四章 わだつみの宮 2
イチと紗弓のおかげで、かさねも囚われの身から賓客扱いに格上げされ、久方ぶりのごちそうにありつくことができた。草で編んだ敷物のうえに並べられたのは、香草と一緒に包み焼きをした白身魚に、貝の吸い物、根菜を塩辛く漬けたもの。海で獲れたもの以外は、港で積んできた保存食だ。
あたたかな湯気と香ばしい包み焼きのにおいを嗅ぐと、自然とおなかが鳴った。うきうきと箸を取り上げるかさねのかたわらで、イチが端をかじった魚をかさねの皿に移す。この男はどんなときも毒見を忘れない。対面では、紗弓が楚々とした仕草で貝の吸い物を口に運んでいる。
「それで? あんた、鼻のあたりに血が固まっているし、なんかほかにも薄く血のあとが残っているけど、なんかあったわけ」
紗弓に指摘され、かさねは我が身をかえりみた。さっきもイチが袖で顔を拭いてくれたが、まだそんなにひどい顔をしているのだろうか。そわそわと頬のあたりをさすっていると、イチが濡らした手巾をかさねの顔に押しあてる。むぅ、と唸っているうちに、頬や鼻についた血を拭きとられた。
(まあ、その、なんというか。穴と棒事件があってだな)
「聞き取れた言葉が、ぜんぜん関係なさそうなんだけど」
(穴と棒のことは未遂だったからよいのだ……。それよりも、燐圭将軍も神器を狙っているという話は朧から聞いたか?)
身ぶり手ぶりで神器のことを伝えたかさねに、紗弓はうなずく。おおよそのところは紗弓とイチも把握しているらしい。この船に「賓客」として乗り込んだのも、神器のある場所まで燐圭に案内させるためなのだという。
「あの将軍も一筋縄ではいかなそうだけどね。その、カムラだっけ? あんたも神器を狙っていることを言い当てたんでしょう」
扉の外にひとがいないことを確かめ、紗弓はそれでも声をひそめて言った。
かさねはうなずく。
(燐圭に伝えたかどうかはわからぬが……)
「伝えないわけがないわ。カムラは将軍側の人間よ」
つまり、かさねたちの目的を知りながら、燐圭も同乗を許しているということになる。ウネはかさねの血でひとの姿を取り戻したし、不本意ながら穴と棒事件によって燐圭とかさねが契れないこともわかった。燐圭としてはこれ以上かさねをとどめおく必要はないはずだが、まだ何か企んでいるのだろうか。
「天帝の花嫁というのは、あの将軍にとっても切り札なんでしょうよ。使いどころを考えているといったところかしら。というか、イチ。あんたさっきからちゃんと聞いてる? ずっと食べてるけど」
「あぁ」
自分の膳をきれいに空にすると、イチは箸を置いて手を合わせた。
「そのウネっていう水魔はどこにいるんだ」
茶碗に水を注ぎながらイチが尋ねる。イチの問いはいつだって端的で、目的も明快だ。すぐにでもウネを締め上げんばかりのイチに、かさねは手を横で振る。昼に和邇が襲ってきたときに応戦して倒れたことを身ぶりをまじえて伝えた。
「ふうん。弱ってるなら、やりやすい」
(そなた、不穏なことを真顔で言うのはやめい)
別にウネを庇うつもりはないのだが、震えながら和邇に攻撃をしていたウネの姿を思い出すと、胸が痛くなってしまう。ウネには彼自身では抱えきれない複雑な事情があるのではないか。そんな気がしてしまうのだ。
「というか、あんた、そのウネって水魔に何で声を奪われたのよ」
(あぁ、ウネが苦しそうにしておったから、水を飲ませてやってな)
「え、何? 水?」
(水を飲ませたのじゃ。うまく飲み込んでくれんから、こう、口をあてて……)
説明をしているうちに、イチの目が急に冷たくなった気がして、かさねは口をつぐんだ。「それから?」と促される。中途半端に身ぶりをつけたまま、かさねは視線を泳がせた。この先は黙っておいたほうがいい予感がした。考えたすえ、とりあえず笑ってごまかしておく。
(まあ、なんというか、そういうわけじゃ!)
