三章 神婿たる器 2

 水魔は「ウネ」と名乗った。

 それは水魔の真名ではないが、名前があったほうが呼びやすいだろうという燐圭将軍の提案である。ウネが示した方角に向かって今、燐圭の船は順調に進んでいる。潮風の吹き寄せる甲板に立つかさねは、しかし不満げだ。


「むー……むむー、むー」


 先ほどから何度も声を出そうとしているのだが、無声の呼気が漏れるだけで、ちっとも咽喉が震える気配はない。


「むー! むむー! むー……けふっ」


 しまいには息が引っかかって噎せこみ始める始末である。


「お馬鹿な花嫁だね。そんなことしてたって声は戻らないよ」


 くすくすと背後から自分の声が聞こえてきて、かさねは眉根を寄せた。うす紅の衣に無造作に帯紐を結んだウネが、童女めいた笑い声を立てている。確かに声色こそかさねのものであるが、かような笑い方をかさねはしないので、なんだか気味が悪い。


「あのとき、君が僕と交わしたのは誓約だ。神ほどではないけれど、魔性とする誓約はそれなりに力を持つものなんだよ。そう簡単に声を返したりはしない」


 冷たく嘯くウネに、悔しさのあまり、かさねはぎりぎりと奥歯を噛む。

 あのとき、木乃伊のまま檻に囚われ、指針とさせられていたウネを憐れに思った。それが過ちだったのだ。魔のものにたぶん、心を傾けてはならなかった。彼らはひとのそういう心に付け入り、自分の思惑のとおりに動かす。

 潮風が絶間なく吹くせいで、ウネがまとった衣はうすい花弁のようにはためいている。けだるげに甲板に背をもたせ、青暗い冬の海を眺めるウネの横顔を、かさねは見つめた。意を決して、ウネの袖をつかむ。


(もう一度言う。かさねに声を返せ)


「断る。燐圭将軍と話がしたいんだ」


(何故? あやつがそなたの恩人だからか)


「恩人? そうだね……」


 肩をすくめるウネは、底知れない暗がりを眸に宿している。秘密を持つ者の顔だ。注意深く、かさねはウネを観察した。この魔のものに一筋縄ではいかぬような、複雑な心の襞を感じたためだ。


(そなたは……)


 口を開きかけたとき、横から突き上げるような衝撃が走った。へりに取りすがることもままならず、かさねは床に投げ出された。ごろごろと転がり、勢いあまってそばの柱に顔面からぶつかってしまう。つつ、と鼻の奥から血が伝う。その間も揺れはおさまらず、かさねは鼻に手の甲を押し当てたまま、必死で柱にしがみついた。


(な、何が起きておる!?)


 ここは海上だ。空は晴れ渡っていて、嵐が近づく気配もない。ゆるやかな波が立つ海上には、この船を襲うような別の船の存在も見当たらなかった。ではいったい何が、とあたりに視線をめぐらせ、かさねは船のへりにゆらりと立つウネの姿に目を留めた。


(おい……?)


 ウネは船のへりに裸足で立ち、険しい表情で海面に目を向けている。細木のような腕にまとわりつくうす紅の袖が危うげに翻るのを見て、かさねは思わずつかんだ柱から立ち上がっていた。まだぐらぐらと揺れる船上を、半ば転げるようにして走る。へりに立つウネが今にも海中に吸い込まれてしまいそうに見えたのだ。


(待て……! 早まるでない!)


 ウネの膝を後ろから両腕で抱き締める。かさねがぶつかったせいで、ウネは足を踏み外しかけたが、すぐに平衡を取り戻した。抱き締めてみて気付く。ウネからは海中に飛び込もうとする意思が感じられない。


「お節介な娘だね。気安く触らないでくれない?」

 

 頬を歪め、ウネはわずらわしげにかさねの腕を振り払う。話す間も、ウネの目は海上から離れない。船から半身を乗り出すようにしてウネの視線をたどり、かさねは息をのんだ。青い海原には、無数の海獣の姿がある。見たこともないその生きものは、巨大な魚にも似た姿をしており、大きく開いた口内には尖った歯がずらりと並んでいた。あれに噛みつかれたらひとたまりもないだろう。

 おののいて、かさねは後ろにたたらを踏む。その様子に少し愉快そうに口端を上げ、「あれは和邇わにだよ」とウネが言った。


(わに?)


「山育ちの娘さんにはわからないか。彼らはもとは海神に愛された乗りもので、今は亡き海神を探して、ずっと海上をさまよっている。あの姿はもう、憐れな魔性と化してしまったけれどね」


 同じ魔のものに対する憐憫なのか、ウネはかさねたちに向けるものとは別の感情を湛えた目で和邇を見た。群れの中でひときわ大きな和邇が、船の近くに寄ってきて口を開く。青暗い皮の色は冬の海と同じで、側面についたふたつの目はどろんと濁っていた。尖った歯にこびりついた血肉が見えて、いったい何を食べたのだろう、とかさねは恐ろしくなる。


「我らが海神の眷属よ。何故、その船におまえがいる」

「こちらこそ聞きたい。海神を失い、放浪の魔と化したおまえたちが何故ここに?」

「我らは鼻が利くのだ。神殺しの人間がその船におるな」


 厳かに告げた和邇に、ほかの和邇たちが人語になりきらない鳴き声を発して追随する。燐圭のことだ、とかさねは直感した。和邇たちは、よもや燐圭の神殺しのにおいを嗅ぎ取り、この船を襲い始めたのか。

 あやつはどこにおるのだ、と甲板に視線を戻すと、当の燐圭は柱に背を預けてこちらをうかがっていた。目が合ったかさねに、そのままにさせておけ、とでもいうように手を振る。燐圭のかたわらには、神殺しの太刀が鞘におさまったまま立てかけられていた。この先の惨事を予感して、かさねは蒼褪める。


(そ、そなたら、早くここから退け!)


