一章 星和のみちびき 5
――そなたに千年の命と、大地に差し上げる。
恭しく両手を取った神を、かさねは見つめる。
愛した男の顔と声で誘惑されるのは、何かの拷問ではないかと思った。言うことを聞いてやりたくなる。この手を取ってしまいそうになる。かさねは低く呻いた。
「……まっぴらごめんじゃ」
胸を締めつける痛みは、けれど、それゆえにかさねに鈍麻していた自我を呼び戻した。気付いてしまうと、もう見過ごすことはできない。烈しい怒りが腹の底から沸き上がり、これはちがう、と叫ぶ。
「まっぴらごめんだと言った」
男の手を払って、かさねは立ち上がった。
草地のうえで半身を起こした男を、腰に手をあてて見下ろす。
「千年の命と大地をやるだと? だから女神になれと? そなたはかさねをみくびっておるのではないか」
男は端正な眉をわずかにひそめた。
苛立っているというより、単純にかさねの含意を理解できなかったようだ。「だいたい!」と弾みをつけて、かさねは続ける。
「そなたが目覚めるためだかなんだか知らぬが、何故かさねが大地に落とされねばならない? まるで納得いかんわ。イチが消えたから、心が壊れて砕けてしまいそうだから、苦しいから! それでかさねが、しょげて、傷ついて、自棄になって、ぜんぶ言いなりになるとでも!? そなたではないぞ、『おまえ』に言っておる、さも当然そうな顔で傍観しているそこの『おまえ』じゃ!」
「さだめ」とは。
ときに濁流のように襲いかかる、ひとに。
打ちのめされて、傷ついて、頼るひともいないで、独りで、ひかりもない、指標もない、奈落の底で、もうこれしかない、こうすべきだと、言う。はじめから決められていたことのように。おまえは選ばれた乙女だから、天のために、地のために、神のために、ひとのために、その身を捨てよと言う。「さだめ」は言う。天帝の花嫁たるつとめをここで果たせと。おまえはそのために生まれてきたのだからと。
「かさねはかさねとして生きる。女神には、ならない。そなたの花嫁としてこの身をささげるくらいなら、一生やもめで、老婆になったって、そなたが潰して壊したらしいイチを探してやる。一生、探してやる。この天地じゅう、どんなに時間がかかったって、かさねが探してやる!」
肩で息をするかさねに、天帝は澄んだ眼差しを向ける。
きっとかさねの怒りも、憤りも、実のところこの神はひとつもわかっていない。きっと届いてすらいない。ただひとつ。伝わったとすれば、ひとつ。
「わたしの申し出を拒まれる?」
大気がざわざわと不穏にざわめきはじめる。
怒っている。この神は。
まつろわぬものに、怒っている。
背に伝う汗を感じながら、かさねは口端を上げた。
「ああ、全力で」
かさねの返事を待たず、二股に分かれた雷がかさねの両脇に落ちた。
地面が一瞬で焦土と化す。びりびりと身体が総毛出つような雷鳴にふるえたかさねに、天帝は冷たく言った。
「言ったでしょう。まつろわぬものには、罰を」
男の指先で蒼白い火花が爆ぜる。
雷に打たれる、と予感する。その場から離れようとしたかさねの頭上で、雷鳴がとどろいた。天が白く輝く刹那、ふいに一陣の風が吹き抜ける。老樹を鞭うつ豪風だった。枝にわずかについていた青葉がいっせいに舞い散り、ぎしぎしと老樹そのものが揺れる。それに端を発して、新たな力が神域に行きわたり、綻んでいた守りの網目が繕い直されていくのを感じた。
「星和……」
つぶやいた直後、かさねの身体はひらいた老樹の巨大なうろの中に取りこまれる。何かにつかまることもできず、あたたかな老樹の体内をごろごろと転がり落ちた。うろの中は狭く、転がっているうちに天地もわからなくなる。
『この神域は、おれのものだ、天帝』
地響きにも似た星和の声が聞こえた。
『天を総べるあなただとて、好きにふるまうことはゆるされない』
めざめたのだ、と気付く。
長い眠りについていた樹木老神・星和が目を覚ましたのだ。そして自身の神域での天帝の横暴をみとがめて、抵抗を示した。でこぼこした体内をどこまでも落ちていき、一度勢いよく弾んで、かさねは湿った木膚のうえに転がり出た。木肌に鼻をぶつけ、うぐ、と呻く。
「星和……?」
かさねが落ちたのは、老樹の体内のどこかであるようだった。
先ほど樹木星医が、「星和のふところ」と言っていた。木のうろの中のように、みずみずしくあたたかな薄闇は、森の香りに満ちている。たぶんそう広くはない。ただ、母の胎内のようにひどく安心する場所だった。
鼻をさすりつつ、あたりを見回していたかさねの前に、やがて樹皮を思わせる木膚と、緑褐色のやさしげな眸を持つ青年が現れる。千年前に出会った樹の化生の青年――星和だ。
「かさねどの」
囁いた老神の声は、前に会ったときよりもさらに頼りなく、よそ風のようである。
「ここは……?」
「おれの体内だ。あのままだと、天帝があなたの身を壊しかねなかったから」
「すでに何度も壊されかけておるわ。……治してもくれるがな」
苦笑するかさねの前にかがむと、頬に木肌めいた手をあて、星和はあぁ、と深く息を吐き出した。天帝とは異なる、ひとの情が濃くかおるやさしい目だった。
「ひどく苦しい旅路だったのだな」
短い言葉の中にすべてをすくいとってもらえた心地がして、かさねはふるえながら小さく顎を引く。なんだか急に子どもに戻って、泣き出してしまいそうだった。
「そなたが懸命に生きるさまをおれは夢の中から見ていたよ。そなたの大事な片割れがいなくなってしまったのも」
「天帝が言っていた。イチは潰れて壊れてなくなってしまったのだと」
「たしかに。天帝ほどの神が降りれば、器の持ち主はみな、潰れて壊れてしまうだろう。ただ」
童女にするように、かさねの頭を撫でながら、星和は何かを思い出すように目を細めた。
「彼はその前に、身体から剥がれ落ちたはずだ」
「剥がれ落ちた?」
「そう。彼は天帝が降りる直前に、己の真名を思い出した。それは、言葉にすることもできないほどの短い、短い時間だったが。彼は己の役割を思い出し――……そして抗った。願ったんだ」
消えたくないと。
「そのとき、彼の前にはひとりの神がいた。その神はおれたちの前にもほとんどその姿を現すことのない風変わりな神でね。『さきぶれ』の役目を担っている。千年に一度、天帝が降り立つことを我々に知らせ、そのときをつつがなく見届けるのが彼の役割だ。だから、彼はいた」
あの場所に、天帝が降りるあのときに。
「イチとさきぶれの神はほんのわずかな間に、目を合わせた。そして、さきぶれの神はイチの願いを聞き届けたんだ。目的も思惑も、代償もよくわからない。けれど、かの神はイチの願いを聞き届け、天帝が降りる直前に、『器』からイチの魂を引き剥がした。天帝が『いない』と言ったのはそのとおりなんだよ。イチははじめからそこにいなかったのだから」
心臓が激しく打ち鳴る。
唾をのみこみ、「つまり」とかさねはおそるおそる尋ねた。
「イチはまだどこかにおるのか……?」
「ああ、いる」
力強く、星和はうなずいた。
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