四章 わだつみの宮 3

 ぴすー、ぴすー、と平和な寝息がかたわらでしている。

 ふっと静かな水面に水滴が落ちるように意識が覚醒して、イチは薄く目を開けた。狭い寝台では、綿入りの夜着にくるまってかさねが眠っている。寒かったのか、ふるっと身を震わせたあと、かたわらに横になったイチの胸に顔をくっつけてきた。

 少し眉根を寄せたあと、またぴすー、ぴすー、と寝息を立て始めた少女に眺め、頬にかかった髪を耳にかける。潮風にさらされて少しぱさついている髪だったが、指を絡めていると不思議と心地よかった。何よりも、今度はなくさなかった、ということに驚くほど安堵している自分がいた。夜明け前の薄闇のなか、しばらく無為にかさねの寝顔を眺めてから、イチは身を起こした。

 紗弓はまだ戻ってきていないようだ。

 甲板にいるのか、あるいは龍に戻って海を泳いでいるのか。

 夜着を畳むと、着替えを済ませて部屋の外に出る。

 船内は静まり返っていた。音を立てずに階段を上がって、甲板に出る。寝ずの番をしている船員たちの姿が見えたが、松明を灯した甲板はまだ薄明の中にある。見渡した限り、紗弓も、ここまで案内してくれた狐神の姿も船上にはない。代わりに船のへりにたたずんでいたのは、小柄な影だった。

 確か、カムラといったか。


「狐神は神道を伝って帰っていきましたよ」


 知らず胸中を読まれた気がして、イチは警戒する。

 朝霧がかかった青灰色の海を眺めていたカムラは、そばに立ったイチを見上げて苦笑した。


「狐神というのは、人間くさくて面白い。そなたらの仲睦まじさに声をかける気が失せたそうで」

「あいつがそんな気を回すかよ」

「かしましくあれこれ言い立てていましたが、つまりはそういうことだそうですよ。あなたから右目の恩寵を譲られたからでしょうか。どうにもひとの子に肩入れをしすぎてしまうご様子」


 樹木老神の加護を受けた異形の者は、くっくと咽喉を鳴らした。

 カムラのことはかさねから聞いていた。神器をつくったうえ、天都を追放された一族のすえだという。イチは値踏みするようにカムラの横顔を観察する。


「神器を見分ける方法があると言ったらしいな」


 仔細についてカムラは口を割らなかったそうだが、イチにはひとつ思い当たるものがあった。姿を変え、転生する、神の力を受け入れる依代『神器』。イチのような神の恩寵を受けた目をもってしても見分けることはできそうにない。けれど――。

 首にかかった常磐色の口琴をイチは引き寄せた。


「この笛には、それができるのか?」


 天都で囚われていたときに、イチの前に現れた「さきぶれ」を名乗る男。あの謎めいた神霊は、口琴は別の使い方ができるのだと言っていた。つまり、神霊に働きかけるだけでなく、その力を宿す神器にも何らかの効果があるのではないかと考えたのだが、カムラの反応は薄かった。


「あなたは思い違いをしていらっしゃいますよ、イチどの」


 鏡面めいた黒目を眇めて、カムラはぽつりと言った。


「その笛は持ち主の願いを叶える呪具。そして、笛を正しく鳴らすことができる者は、この世にひとりしかおらぬのです」

「……どういうことだ?」

「その昔は、壱烏皇子しか笛を鳴らすことができなかった。今はあなたしかできない。壱烏皇子は知らずにあなたに託したのでしょうが、それもまたさだめというもの」


 常盤の口琴は、古く樹木老神の木膚を削ってつくられたものだ。ひよりはそれを我が子である天の皇子に与えた。以来、口琴は天の一族の直系に受け継がれてきた。奇妙な縁で、今はイチの首にかかっているが、本来はイチの持ち物ではない。それなのに、笛を鳴らせるのはイチしかいないとカムラは言った。


「何故? 壱烏が死んだからか」

「いいえ。壱烏さまはあなたにもっとも大事なものを譲り渡した。結果、本来ならば壱烏さまが持つべき力を、果たすべき務めを、あなたは引き継いだ。笛が見せる力はその一端」

「……あんたは何を言ってるんだ?」


 いよいよ話のゆくえが見えなくなって、イチは眉根を寄せた。

 生前、壱烏から何か特別なものを譲られた記憶はない。天の恩寵を受けて生まれたイチはただびとではないが、しかし壱烏の影である以上の何者でもなかった。そこまで考えて、イチはふいに疑問に思う。

