一章 星和のみちびき

一章 星和のみちびき 1

 さらりん、からりん、と雫が跳ねる微かな音がしている。

 セワの大きな葉の先に宿った雫がふくらんで、さらりん、と跳ねて落ちる。ひとつふたつと額に落ちた雫に睫毛を震わせ、かさねは短い夢から目を覚ました。


「う……」


 かさねが寝かせられているのは、今は深い眠りのなかにある樹木老神、その根元にしつらえられた寝台だった。草で編んだ布がかさねのうえにかけられている。はるか頭上にみずみずしく茂った青緑の葉が見えて、そこから時折楽器の調べのようにさらりん、からりん、と雫が落ちる。


「かさね嬢、目を覚ましましたか!」


 のろのろと半身を起こしたかさねに気付いた朧が、寝台にぴょんと飛び乗る。意識を失う前とは異なり、野山で見かける狐ほどの大きさに戻っている。かさねの濡れた額をせっせと舐めて、「よかった、よかった」と頬擦りしてきた。


「『穴』に落ちたあと、かさね嬢がずっと目を覚まさないものだから……! 魂をどこかに落っことしてきたのではないかと心配で!」


 きぃきぃと訴える朧の声をどこか上の空で聞いていると、かさりと落ちた木の葉を鳴らして、杖をつく小柄な人影が現れた。襤褸布をまとった小柄な体躯、鏡のごとき黒目がちの双眸、鳥の巣のようなぼさぼさ頭を見つめ、「……樹木星医か」とかさねはかすれがちの声で訊く。


「いかにも。またお会いしたねえ、お嬢さん」


 かつて漂流旅神を探していたとき、知恵を貸してくれた森の古老であった。あのときも樹木星医は、鳥の一族に追われて傷ついたイチとかさねを匿ってくれた。樹木老神の眷属である樹木星医は、天の者たちとは異なることわりで生きているのだと聞く。その昔、イチが莵道の後継者を探して頼ったのも、この古老だったらしい。


「そなたがかさねたちを助けてくれたのか……?」

「樹木老神……星和セイワの遣いでね。その話はまたあとでしよう。彼は今は深い眠りについているし、お嬢さんも、そこの狐神どのも、お疲れだろう。まずは茶でも淹れさせておくれ」


 こつりと杖を鳴らして、古老は背を向けた。

 寝台から下りて、古老のあとを追う。かさねの肩にのっていた朧が身体を伝って地面に降り立ち、少し先んじて歩き出した。鳥の巣のような樹木星医の頭には、相変わらず色とりどりの蝶が翅を休めている。ウネがつけてくれた青い蝶もそれにまじって、柔らかそうな髪のうえでまどろんでいた。天帝に消し飛ばされたのかと思っていたので、かさねはそっと胸をなでおろす。

 巨大なセワに囲まれた森は、木々の間から黄金の光が射し、足元を這う木の根に大小のまだらを作っている。二連の蝶が遊ぶようにかさねの頬をかすめて消えていった。前にイチと来たときとは、景色や様相が少しちがう。「あたしたちの隠れ家はいくつもあるからね」とかさねの胸中を読んだように、樹木星医が言った。


「そのときどきで好きなものを使う。今使っているのは、隠れ家の中でもいっとう古いものさ」


 かさねの代わりに、ほうほう、と朧が興味深げにうなずいた。


「樹木老神の神域は、我々も知らぬことが多い。かように豊かな世界がひろがっていたとは」


 やがて現れたひときわ大きなセワの樹に、樹木星医が杖をあてる。

 すると、大樹がぱっくり裂けて、内部へ続く蔓でつくられた階段が生まれた。慣れた足取りで下りていく古老のあとに続くと、数多の薬草が吊るされた小さな部屋が現れる。樹をくり抜いて作った卓上には、すでに湯気を立てる茶器と饅頭とが用意されていた。

