一章 星和のみちびき 2
饅頭を手に持つ朧がそわそわと樹木星医とかさねを見比べる。
長い沈黙だった。耐えかねたらしい朧が、「ご安心めされませ、かさね嬢」と励ますように言った。
「たとえ、おつらかろうとも、不肖わたくしめが最後までお供いたしますとも! かさね嬢はおひとりではないですよ!」
「少し黙っていなさい、狐神よ」
視線を外さずに低い声で古老がたしなめると、朧はぐっと咽喉を詰まらせ、不服そうに黙り込む。小さく息をついて、かさねは茶器を抱え直す。琥珀色の水面には、目を赤く腫らした少女が映っている。かさねは目を瞑った。
「……つかれた。かさねは寝る」
投げやりなかさねの返事に、古老が落胆の嘆息をし、朧のほうは「何を言っておられるのですか」と慌てたような声を上げた。
「さすがに寝ている場合ではないでしょう。いえ、睡眠はもう十分とられたでしょう。天帝がめざめたんですよ!」
「だから、なんだというのだ」
何かを呪詛するような低い声が咽喉をついて出る。
瞬きをした朧の衿首をつかんで、かさねは声を荒げた。
「ふたつにひとつ? ふたつにひとつだと? どちらを選んでも、そこにイチはいない! もうどちらだってかさねはかまわぬよ! イチがいないなら、ふたつもひとつも、すべて同じではないか……!」
琥珀の目がおののいたように揺れる。狂ったようなかさねの剣幕に、この神は驚いたらしかった。ひとの子は、とごにょごにょと朧が呟く。わからぬ。ほんにわからぬ……。
唇を噛んで、かさねは朧の衿から手を離した。神に己の気持ちを汲んでもらおうなど、無意味なことに気付いたのだった。
「お嬢さん」
きびすを返そうとしたかさねに、樹木星医が静かに声をかける。朧とはちがって、感情の起伏がない、大地の地平のような声音だった。
「『陰の者』の話はここに来たとき、少ししたろう」
あのとき、傷ついたイチの手当てをしてくれたのは樹木星医だった。手当てを終えて眠るイチを眺めながら、樹木星医とかさねは少しの間、話をした。
「彼らはあるじに降りかかる災厄を身代わり続けて死んでいく。陰の者の寿命はふつう、十五にも満たないと言われていてね。彼らの多くは、身代わり続ける中で、己のかなしみも喜びも知らずに死ぬ。――お嬢さん。己が愛することと、己が愛されることの喜びを知りえた陰の者なんて、あたしの知る限りいないよ」
声は淡白なのに、まるで水面を撫でる風のようなやさしい口調で言う。
その場に立ち尽くし、かさねは唇を噛んだ。噛みすぎたせいで血の味がぴりりと口内に広がる。
「……そなたの言っていることが、かさねにはまるでわからぬ」
だからなんだと、かさねは思うのだ。
十五より長く生きられたから、
己のかなしみも、愛し愛されることの喜びも知りえたから、
だから、だから、
よかったとでもいうのか。
消えてしまってもよかったとでも?
「まるでわからぬ……」
かさねは、知ってる、と呟いたときの、かさねの真名を何度も呼んでくれたときの、イチの声や表情が忘れられない。イチはずっと何も持っていなかったのに、たったひとり、かけがえのなかった壱烏という主人も失くして、それでも空っぽのまま生きてきたのに、イチが「イチのもの」を手にした時間はなんと果敢なく短かったんだろう。かさねにはそれがやるせなくて、たまらないのだ。
*
つ、と干上がった窪地のまなかに射した雨に気付き、孔雀姫は顔を上げた。
はじめ、地面にひとつふたつ落ちただけの水滴はあっという間に、あたりを潤す豪雨に変わる。裳裾を持ち上げ、孔雀姫は樹下に逃れた。
神域である高き嶺に存在する天都。いにしえに、天帝が妃である莵道の姫と短い間過ごした宮の跡地に孔雀姫は来ていた。千年前、天帝が焼き払ってしまったため、今はきらびやかな宮も、青い泉も存在しない。
「やはり窪地のままか……」
少し前、天都でとらえたイチと話したとき、孔雀姫には気になったことがあった。それは神器である「鏡」のゆくえについて、イチが訊いてきたときに孔雀姫が返した言葉の中にあった。
――千年前、天帝が目覚めたそのときに、「鏡」は姿をかえ、天都に湧き出でる「泉」となった。その「泉」は樹木老神と深くつながっていたと聞くが、あるとき天帝が壊してしまった――らしい。今は干上がった窪地があるだけだ。
孔雀姫はイチにそう説明したはずだ。
「『天帝が壊してしまった』……か」
流転し、転生を繰り返す神器。それほどのものが本当に砕けて壊れてしまうことがあるのだろうか。実は「鏡」は孔雀姫たちが知らない姿で、まだこの天地に存在していて、天帝のめざめを待っているだけなのでは……。
「と考え、いにしえの泉の前にやってきたが、何も変わらぬな」
