終幕 天帝花嫁編

序章 神嫁のさだめ

序章 神嫁のさだめ

 ――やっと会えましたね、わたしの花嫁。


 冬の稲妻が天に亀裂のごとく走る。

 近くでまた落雷があったのか、二階建ての宿の建具が小刻みに揺れた。座り込んだままあとずさった背が壁に当たったことに気づき、かさねは小さく呻く。

 雷の直撃を受けて壊れた床から、ぽつぽつと炎が立ちのぼっていた。

 まるで鬼火のようだ。青白い燐光が、自分を追い詰めた男を闇夜から浮かび上がらせる。また雷鳴がして、窓の外で白い光がほとばしった。


「何故、逃げるのです。かさね」


 不思議そうに首を傾げ、男が尋ねる。

 吐息が触れ合うほど近くにある顔はきよらげで、男の美貌とあいまって神像のごとく見える。目を奪われるようなうつくしさだった。だからこそ、かさねは本来在るべき人間の不在を痛感してしまう。

 ……これはイチではない。

  断じてイチではない。

 言葉遣いや表情だけではない、魂の消失というべき不在に、背筋に悪寒が這い上がった。


「い、イチは。イチはどこにおるのだ……?」

「いち」

「その身体のもとの持ち主じゃ。――


 意を決してその名を口にし、かさねは相手の目をまっすぐ見返した。

 白い頬に両手をあてる。つめたい、と思った。


「かさねと交わりたいのなら、交わればよい。望むなら、神の子だって産んでやろう。だから、その身体はイチに返してやってくれ。そなたは天地の頂に立つ神なのだろう?」

「そうは言っても、ひとの形をした器は今は『これ』しかありませんし……。わたしの本来の姿で交わると、あなたのほうが壊れてしまうけれど?」

「かさねのことはどうでもよいから! のう、頼む。頼むから、イチを返してくれ! とても大事な者なのじゃ!」


 必死に乞うかさねを金目を眇めて見つめ、天帝はひとつ息をついた。ゆったりと己の身体に目を向け、瞬きをひとつする。おや、とでも言いたげな、のんびりした仕草だった。

 

「いない」

「いない……!?」

「いないものは、いないのだから仕方がない。だから、言ったでしょう。わたしが降りると、たいていのものは潰れて壊れてしまうと。潰れて壊れてしまったものは元に戻せない。それほどこの器を気に入っておられるなら、ことを成したあとにあなたに差し上げますよ」

「そんなもの……」


 言い返そうとした声が急速に力を失っていくのをかさねは感じた。

 そんなものは、イチではない。

 器だけがあったって、それはただの抜け殻だ。

 イチはいない。潰れて壊れてしまった。

 ほんの少し前、かさねの名前をいとおしげに呼んでくれた男は、どこにもいない。かさねが真名をあげてもよいと、自分が持つものならなんでもあげたいと願った男はどこにもいない……。

 理解すると、目の前が真っ赤に染まって、もう何も考えられなくなる。

 獣のような叫び声が咽喉からほとばしった。男を突き飛ばし、かさねは窓のある欄干に手をかける。細い稲妻がひかり、逃げようとしたかさねのすぐそばに落ちた。熱と轟音が同時に弾ける。廊下まで吹き飛ばされ、かさねは受け身も取れないまま、身体を壁に打ちつけた。

 

「あぁ、加減をまちがえてしまった」


 手元に目を落としている男を、赤黒く焼けた腕を引き寄せながら睨みつける。ぜい、ぜい、と乱れた己の呼吸の音がうるさい。よろめきながら立ち上がったが、きざはしを下りようとしたところで足が滑り、下まで一気に転がり落ちた。

 頭なのか、背なのか、腹なのか、もうどこを打って、どこが痛んでいるのかもわからない。震えながら半身を起こし、またふらついて、顔面を床にぶつける。ずるずると傷ついた身体を引きずり、かさねは出口をめざして這った。

 イチだったものと交わるなんて、まっぴらごめんだった。

 おかしい。こんなことは、おかしい。

 こんなおぞましい理不尽、どうして受け入れることができよう。

 たとえ、神が相手でも。


「うう……」


 爪を立てた五指が、床にかすれた赤い線を引く。行く道を閉ざすように、音もなく目の前にかがんだ男に気付き、かさねはわらってしまった。なんとやさしい顔でかさねを追い詰めるのか。


