三章 神婿たる器 4

 誰かの声が聞こえた気がして、イチは薄く目を開いた。

 あたりは薄明るい。半身を起こすと、身体の節々が軋んで、疼痛がぶり返してきた。だが、意識を失う前よりはだいぶ頭のほうはすっきりしている。額にあてられていた薬草を剥がして、イチは目元にかかった髪をかきやりつつ、あたりを見回す。

 記憶は紗弓たちと合流できたところで途切れていた。身体を移動させられたら、さすがに起きるので、たぶんあのときの旅籠で寝かせられていたのだろう。胸ほどの高さの障壁具の向こうから、ぼそぼそと複数のひとの声が聞こえる。褥のそばに畳んであった上着を広げて肩にかけると、イチは声をするほうへ向かった。

 木を組んで紙を張った仕切りの向こうでは、火鉢を囲んで、紗弓とヒトたち、朧の姿が何やら話し込んでいる。


「見つかったのか、あいつは」

「イチ。起きたの?」


 特に声をかけずに隣に座ったイチを見て、紗弓は頬を歪めた。女が白い手を伸ばしてくるので、つい癖で、額に触れる前に手首をつかみとる。「……熱をはかろうとしただけよ」と紗弓は不愉快げに息をつき、額にまだくっついていたらしい薬草を剥がした。誰が処方したのかと思ったが、この様子だと紗弓らしい。少し意外に、イチは思った。


「朧が見つけたそうよ。オコロ島そばの海上を南に進んでいる」

「南? 燐圭はどこに向かっているんだ」

「それが神器を探しているそうなのよ。かさねの話だと」

「……あいつは無事なのか」


 声を落として尋ねたイチに、紗弓は顎を引く。


「ただ、水魔に声を奪われたとかで、口が利けないそうよ」

「は?」


 予想外の言葉が返ってきて、イチは顔をしかめた。話の展開がさっぱり読めない。


「次から次へと厄介ごとばかり引き寄せやがって。そもそも、水魔が何で燐圭の船上にいる?」

「どうやら、燐圭の神器探しに協力しているのが水魔のようなのよ。――面倒なことになったわね。わたしたちは神器が必要。その神器を狙っているのが燐圭で、燐圭の側についているのが水魔。そして、水魔はかさねの声を奪っている」

「あいつを取り戻せばいいって話にはならなそうだな」


 燐圭からかさねを取り返し、かつ神器を手にするのがイチたちにとっての最善の道だが、あの男はもちろん阻んでくるだろうし、水魔がかさねから奪った声を返さない可能性もある。短い間に複雑になってしまった状況に、イチはこめかみを揉んだ。あいつはどうしてこう、目を離すと厄介ごとばかりを引き寄せてくるんだろう。どうせまた、無駄にお人好しを発揮して、水魔の手練手管にのせられたに決まっている。

 とはいえ、今優先するべきはかさねだ。


「海上を南と言ったな。あんたなら、何日で追いつける」

「見くびらないでちょうだい。半日あれば十分よ。ただし、船を引くという形じゃその速さは出せない」


 紗弓のいわんとすることを察して、イチは口端を上げた。


「気位の高いおまえが、俺を乗せてくれるって?」

「冬の海で凍死しないといいわね」


 紗弓にとっても、不承不承なのだろう。しかめ面をしたまま長い睫毛を伏せて、火鉢でくすぶる炭を見つめる。


「……恩があるのよ、あんたたちには。デイキ島で、かさねはわたしを助けてくれた。あんたは崖から落ちるわたしに手を伸ばしてくれたわ。感謝なんてぜんぜんしてないけど、あんたたちに引け目を感じているのはまっぴらごめんなの」


 そういえば、デイキ島ではそんなこともあった。すっかり忘れていたので、イチは内心驚く。あれこれ思いつめられるほどたいしたことをしたとは思っていなかった。


「意外とせせこましいこと気にする女だな、おまえ」

「情に厚いのよ。せいぜい恩に着るといいわ」


 ふん、と鼻を鳴らして、紗弓は立ち上がる。緩く波打つ黒髪をかきあげて、座るイチを見下ろした。


「発つのは夕暮れ。わたしの姿は目立つし、夜陰にまぎれて近づきましょう。――それでいいわね?」

「わかった」


 ヒトが不安そうにイチの袖端をつかむ。身体はもう大丈夫なのか、と目で尋ねてきた童女に、ずいぶん寝たしな、とイチは苦笑した。もともと傷の治りは早いほうだし、熱は引いたので、少し身体を動かしておけば、もとの調子に戻せるだろう。


「イチひとりで、だいじょうぶ?」

「紗弓がいるし、あとはそこにいる神がどうにかする気だろう」

 

