四章 わだつみの宮 4

 和邇を追い払って以来、水魔のウネが人前に姿を現すことは減った。

 船員に尋ねると、奥の一室で、まじない師のカムラの手当てを受けているのだという。朝餉を済ませたかさねは、イチや紗弓と連れ立ってウネのもとへと向かう。大勢で押しかけると機嫌を損ねるのでは、と思い、かさねひとりで行くと身ぶり手ぶりで訴えたのだが、イチは聞かなかったし、紗弓も眸を眇めただけで無視した。


(そなたらはもちっと、かさねを信頼すべきだと思うのだが)

「水魔に声を奪われた分際で、なに甘っちょろいこと考えてんのよ」


 痛いところを突かれて、かさねは唇を尖らせる。

 本人たちに言ったら怒られそうだが、イチと紗弓はなんというか、性質が似ていると思う。悪口を叩きながら身内には情が深いところと、他者に対しては容赦のないところだ。


(と、とりあえず声の件は、かさねからもう一度頼むゆえ)


 かさねとて、声を奪ったウネを恨む気持ちはあるが、返してもらえるなら穏便に済ませたい。自分より上背のあるふたりにとくとくと言って聞かせ、かさねは扉を叩いた。


(ウネー。おるか?)


 もちろんかさねの声が相手に聞こえるわけはない。待ってみても返事がなかったので、イチが問答無用で扉を開け放った。ウネはどこに、と見回して、かさねは目を剥く。寝台のかたわらに少年が背を折ってうずくまっていた。


(ウネ!? どうしたのだ!)


 抱き上げた身体が紙のように軽い。荒く息をつくウネは、何かをこらえるようにきつく眉根を寄せている。衣からむき出しになった少年の腕や足がひどく乾いていることに、かさねは気付いた。はらはらと白く透明な膚が剥がれて落ちる。見れば、ウネの身体の一部が乾いた木乃伊のように転じていた。


「その水魔、もう長くはないわ」


 ウネの姿をじっと眺めていた紗弓が、ぽつりと言った。


「おかしいと思ったの。いくら、海から離されたとはいえ、海神の恩寵を受けていたはずの水魔が、干からびて木乃伊になっていたなんて。違ったのね。海神を喪って、水魔は力を失いつつある。だからもう……」


 どこか憐れむように語る紗弓の口を、かさねはぺん!と手で封じた。瞬きをした紗弓が眦を吊り上げる。


「あんた、何す――」

(そういうことをとうとうと語るでない!)


 声を荒げると、気圧されたのか、紗弓は口をつぐんだ。押し当てていたかさねの手を容赦のない力ではたき返す。けれど、それ以上は言い募らず、腕を組んでそっぽを向いた。


「ふふ……。そこの龍が言ったとおりだよ。そう慌てずとも、そのうち声は返る。あと数日もかからない」


 低く押し潰したような「かさね」の声に、イチが少し眉を上げた。

 そういえば、ウネの声を聞くのはイチも紗弓もはじめてだ。


「ウネ。おまえの目的はなんだ? わだつみの宮に、神器は本当にあるのか」


 黙ってしまった紗弓の代わりに、イチが尋ねる。

 かさねの腕に抱かれたまま、ウネは力なく首を振った。


「俺はおまえたちをわだつみの宮に連れて行くと言った。そこに何があるかは、自分たちで確かめるといい」

「……なら、数十年前まで海神が守っていた神器はどんな形をしていた」

「太刀」


 薄く目を開けたまま、陶然とウネは呟く。かつて海神がおわした頃のわだつみの宮を思い出しているのだろうか。どこか夢見るような表情で、「ひとふりの、美しい、太刀」と明かす。


「俺たちのいっとう大事な宝だった」

「だった?」


 わざと聞き返したイチに、ウネは首を傾げて微笑んだ。それ以上語る気はないようだ。

 生きながら乾いていく身体は、ひどく痛むらしい。身を起こそうとして叶わず、ぜい、と息を喘がせる。はらはらとその間も剥がれ落ちていく白銀の欠片をすくい上げ、かさねはウネを引き寄せた。この水魔が何かを隠し、あるいはかさねたちを欺いているらしいことは察せられたが、苦しんでいるものを放ってはおけない。


