四章 わだつみの宮
四章 わだつみの宮 1
あれほど痛んでいたはずの腕は、イチに引き上げられて胸に顔を押し付けているうちに、何事もなかったかのようにしずまった。ふわふわと周囲を舞っていた光の粒子も消え、鱗状の痣が残るだけになる。元通りになった腕を手でさすり、おおお、とかさねは感嘆の息を漏らした。
(これは愛の力というやつでは!)
すごい、やはり、さすがだと、何度もうなずくかさねに目をやり、「……どうせ、ろくなこと言ってないんだろうな」とイチが嘆息を漏らす。片腕で抱えていたかさねをきざはしに座らせると、上着の袖で乱雑に顔を拭った。
そういえば、鼻血やら涙やらで、顔面がひどいことになっていた気がする。ふぐ、と呻いたが、イチはおかまいなしだった。目を閉じてなされるがままになっていると、かさねの顔に袖を押しつけていたイチの手がふいに止まった。眼前に影が射して、額にこつんと額があてられる。イチ?と尋ねると、返事の代わりに長く深い息がつかれた。
本当に、ほんとうに、安心しきったような吐息だった。
かさねは瞬きをして、押し付けられた袖越しに男を見上げた。思ったよりもずっと近くにあった顔に、おお、と息を吐き、目を伏せる。慣れない気恥ずかしさで頬が火照った。
暴走しかけていた誓約の力がおさまったのは、たぶん、イチがその身に天帝の恩寵を受けているがゆえだろう。本当はただそれだけなのだとわかってはいたが、今はなんだか気分がよかった。口端に笑みをのせ、かさねは合わせた額をぐいぐいと押し返す。イーチ、と呼びかけて、男の背に腕を回そうとすると、――どん!と横殴りの衝撃が走り、舌を噛みかけた。
「和邇が船に……っ!!」
きざはしの上から悲鳴があがる。それで忘れかけていた状況を、かさねは思い出した。次々と襲いかかる事態のせいで、本来の目的を失念していたが、もともと和邇を散らしにいった燐圭を追いかけて部屋を出たのだ。
(外はどうなっておる? そなたはどうやってこの船に……)
「龍に転身した紗弓にここまで乗せてもらった。一回、口琴で散らしたが、あいつらまた戻ってきたな」
きざはしを眇め見たイチの動きは早かった。かさねの身体を抱えあげると、数段飛ばしで駆け上がり、船上に出る。暗闇に潮飛沫が舞い、先ほどと似た激しい横揺れが襲う。数十人はいよう船員が縦横無尽に行き交うせいで、甲板の上は騒然としている。点々と掲げられた松明のあかりを頼りに、船のへりから海上を見渡すと、船の四方を黒々とした何かが取り囲んでいた。
(あれが和邇らか! 先ほどより数が多い……!)
目を凝らすかさねの横で、弓に火矢をつがえた船員が和邇たちに向けて応戦する。雨のように矢が降り、和邇のいくらかがまともに食らった様子で唸り声を上げた。黒々とした海に血と肉の焼けるにおいがたちのぼる。船にぶつかる和邇たちの勢いが増した。和邇たちは船に横穴をあける気だ。
「小舟を下ろせ!」
前方で指揮をとっていた燐圭が、甲板上に積んであった小舟を示して、船員に命じる。おそらく燐圭自ら舟に乗り込み、近くからあの太刀で和邇たちを薙ぎ払うつもりだろう。神殺しすら成し遂げた太刀をもってすれば、魔性に過ぎない和邇たちはひとたまりもない。
(イチ!)