うむ!とうなずいて、話を終わらせたつもりだったのに、何故かおおかたを察したらしいイチと紗弓から呆れきったため息が同時に返った。
*
めったにない豪勢な夕餉は、ひりついた沈黙で締めくくられた。
かさねの首根っこをつかんで部屋を出た紗弓は、「ちょっとこっちに来なさい」と狭い廊下をぐいぐい奥に向かって進む。貯蔵用の甕などが並んだ広めの空間に出ると、難しい形相をしたまま腕を組んで、かさねに顔を近づけた。
「まさかと思うけど、あんたまた口吸いしたんじゃないでしょうね! ついに水魔とまで!?」
(そんなゲテモノ食いみたいな顔でかさねを見るでない……)
「つまり、したのね」
紗弓の追及は容赦ない。
むぅと頬を膨らませ、かさねは言い返す。
(した。したが! あれはきゅうじょというやつで……!)
「あんた、見かけによらず見境のない女ね」
(責められるのはかさねではなく、ウネのほうでは!?)
「そりゃあ、あんたに悪気がないのはわかるわよ……」
痛んできたらしいこめかみを押して、紗弓は大きく息をついた。
「あんた、素直なのはいいけど、すこしはあいつの気持ちとか考えたほうがいいわよ。わたしは別にどうだっていいけど」
(なっ、そっ、な……!?)
よもや紗弓からイチに対する思いやりうんぬんについて諭されるとは思わなかった。狼狽し、かさねは口を開いたり閉じたりする。かさねはいつだって包み隠さず己の好意を伝えているというのに、足りぬと!?
「伝え方が悪いんじゃない?」
こぶしを握って訴えたかさねを、紗弓はばっさりと切り捨てた。思いのほか核心をつかれた気がして、口ごもる。それでもやっぱり不満で、唇を尖らせたまま、かさねは足元のあたりに目を落とした。船内は窓がないせいで暗く、廊下にともされた明かりが微かに足元を照らしている。ぱち、と時折油が爆ぜて、炎が強く上がる。
(……イチはまた無茶をしたのか?)
出てきた部屋にひとり残った男を思い浮かべ、かさねは尋ねる。
さまざまな感情が過ぎ去ると、胸に去来するのはイチを案じる気持ちだった。唇を引き結んでいるかさねに、「いつものとおりよ」と紗弓が肩をすくめる。
「無茶して、倒れて、死にかけて、まあ生きてるわよ、見てのとおり」
(死にかけ……って、あやつ死にかけ過ぎであろ!)
「あんたの口吸いと頻度は同じかしらね……お似合いよね……」
(そこは同列に語らんでよい)
お互い疲れたような息を吐く。
とにかく、と紗弓は腰に両手をやって、かさねを睥睨した。
「わたしは外で海水を浴びてくるから。あんたは戻ってちゃんと誤解くらい解きなさい。そうじゃないと、口吸いが趣味だって思われるわよ!」
(しゅみとはなんぞ!)
とんでもない異名をつけられた気がして、かさねは喚く。いいわね、と念押しして、紗弓は梯子から甲板にのぼっていってしまう。
その場に残されたかさねは、並んだ瓶の前にしゃがみこんで重い息を吐いた。ああ言った以上、しばらく紗弓は帰ってこないだろうし、ひとりイチのいる部屋に戻るしかないのだが、あれこれ聞いてしまうと逆に帰りづらい。
しばらく無為に足をばたばたさせてから、重たい腰を上げる。誰もいない通路を三往復ほどしてから、ええい、と気を取り直して扉を開けた。薄闇のなか、編んだ籠に入れた灯りがふたつほど灯っている。イチは寝台に腰掛け、刀を手入れしていた。
(も、もどったぞ!)
威勢よく宣言して、イチの隣に座る。
かさねが近くにいると危ないと思ったのか、イチは刀を布で拭って鞘に戻した。水で布を洗う横顔をそっと盗み見る。そう不機嫌そうにも見えなかったが、かさねはイチの感情の機微がときどきよくわからなくなる。思いも寄らない繊細さを見せることも、信じられないような鈍感さを発揮することもあるし、実は紗弓が言うほど口吸いがどうだのとわかっていない気もする。
(ええと、そのう……)
ああでもない、こうでもないと考えているうちに、使いすぎた頭が痛くなってくる。ええい、とかぶりを振って、かさねはイチの膝に両手を置いた。
(イチ! イチもちゅうするか、かさねと!?)