 十年以上前、死にゆくイチを神に乞うて救ったのだという壱烏。

 願いは聞き届けられ、イチは命を取り留めた。

 あのときは天帝が気まぐれに壱烏の願いを聞き入れたのかと思ったが、かの神は森羅万象が平らかであることを好む。均衡を好む。壱烏は何と引き換えに、イチを助けたのだろうか。あのとき、天帝と壱烏のあいだにはどんな誓約が交わされたのだろう。

 何よりも、イチ自身が何度も思ったことのはずだった。

 何故、天の一族の皇子である壱烏が流行り病であっけなく死に、自分が生き残ったのだろうと。


「壱烏がするべきだった務めって、なんだ」


 心臓の裏側を撫でられるような嫌な感覚だった。頬を歪めて尋ねたイチを、カムラは杖に両手をのせたまま、静かに見つめる。やがて諦めたように息をついた。


「それはご自身で思い出さなければ。あたくしが教えるものではない」


 朝霧で滲んだ水平線の向こうが、にわかに薄紅に染まり始める。

 潮風がさっと船上を吹き抜けて、イチは目を細めた。

 ――先ぶれですよ、ただの。

 あの神に、俺ははじめて会ったのでは、なかった気がする。

 もっと昔、極寒と絶望の底で出会っていた気がする。そう、壱烏が死んだあの鹿骨カボネの地、墓標の前で。短い会話を交わした。

 大事な何かを、聞いた。

 それ以上はもう思い出せなかった。ずきずきと強烈に痛んできたこめかみを押して、イチは目を瞑る。まさかこんなに時間が経ったあとに、もう一度壱烏の死について考えることになるとは思わなかった。


 *


 朝餉に出されたのは、焼き魚がひとかけのせられた茶粥だった。

 ほこほこと湯気を立てるそれをかきこみ、うまい!とかさねは舌鼓を打つ。それから、めずらしく箸が進んでいない様子の男を見上げた。

 

(イチ)


 敷布のうえであぐらをかいたまま、イチは遠くのほうをじっと見つめている。

 早朝、イチが部屋に戻ってくる気配で、かさねは目を覚ました。どこへ行っていたのだ、と尋ねると、外、とつかみづらい答えが返ってくる。そのときから、ずっとこんな調子なのだ。


(イチ。おおーい。イチ)


 顔の前でしばし手を振ってから、かさねは嘆息をひとつする。隣に座って楚々と茶粥を啜る紗弓に目をやったが、知らぬ、という顔だ。――これはもう実力行使しかあるまい。心を決め、きりりと箸を構えなおすと、イチの茶粥のうえに乗っていた魚をかすめ取ろうとする。それをすんでで手をはたいて落とされた。


(た! なにをする!)

「ひとの飯にまで手を出すな。いい加減、肥えるぞおまえ」


 いつもどおりの容赦ない悪口が返ってきたので、手をさすりつつも、かさねはほっとする。イチが朝餉を前にぼんやりしているなんて、めずらしいどころか、ありえないことだった。どんな状況だろうが、平然とした顔で、食べて寝ているのがこの男である。

 冷めかけた粥を啜り始めたイチの隣に座って、かさねは男の額に手を伸ばす。額に手を置いて、んん、と首を捻ったかさねに、なんだよ、とイチが怪訝そうな顔をした。


(いや、熱でもあるのかと思うて。何かあったか)


 尋ねてから、かさねははっと口元に手をあてた。


(まさか、かさねのちゅうが効きすぎてしもうた!?)

「またろくなこと言ってないだろう」


 どこまで聞き取れているのかは知らないが、つっけんどんな言葉が返り、かさねは口をへの字に曲げる。形だけの不服を示してから、眉をひらいて、イチの肩のあたりをえいえいとつついた。


(何かあったか?)


 さっき聞いたことをもう一度、男にも伝わるように尋ねる。


(悩んでいることがあるなら、聞くぞ。一緒に考えよう、イチ。な?)


 金と灰の目が瞬きをして、自分のほうを見た。まかせよ!とばかりに胸をそらしてうなずくと、イチは何故か苦笑をした。


「細かいとこ、聞き取れない。あんた、早口で」

(愛の力があれば、聞き取れる!)

「まあ、今は俺のことより、あんたの声だよな」


 茶粥を平らげると、イチは箸を置く。それから、「ウネって水魔はどこにいるんだ」と尋ねた。

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