終章 めざめ 2
――イチ。
遠い昔日の記憶のなかで、少年が言った。
――きみのことを僕はイチって呼ぶことにします。
イチ?
――そう。はじめてできたともだちだから。
よい名前でしょう?と自慢するように笑う。白いひかりの向こうにいる君の顔が、今は見えない。
・
・
「イチ」
額に触れるあたたかな手に呼ばれるように、イチは目を開いた。
身体がやけに重ったるく、声がとっさに発せられない。ぼんやり二三度瞬きをしていると、ちりぢりだった意識が急速に収束する。額に触れていた手をイチはつかみとった。それはイチにとっては、染みついた反射に近い行動だった。
「おお、やっと起きたな……」
びっくりするほど敵意のない声が返ってきて、若干拍子抜けする。「なんだ」とイチはかたわらに座る少女を見て、まだかすれた声で呟いた。
「おまえか」
「おまえとはなんじゃ。この数日、そなたを甲斐甲斐しく世話してやっていたかさねに対して」
不服そうにかさねは唇を尖らせる。だが、イチが手首をつかむ力を緩めると、すぐに破顔して、イチの髪を軽く引っ張ってきた。
「心配かけさせおって。このまま眠りこけ続けるかと思ったわ」
「……ここ、船じゃねえな」
「陸に降りた。湊に近い宿を借りておる」
枕元に置かれた油皿には火が灯っている。夜の遅い時間のようだ。癖で、口琴が首にかかっていることと、手が届く場所に太刀が立てかけられていることを確かめて、イチは息をついた。
「平気か? 痛むところはないか?」
「あぁ。俺、なんで寝てたんだ?」
「かさねにもよくわからぬ。怪我はないようだが」
直前の記憶をたどりながら半身を起こすと、かさねは子犬のようにくっついてきた。なんとなく頬をつつくと、へらへらと相好を崩す。ほっとしたのか、だいぶ機嫌がよい。
イチの記憶は帆船のうえで口琴を鳴らしたあたりで途切れていた。そのあとに起こったことを、かさねが簡単に説明してくれる。途中、だいぶひやりとする場面もあったが、ひとまず事がおさまったらしいことに胸を撫でおろす。
「のう、イチ」
窓の外では雪が降り始めたようだ。遠くで、冬の雷が鳴っている。かさねはしばらく窓に映る雪影を眺めていたが、そのうちイチに視線を戻して口をひらいた。
「その口琴を、しばらくかさねに預けてくれないか」
いましがたまでのご機嫌さが嘘のような真摯な声だった。
イチは瞬きをする。好き勝手ふるまっているようで、かさねは存外ちゃんとひとを見ている。触れられたくないものには触れないし、無理な要求を押し通すこともない。興味本位の言葉でないらしいことはすぐに知れた。
「訳は?」
「わからぬが……その口琴はしばらく使わないほうがいい気がする」
もっと別の使い方ができる、と天都で謎めいた男はイチに言った。
けれど、かさねは反対に、使わないほうがいい、と思いつめたような表情で言う。ふたりの言葉を天秤にかけ、イチは首にかかった常盤色の笛に触れる。
神霊に働く口琴は、かさねを守るには有効な呪具である。失うには惜しい。だが、何故かそのときのイチは、目を腫らした少女の心をやわらげてやりたいような、そういう気持ちのほうが勝った。だから、口琴の紐を外して、かさねの首にかけてやった。
「必要なときは返してもらう。それでいいか?」
うむ、とほっとしたようにかさねは眉をひらいた。
それにすこし心が洗われた気持ちになって、イチも息をつく。
「『剣』の神器のゆくえは結局、わからぬままだな」
粥を茶でふやかしただけの夜食を取ったあと、並んで白湯をすすりながら話す。
かさねの話では、わだつみの宮にあったのは漂流旅神のたまごであり、「剣」の神器は数十年前に消失したあとだった。水魔たちも本当に行方は知らないという。漂流旅神が再び生じたことがわかったのはよかったものの、話としてはまた振り出しに戻ってしまった。
ぬるまった白湯を飲み干して、イチは腕を組む。
「『剣』の神器を探すって前提を一度変えるか」
「残る神器は『鏡』と『玉』……。だが、鏡のほうは千年前に砕けたとカムラが言っておった」
「なら、大地女神の持つ『玉』のほうか」
かさねの表情が複雑そうなものに変わる。
一度、大地女神のすまう黄泉に落ちたときは、かさねもイチもさんざんな目にあった。それゆえ選択肢から外していたのだが、ある意味、在所がはっきりしているとも言える。
「黄泉からかえるとき、ひよりはかさねの中で眠ると言っておった」
「あぁ、おまえが食ったもうひとつの口琴な」
「食ったのではない! 燐圭めの手から守ったのじゃ」