 火鉢におそるおそる鼻づらを近づけていた狐に視線だけを向ける。朧はとたんに背筋を正して、ふっさりした毛の生えた胸を張った。


「あんたがかさねを見つけてくれたのか?」

「御礼は結構ですよ。くたばればいい、間男め」

「ま……?」


 何かよくわからないことを言われた気がするが、適当に流して、イチは朧の前に片膝をついた。


「なあ。かさねは本当に無事だったか」


 朧のまるい目がイチを見下ろす。こういうときの神々の目は硝子玉のようだ。個々の感情はなく、ただ相対するひとの心中をはかるような目の色をしている。朧は何故か喉を鳴らして笑い出した。


「さような顔を見せる者に、誰が甘言を言うと? かさね嬢のほうがよっぽど、腹のうちを隠してわたくしと渡り合っておりましたよ」


 頬を歪めたイチの反応に満足したらしく、朧は尾っぽを振ると、壁の向こうにするんと消えてしまった。イチの質問にはひとつも答えてくれないのが性悪な神らしく、舌打ちひとつをして、イチはその場に座り直した。


 *


 頬をぱちんと叩くと、かさねは立ち上がる。

 先行きは見えないままだが、イチたちが助けに来てくれるまでに少しでも神器にまつわる情報を集めておきたい。部屋をそっと抜け出したかさねは、狭い通路を忍び足で歩く。めざすは燐圭の私室だ。夕暮れどきのこの時間、燐圭は大部屋で部下と酒盛りをしている。海上を進んでいるせいか、時折ぐらりぐらりと揺れる通路を壁に手を這わせながら歩いていると、そこに貼られた海図を見つけた。

 南の海上の一点に丸がつけられ、おそらくこの船の進路が朱の筆で書かれている。現在地を示す印から見るに、道のりの半ばまで来たようだ。


「海神の墓標までは、あと五日ほどかと思いますよ」


 背後から声をかけられ、かさねは肩を跳ね上げる。暗く沈んだ薄闇から顔を出したのは、童女のような小柄な影。カムラだった。


「燐圭さまのお部屋なら、三つ先ですよ」

(それはかたじけない……いやいや、燐圭とは!?)


 うなずきかけてから、かさねは慌てて手を振る。きひきひとカムラは気味の悪い笑い声を立て、杖をついてこちらにやってきた。目を細めて、隣で同じように海図を見上げる。


「そなたも神器をお探しなのでしょう、天帝の花嫁」


 確信をもって語りかけられ、かさねは口をつぐむ。尋ねるカムラの意図が読めなかった。かさねが神器を狙っていることに気付いていながら、カムラはかさねを退けるそぶりも、燐圭に伝えているそぶりも見せない。自分の腰ほどの背丈の女人の横顔を見つめ、かさねは腕を組んだ。意図がわからぬなら、もう少し話をしてみよう、と考える。


(海神の守ってきた『剣』とは今、どのような形をしておるのだろうか)


 ウネは海神の墓標に、水魔が守る宝があると言っていたが、どんな形をした何かまでは明かさなかった。手ぶりを交えて伝えたかさねの主旨はわかったのだろう。カムラは厳かに顎を引いた。


「あなたがたは一度それを目にされているはずです。千年前のあの土地で」

(千年前の?)

「天の池であった『鏡』は、天帝に叩き割られて壊れてしまった。『玉』は今の大地女神たるひよりが所有し、『剣』もまたあの場所に存在していた。花嫁御寮の目には映らなかったのでしょうか」


 カムラの鏡のような目がかさねを映す。心の底をのぞくような目だ。記憶をたどったが、『剣』も、『剣』が転じていたかもしれない何かも、かさねには思いつかなかった。太刀といえば、燐圭が所有していたが、大地女神の加護を受けたそれが神器のようには思えない。


「御主人様も気付いてはおられない様子。ひとの子はやはり盲目か」


 自嘲を漏らして、カムラは息をつく。どういう意味じゃ、と口を開こうとしたさなかだった。


「主人に隠れて内緒話か?」


 首根っこを背後からつまみ上げられる。両足が床から浮いて、「何をする!?」とかさねはじたばたともがいた。「まこと姫というより子猿だな」と呆れた風に呟き、燐圭はかさねの身体を肩に担ぎ上げる。小柄なカムラを見下ろす燐圭の目は冷たい。


「どうなのだ、カムラ?」

「あたくしが御主人さまを裏切るなど、どうしてありましょうか。――花嫁御寮のもとに、少し前に狐神が来て何やら話しておりましたよ。おそらく、あの人間がやってくるのではないかと」

「ほう、イチがな」


 朧と話していたことをカムラが知っていたことにも驚いたが、まさかこうもあっさり露見するとは思わなかった。かさねは白を切ろうとしたが、「そろそろ頃合いだと思っていたさ」と燐圭が平然と言った。男の足が寝室を蹴り開ける。


「ならば、さっさと試すことを試すとしよう。カムラ。この部屋にひとを近づけるでないぞ」

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