五章 海神の宝 2

 目の前に広がっていたのは、廃墟だった。

 どこまでも広がる砂のうえに、荒廃した宮の柱や礎石が転がっている。かつて海神が治めたという「わだつみの宮」は見る影もなかった。

 海上から射すひかりは途切れてしまったが、周囲は微かに明るい。不思議に思って見回すと、巨大な白い骨が砂にうずもれるようにして横たわっていることに気付いた。


(これは……)


 思わず呟いてから、海中にもかかわらず呼吸ができていることに気付く。わだつみの宮があったためか、この場所にはまだ不思議な力が働いているようだ。御殿ほどの大きさはあろう骨はわだつみの宮自体を守るように横たわり、かさねたちの頭上にも白くなだらかな線が見える。ウネが示したわだつみの宮への道は、この骨の中心部に繋がっていた。


「おそらく、滅びたという海神の骨だろう」


 かさねを下ろして、イチが言った。龍に転じていた紗弓が人身に戻る。龍の姿では逆に動きづらいと考えたらしい。相変わらず、裸身だろうと頓着しない紗弓に、イチが上着を放る。このふたりのこうしたやり取りもすっかり板についてきた。

 上着の紐を結びながら、紗弓が頭上を仰いだ。


「骨自体が発光している。このあたりが明るいのはそのためね。あんたたちが息ができるのも、海神の加護がこの地にまだ残っているからよ」

(死してなお、加護が残っていると?)

「千年を生きた海神よ。その身が朽ち果ててしまっても、骨自体にも神力が満ちている。おそらく眷属の水魔たちを守ろうと、この場所を選んだのね」

(うつくしい御姿だな)


 胸が切なくなったが、口を引き結び、かさねはそっと白い骨に触れる。じん、と温かい熱が手のひら越しに伝わってきた。紗弓の言う神力が満ちているからだろうか。かさねは手を離すと、衿を正して、あらためて海神に向き直った。

 

(莵道かさねという。そなたの水魔に導かれ、この宮に参った。そなたが守ってきた神器をしばらく貸してほしい)


 すでに神としての形を失った海神からは答えは返ってこない。それでも、この海神の名を汚すような使い方はすまい、と心に決めて、かさねはわだつみの宮を見渡した。


(しかし、神器とやらはどこにあるのか……)


 荒廃した宮は、崩れた柱や礎石が転がるだけで、それらしいものが置かれている様子はない。ウネの話では、美しいひとふりの太刀の姿をしていたと聞くが、一瞥した限りでは見当たらなかった。

 海の底に陽光は届かず、海神の骨が発する光だけが微かな光源だ。かさねは自分たちが下りてきた道を見上げた。海中に穴を穿つようにして水の道は生じていたが、かさねが立つ場所から海上までは見通せない。燐圭たちがどうしているかもわからなかった。


「ひとまず試してみるか」


 イチが胸元から口琴を取り出した。常磐色の彩色がほどこされた小さな笛を、紗弓がいぶかしげに見つめる。


「ちょっと、何をする気?」

「見つからないなら、こっちから呼んでみる。近くにあるなら反応を返すはずだ」

「神器を呼ぶ? あんた、そんなことができるの?」

「俺というか、口琴が持っている力みたいなんだ」


 紗弓はいまひとつわからない顔をしたが、イチに任せることに決めたようだ。イチからもらった上着の衿を引き寄せて、かさねの隣にかがむ。それにならってかさねもしゃがむと、紗弓はわずかに身を寄せて囁いてきた。


「わたしは、あの水魔は嘘を吐いていると思う」

(紗弓どの?)

「悪い心を持っているようには、見えないのだけどね」


 それでは、ウネが吐いた嘘とはなんだったのだろう。

 ウネが何かに迷って心を揺らしているようであるのは、かさねも感じ取れた。ウネは何に迷い、懊悩しているのか。和邇を追い返したときのウネをかさねは思い出した。


 ――何故、仲間に仇を為す!?


 かさねが詰問したとき、ウネは蒼褪めた顔をしてぶるぶると震えていた。もしや和邇を攻撃したのはウネの意思ではなかったのだろうか。ウネにはウネの目的があり、それを和邇たちに邪魔されるわけにはいかなかった……?


「かさね」


 思案に耽っていたかさねは、イチに声をかけられて顔を上げた。

 いいか、と視線で問うてきた男に、しっかりとうなずく。

 ――口琴を通じて真名を呼びかければ、神器は姿を現すのではないか?

