五章 海神の宝 4
ウネの碧眼がかさねを見つめた。
嘲笑や皮肉で覆われていた目の色が澄み渡っていき、ウネははじめて複雑そうに眉根を寄せる。困惑したような表情だった。
「おれは、あんたのような人間を信じるわけにはいかない」
(ウネ……)
「だけど、海神はあんたに『宝』を託したらしい。なら、しかたない」
瞬きをしたかさねの頬を引き寄せて、ウネは短い口付けをする。とろりと咽喉を焼く粘液が落ち、「うわっ」とかさねは叫んだ。
「そ、そそそそ、そなた、イチのいる前でなんと破廉恥な!?」
突き飛ばしたつもりだったが、実際は一拍前にイチによって引き剥がされていたらしい。自分の肩をつかんでいる男を振り返り、かさねは己の咽喉に手を置いた。
「イチ……」
「あぁ」
「聞こえるな? かさねの声、聞こえているな!?」
久方ぶりに咽喉を震わせた声に少し噎せてから、かさねはかぶりを振り上げる。「イチ!」と飛びつくと、イチは手にしていた刀の切っ先をかさねに当たらないように少し下げた。イチの腕に手を置いたまま、かさねはウネを振り返る。
「ありがとう、ウネ」
声を失った水魔は、海の色にも似た碧眼に複雑そうな色を浮かべて目を伏せた。微かに首を振る仕草をしたあと、海に身を投じる。水面に立ちのぼる泡が消えゆくのを待たず、かさねはイチを振り返った。
「かさねはここいる者たち皆を助けたい。手を貸してくれるか?」
「水魔たちだけでなく、燐圭もか?」
「そうじゃ。――そなたは水魔たちを止めてくれ。かさねはあやつを止める」
両腕をつかんで口早に説明したかさねに、イチは微かに悩むように頬を歪めた。
イチが案じるのはわかる。今も鬼神のごとく太刀をふるっている男をどうやって止めるのか――武器を扱うことはおろか、イチのような身体能力も持たないかさねには、燐圭に近づくことすら不可能に近い。無論、かさねとて燐圭と武器でやり合おうなどと考えているわけではなかった。大事なのは、イチが口琴によって生み出す時間、誰もが動きえぬ空白である。
短い視線の応酬で、こちらの意図を読み取ったらしい。
「二十だ」とイチは首にかけた常盤色の口琴を引き寄せながら言った。
「二十数えるうちに止められなかったら、俺は刀を抜く」
「充分じゃ」
顎を引き、かさねは走りやすいように草鞋を脱いだ。
刀を一度鞘に戻したイチが、かさねの額にかかった前髪に触れる。額に触れた指先はいつもより少し熱かった。イチは何かを言いかけたが、結局息をついた。
「また海にごろごろ落ちるなよ」
「そなたもな」
したり顔で笑い返す。
イチとかさねが動くのは同時だった。
イチは海上を漂うひとの死体や傷ついた水魔のうえをためらいもなく駆け抜け、帆船から垂れていた荒縄をつかむ。その間に、かさねは小舟と小舟の間をせーの!で飛んだり、滑って顔面から突っ込んだり、海に一度落ちたりしながら、燐圭のいる方角をめざす。
途中、燐圭の放った一撃が頭上すれすれを薙いでいった。頭髪が数本焼け焦げた気がする。燐圭に襲いかかる水魔の爪も、身体のあちこちをかすめていったが、かまっていられない。重ったるい海水に足を取られながら、なんとか泳ぎ渡って、燐圭のいる小舟のへりに手を伸ばす。
ちりりと熱風のようなものが額を撫でた。燐圭の太刀がまさしく己に狙いを定めて走る残像が見え、かさねは息を詰める。動くことは、できなかった。
そのとき、澄んだ口琴の音が天地に響き渡った。
さながら、透明な風が一陣吹き抜けたかのようだ。血と臭気にまみれた海上の瘴気が一気に払われるのをかさねは感じた。目を血走らせていた水魔たちが歌声をやめ、燐圭の太刀から立ちのぼっていた怒気がふっとしずまる。
「太刀をおさめるのじゃ、燐圭」
ただの太刀に戻った切っ先を見据え、かさねは低く囁く。
燐圭は太刀を下ろそうとはしなかった。ただ、すぐにかさねを斬って捨てるでもない。男の燃えるような黒眸に目を眇め、かさねは船上によじのぼった。こちらに目を向ける無数の水魔を見渡して口を開く。
「水魔たちよ、聞いてくれ。莵道かさねという。人間じゃ」
