終章 めざめ
終章 めざめ 1
蒸気が勢いよく噴き上がる音で、かさねはまどろんでいた意識を覚醒させた。
火鉢にかけていた湯が沸いたらしい。動物の皮で作った湯たんぽに湯を注ぎ、眠る男の脇のあたりに入れてやる。夜着を掛け直して、そっと額に手を置いたが、イチは目を瞑ったままだ。
この男に関して、こういうことはめったにない。重傷を負って昏睡しているとき以外は、すぐに周囲の気配を感じ取って目を開くのがイチという男なので。――それくらい、深い眠りについているという証左だった。
かさねがイチの額に手を置いたままでいると、襖の外から声がかかった。細く引いた襖から顔をのぞかせたのは、お盆に昼餉をのせたヒトだ。しょんぼりとしたこちらの表情を見て取ったのか、「イチ、まだ起きない?」と心配そうな声で尋ねる。
かさねたちが今いるのは湊にある船宿で、数日前に燐圭の船から降りて以来、逗留していた。イチの意識が戻らないためだ。そばにいた船員たちによると、イチは口琴を鳴らしたあと、ずるずるとその場にくずおれて動かなくなってしまったらしい。外傷は細かなもの以外は見当たらず、熱もない。身体はいたって正常なのに、かさねがいくら呼びかけても、イチが閉じた瞼を震わせることはなかった。
「イチ、船にのる前も倒れてた。だから?」
「……いや」
かさねには別に心当たりがあった。
わだつみの宮で、イチが口琴を鳴らしたときのことだ。あたりに金色の粒子が舞い始め、イチの身体が透け入るような錯覚を覚えた。あのときはかさねが止めたとたん、何事もなかったかのようにおさまったけれど。
(口琴が、原因では?)
船上で、イチは燐圭の太刀が帯びた怒気をひと息に払い、無数にいた水魔の動きを止めた。何やら口琴の見せる力が近頃増しているように感じるのは、かさねの気のせいだろうか。そういえば、その前にはウネが負った傷を口琴で癒していた。それだってもうだいぶ、ひとが扱うには過ぎたる力のように、かさねには思える。
(ひとを超えた力には代償が伴う)
イチはこれまで何を担保に、ひとにあらざる力をふるっていたのだろう。その代償がこの男自身に返ってくることはないのか。
(一度イチから口琴を離したほうがよいのかもしれない)
目を伏せて考えていると、ヒトが何かに気付いた様子で「かさね」と呼んだ。首を傾げたかさねに、「人魚の歌」と心地よさげに眉尻を下げて呟く。
ヒトたち童女は、今はデイキ島の生き残りである
イチのことをしばらくヒトに任せると、かさねは綿入りの上着を羽織って外に出た。透き通った、星のささやきに似た歌声が微かに聞こえる。歌声を頼りに、冬の木枯らしが吹く道をしばらく歩いて、海に面した埠頭に出た。石で補強された船着き場に座る少年の背中を見つけ、「ウネ!」とかさねは相好を崩す。
歌が途切れ、ウネがこちらを振り返った。白皙の美貌の少年は、波紋を描いた群青の衣を身に着けている。冬にもかかわらず何も履いていない足が、時折戯れのようにぱしゃんと海水をかいた。
「新しい宮は見つかったのか?」
「――まあね」
この間とはちがう少年の声が返ってきたことに瞬きをすると、「今日一日だけ借りたんだよ」とウネが肩をすくめる。かさねは呆れて息をついた。
「相変わらずのようじゃの」
「俺の誘惑にころりと吸い寄せられるあんたらが悪い」
まるで悪びれていない様子のウネについ笑ってしまう。
ウネの隣に腰掛けて、かさねは青灰色の水平線を見渡した。乾いた潮風が海から陸のほうへ吹いている。
「紗弓どのは息災か?」
「あぁ。お産までの十月十日、新しい宮で俺たちが御守りするよ」
「よもや、紗弓どのが次の漂流旅神の母上になるとは思わなかったな」
苦笑まじりに呟いたかさねに、「俺もだ」とウネがうなずく。
「だけど、彼女はかの龍神の姫だ。俺たちにとっては、主神の盟友の娘御にあたる。それに、大地将軍と争ったときも姫はこちら側についてくれたしね。慕っている水魔は多い」
