるえるように清楚だったが、乱れた大気が告げている。

 天帝ははなはだ気分を害しているらしい。対する星和の本性たる老木は、力なく枝をそよがせるだけだ。緑嶺に星和を訪ねたときからそうだった。長い時を生きた星和は弱り、今は目を覚ますことも少ないと聞く。


「かように神域を荒らされても起きぬとは」


 物言わぬ老樹に、天帝は呆れた風に息をつく。

 白い指先で音を立てて火花が弾けた。

 

「だいぶ弱っているようであるから、先代とおなじように代替わりされてはいかがか、樹木老神。もとはひよりの苗木だった化生よ」


 暗雲が不穏な雷鳴をはじめる。星和に雷を落とす気だとわかって、かさねは戦慄した。勢いよく起き上がり、草むらから飛び出す。


「やめぇええええええい!!!」


 黄金の粒子が狂ったように集まり始めた男の身体に突進する。身体の一部がひかりと熱で焼けるのを感じたが、かさねはかまわなかった。男の胸に頭突きをかますようにして、ひかりの渦に飛び込む。収束し始めていた金の粒子が弾け、雷がかたちづくられないまま消えた。

 半身を起こし、かさねは草むらに引き倒した神を見下ろす。

 頬からこめかみに触れ、首から肩をたどり、胸に手を置く。怪我はないようだな、と胸の片隅で息をついた。はて、と瞬きをする天帝に、「かさねはここじゃ」と低い声で告げる。


「隠れてなどおらんし、だから星和も森の木々も焼いてはならぬ」

「逃げたり、現れたり、へんな方ですね、あなたは」


 頭突きをかまされた胸のあたりをさすり、天帝はつぶやいた。

 天地を総べる神だとて、頭突きをされたのははじめてらしかった。


「かさねからすれば、急に森を焼きだすそなたのほうが十分おかしいが」

「まつろわぬものには罰を与える。そういうものでしょう」

「木々が泣いておるのに? そなたは慈しみ深い神であろう」

「わたしに従えば、また芽吹かせてさしあげる。なぜ、わからない?」


 金の眸をあやしげに細め、天帝はかさねの火傷を治した。

 この神は、本当にたやすくかさねを傷つけ、癒す。何度も。

 かさねは半身を起こした天帝に向き直った。確かに身体こそイチのものだったが、宿っているものはまるでちがう。かさねは泣きたい気分になったが、天帝がべつに選んでイチを消してしまったわけではないのもわかっている。この神はすべてに等しく残酷で、等しく慈しみ深い。そこには悪意も害意もない。


「かさね」


 誘惑するように、天帝がかさねの手を取った。


「みずから現れたのなら、わたしについてきてくださる?」

「そなたは何故そうもかさねに……『花嫁』にかまう?」


 すべてから等しく奪い、すべてに等しく与える神であるけれど、花嫁には別の執着を抱いているように感じる。尋ねたかさねに、天帝は微笑んだ。


「だって、あなたは大地の乙女。この大地そのもの。天を治めるわたしには、あなたが必要なのです。大地が。女神が。次の千年ののち、わたしを呼び覚ます――女神の声が。約束が」

「大地女神は……ひよりは、そなたを恨んでいる」

「ひよりはわたしを起こしてくれましたよ。何度も、何度も、わたしを呼んで」


 起こしたのだとて、それは怨嗟の呼び声だろう。けれど、天帝にとってはどちらでもかまわぬようだった。

 話をしながら、かさねにも少しわかったことがある。天帝の花嫁が千年に一度必要だと言われる意味だ。この神は、ほとんどの間眠りについている。それを呼び覚ますのが、伴侶である大地女神なのだ。天帝と花嫁の交わりは、天地の和合、神とひとの約束のあかし。

 大地を生きるひとのなかから、かさねはその役目に選ばれた。

 天帝に捧げる供物として選ばれたのだ。


「さあ、かさね。わたしの手を取って、わたしに従って」


 やさしげに天帝は誘惑する。

 誰もがまつろいたくなる美声とうるわしい表情で。

 

「代わりに、そなたに千年の命と、大地を差し上げる」


 目を眇め、かさねはその声を聞いた。

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