三章 神婿たる器 5

「御主人さまの仰せのとおりに」


 カムラが杖を叩くと、先端から若緑の蔓がするすると生じた。樹木星医が編んだ結界と似たものだとかさねは直感する。何をする気だと手足をばたつかせているうちに、燐圭は部屋の扉を閉め、寝台にかさねを放り落とす。顔面から褥にぶつかり、むぐ、とかさねはくぐもった呻き声を上げた。身体を起こそうとすると、後頭部をつかんで寝台に押し付けられ、手首を後ろ手に縛られた。


(燐圭そなた、何をする……!)

「花嫁の条件というのは、どの土地でもだいたい同じだ」


 かさねの肩を足で押さえつける燐圭は、冷淡な目をしている。神がひとを見る目であり、ひとが虫を見る目だった。そこに交わされる感情はなく、解すべき言葉もない。そのことにかさねは震えあがった。この男は必要とあらば、少しも心を乱さず、かさねに太刀を突き立てられる。そう理解したからだ。


「――処女であること。神とはつくづく初物が好きらしい」

(ひ、ひとを魚や野菜と一緒に並べるでない!)

「そなたとて、花嫁のさだめから解放されたいのだろう。天帝の花嫁が力を失えば、こちらも願ったりかなったりだ。そなたと私の目的は一致していると思うが?」

(だから、何を……何を言うておるのだ、そなた)


 燐圭のいわんとすることに怖気が走り、かさねは男の拘束から逃れようともがく。しかし、非力なかさねと武人である燐圭では、力の差は歴然としていた。肩を押さえる膝頭をどかすことすらできず、かさねは足をばたつかせた。


「そう怯えずともよい。殺しはせんし、とどのつまりが穴に棒を入れるだけの話だ。むしろつらいのは、まな板でその気にならねばならん私のほうでな……」

(まな板ではない、ささやかなお胸さまと言えい!)


 高波のせいか、横殴りの衝撃が船に走った。燐圭の足がわずかに外れた隙に、かさねは寝台から転がるようにして抜け出す。しかし、数歩もいかないうちによろめいて、また床に転がった。腕は後ろで縛られたままだ。うぐ、と呻き、かさねは冷たい床の上でのたうつ。恐ろしさと気味の悪さで、吐き気がこみ上げてきた。燐圭は、天帝の花嫁の力を奪うために、かさねを犯すとそう言っているのだ。


(カムラ! たすけよ、カムラ!)


 よろめきながら扉に体当たりをするが、返事はない。結界が編まれたらしい扉が開くこともなかった。


(カムラ! のう……!)


 いくら、燐圭の側に立っているとはいえ、かようにおぞましいことが起きているのに、誰も助けてくれないのか。絶望的な気持ちになって、かさねは涙と鼻水をほたほたと垂らした。


「鼻水まで垂らして嫌がられたのははじめてだ。まあ、そちらのほうがまだそそられるか」

(い、いやじゃ……嫌じゃ……)


 後ずさろうとすると、扉に背があたる。ついに逃げ場がなくなり、かさねは首を振ってしゃくり上げた。縮こまったかさねの身体を引き上げようと、燐圭が手を伸ばす。瞬間、あおじろい火花が両者の間で炸裂した。小さく呻いて、燐圭が手を引く。

 とっさに何が起きたのかわからず、かさねは腰を抜かしたまま、泣き濡れた目を瞬かせる。見れば、かさねのむき出しの腕には薄紅の痣が浮き上がり、脈動するかのようにほの白く光っている。対する燐圭の手は、赤く爛れていた。まるで、デイキ島の島巫女がかさねに触れたときのようだ。


「やはり誓約が花嫁を守ろうとするか。そう思いどおりにはさせてくれんな」


 赤黒く皮が剥けた手を見つめ、燐圭は息を吐いた。

 こちらに向かってきた男から、かさねは這うように飛びすさる。燐圭のほうはかさねには一瞥を向けただけで、扉を開いた。編まれていた結界が霧散する。「燐圭さま!」と切羽詰まった声が通路から聞こえ、かさねも蒼白い顔を上げる。爛れた手を裂いた布で縛りながら、「どうした」と燐圭が落ち着きを払った声で尋ねた。


