三章 神婿たる器 3

 水を溜めている素焼きの瓶の蓋をあける。

 水面に映った自分の顔は思いのほか鼻血まみれで、かさねは頬を引き攣らせた。これでは生来の可憐さもかたなしである。

 海上では貴重な水なので、少し濡らした手巾で顔をぬぐい、ついでに汚れた着物も取り替えて帯を締める。そういえば、もう何日きちんと風呂に入っていないのだろう。自分の腕のあたりのにおいをすんすんと嗅いでいると、何やら間近から視線を感じた。見れば、壁から顔だけを出した朧がじっとこちらをうかがっている。同じように鼻をすんすんさせているので、においを嗅いでいるようだ。


(へっ、へんたいめ……!)


 その顔を両手でつかんで、壁の内側に押し込めようとする。痛い、痛いです、ときぃきぃ声で呻き、朧は一度壁の中に沈んでから、今度は天井から狐の姿に転じて落ちてきた。寝台の上に軽やかに着地して、かしこまる。


「ご心配なく、かさね嬢。我らはひとの男のように、娘の裸体に欲情したりなどしません。かさね嬢の手のあたりから芳しい血の香りがしたので、嗅いでいただけでございます」

(よっぽどたちが悪いわ。かさねをなんだと思っておる)


 息をつき、かさねは寝台に腰掛けた。取り替えた着物は、かさねが持っているものとはちがって生地がざらっとしており、青の染め布に波と鳥の柄が大きく描かれている。海辺のまちで織られたものなのかもしれない。髪をくくる組紐を結び直していると、ととっと軽い足取りで、横に朧が腰を落ち着けた。なんとなく銀灰色の毛に触れてみると、しっとりとあたたかい。かさねは朧の胸のあたりの毛をもしゃもしゃと撫でたり、指で梳いたりした。


「平気ですか、かさね嬢」

(平気とは?)

「何やら萎れておられるようなので」


 案じる声を出したが、神である朧が人間と同じ意味合いでかさねを心配しているわけではない。かさねの異常を察して、尋ねただけだ。理解はしていたが、緩んだ感情のたかが外れそうになってしまって、かさねはすんと鼻を鳴らした。敵ばかりの船上で、慣れた顔を見てほっとしたのかもしれない。


(かさねを探していたと言ったな。そなたにそれを頼んだのは誰じゃ)

「……?」


 詳細を聞き取れなかったらしい。朧は最初首をかしげたが、かさねが根気よく繰り返すと、「孔雀姫さまでございます」と予想どおりの言葉を返した。

 かさねが燐圭の船に囚われたあと、皆に起きたことを朧は流暢に語った。イチが鳥の一族に捕まってしまったことや、天都での孔雀姫とのやり取り、紗弓たちと合流してかさねを探しているらしいことも、朧の話からかさねは知ることができた。


「天都は、かさね嬢を天帝に捧げるつもりです。が、孔雀姫はそれを承服しかねている。ゆえ、イチを天都から逃し、猶予を与えたのです。わたくしは孔雀姫と繋がりの深い神ゆえ、こうして単身動いているというわけでありまして」

(そなたまで天都に背いてしまって平気なのか?)

「まま、天帝の怒りを買ったときには莵道の山奥へ引きこもりますから」


 朧は胸のあたりを膨らませて、気弱なのかしたたかなのか、わからないことを言った。

 

「ひとまず神道を使い、わたくしがイチたちにかさね嬢の居場所を伝えましょう。ひとの身たるあなたを連れて神道を渡ることはできぬので……。イチたちが来るまで耐えられますか」

(かさねを見くびるでない。それよりも、イチたちに伝えてほしいことがあっての)


 念のため、扉の外に誰もいないことを確認すると、かさねは朧に近う寄れ、と手招きをする。すすす、と朧がかさねのほうに近づいた。さらに手招きをする。朧が恥ずかしそうに前足で顔を洗い始めたので、自分のほうからかがんで耳打ちした。燐圭の船が海神が守ってきた神器を追っていることと、その神器をともすればかすめ取れるかもしれないことを伝える。朧がしたり顔でうなずいた。


