五章 海神の宝 3

 海中から外に飛び出した瞬間、あたりを包む異様な空気にかさねは眉をひそめた。

 帆船を無数の水魔が取り囲んでいる。数は数百にのぼるのではないか。海面に頭を突き出した水魔たちは、無機質な硝子玉のような目で帆船を見上げていた。彼らの視線の先には、甲板に立つウネと燐圭の姿がある。


「やはり、そういうことか」


 ウネに向けられる燐圭の声は冷ややかだ。

 かさねがわだつみの宮にいた間にいったい何が起きたのだろう。龍に転じた紗弓に目を留めて、燐圭はウネから海上のかさねにつまらなそうに視線を移した。


「わだつみの宮は廃宮だったか?」

(燐圭、そなた知って……!?)

「すべてはこやつら水魔の罠さ。神器があるとたばかって、我々をおびき出し、海底に沈める気でいた」

「――俺たちがあんたの味方につくわけがない」


 ウネは微かに冷笑したように見えた。


「六海の龍神を斬ったのはあんただ、将軍。かの君は、我らが海神の盟友だった。主神をうしなった俺たちを案じる慈しみ深い方であったのに……。あんたは神々を斬り過ぎた」


 水魔たちはふたりのやり取りを黙って見守っている。

「状況が変わったみたいだな」とその場を見渡してイチが呟いた。どういう意味じゃ、と尋ねたかさねを海水から龍の背に引き上げながら、イチは説明する。


「おそらく燐圭を弑すために、ウネたち水魔が一計を画したんだ。燐圭は神器を探していた。自分たちの海神が守っていた神器を餌におびき出して、海神の眠るわだつみの宮に落とす気だったんだろう。ウネが木乃伊姿で燐圭の前に現れたのも、最初から仕組んでいたのかもしれない」

(けれど、何故)

「盟友を斬った燐圭がゆるせなかったんだろ。八つ当たりだ。けど、あの男の持つ業の深さだな」


 神々を排する燐圭は、そのぶんだけのかの者らの恨みと憎しみを買っている。燐圭の、相手をまるで信じていない目が思い出された。おそらくはじめてではあるまい。同じことがこれまで何度起きたのだろうか。不安そうに甲板を見上げると、燐圭は濃緋に染めた衣をはためかせながら、薄く笑んだ。


「最後にひとつ聞こう。神器はどこにある?」

「消えたよ」


 ウネの言葉はあっけのないものだった。興味がなさそうに髪がまとわりつくかぶりを振って、足元に目を落とす。


「今から数十年前、海神が死んだその日に姿を消した。また別の姿に流転したのだろう。神器とはそういうものだと海神が言っていた」

「ゆくえに心当たりはないのだな」

「あいにく流転した場所までは、俺たち水魔ごときにわかるはずもない」


 海を泳ぐ魚にも、空を翔ける鳥にも流転するという神器。

 今はどんな姿で、この広い世界に存在しているのだろうか。

 天帝のめざめは近づき、かさねに刻まれた花嫁の誓約は身体を蝕みつつある。

 ――もう、間に合わないのかもしれない。

 よぎった予感に、かさねは奥歯を噛み締めた。


「ならば、おまえたちにもはや用はない」


 直後、燐圭の持つ太刀がすばやく閃いた。斬り伏せられたウネの身体が紙人形のように宙を舞い、海のほうへ落ちてくる。ウネ、と声なき声でかさねは叫んだ。近くに落ちたウネの身体に手を伸ばす。イチが手を貸して、傷ついた水魔を引き寄せた。

 燐圭の一撃が、火ぶたを落とす合図だった。

 水魔たちがいっせいに口を開いて甲高い声を奏でる。


「耳を塞げ!」


 イチの声でかさねは慌てて両耳を手で覆う。脳髄を揺さぶるような嫌な音だった。甲板上にいた船員たちの一部が奇声を上げて、船から海へと次々落ちてくる。目は血走り、耳からは血が流れていた。海面に打ちつけられた船員は、全身の骨が砕けて即死するか、生き残ったものも水魔たちによって海底へと引きずり込まれていく。

 イチが耳を押さえながら、口琴の紐を引き寄せた。けれど、そこに息が吹きこまれるのを待たず、水魔たちの頭上を緋色の風が舞う。

 ぎゃっ、と短い悲鳴を上げ、少し離れた場所にいた水魔が灰燼と化す。たった一瞬だった。甲板から荒縄を伝って紗弓の尾に降り立った燐圭は、群がる水魔に容赦なく太刀を浴びせる。生き残った船員たちが船上から次々小舟を落とす。燐圭の足場をつくるためだと知れた。わずらわしげに尾を振った紗弓から離れ、燐圭が近くの小舟に飛び移る。男が肩に担いだ大太刀は、先ほどウネを斬ったときとは明らかに異なる怒気をたちのぼらせていた。


「声なんぞで挑発をしおって。女神の太刀が暴れ出すではないか」

 

 黄泉に下りて大地女神の祝福を受けた太刀は、神斬りの力を宿した。天帝にすら対抗しうる太刀にすれば、魔のものたちなど比べるべくもない。燐圭が太刀をふるうたび、海上の水魔たちは塵のごとく消え去る。


(あやつは何故! いつも……っ!)