「さては人間に寝返ったか、眷属の分際が」

「寝返ったとしてどうする」


 身振り手振りで和邇たちに危険を知らせようとするが、ウネと和邇はかさねにかまわず会話を続けている。うぬぬ、と歯軋りして、かさねは船のへりを手で叩いた。大和邇がはじめてかさねの存在に気付いた様子で、濁った目をぎょろりと動かす。


「その人間は――」


 わずかな隙をつき、和邇の群れの真ん中で閃光が炸裂した。水飛沫と血煙が上がり、小さな和邇たちがさっと身を引く。直撃は免れたようだが、何頭かが軽い怪我を負ったらしい。和邇の鳴き声が細く、切り裂くようなものに変わった。ウネの白い指先がひらりと舞い、海水が浮かび上がって刀や矢のかたちに転じる。舞うような指の動きに合わせ、武器に転じた海水が和邇たちを攻撃しだした。逃げ惑う和邇たちを見下ろし、ははっとウネがかさねの声で笑う。


「死んだ神に縋るだけの憐れな魔性め! 和邇は馬鹿でいい!」


 ウネの白い腕が振られると、水を固めた無数の矢が和邇たちに降る。血飛沫が海を赤く染め、怨嗟と憎悪の鳴き声が響いた。和邇語を解さないかさねにもわかる。彼らは人間を呪い、人間の側についたウネを呪っている。


(やめよ、ウネ! 何故、仲間に仇を為す!?)


 かさねはウネにぶつかるようにして、船の内側へ引き倒した。抱き締めた水魔の身体はひどく冷たい。目を見開き、ぶるぶると震えているウネに気付いて、かさねは瞬きをする。怒りではない、ウネは確かに恐怖で蒼褪めているようにかさねには見えたのだ。なぜ、と呟き、かさねは白い頬に手を差し伸べようとする。


「かさね嬢、いらした!」


 引き倒したウネのちょうど耳の横のあたりから、ぬっと別の顔が浮かび上がる。能面のごとき特徴のない顔に、琥珀色をした糸目、耳慣れたきぃきぃ声、そして浅葱の衣の下からふっさり揺れる銀灰色の尾っぽ。――おぼろか!?とかさねは声にならない声を上げた。


「探しに探しに探しましたとも! よもやかように陸から離れた場所におられるとはつゆ知らず……あぁなんと嘆かわしい、鼻血まみれのお姿に……」


(かさねの鼻血はよいから、あの和邇たちをどうにかしてくれ!)


 身振り手振りで伝えるかさねに、朧はほとりと首を傾げた。

 琥珀色の糸目は心なしか不審げだ。


「ちとわたくし、耳が遠くなったようですな。かさね嬢のお声がよく……」


(あの和邇たちを! どうにかしてくれ!)


「どうにかとは? 殺せと?」


 ひとの姿をした朧は袖を口元にあてて、切れ長の目を細める。その背からゆらりと冷気が立ち上った気がして、かさねは頬をゆがめた。相変わらずの性分に、油断も隙もあったものではないと舌打ちをしたい気持ちになる。ちがう、と首を振り、かさねは鼻血のついた手を朧の口元に押しあてた。


(散らせと言うておる。決して傷つけるでないぞ)


「かさね嬢は、わたくしどものさがをよく心得ておられる」


 かさねの頼み方に、朧はいたく満足したらしい。血のこびりついた手をべろりと舐めて、銀灰色の獣の姿に転じた。胸を膨らませて、鋭い鳴き声を発する。甲板に倒れていたウネがびくんと背を弓なりにそらした。船や海上にびりびりと振動が走る。海のほうへ身を乗り出すと、船の周りから引いていく和邇たちの尾ひれが見えた。


「裏切者を、我らは許さぬぞ。水魔よ」


 大和邇が低い声で言い放ち、青黒い尾を翻す。和邇の大群はあっという間に海の彼方へと消え去り、水面をかゆらぐ血の筋だけが残された。


(鼻血だろうとなんだろうとかまわぬのか。ゲテモノ食いめ……)


 乙女としての何かをずたずたにされた気がしつつ、かさねは流血が止まったらしい鼻のあたりを袖で拭った。ウネは未だに蒼白い顔で、甲板に横たわっている。平気か、とそのそばにかがんで、冷たい頬に触れると、青い目に急に正気が舞い戻った。


「触るな。けがらわしい」


 かさねの手をはたいて落とし、ウネは半身を起こす。けがらわしいとは!?と言い返そうとして鼻血まみれの手に気付き、かさねは若干語勢を緩めた。


(……和邇は追い払ったぞ。そこの狐神がな)


「狐はきらいだよ。獣臭くて、僕たち水の者とは合わない」


 子犬ほどの姿に縮んで、かさねの足元に擦り寄る朧を忌々しげに見やり、ウネは立ち上がった。身体はまだ若干ふらついていたが、足取りは揺るぎない。柱に背を預けたまま、事態を静観していた燐圭に気付いたらしい。ふっと口元を緩めて、「僕らの誠意は伝わっただろう?」と皮肉げに言った。


「水魔と和邇どもが敵対をしていることはな」

「あいつらは馬鹿なんだ。海神はもういないのに、幻影にすがって生きている」

「おまえたちはちがうのか」

「水魔は頭がいいからね。時の流れを受け入れて生きていくんだ」


 まるで人間のように肩をすくめ、ウネは薄く笑う。

 真意の見えない、魔性らしい笑い方だった。

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