五章 海神の宝

五章 海神の宝 1

 ――勇気のある者は中へ飛び込むといい。俺を信じるのならね。


 挑発するようなウネの誘いに、かさねは唖然として海面にぽっかり生じた渦潮を眺める。水飛沫を上げて荒々しく渦巻く潮の流れは、飛び込んだら最後、海底まで引きずり込まんばかりだ。ちらりとイチをうかがうと、男は金と灰の目を眇めて渦潮ではなくウネのほうを見ていた。


「さあ、誰から飛び込む? この中でいちばんの勇気ある者は誰だ?」


 船員たちは一様に顔を強張らせ、反応を返さない。焦れた様子でウネは自分を抱える燐圭を振り返った。


「それとも、あなたが先陣を切るか。将軍」

「幸い、泳ぎは得意なほうだが。さて、どうするかな」


 表面だけは考え込むようなそぶりをして、燐圭はウネを木箱のうえに下ろす。

 ウネの誘いが正か邪かわからない以上、ひとり飛び込むのは危険が伴う。ここにいる誰もが、自分ではない誰かに確かめてきてほしいと、本心では願っているにちがいない。

 かさねは口を閉ざしたまま黙考する。確かに、燐圭か船員を焚きつけ、神器を取りに行かせたあと、船を下りる前にかすめ取って、龍に転じた紗弓とともに逃げる。それがいちばん賢い策のようにかさねにも思えたが。


(なんとなく、腹がくさくさするというか……)


 うーむ、としかめ面をして考え込み、かさねは今一度、渦潮に目を向けた。

 これまでのウネの言動や行動を思い返す。

 騙されて声を奪われたときは憤ったし、今もなお、かさねの声は返されないままだ。もしかしたら、このまま一生返す気はないのかもしれない。けれど、かさねにはどうしても、この幼少の水魔が悪しき魔物には思えないのだった。むしろウネは何かに迷い、懊悩しているようですらある……。

 息をつき、かさねは腕を解いた。

 

(ウネ)


 木箱に座るウネの前に立ち、まっすぐ目を合わせる。

 蒼白い顔をした水魔はけだるげにかさねを見返した。


(ひとつ聞きたい。あの渦潮の下に、本当に神器はあるのか)


 ウネの碧眼にさざ波のように感情が揺らめく。わずかに懊悩する間が空いたが、あぁ、とやがて顎を引いた。


(そなたたちの宝が、あそこにあるのだな)

「そう言っているじゃないか」


 いつもの高飛車な口調に戻って、ウネが薄くわらう。 

 しばし見つめ合ったすえ、わかった、とかさねはうなずいた。


(そなたをかさねは信じよう。――燐圭)


 ウネとかさねのやり取りを見ていた男をかさねは振り返った。


(わだつみの宮にはかさねが下りる)

「……そなたが下りると言ったか」

(そうじゃ)


 背後でイチが嘆息する気配がしたが、もう止めはしなかった。


(仔細は話せぬが、かさねもかさねのために神器を探していたのじゃ。もしも、かさねがわだつみの宮で神器を見つけることができたら、しばらく神器をかさねたちに貸してほしい。ただし、ここまで船を出したのはそなたじゃ。神器は最後にはそなたに返す)


 身振り手振りをまじえて話すと、おおかたの意味は伝わったらしい。「ずいぶんと都合の良い話だな」と燐圭は唇を歪めた。


「神器を貸す? わだつみの宮に下りたそなたらが、そのまま神器を持って行方をくらまさない保証があると?」

(かさねは嘘を吐かぬ)

「私は口約束を信じるほど、育ちがよくはないぞ」

「なら、わたしが人質になるわ」


 涼しげな声で紗弓が横から口を挟んだ。眉根を寄せたかさねを一瞥だけして、紗弓は胸にかかった波打つ髪を背に払う。


「もしこの子たちが戻らなかったら、わたしを八つ裂きにすればよい。この子がそういうことを絶対できないのはあんたも知ってるでしょ。必ず戻ってくるわよ」

(紗弓どの、しかしそれは)

「文句ある? そもそも、あんたは戻ってくるつもりなんだから、堂々と胸張ってればいいでしょう。こいつがそれを信じられない悲しい奴ってだけなんだから」

「たいそうな口を利く」


 くつくつと愉快そうに燐圭が咽喉を鳴らす。かさねより紗弓の言葉のほうが、燐圭には響いたらしい。よかろう、と燐圭は満足げに言った。


「そなたが無事神器を持ち帰ったときは、三日だけそなたに神器を貸す。それでよいか?」

(もちろんじゃ)

「ここにいる者らが立ち合いだ。約束はたがえないと誓おう」


 燐圭が見渡すと、船員たちが神妙そうに顎を引いた。


(ただし)


 ひとつだけ譲れないものがあって、かさねは付け加えておく。


(神器を返したそのあとのことは、知らぬ。天帝を斬るそなたをかさねたちが止めても、文句は言わせぬぞ)

「やってみるがよい」


 肩をすくめ、燐圭は目の前に立つかさねを見下ろした。三日という時間は短く感じたが、これが燐圭とできるぎりぎりの取引だろう。

 かさねは助け舟を出してくれた紗弓の手を取った。


(すまぬ、紗弓どの)