憮然と言い返したあと、「ひよりともう一度話せればよいのだが……」とかさねは難しい顔をして唸る。イチの脳裏に、かさねと同じ顔の、それでいてこの娘とは異なる柔和な微笑を浮かべる少女の姿が蘇った。そしてひよりを愛した樹木老神・
「樹木老神をもう一度訪ねるか」
「星和を?」
「ただしくは、樹木星医だな。あいつに取り計らってもらったほうが早い」
問題は、天都と大地将軍・燐圭の動きだ。
船からは何事もなく降ろしてくれたそうだが、神器が見つからなかった以上、燐圭もまた別の手を考えているだろう。天都は花嫁たるかさねの居場所を探している。いつ、前のように鳥の一族が襲ってくるとも知れない。
それらの懸念を踏まえ、最善の道程を頭の中で組み立てる。一方で、あとどれくらい時間が残っているのかとイチはどうしても考えてしまう。天帝のめざめ。かさねの刻限。この旅で、目的の神器を手に入れられなかったのは痛い。
窓の外に向けていた視線をかたわらに戻す。デイキ島で泣いていた少女のことをふいに思い出した。黙って白湯を啜っているかさねの胸中に、イチはつかのま思いをめぐらせ、指の背でまるい頬に触れた。
「また旅に出るのは嫌か」
白湯に落としていた視線をかさねが驚いた風に跳ね上げる。ほんとうに驚いたような顔をするので、イチは少しわらってしまった。
空にした白湯の椀を置いて、「次はきっと莵道の里に帰れる」と続ける。
特に深く考えていたわけではなかった。ただ、イチよりもずっとかさねのほうが、己の先行きに不安がっているだろうと思ったので。それを「はんぶん」抱えていくのだと、デイキ島でイチは約束したので。
「帰れる。ちゃんと屋敷まで送り届けてやる」
「――……のう、イチ。あのな」
しばらくイチから顔をそむけるようにしていたかさねは、やがて気を取り直した様子で振り返った。「手を出してみいよ」と乞われる。眉をひそめつつ右手を差し出すと、かさねの小さな手がそれを取り上げた。ひらいた手のひらに指先が触れて、何かをなぞる。文字、のようだった。
「『
もう一度手のひらに同じ文字を書きながら、かさねが言った。
「つづらかさねのかさねみちーの、『累』じゃ。つながり、かさねる、かさね。それがかさねの真名じゃよ」
にわかに少女の頬が上気して赤く染まる。
目を伏せたかさねは、ふふん、と口端を微かに上げて、手を放した。
「そなたみたいな朴念仁に、この意味などちっともわからんだろうがな」
「知ってる」
「へ」
ぽかんと口を開けたかさねに目を向け、知ってる、とイチは繰り返した。
何しろ、この娘がイチに言ったのだ。
真名はふつう、家族以外の人間に明かされない。それは魂と結びついた、とても大事なものであるから。生まれてから死ぬまで、大事に秘され続ける。だから、他人に名を明かすときは別の大きな意味を持つ。
教えてもらったとき、そうか、とイチは諦めじみた思いに駆られたものだ。
イチには真名がない。もともと、壱烏の影としてしか生まれていないイチには、ひとと交換できるような名前も、何もない。当たり前のことだが、何故かそのときは少しかなしかった。かさねの真名が、たぶんイチは欲しかったのだ。
「累」
呼ばう。息をひそめて。
「累、累。……累」
その音のつらなりを転がしているのは、ひどく心地がよかった。満たされる、気がした。名前を与えられた、それだけなのに。それだけのこと。それだけのことが、ひどく安らぐ。かさねがくれた手に取ることはできない何かは、イチの空洞をふいに埋めていった。否、たぶん本当はずっと前に埋まっていた。気付かなかったことに気付いただけ。名前を、与えられただけ。
「こ、こそばゆい……」
おおおおおう、と顔を両手で覆って呻いていたかさねは、手の間からそろそろとイチを見た。視線を左右に何度かめぐらせたのち、袖を引っ張られる。
「のう」
「なんだよ」
「かさねは今乙女としてすごく勇気を出してがんばったのだが」
「……だから?」
「ここでしたい! ちゅう!」
頬を上気させたまま大真面目な顔で言われて、イチは沈黙した。さすがにそれはなんだと聞き返すほど察しが悪くはなかった。
「おまえ前に思いきり殴ったじゃねえか」
「だっていきなりなんだものおー、こころのじゅんびーというやつが、乙女には必要なのだもの」
両手で顔を隠してもごもごと呟き、かさねはイチに向き直った。
「今は、なんというか、いける!」
「俺はべつにそういう気分でも」
「失敬な、かさねではその気にならないとでも!?」
睨んできた少女に息をつき、イチはそっとかさねの頬に手をあてた。
肩を跳ね上げた少女が、かしこまった風に正座をして、目を瞑る。
「ああー苦節三年……ながかかったのう……。涙がこみあげてくるわ」