「……わかってる。どうせおまえは助けろと言うんだろ」
嘆息して、イチはかさねを船のへりから離れた場所に下ろした。身軽な動きで、帆柱を伝って頂の近くまでのぼると、首にかけた口琴を引き寄せ、息を吹き込む。神霊にだけ呼びかける透明な笛音が鳴った。
海上の和邇たちが口を開いたまま、ぴたりと動きを止める。それまで絶え間なく続いていた横揺れが止み、不思議な静けさがひるがえる帆とともに広がった。笛の音に気付いたのだろう、燐圭が帆柱のイチを見上げる。月のせいではじめ逆光となっていたが、すぐに察しがついたらしい。眉を上げ、口元に苦笑を浮かべた。
「――まあ、そろそろ来る頃だとは思っていたさ」
「笛の効力は長く持たない。今すぐこの船を動かせ」
「龍神のときにも使った笛だな。とりあえず感謝はしておこうか」
肩をすくめると、燐圭は船員たちに指示を出す。和邇の襲撃が止まった船がゆっくり海上を動き出す。徐々に速度を上げる船の後尾に、カムラが立った。杖でこつんと船を叩くと、蜘蛛の巣状の結界がひろがり、船全体を覆う。透明な編み目は月の光で一瞬蒼白く輝き、ふっとかき消えた。呆けた顔で頭上を見上げていたかさねに、「船の姿を和邇の目から隠したんだ」とイチが言った。
「それと同時に、わたしたちもこの船を下りられなくなったわけだけどね」
背後から覚えのある澄んだ声がして、かさねは「紗弓どの」と相好を崩す。濡れた肢体に黒髪を纏わりつかせた女は、イチのものらしい上着を肩にかけて、腕を組んでいる。ただ、ほの白い肢体のなまめかしさは隠しきれていない。かさねの顔を一瞥し、「声を奪われたというのは本当らしいわね」と紗弓が息をついた。
「どこの水魔にやられたわけ。わたしがとっちめてやる」
(ま、待て、紗弓どの。ウネも悪いが、あれはかさねも悪かったというか……)
「はあ? 何をわちゃわちゃ言ってるのよ。聞こえない」
ごにょごにょと言い訳をするかさねを一蹴し、紗弓はひとの入り乱れる甲板をぐるりと見渡した。水魔を探してさまよった視線が、ふとひとつの場所で止まる。むきだしの太刀を鞘におさめていた燐圭が、紗弓に気付いて顔を上げた。
「六海の龍神の娘か」
「ええ、そうよ。父上を討ったのは、あんたのその太刀ね」
火が爆ぜるような殺気が、紗弓の周りからたちのぼる。ほの白い膚の表面に、青銀の鱗がぞろりと浮かび上がった。紗弓がまた異形のものに転じてしまいそうな気がして、紗弓どの、とかさねは女の身体を後ろからぎゅっと抱きしめる。わずかに身を震わせた女に首を振って、さらに腕の力をこめた。
(おち、おちつけ、紗弓どの。おちつけ……!)
「……ちょっと」
(そなたの怒りは、あとでかさねが聞くから。な? そうびりびりと、痛ましい怒気を放つでない)
「ちょっと! ひとの胸をわしづかまないでちょうだい。あんた変態なの?」
冷たい目で睥睨され、かさねははっと両手を外す。たわわに実り過ぎていて、おむねさまだと認識できていなかった。頬を染めて上着を引き寄せると、紗弓は胸の前で腕を組み、燐圭を睨み据えた。
「どこの水魔のしわざかは知らないけど、この子の声は返してもらうわ。和邇を追い払ったのはそこのイチであるわけだし、わたしたちはあんたの恩人で、賓客扱いになるはずよね。この船いちばんの部屋を用意したうえで、ごちそうをお願いするわ、大地将軍」
ふんと胸を張った紗弓に、燐圭がおかしそうに笑い出す。
「とんだ珍客もいたものだな。勝手に船に入り込んで、恩人を主張するとは」
「あら。太刀ですべての和邇を薙ぎ払うのはさすがに骨が折れたんじゃない?」
「肝心なときに切れ味が悪くなっては、困るものな」
ぬけぬけとのたまい、燐圭はそばにいた船員を呼びつける。そして、三人ぶんの船室と酒と食べものを用意するよう、あらためて命じたのだった。
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