「さすがかさね嬢。いかなる場所でも盗人根性を忘れておられないとは」

(ふふん、褒めるでない、褒めるでない)


 胸をそらして手を振り、かさねは天井を見上げた。


(イチは平気かのう……)


 あの男が無傷で鳥の一族に捕まったとは思えない。

 いつものように無茶をしすぎてなければよいが。


(のう、朧。もしもイチが無茶をしそうだったら、そなたが止めてやってくれ。かさねのほうはそう簡単に死にはせんからな!)


 笑顔で振り返ろうとすると、横からおなかのあたりに頭突きを喰らった。危うく壁に頭をぶつけそうになり、何をする、と朧を睨む。


「いえ何も。かさね嬢が人間の男の話ばかりをするので、むしゃくしゃしていたりなどしませんとも。広い海からかさね嬢を見つけたのはわたくしなのに。かさね嬢の窮地を救ったのも、このわたくしなのに。あなたときたらば、卑しい人間の男の話しかしないのですね」

(いや、朧。そなたにも感謝は……)

「取ってつけたように! もういいです!」


 鼻づらを前足でくるくると洗って、朧はそっぽを向いた。何故、狐神の繊細な心まで気遣わねばならないのだろう、とかさねのほうこそ嘆きたくなりつつ、しかし確かにかさねを探し当ててくれたのは朧であるし、鼻血と引き換えとはいえ、窮地を救ってくれたのも朧である。別にないがしろにしていたわけではないが、イチの話ばかりをするのはよくなかったかもしれない。ふう、と息をついて、かさねは哀愁を帯びた銀灰色の背中に後ろから抱きついた。ぴゃっ、と尻尾を膨らませた朧の首のあたりを、ほれほれと獣の要領でかき回す。


(そう機嫌を損ねるでない。そなたが現れたとき、かさねは心底ほっとしたぞ)

「……ほ、本当でございますか」


 仔細はわからないが、気持ちは伝わったらしい。心なし口調が和らいだ朧に、うむとかさねはうなずく。


(ひとりでは心細くてたまらなかった。ありがとう、朧。そなたは困ったときにはいつも現れてくれるものな)

「それはかさね嬢がくださる血が美味ですし……」


 もじもじと何やら不穏なことを言い出したが、ひとまず放っておき、かさねはひとしきり朧の背中に顔をうずめた。かさねと同じ目線で生きることはなかろうが、それでも時にかさねに寄り添ってくれるこの神が今はいとおしかった。


「それでは、わたくしはイチたちのもとに参ります」

(気をつけてな。朧)


 神は情では動かない。イチたちへの使いのお代に、腕を差し出そうとしたかさねに、朧は軽く鼻面を振った。


「こたびは要りません。血は先ほどいただきましたし、代償はイチが前に六海の地で支払いましたから。そのおまけみたいなもんです」

(イチが?)


 いぶかしんで、かさねは眉根を寄せたが、朧がいつものような流暢さで説明をしてくれることはなかった。イチが絡むと、この狐神はどうにも意地が悪くなる気がする。銀灰色の尾っぽを翻して、とぷん、と壁の向こうに沈む。神のみが扱える神道が開いたのだろう。透明な波紋がしばらく朧が消えたあたりで揺らめいていたが、そのうち波打つ光も薄れて、もとの壁に戻った。染みがいくつか浮かぶだけの壁にそっと手を這わせて、かさねは目を伏せる。


(心細いとは)

(言えなかったのう……)


 この胸をさいなむ不安や焦燥を朧は解さないだろう。だから、よかったのかもしれない。口にしてしまえば、暗い感情に自分が飲まれてしまいそうになる。たったひとりでこんな場所にいる恐怖に身がすくんでしまいそうになる。ことん、と壁に頭をもたせて、かさねはしばらく足をぶらぶらさせていたが、やがてすべてを振り切るように勢いよく立ち上がった。

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