三章 神婿たる器

三章 神婿たる器 1

(こやつが! かさねから! 声を奪ったのじゃ!)


 しゅばっと水魔の少年を指さし、己の喉元を押さえて、切々と自分が置かれた現状を訴える。弱りきった薄幸の乙女に対して、燐圭が返したのは平坦な一瞥だった。疲労のせいか、隈にふちどられた目をこすり、もう一度かさねと水魔の少年を見比べたが、何も変わらなかったらしい。はあ、と深々と息をついて、こめかみを押した。


「一夜にして、事態がさらに面倒なことになっているのはどういうわけだ。カムラよ」

「まあまあ。莵道の姫君は、嵐の渦中のごとき気質をお持ちの御方。かような事態も、また仕方のないことでしょう」


 カムラが慇懃に説明をするが、あまり褒められている気がしない。

 夜明け方の船室には今、かさねと燐圭、カムラのほかに、水魔の少年がいる。内側から輝くような裸身に、かさねの持っていた衣を羽織った少年は、にやにやと楽しそうに事態を傍観している。檻の上に浅く腰をかけているが、組んだ足が衣の下から見えるのがなまめかしい。木乃伊のときとはえらいちがいだ。

 燐圭は腕を組んで、少年を見下ろした。


「つまり、そなたがあの木乃伊であったというわけか」

「そうだよ。大地将軍」

「またえらく若返りおって……。なるほど、確かに声はうさぎさんのものだな」

「そこのお嬢さんが、干からびかけていた僕に精気と声を与えてくれたんだ。天帝の花嫁というのは、こんなに慈悲深い御方なんだね。胸に染みたよ」


 うっとりと涙すら浮かべる水魔に、そなたが勝手に奪い取ったのであろ!とかさねは声なき声で反論する。精気と声などと言うと聞こえがいいが、あのような卑猥な行為、かさねは断じて認められない。嫁入り前の清き身であるのに、口吸いなどを強要されて、乙女を汚された気分だ。というようなことをとくとくと、時に頬を赤らめ、水魔と同様、はらはらと涙をこぼしながら訴えたのだが、


「そなたの仕業であることはもうわかっておるから、そう主張せんでよい」

「莵道の姫さまは黙っていても、騒がしい御方でございますねえ……」


 燐圭とカムラ、双方から生暖かい視線を向けられた。

 ちがう。何かがまったく伝わっていない気がする。


(ええい! 水魔よ、かさねに声を返せ!)


 口惜しげに唇を噛み、かさねは地団太を踏んだ。


「それで、うさぎさんの声をもらったからには、そなたにも何か私と話したいことがあるのだろう。水魔よ」


 かさねの主張についてはもう聞き終えたという雰囲気になり、燐圭が話を進める。そうだね、とうなずく水魔が浅く腰を浮かせる。機先を制するように、燐圭の手が腰に佩かれた太刀に伸びた。両者のあいだに一時閃光のごとき緊張が走る。


「……あなたに手を出す気はないよ。大地将軍」

「それはなによりだ。私も無意味な虐殺をしたいわけではないゆえな」

「木乃伊のときに聞いていたのだけども、あなたはわだつみの宮を探しているらしいね?」

「知っているなら話は早い。そうだ。おまえたちの主君である海神が守る神器を私は探している。海神はわだつみの宮にいるのだろう?」


 隠し立てをするつもりははなからなかったらしい。尋ねた燐圭に、水魔は薄く笑った。異形ともいえる美貌は、笑みをかたどると、空恐ろしいものに変わる。燐圭は平然としていたが、かさねはそっと袖の下で腕に立った鳥肌をさすった。


「海神は死んだよ」


 水魔の答えは端的だった。


「十年、二十年……もうずいぶん前のことだ。海神を失ったわだつみの宮は今は、海に眠る廃墟と化した。神器は僕ら眷属が守っている」


 あなたが望むなら差し上げよう、と水魔は言った。

 海の色と同じ、宝石のような碧眼が燐圭を見つめる。並みの女人であれば、たやすく誘惑されようが、燐圭は猜疑心の強い目を眇めただけだった。


「そなたが私に? 何故」

「理由が必要かい? 大地女神の加護を受けた人の子よ。あなたは木乃伊の身に落とされた僕を救ってくれた。恩義を感じている」


(まっ、待て待て待てい!)


 うっとりと燐圭に熱い眼差しを向ける水魔に、かさねはこらえきれなくなって異議を唱える。大地将軍が木乃伊となった水魔を買ったのは、わだつみの宮への指針とするためだ。純粋に水魔の身を案じたわけではない。第一、水魔を救ったというなら、文字どおり精気と声を与えたかさねのほうでは!? ということをこぶしを振り回して熱く訴えると、水魔から冷たい一瞥が返った。


「天帝の花嫁というのは、存外厚かましい女だね。手柄を自分のものにしたいらしい」

「声を失ったわりに元気がよくて何よりだ」


 うなずき合う水魔と大地将軍のあいだに妙な連帯が芽生え始めているのを感じ取り、かさねは焦る。このままでは、自分を救ってくれた大地将軍に水魔が神器を献上するという筋書きになってしまう。それは何としても阻止しなくては。そして自分の声も取り返さなくては。


「わだつみの宮までは僕が案内しよう。神器も差し上げる。ただし、ひとつ条件がある」

「何だ?」


 顎をしゃくって先を促した燐圭に、水魔は言った。


「僕と僕の一族には、未来永劫、手を出さないこと」

「よかろう」


(騙されるでない! こやつは冷酷非道な将軍ぞ……!)


 かさねは懸命に主張したが、水魔が耳に入れた様子はなかった。燐圭のほうはなんとなく伝わったらしいが、口端に意地の悪い笑みを浮かべただけである。この性悪め。


「ところで、水魔よ。天帝の花嫁の声についてだが」

「ああ、返すよ。わだつみの宮まで無事についたらね……」


 燐圭の腕に手を絡める水魔は、うっそりと冷たい笑みをかさねに向ける。嘘だ、とひとを信じやすいと言われるかさねでも理解できた。水魔はかさねに声を返す気などない。

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