「神々とはさんざんやっておいてよく言う」
「ふふん、嫉妬か。案ずるでない、人間はそなたとしかしておらんし……。待て。よいか、やさしくするのだぞ。息継ぎの間をちゃんととるのだぞ」
「注文多いな」
「なあ、どのあたりから目を瞑ればよいのだ」
「……」
薄く目を開けたかさねは、思いのほか顔が近かったらしく、ひっと呟いて目を瞑った。その仕草に、イチはそっと笑みを漏らす。頬にかかる白銀の髪に手をくぐらせていじった。かしこまっている少女を引き寄せる――、
そのとき、遠くで稲妻が走った。
ふおんな。ふおんな何かの気配がイチの背に走る。
(――……名を)
記憶の中で、男が言った。
(真名を)
真名。壱烏の真名。
それは。
(譲られた)
(十年前のあの日)
(壱烏が俺を救ったあの日)
(移し替えがあった)
壱烏のなまえ。
壱烏のやくわり。
それは。
天啓のように、そのとき、イチは。
すべてに、すべてに気付いてしまって、声を失する。
――なぜ。なぜ、今まで気付かなかったのだろう。
千年前のこの国をめぐったとき。
天帝が降りた男を見て、
(俺は)
何故、これは壱烏だと、思ったのか。
(なにものなのか)
さきぶれの神は、イチにシルシをつけた。
それは。その意味は。
天帝が降りるのは――
(おまえの真名は)
(『剣』)
神器。
それは流転し、転生する、神の依代。
千年に一度、器はひとの姿を取る。ひとの身たる花嫁と交わるためだ。
(天帝が降りるのは、『おれ』だ)
すべてがまちがっていたことに、イチは気付いた。
神器は最初からここにあった。天帝が降り立つための依り代ははじめから、きちんとこの娘のかたわらにしつらえてあった。心なのか身体のほうなのか、何かが剥がれ落ちるような痛みの中で、イチは室内を見渡す。伸ばした手の端から力が抜ける。剥がれる。剥がれ落ちる。
そのとき、あおじろく閃く雷が落ちた。
・
・
「っつうー……」
雷が直撃したはずみに突き飛ばされたらしい。
畳に背中を打ちつけてしまって、かさねは呻いた。遠雷が先ほどから轟いていたが、まさかすぐそばに落ちるとは思わなかった。
「な、なんぞ……」
部屋の中は、まるで雷の直撃を受けたかのように、畳の一部が焼け焦げて、炎を上げている。思考が追いつかないまま、周囲を見回したかさねは足元にうずくまるように倒れている男に気付いた。
「イチ? 大丈夫か?」
駆け寄って、肩に手で触れる。一瞥したかぎり、特に怪我はないようだったが――、ふわりと金と灰の眸が開いて、ゆっくりと一度瞬きをした。獣が身をもたげるように身体を起こした男は、あたりへ視線をめぐらせる。まるで、久方ぶりに目覚めた、というような仕草だった。
「……いち?」
「ああ、」
かさねを眸に映した男は透き通った笑みを浮かべた。
その笑い方に、背筋にぞっと冷たいものが走る。かさねはこのように笑うもののことを知っている。あまやかに、やさしく、虚ろにわらう、神。
「そ、そなた、そなた、……」
咽喉が張り付いたように声がうまく出てこない。尻もちをついたまま、あとずさるが、すぐに壁に背があたる。そばではばたく蝶の音が聞こえた。けたたましく警告を発する青い蝶のはばたき。
「そなたは、誰だ……」
かさねの問いがおかしかったらしい。あなたはお知りでしょうに、とつぶやき、男はまとわりつく蝶をすいと指でなぞった。光がほとばしり、青い蝶の姿はあっけなく消失する。追い詰めるでもなく、男はかさねの頬に触れた。先ほど同じ男に触れられていたはずなのに、その手が抜け殻のように冷たく感じる。
「わたしの花嫁。ずっと、あなたに焦がれていた」
「イチは。イチは?」
混乱。あるいは錯乱に近い状態に、このときのかさねはあった。
逃げることも、拒むことも思いつかない。ただ恐ろしい予感がうずまいていた。
神を降ろす。天帝ほどの神を降ろした人間は。イチは。
「イチは、どこへ行ってしまったのじゃ……?」
ひっく、とえづいたかさねに、金と灰の眸を細めて、「だいじょうぶ」と男は囁いた。
「もう、どこにもいないから」
「いない……?」
「わたしが降りたときに、器のぬしはみんな潰れて壊れてしまうから。だから、安心して。身を委ねて。ひよりも最初は拒んだけれど、最後はわたしに従った」
目を瞠らせたかさねの手首をつかんだそのものは。
どこまでも慈悲深く、耳元で囁いた。
「やっと会えましたね、わたしの花嫁」
冬の闇を稲妻が切り裂く。
天をこだまする残響を、かさねは目を見開いたまま聞いた。
《終幕「天帝花嫁編」に続く》
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