 かさねはぎりぎりと奥歯を噛む。燐圭に呼びかける声を持たないのがもどかしかった。不利を悟ったか、水魔たちは一度海中へと姿を消し、帆船の側面へ回る。猛禽を思わせる鋭い爪が帆船の側壁を破壊する。船ごと沈める気だ。その背を、矢をつがえた船員たちが射抜いた。かすれた風切音が空を裂き、水魔たちが力なく船から離れる。


「かさね!」


 鋭い声が響き、振り返ると、龍が長い尾を翻していた。


「見ていられない。悪いけど、わたしは水魔の側につくわ!」

(紗弓どの!)


 紗弓の碧眼が一度、じっとかさねを見た。

 止めることも、行け、ということも言えずに唇を噛んだかさねに、紗弓はうなずくようにすると、さっと海上を翔ける。飛沫を上げながら翔ける白銀の龍は、それそのものが輝いて見えた。六海で出会った龍神の姿が瞼裏によみがえる。出会ったときはだいぶ老いていたが、かの龍神も在りし日はこのように天を翔けたのだろうか。

 燐圭を海中に引きずり込もうと、足をつかんでいた水魔たちを太刀が薙ぎ払う。銀の弧を描いた太刀筋に、白銀の龍が割り入った。かさねは声なき声で叫ぶ。燐圭の太刀は龍の鱗を数枚こそぎ取っていった。白い蛇身に薄く血の筋が入ったが、深手ではない。龍から間合いを取るように、燐圭は後ろに大きく跳躍し、空の小舟の上に立った。


「かさね」


 かさねを小脇に抱いて、空の小舟の一艘をイチが引き寄せる。かさねを上に押し上げると、傷ついたウネを渡し、自身も船の上に立つ。腰にくくりつけた刀をイチが抜くのが見えた。半ば騒乱と化した海上でも、イチは落ち着いている。水魔の側にも燐圭の側にも立つ気はないだろうが、この男もまた、自分が守るもののためなら容赦なくひとでも水魔でも斬る。


(いつもこうなる……)


 かさねは歯噛みした。


(いつも)

(いつも!!!)


 だめなのか。

 また繰り返すのか。

 六海と同じことを、またここでも!

 烈しい情動が身体を貫き、かさねは小舟の底にこぶしを打ちつける。


「泣いているの、天帝の花嫁」


 静かな声が背中にかけられた。

 すぐに誰のものかわかって、かさねは力なく首を振る。


(ちがう、かさねは)

(腹を立てておるのだ、かさね自身に)


 独白して唇を引き結び、小舟にしなだれかかったウネを振り返る。肩から腹にかけて傷を負ったウネは、蒼白な顔をして息を喘がせている。平気か、と尋ねて、冷たくなった手を握る。ウネはひととき状況がわからない様子で、あたりを眺めていたが、やがて、ああ、と重苦しい息をこぼした。


「やっぱり、こうなったか」

(ウネ、そなた……)

「せっかく、わだつみの宮へ逃してやったのに戻ってくるなんて。あんたら、馬鹿だね」


 碧眼に苦笑がゆらめく。斬られたウネの身体から細くたなびく幕のように血が流れだしている。白い膚が透けていくのがわかって、かさねは袖の中から取り出した海神の骨の切っ先を己の腕に押し当てた。腕を伝った血をウネの傷口へあてる。果敢ないひかりが蝶のように舞い、傷口が徐々に塞がっていった。

 睫毛を震わせたウネを、かさねは抱き起こした。


(そなたは同胞に乞われ、燐圭をおびきだす役を買ったのだな)

「乞われたんじゃない、俺が自分で言ったんだ。同胞でいちばん年下なのが俺だったから」


 憎まれ口を叩くウネに、かさねは微かにわらった。いちばん危ない役を進んで買ったこの水魔が、かさねには悪しきものには思えなかった。


(ウネ。かさねに声を返してほしい)

「傷を癒した見返りにか?」

(ちがう。この争いを止めたい。そなたとて、同胞を助けたいはずだ)

「今さら、あんたに何ができるというの」


 冷ややかなウネの声は、かさねの胸の芯を刺した。

 思わず口ごもり、目を伏せる。これまで幾度となく自問してきた問いだ。

 己の無力さにこぶしを握るたび、幾度も。

 そのたび、自分を奮いたたせて立ち上がってきたけれど、結局何かができた試しなどなかったかもしれない。かさねには、イチが持つような口琴も、燐圭が持つ神殺しの太刀も、紗弓のような天を翔ける龍の力も、何もない。けれど、だから何もできないとは、目の前で苦しむウネに差し出す手もないとは、思いたくない。

 だから、まだ。

 立ち上がれ。

 理想を描け。

 そこに向けて手を伸ばすのだ、何度でも。

 自分には、その力がある。 


(かさねは、そなたらと話がしたい)


 ウネの手に己の手を重ねて、かさねは言った。


(頼む、ウネ。かさねに声を返してほしいのじゃ)

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