ふうむ、と腕を組み、孔雀姫は雨でみるまに水かさを増していく泉を眺める。大地で今も必死にさだめに抗っているかさねやイチのために、せめて神器の手がかりでも見つけられればと思ったのだが、そうたやすいものでもなさそうだ。
「しかし、ひどい雨じゃ」
雨宿りをする樹下にも、葉が防ぎきれなかった雨粒が絶え間なく落ちてくる。何気なく目を上げ、空が澄み渡っていることに孔雀姫は瞑目した。青天からとめどなく光の雨が降る。まるで、随喜の涙のようだ。
満ち満ちた窪地で、何かがきらりと輝いたことに孔雀姫は気付く。
弧を描いたそれは、水を凝り固めたかのように丸く浮かび上がる。
あっ、と叫ぶ間もなかった。あふれた雨から生じた水鏡がかゆらぎ、流星となって天穹にひかりの筋を描く。流星が向かったのは、天帝を祀る神域中の神域、奥宮のある方角だった。
「まさか……」
得体のしれない衝動に駆り立てられるように、孔雀姫は降りしきる雨の中、奥宮に向かう。通常は、天の一族の長すら踏み入ることはない奥宮は、ひっそり高い木々が並んだ杜のなかにあり、昼でも薄暗い。
門をくぐると、千を超える蜜蝋の灯りが足元でゆらゆらと揺らめいていた。中には火番と呼ばれる守り人がおり、蝋燭の炎がひとつ消えるたび、すぐに別の炎を足すため、これらの火はひとつとして欠くことがない。
揺らめく無数の火を踏みわけ、奥宮の最深部――天帝を祀る宮の前にたどりついた孔雀姫は、御簾のうちに涼しげにおさまった鏡に気付き、瞬きをした。
なんときよらげな鏡なんだろう。
知らず見惚れていると、鏡の端にわずかな亀裂が入る。
「何……」
呟いた直後である。
鞭しなるような風が駆け抜け、一瞬にしてすべての蝋燭をかき消す。
火番の老爺がおののく声を上げた。
大地が震え、天に金の稲妻が走る。蝋燭が消えたせいで暗闇となった奥宮に、何ものかが立ち入る気配がして、孔雀姫は息をのんだ。
こんなことは、いまだかつてなかった。
天都には何重もの結界が張られ、地上では比類なき力を持つあの大地将軍ですらその結界を破ることはできなかった。まして、神域中の神域ともいえる天帝を祀る奥宮に余人が立ち入るなど。
「だれじゃ」
低い声で誰何するも、孔雀姫は何故かその場に自然と跪いていた。
考えるよりも前に、この身に流れる天の一族の端くれたる血が歓喜していた。めざめたのだと。ついにめざめられたのだと。われわれの父神。長き眠りについた天のいただき。いとしい、いとおしい、神。
「天帝……」
震えながらその名を口にすると、滂沱の涙が頬を伝い落ちる。
蝋燭がかき消えたのではない、とその場に立った金色の影を仰ぎ見て、孔雀姫は思った。この方の内側から発せられるひかりに、ひとの手で作られた炎ごときは溶けて消えたのだと。暗闇ではない。あまりにまぶしすぎるひかりに、目が焼かれたのだと。
「この場所がほんに変わっていなくて、安心しました。地上はだいぶ見慣れないかたちをになっていたから」
ふふっと微笑む声がして、ひかりの強さが和らぐ。それで視界を取り戻し、孔雀姫は祭壇の前に立つ男をあらためて見上げた。
「いちう……?」
呟いた声は喉奥に絡まって消える。
面にこそ出さなかったが、胸中には深い驚きが広がっていた。
黒髪に灰と金の目。一切の余分なものが削ぎ落された長身。
何より、壱烏とうり二つの顔。
――これはイチだ。
何故、かさねと神器を探していたはずのイチがこの場にいるのか。
疑問に思う他方で、己の魂とも呼べる部分は状況を受け入れている。
イチではない。この方は天地でもっとも尊き御方だと。
そしてわたしたち天の一族は長くこの方のめざめを待っていたのだと。
「よくぞおめざめになられました」
歓喜か、畏れゆえか、震えながらその場に額づくと、神はわらった。
「大事な花嫁を木の根元に落としてしまったようなのです。ちいさき者はぽろぽろとこぼれ落ちてしまうから困る」
塵あくたのひとつのような言い方をして、軽く袖を振る。奥宮に灯されたふたつの炎が天井まで燃え上がり、甲高い声で囁き始めた。
(じゅもく、ろー、しん!)
(じゅもく、せーい!)
(きぎの、あな!)
(はなよめは、あなのなか!)
鏡の両脇にしつらえられたふたつの炎は、ギャアギャアと喚きながらかさねの居所らしきものを言い立てる。「ああ、あの、ひよりの苗木」と天帝はうなずいて息をつく。神の吐息に触れるや、ふたつの炎はギャッと叫んで消え失せた。
「花嫁を探すのですか?」
尋ねた孔雀姫に、「ええ」と機嫌よく天帝はこたえる。
「迎えにいってやらねば。ほかの神にぺろりと食べられてしまっては、こまりますから」
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