とたんに水魔たちの目に炎のような怒気がともる。
だが、イチの口琴の効果が効いているのか、まだ好きには動けない。
「さっきはそなたらの宮を荒らしてすまなかった。かさねはこの男を連れて陸に帰る。今後、そなたらの棲む海をおびやかすことはしないと約束する。だから、どうかそなたらも今日のところは怒りをしずめて引いてくれまいか」
心を込めて伝えたつもりだった。
けれど、水魔たちの目から敵意は消えない。
主神としていた海神を失い、わだつみの宮は廃れ、盟友だった龍神すらも斬られ……。ここに至るまでに彼らがどのように傷つき、燐圭を陥れようと決意したか。かさねには想像することしかできない。無数の目にともった怒気に、心が切り裂かれてしまいそうだった。水魔たちの目は、足りない、と言っている。かさねごときの言葉では。想像では。足りない、足りない、まるで足りていない。
ぐっと奥歯を噛み締め、それでもかさねは言葉を続ける。
「頼む。足りぬというなら、話をさせてくれ。どうしたら、武器を下ろすことができるのか、ともに考えさせてくれ――っ!?」
さなかに背後から首根っこをつかまれ、かさねは目を瞠らせる。
燐圭がかさねの衿首をつかんで立ち上がっていた。「いい加減にしろ」と醒めた目でかさねを睥睨する。
「そなたの話を聞いていると首裏のあたりがむずむずしてくる。加えて、時間の無駄だ。邪魔だてするなら、このまま海に落としてやろうか。死体は水魔が片付けてくれよう」
「ふん。そなたとはほんに分かり合えぬな、燐圭」
宙で思いきり反動をつけると、かさねは首根っこをつかんでいるのとは反対の、太刀を持つ燐圭の右腕にしがみついた。さすがに予想の範疇外だったらしく、顔をしかめた燐圭がかさねを引き剥がそうとする。
「このじゃじゃ馬が……!」
頭をわしづかまれ、頭髪どころか頭皮ももげる勢いで引っ張られながら、「はよう退け!!!」とかさねは水魔たちに向かって叫んだ。
「退け!!! この馬鹿将軍を陥れたいなら、次はかさねに相談せい! 力になってやる! だから、今はかさねの言うとおりに、その怒りごと退け!!!!」
ゴキッと肩のあたりから変な音が鳴った。燐圭にしがみついていたはずの腕が外れ、かさねの身体はあっけなく海上に飛んでいく。水魔を押しのけ、女が進み出て腕を広げるのが見えた。紗弓だった。
水飛沫が上がり、紗弓のひんやりした蒼白い腕がかさねを引き寄せる。うう、と顔をしかめて呻く。肩を外されたのだろうか、右肩が持ち上がらない。重ったるい瞼を震わせていると、紗弓は呆れとも憐憫ともつかない色を目に浮かべて息をついた。
「もうあきらめたほうがいいわ」
「……さゆ、どの」
「無理よ、もう。どちらかを滅ぼし尽くすまで終わらない。わたしにはいつもそうやって、いちばん傷ついているあんたが憐れに見える」
「それはちがう……」
荒く息をついて、かさねは女の腕の中でもがいた。視界が白濁としてぼんやりしている。紗弓の腕をつかんで身を起こし、かさねは目をこすった。
「かさねは……りゅうじんを、たすけられなかった。デイキ島の亡霊たちも、みな……。憐れなのは、いつだって、そうして去っていくものたちじゃ。かさねではない。かさねは……」
口琴の効果が切れたのか、水魔たちが動きだす。
頬を何故か伝っていた涙を拭って、かさねは動かぬ肩を引き寄せた。
「だから、まだあきらめられぬ」
刹那、帯に入れていた海神の骨が震え始めた。白く鋭い骨の切っ先が、輪郭を変え、熱を帯びた白い光源に転じる。目を丸くしたかさねに、ひとりの水魔が近づいてくる。ウネだった。
(それが海神の守っていた『宝』だよ)
尊いものを仰ぐようにしてつぶやく。
貝殻の囁きが直接耳朶を震わせるような声だった。
「宝……?」
(新たな神が生じるための苗床。たまご、といったほうがあんたたちにはわかりやすいかな。流転し、転生を繰り返す天帝の兄神……)
「漂流、旅神じゃな」
思い至って、かさねはその名を口にする。まるでかさねの声に反応したかのように、白い光源が脈動した。