「和邇が……! 昼の和邇の大群が船を襲ってきています!」

「何だと?」


 燐圭の顔つきが変わる。扉の前で跪いた兵は、身体のどこかを負傷しているらしく、血の臭気をたちのぼらせている。床に血の塊がぼたりと落ちた。


「夜陰にまぎれ、この船を取り囲んだようです。我らも応戦していますが、昼の数倍の数がおり、容易には退けられません。このままでは船に穴が開き、沈められる恐れが……」

「わかった。私が行こう」


 無造作に壁に立てかけていた太刀を燐圭が取る。かさねの背丈ほどの尺がある大ぶりの太刀だが、燐圭は羽根か何かのように軽々と持ち上げた。床にしゃがみこんだままのかさねを見下ろし、薄く笑う。


「そなたはしゃしゃり出るでないぞ、うさぎさん。またころころ海に落ちても面倒ゆえな」


 扉を乱暴に閉め、燐圭は甲板に向かったようだ。床を踏み鳴らすような複数の足音が遠ざかり、かさねは息を吐き出した。ひとまず危機が去り、安堵したからだが、すぐに横殴りの衝撃に襲われ、我に返る。和邇に船が襲撃されていると、さっき兵が燐圭に報告していた。


(よもや、あやつ和邇たちまで斬る気か)


 燐圭を追いかけようとして、足がふらつき、また座り込む。膝がまだ震えていた。手首を縛っていた布を何とかほどいて、痺れが残る腕をおずおず持ち上げる。まるで莵道をひらいたときのように、薄紅の痣が淡いひかりを滲ませて脈動を続けていた。どく、どく、と乱れた心音に合わせて、脈動の間隔が狭まる。鳥の鱗にも、無数の花弁にも似た痣。それが膚の表面でぞろりと蠢く。


(……っい、)


 直後、骨が軋むような激痛がかさねを襲った。悲鳴がほとばしったが、声は上がらない。床の上で身悶えて、かさねは腕を押さえた。かさねの意志に反して右腕が震えている。押さえた手の端から、光の粒子が翅のように舞い始め、かさねは戦慄した。何かがおかしい。


(しずまれ……っ、しずまれというに!)


『三度目の莵道は』


 激痛と熱で明滅を繰り返す意識の隅で、ひよりの声が囁いた。


『ひとならざる者となることを意味する』


 誓約は神の祝福、そして呪いでもある。

 花嫁の誓いを破ろうとしたかさねを罰しようとしているのか? あるいは滅ぼそうと? 息を吐き出そうとすると、口から血まじりの痰が溢れてきた。止まったはずの鼻血が押さえた手のひらを伝う。ぜい、ぜい、と吐く自分の息だけがうるさい。かさねは泣きながら笑い出したくなってきた。なんだこれは。ほんにひとでなくなるようではないか。


(このっ、聞けというに……!)


 鼻血と唾液で汚れた手を力任せに壁に打ちつける。

 その痛みで、焼ききれかけた意識がまた舞い戻ってきた。


(未遂じゃ、未遂! ええいわかったらしずまれ!!)


 あられもない言葉を吐きながら、開いた扉から外に這い出る。ずずっと鼻血を啜ると、かさねは壁にぶつかりながら前へ進む。このまますべてが飲み込まれて、ひとならざる者に転じてしまうのは嫌だった。大地女神となるさだめを受け入れることはできない。……こわいのだ、とても。かさねがかさねでなくなってしまうのは。


(こんなところで……こんなところで……!!)


 外の喧噪が次第に頭上から聞こえてくる。外に出る階段にたどりつき、かさねは何とかそれに手をかけた。和邇たちと燐圭の交戦は始まってしまっただろうか。それを止めることが、今のかさねにできるのか。その前に、体内で蠢く呪いのほうにかさねは取り込まれてしまうのか……。大きく船が揺れたはずみに、伸ばした手が空をかく。身体が宙に投げ出されるのを感じて、かさねは目をいっぱいに開いた。

 あぁ。

 落ちる。


「かさね」


 ぱしんと揺らめいた腕をつかまれる。

 呆けた顔で、かさねは頭上を仰いだ。外に繋がる階段の先から、月のひかりがしろじろと射している。異様に大きく見える月を背に、こちらの腕をつかんだ男をみとめて、すごい、とかさねは素直に感心してしまった。思えば、はじめて出会ったときからそうだった。この男はいつも、必ず、かさねが窮地に陥ったときには助けてくれる。すごい。イチは、本当にすごい。


(……これは惚れてしまう)


 力が抜けてしまって、かさねはへらりと笑う。何を言われたのかわからなかったのだろう。「すごい顔だな……」とイチは息をついて、かさねの身体を引き上げた。

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