 紗弓を巻き込むつもりは本当はなかった。しかも、親を殺した燐圭の人質になるなど、紗弓にとっては屈辱以外の何物でもないだろう。本当はかさね自身が質になれればよいのだが、漂流旅神のもとへは天帝の花嫁たるかさねが神器を持っていく必要がある。悩ましく眉根を寄せていると、「しみったれた顔しないで」と紗弓がぴしゃりと言った。


「戻ってくる気があるなら、それでいいわ」


 かさねの手を下ろして、「ねえ、人間の将軍」と紗弓は燐圭に言った。


「あんたは力を持っているわね。ひとの身には過ぎた力、神をも殺す巨大な力よ」


 紗弓の目は燐圭が携えた太刀を冷ややかに見つめている。

 大地女神の加護を得た太刀。紗弓の父親の龍神を斬った、神殺しの太刀だ。


「でも、この子には勝てないの」


 ほう?と燐圭が心外そうに眉を上げた。


「あんたは渦潮に飛び込めないわ。誰も、信じていないから。だから、あんたは負けるのよ。途中、何十回勝ったって、最後には負けるの。わたしにはわかる」

「ありがたい神託だな」


 薄く笑んだだけで、燐圭は取り合おうとしなかった。それ以上、紗弓も言い募りはせず、おもむろに袖から腕を抜いた。いっそ神々しさすら感じる白い裸身に、船員たちが釘付けになる。それには興味の薄い一瞥をしただけで、「行くわよ」と紗弓は言った。腰刀を巻きつけていたイチが顔をしかめた。


「おまえも行くのかよ」

「わたしがいれば、少なくとも溺死はさせないわ。あんたは留守番しててもいいわよ?」

「いや」


 実際、神器が本物であるか判別するには、イチの口琴が要る。しかも、これはイチが扱わないと意味がない。結局、全員を巻き込んでしまって、なんともいえない顔つきをしたかさねに、「行くか」とイチはさっぱりした顔で言った。いや、でも、しかし、とごにょごにょ呟いていたかさねを、ひょいと抱き上げる。身体が急に不安定になり、かさねはイチの首に腕を回した。


「あの渦潮の中心に飛び込めばいいんだな?」

「そうだよ」


 こちらを見上げるウネは何故か、取り残された迷子のような顔をしていた。


「……君たちに海神の加護を」


 ぽつりと呟いて、足元に目を落とす。ウネの表情の奥にひそんだ感情をいまだかさねが読み取れずにいると、視界ががくんと切り替わる。イチがかさねを片手で抱えたまま、船のへりに立ったようだ。


(ま、待て、待て、イチ)


 吹きつける海風に髪をかき乱される。巨大な帆舟は海面からもかなりの高さがあり、ここから海に飛び込むなど危険極まりなく思える。冷静に渦潮の位置を測っているらしいイチを見て、かさねは震えあがる。


(縄でゆっくり下りてもよかろ!? そなた、まさかここから飛び込むつもりなどと――)

「そっちのほうが早いだろ」


 まったく噛み合わない言葉が返ってきて、顔を引き攣らせたかさねに、イチは口端を上げた。


「つかまっていろよ、お姫さま」


 うなずく間もなく、イチは船のへりから跳躍した。

 声が出ないことも忘れて、かさねは叫ぶ。イチと初めて出会ったとき、断崖から飛び降りたときと同じだった。涙目になりながらイチの首をぎゅっと抱きしめていると、白銀の龍に転じた紗弓がひらりと宙を泳ぐ姿が見えた。銀の鱗をうねらせながら、眼前に迫ってきた渦潮に先に身をくぐらせる。さすが、というべきか、イチも渦の中心に入った。

 水飛沫が頬を打つ。冷たい水が押し寄せてきて、渦の遠心力に身体が引きずり込まれそうになる。イチはかさねの身体を抱え直して、頭を胸に押しあてた。


(これは……)


 細いものではあるが、海底から確かに水の道が伸びているようだ。周囲で渦巻く潮の流れは、この道を守るかのようだ。

 道から外れてしまえば、たやすく潮に巻き込まれ、海の彼方に飛ばされることは想像できた。先導する紗弓が長い尾をくねらせながら、下へ下へと泳いでいく。

 はじめこそ、数多の魚が悠々と泳ぎ、明るい陽射しの揺らめいていた海中は、徐々に暗く、冷たいものへと変わっていく。生き物の気配も減っていった。昏い。昏い闇がどこまでも広がっている。


(のう、イチ)


 イチの胸に額を押し当てたまま、かさねは男の咽喉のあたりを見上げて呟いた。


(海の底というのは、かように暗き場所なのだな)


 そのとき、かさねの脳裏を過ぎ去っていったのは、大地女神の住まう地の底だった。あのときも、なんと昏くさみしい場所だと思ったものだ。かような場所で悠久の時を過ごすのは、どんなものなのだろう。それとも、神であれば、そこにさみしさを感じる心も持たないのだろうか。

 考えているうちに、水の道が途切れ、かさねたちは音もなく海底に降り立つ。

 目の前に広がった光景に、かさねは目を瞠らせた。

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