 狐姿では不都合があると思ったらしく、朧がくるんと尻尾を返して人型に転じた。糸目が特徴の、すっきりした面立ちの青年が現れる。


「やや、走りどおしで腹が減っていたのですよ。ほら、かさね嬢。かさね嬢がお好きな饅頭がこんなにありますよ!」

「うむ……」


 席につくや、饅頭をほおばる朧の横で、かさねは手元に目を落とす。饅頭にかぶりついたまま、気づかわしげにこちらを見つめてくる朧に気付き、「腹が減ってるなら、かさねのぶんも食べるか」と饅頭をふたつみっつ盛ってやる。朧は糸目を瞠らせ、急に不安そうに樹木星医に目配せを送った。


「そう不安がるでないよ、狐神。彼女はきみとはちがって有限を生きるもので、命が短いぶん、ひとつひとつの悲しみや怒りが深いんだ」


 樹木星医の口調は、かさねの身に起きたことをすべて見通すようですらある。

 ずずっと茶を啜ると、樹木星医は目を上げた。


「外の世界で起こったことは、あたしもこちらの水鏡を通して見ていた。天帝が千年の眠りから目覚めたそうだね」


 答えないかさねに代わって、朧が饅頭を口いっぱいにほおばりながら、「ええ、ええ」とうなずく。


「天が随喜の涙を流していると、樹木老神どのがおっしゃったとおりに」

「そして、天帝が降りた今世での『器』はイチだった」


 厳かにうなずく樹木星医に、「そなたは知っておったのか」とかさねは尋ねる。古老は心外そうに首を振った。


「天帝がどこに降りるかなんて、あたしらにはあずかり知らぬことさ。それを知るのは『先触さきぶれの神』――天帝のおとないの先触れの役目を担う神だけ。天帝以外の前には姿を現さない、謎めいた神だけどもね。天帝が無事に降りるまで、さきぶれの神が『器』を守っていたはずさ」

「やはり、あの男に天帝は降りられたのか。まあ、ひとにしては過ぎたる力を持つ男だったが」


 感心したように呟く朧を一瞥して黙らせ、「それについては、あんたがいちばんわかっているだろう、お嬢さん」と樹木星医はかさねに話を向けた。


「すべてあんたの目の前で起こったことなのだから」

「イチはほんに消えてしまったのか……?」

「それも、あんたが知っている。千年前に、『器』の男と会っただろう。それはどんな男だった?」


 ひよりの代わりをして天帝に嫁いだ千年前。

 かさねの前に現れた天帝を名乗る男は、イチと瓜二つの顔をしていた。

 あのとき、それはそなたの身体ではないのかと尋ねたかさねに、天帝はこたえた。ひよりがひとの姿をしているから、自分もひとに降りたのだと。そしてひよりと子をなした今、この身体はもうすぐ使えなくなりそうだとも。

 もとの男らしき魂の片鱗をかさねが見ることは最後までなかった。あのときは目の前のことに精いっぱいで、考えが及ばなかったが。

 消滅したのだ、と理解する。

 器にもともと入っていた魂は。

 天帝の降臨によって消滅した。

 どころか、器である身体自体も、巨大な神の力に耐えかねて、かさねが出会ったときにはすでに壊れかけていた。

 あの旅は、花嫁たるかさねの運命だけではない。

 神器だったイチの行く末すらも、暗示していたのだ。

 気付かなかった。

 なにも。

 気付けなかった。

 この手からこぼれおちるまで。

 どうしてかさねはこんなにも、自分のことしか考えていなかったのだろう。


「改めてあんたに問おう、莵道かさね。天帝の花嫁に選ばれし乙女よ」


 鏡面のごとき黒目がかさねを見つめる。

 いつの間にか古老はかさねと鼻面が触れ合うほどまで顔を寄せていた。暗い鏡に映った己自身が、かさねに問う。


「最後まで己のさだめに抗うか。それとも、諦めて天帝の求めに従うか。ふたつにひとつ。ふたつにひとつだ。さあ、あんたはどちらを選ぶ?」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る