「天帝」


 痛みに顔をしかめ、かさねは息を吐きだした。


「そんなにかさねが欲しいのか……?」

「ええ。わたしの花嫁」


 差し伸べられた手を、血に濡れた手で弱々しく払う。

 それは、実際には男の手にただ触れただけのようになってしまったが。

 代わりに、首にかけた口琴を引き寄せ、かさねは喘息を繰り返しながらそこに息を吹き込んだ。ヒョロロ、ヒョロロ、とか細い笛の音が鳴る。

 口琴は、神霊に働くという呪具だ。


(ほんのわずかでいい)

(止まれ)

(止まってくれ)


 ヒョロロ、ヒョロロ……と二度三度と奏でられたあと、笛の音が途切れる。

 それだけだった。

 何も起きない。それだけだった。

 

「かように傷ついて」


 愕然とするかさねを引き寄せると、天帝は吐息ひとつでやすやすと腕の火傷を治した。何故じゃ、と呟いたかさねに、「なぜ?」と天帝は聞き返す。


「口琴は神霊に働きかける笛、では」

「そうなのですか?」


 息を吹きかけてかさねの傷をひとつひとつ治しながら、その片手間に天帝はちらりと口琴に目を向ける。「確かに、力を伝えやすくするもののようだけど」と呟いて、首を振った。


「ほかの力は見当たらない。ただの笛では?」

「そんなはずはない! イチはこの笛で龍神の動きすら止めた!」

「この身体は『器』であるから、眠るわたしの力が流れ込んでいただけでしょう。笛の力ではない。まして人の力であるはずも。しずめるのも、癒すのも、すべてわたし。わたしの力。――だから、泣かないで、かさね。あなたは何度壊れても、こうしてわたしが癒して差し上げる」


 最後に赤く爛れた手の甲に口付けられると、痛みと熱がすっと引いて、もとに戻った。口琴を反対の手で握ったまま、かさねは小さく首を振ってしゃくりあげる。


「いやじゃ……」


 身体はぜんぶ治してもらったのに、心のほうは粉々に砕けて悲鳴をあげていた。ぶんぶんとかぶりを振って、かさねは、いやじゃ、いやじゃ、と繰り返す。

 

「……たすけて。たすけて、あにさま。あねさま、亜子……」


 目を瞑ると、あふれた涙が閉じた瞼のしたから頬を伝っていった。


「……イチ! イチ!!!」


 直後、ぶわりと膨らんだ毛玉に横から突き飛ばされ、かさねは泣き濡れた目を瞬かせた。稲妻の蒼白いあかりが銀灰色の獣を照らし出す。かさねが知っているよりもだいぶ巨大な姿に転じているが、尖った鼻づらには見覚えがあった。


「そなた……朧か!?」

「めっそうもない!」


 甲高い声できぃきぃと叫び、狐神はかさねを背にのせ、外へ飛び出した。

 雪が薄く積もった道はぬかるんでいる。

 暗雲のうずまく天に網目のように稲妻が走り、大地に落ちては狐神の行く手を阻む。「ひぃっ!」と叫びながら、すばしこくそれらをかわし、朧は夜闇を疾走した。振り落とされないように太い首にしがみつき、かさねは呆けた顔で狐神を見つめる。


「そなた……もしかして、かさねを助けてくれているのか?」

「だから、めっそうもないと申しておりますのに! わたくしが天帝に背くなど! まる焼けにされる! まる焼けにされる!!」

「しかし、こうして……」

「わたくしは樹木老神の使いを果たしただけです! そう! 果たしただけ! わたくしの忠心は天帝にこそありますとも! ええ!」


 刹那、ひときわ強く空が光り、朧の鼻先をかすめるように雷が落ちた。なんとか飛びすさってよけたが、地面に焼け焦げた大穴があく。


「かさね嬢、わたくしにきちりと捕まっていてくださいませ」

 

 囁き、朧は大地を強く蹴った。天上に走った二条の稲妻がかさねたちに向けて放たれる。直撃するぎりぎりでかわすと、近くにたたずむ大樹のうろに朧は身をくぐらせた。

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