 イチはそう推測していたが、試してみるのははじめてのはずだ。

 口琴がゆるやかに奏ではじめたのは、いつもの高く澄んだ音色ではなく、柔らかな旋律だった。ウネの傷を癒したときにも似ているが、母親の呼び声のような、どこか慈しみ深い音色。


 ――おいで。こちらにおいで。


 海神の骨が細かに震え、軋み始める。

 足元の砂が舞い上がり、砂嵐となって渦巻いた。ふご、と目と口に砂が入ってきて、かさねは袖で顔を覆う。袖のあいまから薄く目を開くと、ぼんやりとイチの周りが金色に発光し始めていることに気付いた。

 砂嵐にまじって金の粒子が舞う。イチをかたちづくっていたはずの輪郭が、ほろんと綻んだ気がして、かさねは知らず立ち上がっていた。よくないのではないか、と直感のめいたものが胸のうちに立ちのぼる。イチはこの短い間に、次々今までにない口琴の使い方をした。それがとてもよくないことのように、かさねは今、唐突に感じたのだ。


(イチ!)


 男の腹に頭突きをするように突っ込む。

 はずみに、口琴が外れて音が止んだ。さすがに不意打ちだったらしく、「何するんだ、おまえ」とイチは胡乱げに頬をゆがめて、かさねを見下ろした。先ほどちらついていた金色の光は霧散し、イチ自身ももとに戻っている。海神の骨の軋みや渦巻いていた砂もおさまっていた。ならば、先ほどかさねが見たのは幻影にすぎなかったのか。けれど、一度胸をざわめかせた不安は消えない。

 かさねはイチの胸のあたりにぺたりと手をあてた。


(やめよう、イチ)

「なんだって?」

(その口琴はそういう風に使ってはいけないもののような気がする)


 真面目な顔で断じると、イチは眉をひそめたまま、語勢を緩めた。


「何かあったのか」

(いや、かさねにもわからぬが……)


 話しているさなかに、ぱきん、と玻璃めいた音が頭上でした。

 「ちょっと!」と紗弓が海神の骨を指差して声を上げる。先ほど負荷がかかったせいだろうか、頭上の骨の一部が欠けてしまっていた。足元に落ちた骨の欠片を拾い、かさねは周囲を見回す。ず、ず、ず、と足元が蠢く気配を感じた。


「まずい。守りが綻んだ」


 呟いたイチがかさねの腕を引き寄せる。欠けた骨に端を発し、海神の骨全体が大きく軋む。それに呼応して、激しい地揺れが始まった。地を突き上げるような衝撃によろめいたかさねをイチが受け止める。

 ぱきん、ぱきん、と欠けた骨のそばの骨が次々砕け、地揺れに空間自体がうねるような衝動が加わる。まるでわだつみの宮そのものを海のさらに底に引きずり込むかのようだ。足元の砂が下方に向かっていっせいに流れだす。


「イチ! 逃げるわよ」


 いつの間にか龍の姿に転じていた紗弓が、水の道を示して叫ぶ。海神の骨の中心に繋がっていた水の道にも変化が生じていた。道を守っていた潮の流れが弱まり、道幅がさらに狭まっている。このままでは道自体が消えるのも時間の問題に思えた。


(だが、まだ神器が……)

「ここにはない」

(イチ?)

「呼びかけても声が返られなかった。たぶん、わだつみの宮にはもう神器がないんだ」

「――あんたたち、はやくつかまって!」


 身をくねらせた紗弓がかぶりを突き出す。龍の角につかまると、上方に向けて紗弓が一気に海を翔けのぼる。下方で柱や礎石が崩れていくのが見えた。地の底にぽっかり暗い穴があいて、わだつみの宮の残骸や海神の骨をのみこんでいるのが見える。

 海神が残した力は、最後の崩壊からわだつみの宮を守っていたのだ。それがたぶん、イチが奏でた口琴によって別の力が働き、砕けた。


(すまぬ。すまぬな)


 せめて骨の欠片はウネに渡そうと袖に入れる。

 水の道は見る間に細くなり、せり出してきた水の壁が肩や足にぶつかる。冬の海水は息をのむほど冷たい。もう少し、と紗弓が呟く声が聞こえた。あとすこし、あとすこしで外へ――。瞬間、ぱん!と水膜が弾ける音を聞いた。水を押しとどめていた潮の力が完全に消え、海水がかさねたちのほうになだれこむ。

 息を吸い込んでおく暇もなかった。襲いかかった冷たい海水に噎せ込み、龍の角をつかむ手が緩みそうになる。かさねの手のうえからイチの手が紗弓の角をつかんだ。

 海中をぐんぐんと力強く、紗弓は身をくねらせながら進んでいく。頭上からひかりが射し込み始めたのにかさねは気付いた。ああ、陽光とはなんとあかるく、あたたかいのだろう。薄く目を開けると、海面から垂れ衣のようにひかりの幕がひるがえっているのが見える。その内側をくぐるようにして、白銀の龍は海上へ飛び出した。

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