「この世界にまた生じておられたか……」
ふるっと震えた光源は、かさねの手のうえを跳ねたあと、肩に触れる。すっと肩の痛みが消えるのをかさねは感じた。それはかさねの丸い頬を撫ぜたあと、雪兎のように跳ねて、水魔たちのもとへと降りていった。
傷ついた水魔たちと人間を同じように癒して、ぽん、ぽん、と海上を跳ねていく。ひかりの軌跡が白くあとを引き、ぽん、とひときわ大きく弾んだのち、光源は紗弓の胎に吸い込まれて消えた。
「なっ、消え……!?」
眉根を寄せたかさねに、ちがう、と同じように目を瞠らせながらウネが言う。
(彼女の胎に宿ったんだ)
「宿るとは?」
(漂流旅神が宿主に彼女を選んだということ。十月十日ののちに、新たな漂流旅神が彼女から生まれる。もっともかよわき……ひとの赤子の姿で)
それはつまり、まぐわいのない懐妊……と下世話なことを口走りそうになって、かさねは両手で口を塞いだ。そうか、とつぶやくウネの目に深い慈しみにも似た感情があふれる。
(そうか。海神がわだつみの宮を遺したのは……いつか現れる次の漂流旅神のため……)
まるで見ええぬ意思の疎通があったかのように、無数にいた水魔たちが音もなく海中に頭を沈めた。いっせいに向きを変え、船の周りから引いていく。彼らは紗弓を守るように、かさねたちのそばに集まり始めた。
「紗弓どの」
見上げた女の顔には戸惑いがあった。どう言葉をかけたらよいのかわからないまま見つめ合っていると、紗弓のほうが先に吹き出した。
「わけがわからない。つくづく神っていうのはむちゃくちゃね」
ひとしきり笑い倒したあと、眦に滲んだ涙をぬぐって、「わらっちゃうわね」とつぶやく。先ほど光源が吸い込まれていった胎のあたりに、紗弓が手を置いた。はじめ紗弓は理不尽に憤っているのかとも思ったが、存外やさしい手つきだった。
「デイキ島で漂流旅神がさいごにあんたに言ったこと、覚えている?」
「うむ。神器を持って、転生した自分のもとへ来いと……。さすれば花嫁のさだめを解き放ってくれると、かの神は言っていた」
「待っているわ」
引き寄せたかさねの額に額をあてて、紗弓は囁いた。
「あんたがあいつと神器を見つけて、わたしのもとにやってくるのを待っている」
「……紗弓どの」
「そして、それまであの男の手にはかからない。約束するわ」
かさねの肩越しに、緋色の衣を翻す大地将軍へ一瞥を向けてから、紗弓は身を離した。女の裸身がみるみる白銀の鱗に覆われ、一頭の巨大な龍に転じる。
唯一、彼女の色彩を残した碧眼がじっと思わしげにかさねを見つめた。それに大きくうなずき返す。言葉は交わされずとも、気持ちは伝わったらしい。龍は白銀の身体を大きくくねらせ、帆船とは反対の方向に伸び上がった。飛沫をあげて水上を翔ける龍を水魔たちが追う。漂流旅神のたまごを宿した紗弓が、水魔たちの次のあるじとなったのだろう。
最後まで残っていたウネがかさねに静かな眼差しを向け、やがて海中にもぐる。水魔たちと天を翔ける龍を見送りたかったが、かさねには別にやることがあった。もとに戻った肩を動かして、先ほど落とされた小舟によじのぼる。
「燐圭」
太刀の柄を握っていた男の手を両手でつかむ。
男の手はじんと熱く、太刀が抱えた飢えがその手を通して伝わるようだった。太刀から立ちのぼる瘴気で、こみ上げてきたきもちの悪さを無理やりのみくだし、かさねは手に力をこめた。
「太刀を抜くでないぞ」
燐圭の冷たい目がかさねを見下ろす。
それを負けじと見返し、かさねは燐圭の手を握り締めた。
「少なくともかさねの前では、この太刀は抜かせない」
燐圭、あるいは彼を加護する大地女神、ひよりのなれの果てと。
かさねはいずれ再び対峙することになるだろう。
そのときに繰り広げられるのは、いかなる惨事だろうか。
今はうらうらと光のさざめく凪いだ海を目に焼き付け、かさねは口を引き結んだ。
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