言ったあとに、今何かよくわからないことを言った気がする、と首を捻る。
思っているのとはまるでちがう言葉を吐いた気がする。
とはいえ、今さらあとにも引けず、男の膝に手をのせたまま見つめ続けていると、イチは黙したまま刀鞘を足元に置いた。正面から視線がかち合うと、心臓の裏を手でなぞられるような心地がして腰が引ける。それを見つめるイチの目から急速に感情が冷えいるのを感じて、しまった、と思う。かさねは今、言葉の選び方をまちがえた。絶対にまちがえた。
「狐あたりとすればいいだろ。俺は見返りが必要な神霊じゃない」
明確な拒絶に、かさねはさすがに声を失してしまう。
蒼褪めたまま固まっていると、イチはふたつあった灯りのうちひとつを吹き消して、扉の横に座り直した。賊が入ってきてもいちばんに気付ける、こういうときの男の定位置だ。かさねはとても大事なものを取りこぼしてしまった予感がして、おののいた。何かを言おうと口を開こうとして、そうだ声が出ないのだった、とそのことにまた絶望してしまう。
(そんな風に、言わ……言わなくても、よいではないか……)
八つ当たりみたいな言葉が声もなく咽喉を震わせる。
かさねだって好きで声を奪われたわけではないのに。水魔に襲われたとき、怖かったのに。さっきだって、棒だの穴だの言われて、本当はすごくすごく怖かったのに。
ほたほたと涙を流してしゃくり上げ始めると、「……なんで泣くんだよ」とイチが呆れた風に呟いた。
息のつく気配がしたあと、床板を軋ませて、イチはかさねの寝台の前にかがむ。差し伸べられた手が濡れた頬に触れる。こうして泣くと戻ってくるイチはやさしいし、それを心の奥底では見越しているかさねは、結局甘えたでずるいのかもしれない。
けれど、今はずるくてもよいから、イチに甘えたかった。
そばにかがんだイチの胸に顔を押し当てて、ぐすぐすと泣き出す。自分が思っているよりずっと、かさねは気を張り続けていたのかもしれない。頭を撫でてほしかった。怖かった気持ちをわかってほしかったし、あやして、なだめて、大事にしてほしかった。
(かさねだって、こわ……こわかったのに……っ)
(ちゅうだってべつにしたかったわけじゃ)
(う、腕だっていたくて、ものすごくいたくて、ほんにだめなんじゃないかって)
別になじりたいわけではないのに、ぼろぼろと悪感情ばかりが咽喉からこぼれてしまう。嗚咽するかさねの頭に手をまわして、イチは子どもにするように撫ぜた。
「ああ。がんばったな、ひとりで」
こういうときに聞くやさしい声は、普段この男のどこに眠っているのだろう。
かさねの腕を取り上げて、体温を確かめるように頬を擦ったあと、手の甲から手首、腕へと唇が触れる。頬がゆるゆる染まっていくのがわかった。口付けをするよりきよらかであるのに、それはとてもみだりがましくもあった。いたわりをこめた仕草のあいだに揺らめく情欲に、この男自身は気付いているのだろうか。それは隠そうともしないせいで、切実な熱とくるおしさを伝えてきた。
小さく呻いてから、かさねは自由なほうの手で顔を覆った。はずかしい、とごにょごにょ呟く。腕から唇を離して、イチは不思議そうな顔をした。
「なんか言ったか」
(な、なんでもない! なんでもない!)
これ以上されていると、自分のほうがみだりがましい気持ちになってしまいそうだ。イチのほうにそういう自覚がないのなら、なおさらたちが悪い。適切な距離を取るべく男の胸を少し押してから、焦燥にも似た感情の奔流に押し流されて、かさねは眉根を寄せた。かがんだ男の頬にそっと口付ける。瞬きをしたイチに、かさねは少し調子を取り戻して口端を上げた。
(ありがとう、イチ。……かさねを助けてにきてくれて)
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