(水を……)

 

 室内を見回したかさねに、ウネが首を振った。それくらいではもう、癒せる渇きではないのだ。


(……のう、そなたが守ろうとしているものを、かさねたちに教えてはくれぬか。話せば、よき方策が見つかるかもしれない)

「海神はすでに滅びたのに? ひとが、あの方を滅ぼしたというのに?」


 ウネの独白にも似た呟きに、視界の端で紗弓が微かに身じろぎしたのがわかった。ウネを己の父親に重ねたのかもしれない。

 かさねは唇を引き結んだ。


(それでも。話をすることはできないだろうか、そなたとかさねと)


 イチ、とかさねは手を差し出す。男が腰に挿している小刀を貸してもらおうと思ったからなのだが、イチはかがんだだけで従わなかった。


「おまえの血をやったところで、そいつは一時的にしか治らない。無駄だ」

(だとしても、少しは楽になろう?)

「そのぶん、おまえが傷つく」


 目を丸くして、かさねはイチを見た。

 かさぶたが残ったかさねの手首をイチは膝のうえに戻す。代わりに首にかけた口琴を引き寄せて口をあてた。何をする気だ、とかさねはとっさに身構えた。イチの口琴は神霊に働きかける。その音を聞いた神霊は龍神であっても動きを止めたのに、弱った水魔に対して使えばどうなるのか。


(イチ、そなた――)

 

 止めようとしたかさねの前で、澄んだ音色が奏でられる。

 聞いたことのない笛の音だった。まるで慈雨か何かのような、穏やかな。

 かさかさに乾いていた水魔の膚がみるまに水気を帯び、柔らかな張りを取り戻す。憔悴していた目に、精気が灯る。


(い、イチ……?)


 唐突に笛が止み、イチは口琴を離した。瞬きを繰り返すかさねとウネを眺め、それから手の中の口琴に目をやる。


「別の使い方か……」


 思案するように呟き、イチは口琴を胸元に戻した。


 *


(先ほどの口琴はいったいなんだったのだ?)


 調子を取り戻したウネを寝台に寝かせて部屋を出ると、かさねはイチに尋ねる。紗弓はもう少しウネをみているという。あくまで見張っていると紗弓は言い張ったが、自分と境遇が近いウネに何がしかの感情を抱いたようだった。

 聞き取りづらそうに目を眇めたイチの胸元を指して、身ぶりで同じことを伝える。「知るか」とイチは一蹴した。


「もしかしたら、そういう使い方もできるかもしれないと思ってやってみただけだ」

(できるかもしれないて。そなた、これまで一度もそんな使い方をしたことがなかったろう)

「天都で別の使い方を示唆する男がいた」

(おとこ?)


 眉をひそめたかさねを見返し、「誰だかは知らない」とイチは言った。嘘をついているようではなかった。とはいえ、イチが誰とも知れない男の言うことを素直に信じるようには思えないので、話していないことがあるのではないか。

 どう口を開かせようと思案しながら、かさねは梯子をのぼって甲板上に出る。操舵のための船員がいたが、それ以外にひとはなかった。朝に出ていた霧は晴れ、青空が広がる海原を船は風を受けて進む。


「神器はおそらく真名を呼ぶことで反応する」


 帆柱の近くに積まれていた投網のうえに腰掛けると、イチは声をひそめて言った。

 流転し、姿を変える「剣」「鏡」「玉」。見分け方について、カムラは明かさなかったが、イチはひとつの推論を持っているようだった。


「俺の考えでは、たぶん呼び方にもコツが要る。ふつうに呼んだだけで、姿をあらわすようには思えない」

(確かに、それはあるかもしれない)


