一章 星和のみちびき 3
ホウホウ、と夜鳥が鳴くセワの森を、かさねはあてどもなく歩いていた。
少し前まで色とりどりの蝶が舞っていた森は、夜が更けると、暗い影に覆われて昼とは別もののように見える。木々のあいまから射す月のひかりが、木や草の輪郭を白くふちどり、暗闇に微かな陰影を浮き上がらせていた。
いつぞやに降った雨ゆえか、時折、さらりん、からりんと葉に宿った雫が落ちる。なんとなくその音を追って頭上を仰いでいると、濡れた木の根に足を滑らせ、
――びたん!
大きな音を立てて、かさねはその場につんのめった。
「………………」
起き上がることはおろか、声を上げることすら疲れて、ごろりと草原のうえに仰向けになる。擦り切れたらしい額にまたひとつふたつと雫が落ちてきて、かさねは眉根を寄せた。ぼんやり額に手をあててみてから、己の指先までを覆う赤い痣に気付いて、軽く目を見開く。
「これは……」
指先だけではなかった。
衣をくつろげて確かめると、かつては左の腕から肩にかけて広がっていた痣は、かさねの胸から腹、足にかけても色鮮やかに浮かんでいる。もはや全身といってよかった。鱗のようにも、開花を待つ蕾のようにも見えるうす紅の痣は、かさねの身体そのものを侵食するかのようだ。
ぞっとする予感が脳裏にひらめく。
選ぶまでもなく、かさねはこの身を巣食う得体の知れない力にのみこまれるのではないか。抗うことすらできず、ひとり……。
「うう……」
奥歯を噛んで身体をぎゅっと抱きしめていると、押さえた右腕の一部がぱっと弾け飛んだ。あったはずの腕が消失し、光の粒子がどっと洪水のようにあふれだす。それに端を発して、かさねの膚のうえでうす紅の痣たちが好きに動き出した。
「っ!?」
皮膚のしたで無数の蟲が蠢くような激痛が走る。
かさねをかたちづくっていたはずのものがほどけて、光の粒子に転じる。まるで身体の内側から火の棒でかき回されているようだった。ぜい、ぜい、と息を喘がせながら薄目を開けて、かさねは押さえた手の端から右上腕が糸のようにほどけていくのを見る。身じろぎをしようとすると、腹の底から何かがこみあげてきて嘔吐した。赤黒い血が地面にびしゃっと音を立てて散る。
燐圭に船上で襲われたあのときと同じだった。
身体がひとではなくなっていく。ちがうものに作り替えられていく。
あのときはイチが助けてくれた。
思い出すと、大粒の涙がかさねの両目からあふれて落ちた。
すごい、と思った。かさねが窮地に陥ったとき、イチは必ず現れて助けてくれる。すごい、本当にすごいと。それなのに、イチが窮地に陥ったとき、かさねはぜんぜん何もできなかった。目の前にいたのに。この手はあの男をつかんですらいたのに。
何が花嫁なのだ。
何が女神なのだ。
なにが、なにも、たすけられなくて、かさねはなにも……。
「っ……うう、うー……」
無力さとやるせなさが凝った泥濘のようにかさねに押し寄せる。身体の痛みよりも、心のほうが軋んで壊れてしまいそうだった。力なく転がったまま、ひとり嗚咽をこぼしていると、またひとつ糸がほどけて、右上腕から肩にかけてが消失する。なくなっていく。どんどん、身体がなくなっていく。
「……嬢……っかさね嬢!」
きぃきぃと喚く声がして、かさねは泣き濡れた目を瞬かせる。
銀灰色の狐の姿をした朧だった。
この広大な森をかさねを探して駆けてきてくれたのだろうか。
「これは」と驚いた風にかさねを見つめた朧は、はらはらと金の粒子があふれ出しているかさねの右腕に気付いて、そちらに鼻づらを寄せる。刹那、熱源に触れたかのように、黒い鼻がどろんと溶けた。
ひん、と呻いて身をのいた朧をかさねは愕然と見つめる。
朧の鼻づらが黒く焼け焦げていた。
「か、かさね嬢……」
「ちっ、ちかづくでない! かさねにちかづくでない!!!」
自分が何かを傷つけたという衝撃がかさねをひどくおびえさせていた。
よろめきながら立ち上がって、息をのむ。かさねが倒れていたあたりの草原は爛れ落ち、焦土と化していた。小さくかぶりを振って、かさねはきびすを返す。大地を踏むたび、身体がひどく痛んだが、ここから離れなければ、という焦燥めいた気持ちのほうが勝った。早くこの場所から離れなければ、もっと多くを傷つけてしまう。壊してしまう。かさねのせいで!
暗闇をあてどなく走りながら、たすけて、とかさねは天に向けて乞いそうになった。たすけてくれ。もう終わらせてくれ。
(……よいではないか)
だって、こんなこと、もう。
(さいごには愛した男の『器』があらわれるのだから)
もう、耐えられない。
(それでもう、よいではないか)
天帝も言っていた。
身体は返してくれるって。
イチの身体だけなら返してくれるって。
(受け入れれば、何も考えないで済む)
立ち止まったはずみに、ふつんと首にかかったままになっていた口琴の紐が切れた。木製の笛は澄んだ音を立てながら木の根のうえを何度か跳ねて、そばに広がっていた池に落ちる。あっ、と声を上げ、かさねは思わず手を伸ばした。不自然な体勢で手を伸ばしたせいで、池のほとりの濡れた草原から足を滑らせてしまう。冷水が身体を打ち、派手な水音が上がった。
「口琴……口琴は……」
さして広さもない池は、立ってもかさねの腰丈くらいの深さしかない。あたりを見回したかさねは、池の泥と一緒に口琴を握っていたことに気付いて、息をついた。
「よかっ……」
中途半端に言葉を途切れさせたまま、口琴を握り締めた手を額に押し当てる。水に落ちたせいなのか、あるいは断続的に訪れるものなのか、荒れ狂うような激痛は少し和らいでいた。代わりにふっつり感覚が途絶えてしまった右腕を擦って、かさねは目を伏せる。
月のひかりが木々のあいまから射して、澄んだ青い水面を照らしていた。
さらりん、からりん、と滴る水の音。木々のにおい。風の気配。
「あいたい……」
青く透明な水面にひとり映った己を見つめて、かさねはつぶやく。
「イチにあいたい……」
口にすると、それはくるおしいまでの痛みを疼かせながら、咽喉から胸に落ちていった。
「イチにあいたいぃいいいいいいい……」
だけど、断たれてしまった。
断たれてしまった、それがかさねの本当の願いなのだった。
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