「それなら、よかった」
紗弓ならば、どんな場所でもうまくやるとは思うが、水魔たちとよい関係が築けているならば、かさねもうれしい。燐圭への憎しみはそうたやすくは解けることはないだろうが、ひとまず水魔たちは新しい神とその母親を守ることに決めたようだ。
「今日はわざわざそれを伝えに来てくれたのか?」
潮風に髪をなびかせている水魔に尋ねる。ひとの姿を取ったウネは絶世のと枕言葉がつくくらいの美少年だった。「それだけじゃない」と蠱惑的に微笑み、ウネはかさねの手を取った。
「あんたが気に入ったんだ。わだつみの宮に一緒に来ないかと思って」
かさねを真正面から見つめるウネの碧眼には、炎のような熱情が揺らめいている。それが人間でいう恋慕に近い感情だと気付いて、かさねは目を丸くした。
「あんたが天帝の花嫁だってことは知ってる。けど、新しい主神のもとに下った俺たちは、あんたのことも守るよ。神器を探して、主神――漂流旅神に献じればあんたはその立場から解放されるんだろう? 同胞たちもあんたのことは気に入っている」
熱心に口説かれて、かさねは曖昧に「うむ」「うむ?」と相槌を打つ。
正直に言うと、口説かれるよりは圧倒的に口説いているほうが多いかさねであるので、こういう状況には耐性がなかった。
「かさね」
両手を握るウネの目は、蠱惑的でありながら、真の熱があった。
少し前のかさねであったら、ほいほい心動かされていたかもしれない。何しろ絶世の美少年に真面目に口説かれているのである。この水魔のことはかさねも嫌いではないし。押しても引いても手ごたえがない朴念仁よりは、情熱的に愛してもらえたほうがかさねも気分がよいし。そもそも、かさねはひとにちやほやされて甘やかされるほうが好きなのだし。
ふう、とかさねは息をついた。
「ウネよ。かさねは今いくつかやりたいことがあってな」
ウネの手を軽く握り返してやりながら、口を開く。ウネの肩越しに、凪いだ海とそのうえを飛び交う鳥たちの群れが見えた。
「眠りこけている男が身体を冷やさないように湯たんぽをもう一個作ってやりたいし、目を覚ますまで手を握っていてやりたい。あやつがかさねの前で眠りこけているなんぞほとんどないから、寝顔を堪能するのもよい。髪を撫でても嫌そうな顔をしない。すばらしい。あとは、そうじゃな。起きたら、心配させたぶんは一発殴らせてほしい」
はじめ、いぶかしげに聞いていたウネの表情が徐々に変わっていく。「そう」とつまらなそうに口をねじ曲げて、それでもかさねの手を簡単に離しはせずにウネは言った。
「眠っていたら、そいつはあんたを守れないじゃないか」
「その間はかさねがそばにおるよ。おあいこじゃ」
「そんなにそいつが好き?」
尋ねられ、かさねは瞬きをする。それから、大きくうなずいた。
「うむ、とっても!」
ふうん、と不満げに呟き、ウネは「えい」とかさねの手首をかじる。目を白黒させたかさねの手首から、ふわりと透明な蝶が一羽生まれた。それは陽のひかりを浴びると、青に転じてかさねの額に留まる。
「腹が立つから、一羽、守りをつけておく」
「ま、守り?」
「どちらにせよ、漂流旅神のもとにはいずれやってくる気なんだろう? その蝶に尋ねればいい。新しい宮まで案内してくれるはずだ」
ふわりと翅を一度動かした蝶は、ウネの言にうなずくかのようだ。不本意そうに視線をそらしているウネに、「もしかして」とかさねは言った。
「今日はそのために来てくれたのでは」
「まさか。わだつみの宮に連れ帰るために決まってる」
頑なな口ぶりからするに、絶対にうなずきそうになかった。
つまらなそうに足をばたつかせているウネの顔をのぞきこみ、「ありがとう」とかさねは少し笑った。そして、この世界にもうまもなく生まれ出でるだろう漂流旅神に、すこやかに生まれておいで、と言祝をおくる。
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