 仮にも神の力を受け入れるだけの力を持つ器だ。ただ名を呼んだだけで姿を現すような単純な仕掛けではない気がする。

 イチの手が引き寄せた口琴を陽光にかざしているのを見て、かさねはあることを思いつく。もしや、と呟くと、同じことを考えていたらしいイチが顎を引いた。神霊に働きかけることができる口琴ならば、あるいは神器に呼びかけることも可能かもしれない。


「このことは燐圭も知らない」


 口琴はイチが所有し、扱うことができるのもこの船ではイチに限られる。

 かさねの胸ににわかな興奮が沸いた。このことは今後、かさねとイチの切り札になるにちがいない。燐圭と同じ神器を狙っている現状においては、かなり大きな意味を持つ。


「神器の真名は『剣』……」


 呟いたイチがちがうことを思いついた様子で、隣に座るかさねを振り返った。


「おまえも真名ってあるのか?」

(まあ、あるにはあるが)


 ふつう真名は生まれたそのときに与えられる。かさねの場合は、莵道の老巫女が神託だといって、赤子のかさねにひとつの字を与えた。知っているのは、父と今は亡き母、かさねだけである。魂の呼び名ともいえる真名は生涯秘されるもので、伴侶を除いて明かすことはない。

 イチが不思議そうにこちらを見ているので、この男はどうやらそういった風習を知らないらしいとかさねは察した。


(そう気安く教えることはできぬ)

「ふうん?」

(知りたいか?)


 試すような気持ちが湧いて、かさねは口端を上げた。


(ただし、そなたも真名を明かさねば教えぬ。真名の交換は誓約じゃ。生涯を預ける男にしかしない)


 かさねだってすぐにイチと真名が交換できるとは思っていない。ただ、この朴念仁の心を少しはかってみようと思ったのだ。どんな風にイチが答えるか、興味があった。けれど、イチから返ってきたのは思わぬ言葉だった。


「なら無理だな」


 はじめ、かさねは自分の申し出が拒まれたのかと思った。しかし、男の表情を見てそれはちがうらしいと気付いた。


「俺らに真名はないんだ。というか、呼び名自体、もらえないことのほうが多い。壱烏は変な奴だから、俺に名前をくれたけど。……真名は交換するものなのか」


 困ったようにイチが苦笑する。

 不用意な問いかけをしてしまったとわかり、かさねはもごもごと口をつぐんだ。かさねが当たり前だと思っていることがイチにとって当たり前でないのはこれまでも何度かあったが、油断しているとつい自分の常識の中でものを話してしまう。

 まごついた気分を振り払うように、かさねはイチの手に自分の手をのせた。


(イチの名は、イチじゃ)


 うむ、とひとりうなずく。

 陰の者のかなしみにまたひとつ触れた気になったけれども、一方で、ひとつしか名前を持たないのはこの男らしいとも思えた。飾り気のない二音は、この男の性質をこのうえなくあらわしているように感じる。


「針路がとまったぞ!!」


 にわかに甲板上が騒がしくなり、かさねとイチは顔を上げた。船員たちが甲板に駆け上がってきて、「錨を下ろせ!」とせわしなく指示を飛ばす。どうやら針路に異変が生じたようだ。船頭から海を臨むと、前方で渦巻く巨大な潮の流れが見えた。まだ船が引き込まれるほどではないが、黒々とした渦潮は異様な気配を纏っている。


「そこが、わだつみの宮への扉だよ」


 燐圭に抱えられて現れたウネが言った。ほっそりした四肢は力なく投げ出されていたが、目には精気が宿っている。少し遅れて紗弓が船上に上がってくるのが見えた。かさねは改めて、渦巻く潮の流れを見つめる。潮の中心は白くうねり、ひとたび身を投じれば、どことも知れない場所へ引きずり込まれそうな恐ろしさを感じる。この潮の先にわだつみの宮があるというのか。

 一同を見渡し、ウネがうっそりと微笑んだ。


「勇気のある者は中へ飛び込むといい。俺を信じるのならね」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る